目的もなくあちこち歩き回って疲れ果て、棒のようになった足を引きずり引きずりアパートの部屋に帰ってきたその夜のこと。布団にもぐったものの悶々として眠れなかった僕の瞼が、ようやく重たくなってきた時だ。しばらく耳にしていなかったあの音が聞こえてきた!

 ドスンドスンと壁が鳴っている。

 僕はとっさに布団を被って丸くなった。

 きっと逃げ込む先のなくなったサオリちゃんは、しかたなく帰ってきたのだろう。そうしてまた、あの夢とも現実ともつかない世界に引きずりこまれている。首を絞められ息ができなくなる苦しみに苛まれ、どうにか抜け出そうと壁を蹴飛ばしている。


『私、怖いの!』


 タカくんに必死に助けを求める彼女の声を思い出した。


『一緒にいてよ! 夢でも嫌なの、怖いの! ねぇ、お願い! なんか言ってよ! どうして黙ってるの!』


 ──行かなくちゃ……!

 僕はついに布団をはね飛ばし、起き上がった。が、ベッドを下りかけたところに昨夜見た老婆の姿が蘇って、また床にうずくまる。隣の部屋の扉の隙間から、あの白髪頭が覗いて僕を手招いているんじゃないかと想像するだけで、恐ろしさに手足がすくんだ。

 僕を責めるように壁は鳴り続ける。


『馬っ鹿みたい! あんたみたいな男に頼むなんて! 見るからに弱っちい顔してんのに!』


 サオリちゃんの罵る声が、頭のなかで鳴り響く。

 昼間、喫茶店の沙織ちゃんに向けられた眼差しが追いかけてくる。驚きと恐れのなかに微かに蔑みの色を浮かべて、どこまでもどこまでもどこまでも。

 今、踏ん張らなければ! 

 一瞬、強い衝動が心のどこかで弾けた。

 今、踏ん張らなければ、一生このままだ!

 僕はあっという間に消えてしまいそうなその衝動の尻尾を無理やり捕まえ、ありったけの力を振り絞って立ち上がった。もたつく足を玄関に向かって必死に動かす。

「か、か、鍵っ……」

 合鍵を忘れて回れ右をする。テーブルの上に乗せたそれを摘み上げようとする指が強張り、うまく動かなかった。カチカチとどこかから聞こえてくる微かな音に心臓がまたもや止まりそうになったが、なんのことはない、自分の歯の根が合わず震えているのだった。

 廊下に出たとたん、細く息が零れた。僕の視線の先に、覚悟していた老婆の霊はいなかった。

 ノブに手をかけた。鍵を開けようとして、僕はその必要がないことに気がついた。なぜ施錠していないのか、それを怪訝に思う余裕すらなく、僕はとうとう四号室に一歩踏み込んでいた。

 まったく光のない部屋のなか、ベッドの上で確かに誰かが暴れている。目を凝らしてもはっきり見えないが、壁を打つ音、ぶつかる音が鼓膜をビリビリと震わせる。自分の部屋で聞いていた時の倍の大きさに膨らんでいる。

「うぅぅ」

 呻き声は、間違いなくサオリちゃんのものだった。

 闇を押し退け、ふっと白いものが浮かび上がった。それが彼女の首を絞める両手だと気づいた瞬間、僕の恐怖は天辺まで跳ね上がった。

 僕はベッドに向かって突進していた。彼女を助けるために、ではない。今、この恐怖を振り払うにはそうするしかなかったからだ。

「ひぁわう──っ」

 自分で自分の上げた奇声にびっくりした僕は、なおさらがむしゃらになった。

 延ばした指が白い手首に触れたと思った時にはもう、わけがわからなくなっていた。暗闇に押し潰されそうになりながら、ひたすら大声を上げ拳を振り回した。身体にぶつかる何か大きくて柔らかいものに全身で向かっていった。

 ──あ? あれ?

 気がつくと、僕の両手は宙を搔いていた。

 何かの気配も感触も、完全に失せてしまっている。

「う……ぇ」

「サオリちゃん!」

 僕はベットサイドにスタンドがあったことを思い出し、手探りで捜すと慌てて点けた。

 急に明るくなったベッドの上で、彼女はきつく絞った雑巾みたいに身を捩らせ、唇を小さく開いたり閉じたりしていた。息をしようにもうまくできないみたいだった。

「サオリちゃん、もう大丈夫だよ! た、たぶんだけど……」

 僕は彼女の傍らに膝をつくと、とっさに肩を掴んで揺さぶった。

「ほら、息して!」

「……んっ」

「吸って! 吐いて!」

 一度大きく身をくねらせたサオリちゃんの胸が激しく何度も上下したかと思うと、その口がようやく丸く開いた。一気に息が溢れる。彼女は背を丸くして咳き込んだ。

「助かった!」

 僕の口からも一緒に安堵の息が零れた。

 身体中から力が抜けていく。皺だらけのシーツの上にへたり込んだ僕の視界の端に、チラリと思いもかけないものが映った。

 ──えっ?

 僕はベッドの端に両手をついて、恐る恐る床を覗き込んだ。

「……うそ?」

 ベッドの足元に誰かがうつ伏せに転がっていた。

「ゆう……れい?」

 幽霊は着物を着ていなかった。白髪の老婆でもなかった。

「人間?」

 男だ。

 ──じゃあ……? 

 彼女の首を絞めていたのは、この男だったのか?

 よく考えてみれば、振り回した両手が何かにヒットすること自体、あり得ないことだった。だってそうだろう? 幽霊に実体などないはずだろう?

 ──このパーカー、どこかで……?

 うつ伏せのうえ、フードを被った男の顔は見えない。でも、羽織った灰色のパーカーには見覚えがあった。

「こいつ……」

 思い出した! 弱っちいとサオリちゃんに罵られたあの日だ。朝から雨の降る暗い日だった。駐輪場の向こうにじっと佇んでいた人影が、鳥肌だつような気味の悪さとともに蘇ってきた。

 いったい何がどうなっているのかわからなくて混乱している頭のなかを、僕は懸命に整理した。

 ──つまり今夜、彼女を襲ったのはこの男で……、幽霊でないなら人間で?

 ストーカーか泥棒か変態かわからないが、実体があるなら目が覚めたらマジやばくないか? もう一度立ち向かって勝てる気がまるでしなかった。

 収まりかけていた胸の鼓動が、にわかにまたドクドクとスピードを上げ始める。

「これ、借りるね!」

 僕はまだ咳き込んでいるサオリちゃんのスマホを枕元に見つけると、ひったくって一一○番した。

「もっ、もしもしっ」

 ちっとも言うことをきかない指とうまく回らない口を使って必死に状況を伝え、震える声で助けを求めた。

「……なんなの、こ……れ? 夢じゃないの?」

 サオリちゃんが喉を摩りながら、のろのろと起き上がった。

「警察がくるまで、とりあえず僕のところに……。サオリちゃん?」

 僕の隣まできた彼女は、石像みたいに固まってしまっている。

「タカくん……?」

 ベッドの端から身を乗り出した彼女の、涙の溜まった目が、丸く大きく見開かれている。

「タカくんなの!」

「え……?」

「タカくん!」

 サオリちゃんはベッドを飛び下りた。彼氏の名前を全身で呼びながら倒れた男の背中にとりすがった。

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