「昨夜は何も聞こえなかったよ」

 一晩ろくに眠れなかった僕は、朝になると自分から彼女のところに報告に行った。もしかしたら今まで聞いた音も自分の幻聴だったかもしれないと大嘘をついて、一分でも早く鍵を返すつもりでいた。だが、

「ほんとに? 本当に音はしなかったの?」

 僕に負けず劣らず疲れ切った顔に疑いの表情を貼り付かせ念を押した彼女に、うっかり答えをためらってしまい、計画は台無しになった。

「なんで嘘つくわけ?」

 昨夜も首を絞められる夢を見たという彼女は、僕が駆けつけなかったことをガンガン責めたてた。弁解しようにも、僕には一言しゃべる間も与えられなかった。

「馬っ鹿みたい! あんたみたいな男に頼むなんて! 見るからに弱っちい顔してんのに!」

 鼻先で勢いよく扉が閉められる。後には廊下に一人、返すつもりだったスペアキーをマヌケ面してぶら下げた僕だけが残された。彼女はこんな大事なものを受け取ることすら頭から消し飛んでしまうほど、怒っていた。

 部屋に戻ろうとした足が、気がつけば回れ右をしていた。しかたなく鍵をジーンズのポケットにしまう。

 ──酒でも飲もうかな。

 アルコールはビール一杯がせいぜい。上司に誘われてもウーロン茶で済ませる僕がそんな気持ちになるのは、久しぶりだった。引っ越してきて初めてかもしれない。しかも朝っぱらからなんて、生まれて一度もなかったことだ。

 それぐらい僕はヘコんでいた。

 あんたみたいな弱い男と罵った彼女の声が、耳にこびりついていた。傷口を広げたくなくて逃げたのに、かえって深く抉られるというオチ。何かで気を気を紛らわさないと、失恋してからずっと低空飛行を続けている気持ちがさらに下降線を辿りそうだ。

 ──日本酒にしよう。すぐ眠たくなるのがいい。

 僕は溜め息を落として、一階への階段を降り始めた。

 もう朝も八時を回ったというのに、やけに足元が暗かった。明け方から降り始めた霧雨のカーテンが、光をさらにくすませ空気を重たくしている。

 傘を取りに戻る気のない僕は、駐輪場の脇を通ろうとしてギクリとした。足が一歩踏み出した形のまま、止まってしまった。

 心臓がぎゅうっと縮こまった。

 ──出た?!

 自転車が並んだ向こうの、植え込みの陰に誰かが立っていた。細かな水滴を弾き、ぼやけた人がたの輪郭が半分だけ覗いている。

 ──ゆ……ゆーれい?

 まさか手首の持ち主が出てきたのでは?

 急に息ができなくなった。

 見えない指が喉を締めつけている。

 と……、ゆらりとそれは肩を揺らして背を向けた。後ろ姿が薄墨を流したような空気に溶け込んでいく。

 ──なんだよ! 生きてんじゃん!

「脅かすなよ!」

 口に出したとたん、肩の力が抜けた。それでも目線は人影が佇んでいた場所に縫い止められたまま、全身がまともに動くようになるまでしばらく時間がかかった。

 男なのか女なのか、表情すらもよくわからなかったのは、どことなく薄汚れたふうの灰色のパーカーの、フードを目深に被っていたからだった。

 僕はふと、自分がストーカーに勘違いされたことを思い出した。もしかしたら、今見た気味の悪い人物が彼女をつけ回していた誰かだろうか? そう言えば、先月だったか、この近くで暴力事件があったとネットのニュースで見た覚えがある。夜、塾帰りの小学生の女の子を通り魔的に殴って大怪我をさせた男がいたとかなんとか。犯人が捕まっていないはずだ。

 子供相手に全力で拳を振り下ろせるなんて。

 幽霊も怖いが、悪意を抱えた生身の人間も怖い。

 目下、その両方に目をつけられているサオリちゃんはかわいそうだ。でも、霊能者でもない、パンチ一発打ち込んだことすらない僕にどうにかできるわけもない。

 喫茶店の沙織ちゃんにふられて逃げ、隣の部屋のサオリちゃんのSOSからも逃げた弱い僕は、この先も逃げ続けるしかなかった。




 サオリちゃんに合鍵を返すチャンスはなかなか巡ってこなかった。もちろんあれから何度も返しに行ったのだが、居留守を使われているのでなければ、いつ訪ねても彼女は不在だった。実際、夜になっても隣の部屋に明かりがつく気配はなかった。

 一度、ストーカーらしき人物を目撃してしまった今では、まさか鍵をドアノブにぶら下ておくわけにもいかず、この古いアパートの、誰でも覗ける無防備なポストに入れておく気にもならなかった。

 その日の僕は、久しぶりにアパートのゴミ収集場でもない、コンビニでもない場所に出かけようとしていた。貯金を切り崩しての生活がまだまだ長引きそうな予感に、ネットで探した近所の安売りスーパーで食品をまとめ買いをしようという計画だった。ニコニコスーパーという、名前からして庶民の味方になってくれそうな店だ。

 閉店一時間前の夜八時に部屋をでた。家族が夕食のテーブルを囲んでいる時間帯なら、客があまりいないだろうとふんでのことだ。廊下に出た時、階段の下から声が聞こえてきた。

 ──サオリちゃん?

 どうやら誰かと電話をしているようだ。すぐさま鍵のことが頭に浮かんだ僕は、部屋に取りに戻ろうとした。が、回れ右をした足が止まる。彼女が泣いていることに気がついたからだった。

 ──何かあったのかな?

 悪いこととは知りつつ、思わず聞き耳をたてていた。


『どうして?! なんで会ってもくれないの! お店にも行ったのに! 私、怖いの! だって部屋に帰ったら、また絶対あの夢見るから! 手首が出てきて首絞めるんだよ! ね、お願い、一緒にいて。タカ君のところに行ってもいいでしょ? だって、サヤカもマイも、もう泊めてくれそうにないの。彼氏が遊びに来られないからって追い出されそうなんだもん。どうして? なんで駄目なの? 一緒にいてよ! 夢でも嫌なの、怖いの! タカ君がいつ来てもいいように、ドアチェーンもずっとかけてないんだよ? ねぇ、お願い! なんか言ってよ! どうして黙ってるの!』


 スマホを握り締め、必死に訴える彼女の姿が目に浮かんだ。

 その後も、涙混じりに時々しゃくりあげる声が続いた。

 僕はその場から動けなくなった。

 ──何かあったのかな? じゃねーよ! わかりきってることじゃないか。彼女は怖いんだよ!

 それも僕が想像していた以上に恐がっている。まったく頼りにならないとわかった隣人に合鍵を預けていることも思い出さないぐらい、恐がっている。部屋にいるのも嫌になって、友達のところを泊まり歩いていたのだろう。聞こえてくる声から察するに、その友達にも面倒臭いとウザがられ、どうやらタカくんにも見放されたようだった。

 夢の話などバカバカしくてしくて真剣にとりあってくれない彼氏を仕事が終わるまで待ち伏せしたり、LINEやらツイッターやら電話やらあらゆる手段で助けを求めているのだろう彼女は、たぶんほとんどストーカーと化している。

 ──それぐらい怖いんだ。

 サオリちゃんが電話を切った気配がした。ここまで来たものの、やはり部屋に戻る勇気は出なかったのか、足音は階段を上らずに遠ざかっていった。あきらめきれずに、タカ君に会いに行ったのかもしれない。

 ──実家に帰ればいいのに。遠いんだろうか?

 僕はぼんやりそんなことを思いながら、彼女に追いつかないようゆっくりした足どりでアパートを出た。予定通りニコニコスーパーに向かう。


『私、怖いの! だって部屋に帰ったら、また絶対あの夢見るから!』


 ──ということは……? 部屋を出てからは、手首の夢は見てないってことだよな。

 僕はついさっきまでできるだけ考えないようにしよう、記憶のなかから追い出そうと努力してきた手首だけの幽霊について、もう一度最初から思い出していた。泣きながら助けを求めていたサオリちゃんの声が、自分に向けられたものでもないのに耳にこびりついて離れない。

 実は僕も、真夜中の怪音に悩まされることはすでになくなっていた。あとで気がついたのだが、音が止んだのは、彼女が友達の部屋を泊まり歩くようになってからだ。四号室が無人になってから。

 ──ってことは……?

 僕は、サオリちゃんの部屋に入った時のことを思い出していた。ピンクのシェードのレトロ風なスタンドを枕元に、これまたシーツも掛け布団カバーもピンク色のベッドが、僕の部屋との境の壁に足の側をくっつける形で置かれていた。

 ──あの音の正体は?

 彼女が夢のなかで首を絞められるたび、苦しさのあまりもがき暴れて蹴飛ばしたり、身体をぶつけたりする音だったのではないだろうか?

 だが、彼女は部屋を出たことでその苦しみから解放された。悪夢を見なくなった。

 ──なぜ?

 ニコニコスーパーは仕事帰りのサラリーマンやOLで予想外に混雑していた。でも、僕は考えることに気を取られ、いつものように人目がそれほど怖くなくなっていた。

 ──悪夢を見る原因は部屋のなかにあるのか?

 はっきりしないことは、ほかにもある。

 サオリちゃんを苦しめている夢の手首と僕が見た手首の幽霊が、果たして同一人物のものなのかどうか?

 ──僕は女の手だと思ったけど、彼女は男だって言ってたし。

 まさか隣り合っている二つの部屋で、別々の怪奇現象がそろって起こるなんて偶然があるだろうか? この町なら……ヒガン町ならあるかもしれないと、僕は結構本気でそう思いはじめていた。

 結局、僕は彼女の恐怖を和らげてあげられるような答えなり確証なりを見つけることができずに、スーパーを出た。




 息ができない。胸を上から誰かの両手で思い切り押されでもしているような苦しさに、僕は突然目が覚めた。

「う……」

 息苦しさはまだ続いていた。いつもはそこにあることすら感じさせない空気が、喉の周りに見えない縄となって何重にも絡みついている。関節という関節が強張っていた。

 思い通りにならない身体とは対照的に、頭はクリアだった。恐ろしく高画質なテレビを通して見ているかのように、明かりのない部屋のなかで物の輪郭がなぜかくっきり目に映る。

 ──何か……?

 何かいる。

 僕はありったけの意識を首から上に集中させた。

 怖い。怖くて堪らないからこそ、その何かを確かめずにはいられない気持ちに駆られた僕は、ギチギチと頭を起こした。

 ──……何……?

 暗い部屋のなかで扉の前だけが、黒い絵の具で何重にも塗り潰されたようにひと際真っ暗だった。今しもそこから何かが出てこようとしていた。

 点のようなものがポツンと……、一つ、二つ、三つ……。それがこちらに向けられた指の先だと気づいた時、僕にはわかった。

 アレだ。

 アレが少しずつ出てこようとしている。

 手首の向こう側にいる者が、闇が淀んで溜まったそこから自分の前に姿を現そうとしている。

 蝋細工を思わせ白い印象しかなかった手が、今夜はずっと人間に近い色をしていた。どうしてしなやかで柔らかそうだなんて思っていたのだろう。しなびた皮膚の色だ。まったく脂気のないくすんだ肌色だ。

 ──男? ……女?

 もはや僕はアレから目を離したくても離すことができなくなっていた。逃げることをアレが許してくれない。こっちを見ろ。自分を見ろという強い意志のようなものが透明な糸となって絡みついてくる。

 枯れ枝を思わせる細い指だった。

 刻み込まれた皺で縮み上がっている。

 女のもののようだが、痩せた男の手だと言われればそうかもしれない。強張った関節の一部が細く青白く光って見えるのは……? そこだけ骨でも剥き出しになっているのだろうか?

 ──いや……? 指輪?

 その細い光がリングにも見えた一瞬、

「う……」

 僕は息を詰めた。

 闇の向こうから少しずつこちら側に抜け出てこようとしている右手が、明確な意志を持って自分の方を向いたのがわかったからだ。

「ひぃ……っ」

 ゆうらゆうらと痩せ細った手が上下に揺れはじめた。

 アレが僕を手招いているのだ。

 いきなり心臓に冷水をかけられたような衝撃に悲鳴をあげたと思った瞬間、瞼が開いた。

 ──……夢?

 目を覚ましたと思っていたのに、まだ夢を見続けていたのか?

 僕は反射的に頭を上げ、扉の方を見た。

 いない。

 ほっとしたのも束の間、凍えて固まっていた心臓に今度こそヒビが入った。しっかり閉めてチェーンも掛けたはずの扉が開いていたからだ。細長く覗いた外の暗がりが、僕を誘っている。

 ──あ、あ?

 勝手に身体が動いた。布団にくるまってしっかり目を閉じていたいのに、僕は寝床を這い出ていた。見えない糸に手足を搦め捕られ、ぎくしゃくと扉に近づいていく。

 ──ちょっ……おい! 待てって!

 心の叫びも虚しく、僕の手は扉を押し開けていた。

 素足に夜の廊下は、内臓全部が縮こまってしまいそうなほど冷たかった。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 絶対そうしたくないのに、視線が隣の部屋の扉へと動いた。見なくても僕にはもうわかっていた。今夜もサオリちゃんの帰っていない、誰もいないはずの四号室の扉が、僕を誘うように少しだけ開いているんだってことが。そして、今度はその扉の隙間からアレが出てくるのだということが……。

「い……っ」

 僕は息を止めた。と同時に両手で拳を作って思い切り握りしめていた。そうでもしないと今にもしゃがみこんでしまいそうだった。

 こちらの反応を楽しんでいるとしか思えないゆっくりとした動きで、老いた右手はまたそろそろと扉の向こうから現れた。僕は緊張した。今までは手首までしか見えなかったのに、その先の痩せ細った腕までがついに姿を覗かせたからだった。

 腕から長いものがだらりと下がっている。僕は目を逸らすどころか瞬きすらできずに、ただただ見つめるほかはない。

 ──着物……?

 どうやら和服の袖のようだった。

 目を凝らすと、やはり細い銀色の指輪をしているように見える。

 やはり女だろうか? それも相当に年老いた女。

 と……。その想像を裏付けるものが、右手を追いかけるように出てきた。手首の上の、ちょうど頭があるだろう位置から、それらしきものが少しずつ覗きはじめたのだ。

 髪が額に落ちかかっている。

 汚れた灰色にも映る、痩せ細った白髪だ。

 うつむき加減の老婆の横顔が、扉の向こうからにょきりと伸びている。やけに首が長く見えた。

 気持ちが悪い。

 恐怖の感情が急速に膨らんだ。

 今にもこちらを向きそうだと思った刹那、またハッと目が開いた。僕は布団のなかだった。飛び起きざま確かめたが、玄関の扉は締まっている。

「なんだよ……? また?」

 汗をかいているというのに、指で拭った額は震えるほどに冷たい。

 夢なのに夢ではないような、夢と現実世界の狭間にある別のどこかに飛ばされていたような……? サオリちゃんが見ていたのも、こんなふうに実際に体験したとしか思えない、五感に生々しく訴える鮮明なビジョンだったのかもしれない。

 ──もしもそうなら、首を絞められれば苦しくて堪らないよな。必死で暴れるのもわかる。壁ぐらいガンガン本気で蹴飛ばすに決まってる。

「無理かも……」

 きっと手首の持ち主である老婆は、夢が覚めても覚めても繰り返し執念深く追いかけてくるに違いない。

 気がつくと僕は、パジャマ代わりのジャージーを脱ぎ捨てていた。そこらへんに放り投げてあった服を慌ててかき集める。

 もう無理だと思った。この部屋から逃げ出したい衝動を抑えられなくなっていた。




 駅前の漫画喫茶で朝を迎えた僕は、動きはじめたばかりの電車に飛び乗っていた。

 なぜ、以前住んでいた街に足が向いたのか。辛い思い出で終わったあの店に行ってみたいと思ったのか。

 懐かしむ気持ちで駅に降り立った時、朝の通勤ラッシュは終わっていた。古い街並みの残る土地柄からか、代替わりをしても住んでいる人たちが多いのかもしれない。日が高くなるにつれ、、行き交う人に年配者の姿が多くなる。

 駅から徒歩で約十五分。片思いしていた沙織ちゃんのいる喫茶店も、モーニングをゆったり楽しむ老人たちで半分ぐらい埋まっているはずだった。

 ──あの角を曲がったらコンビニがあって、その先の花屋の前ではよくブチのノラ猫が日向ぼっこしてて……。

 僕は一歩足を踏み出すごとに、時間を遡っていく。この街で暮らしていた頃に戻っていく。

 ──帰りたいのかな。

 街を出てそれなりの時間が過ぎた今、自分が駄目になってしまったあの瞬間に戻ってやり直したいと、僕はここまで来たのだろうか? サオリちゃんからも幽霊からも逃げてきた自分をリセットできるかもしれないと、希望の光が見えているのだろうか? 彼女のいる店が近づいてくるにつれ、淡い期待が少しずつ膨らみはじめる。

 花屋の前を通り過ぎ一本裏道に入ると、記憶にくっきり刻まれたクラシカルな外観が見えてきた。僕は、喫茶店とは道を挟んで斜め向かいにあるクリーニング店の前で足を止めた。

 古びた格子がレトロな雰囲気を醸しだす扉。扉と並んだ窓には、テーブルが二つ。向かって右側には両手で大きく広げた新聞に熱心に目を走らせる、まさに定年組といった風情の初老の男性の姿が、左側の席には僕より二つ、三つ若い男の姿があった。

 ──あれ……?

 モーニングのトーストを頬張っている彼の顔には見覚えがあった。

 常連客の一人だ。彼の姿をよく見かけるようになったのは、僕が通いはじめて三カ月ぐらい経った頃だった。

 沙織ちゃんをこっそり追いかける視線。

 臆病そうな眼差し。

 彼はたぶん、僕と同じ目的で店に通っていた。言葉を交わしたことはなかったが、僕の嗅覚は同類にはびっくりするほど敏感に働くのだ。

 パッと見の冴えない、そこがどこでも大勢の人の間になんなく紛れてしまうだろう平凡な容姿。一生懸命おしゃれをすればするほど、なぜか浮いてしまう。地味なファッションが悲しいぐらいに似合ってしまう自分にどうしても自信が持てなくて、席で小さく縮こまっている。そんな彼の様子に、僕は何度も鏡に映った自分を見ているような気分になったものだった。

 ──まだ通ってたのか。

 僕は自分でも思いもかけずショックを受けていた。仲間であるはずの彼が、以前と変わらずまだあの席に座っているのが意外だったのだ。

「あ……」

 僕は思わず上擦った声を上げていた。

 ピッチャーを手にした彼女が、窓の向こうに見えた。

 彼のテーブルまでやってきた沙織ちゃんは、グラスの水をチェックし、必要なら新しいものを注ぎ入れる。そうやって機械的に仕事をこなして、すぐに奥に引っ込むはずだった。そのはずだった。

 次の瞬間、僕を襲ったショックは、さっきよりもずっと大きなものだった。

 丸く見張られた僕の瞳に映っているのは、彼女と楽しげに言葉を交わす彼の嬉しそうな横顔。

 特別な関係という親密さはなかった。それでも沙織ちゃんの口元には、気を許した相手にだけ見せる打ち解けた微笑みがあった。彼は名もない常連客の一人から出世して、彼女との距離を一歩つめていた。

 ──なんで、なんで?

 彼も自分同様、拒まれ追い出されたのだろうと、僕は心のどこかで勝手に決めつけていたのだ。

 熱心に見つめ続ける僕の視線を感じたのか、沙織ちゃんがこちらを向いた。僕を目に留め、怪訝そうな表情を浮かべた彼女は、すぐに通りの向こうに立ち尽くす男が誰かを思い出したようだった。

 ギョッと目を見開いた彼女は、明らかに驚き、怯えていた。あの雨の日、最後に僕に向けられた表情がそっくりそのままそこにあった。

 時間が経って、何かが変わったんじゃないか。彼女は彼にするように、自分にも微笑みかけてくれるんじゃないか。膨らんでいた僕の期待は、見事にぺしゃんこに叩き潰された。

 僕は慌てて回れ右をしていた。

 ──なんで? なんで僕だけ?

 彼女に微笑みかけられていた彼と僕とは、何が違うのだろう。もう一人のサオリちゃんにもストーカー呼ばわりされた僕は……。そんなにも僕という男は気持ち悪い人間だったのか? 自分でも知らないうちに彼女たちを困らせ、震え上がらせていたのか?

 僕は足を止めた。


『馬っ鹿みたい! あんたみたいな男に頼むなんて! 見るからに弱っちい顔してんのに!』


 サオリちゃんの一言が、ふいに僕の後頭部を殴りつけた。

 ──そうか……。きっとそうだ。あいつは勇気を出したんだ。

 こっそり覗き見ばかりしていないで、相手が苦しくなるほどひたすら見つめてばかりいないで、彼女に声をかけたのだろう。あの店を気に入っている客の一人として話しかけた。勇気を出して、きっと一歩を踏み出したのだ。

 僕とは違う。

 僕は時間が経っても何も変わっていなかった。沙織ちゃんの前から逃げ出したつもりで、まだ同じ場所に立ち尽くしている。一歩も動けずにいる。

 今も大好きな彼女の責める眼差しが追いかけてくるようで、恥ずかしくなった僕は駆けだしていた。

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