『すみません、隣の者です。夜中の音の件なんですが、ぐっすり眠れないんで静かにしてもらえますか?』

 僕はさっきから頭のなかで、これから口にするつもりの台詞を繰り返し何度も練習していた。

 日曜日の夕方だった。もうたっぷり三分間は、こうして四号室の扉の前に緊張して立っている。表札がわりのネームプレートには、可愛らしい丸文字で山野と書かれた紙が入っている。部屋の主が今日はどこへも出かけていないことは、壁越しに伝わる気配でわかっていた。

 ──いかにもこれから苦情を言いますよって、不愉快そうな顔してた方がいいよな? 

 こんにちはと笑顔で挨拶なんかしようものなら、今度こそ間違いなくストーカー認定されて、鼻先で扉を閉められそうだ。

 謎の音に叩き起こされた最初の夜から、すでに半月もの時間が経っていた。

 ──でももし、音って何のこと? 私、知らないって聞き返されたらどうしよう?

 音が聞こえているのは自分一人、という事実を突き付けられたら?

 考えるだけで、背中がぞくぞくしてくる。

 つい三日前の明け方、コンビニに行こうとしてまた彼女とニアミスをした。アパートから前の道に出るところで、帰ってきた彼女とぶつかりそうになった。

「すみません」

 慌てて謝った僕は、

「ごめんなさい」

 彼女から同じ台詞が返ってきたことに驚いた。案外、根はいい子なのかなと思ったが、うつむき加減に力無い足どりで歩いていく彼女は、どうやら僕がまったく目に入っていない様子だった。頬にかかった髪の間から覗く横顔も、どことなく沈んでいた。

 僕はどうしても考えてしまうのだ。手首の幽霊が彼女の部屋に住み着き、悪さをしているのではないか? と。連夜の音の正体もやっぱりアレで、彼女は精気を吸い取られているのでは? と想像してしまう。

 そうではないことを確かめるために、僕は祈る思いでインターフォンを押した。

「あ、あの、隣の……三号室の石井ですけど」

『……なんか用?』

 やはり具合でも悪いのか、地の底を這いずるような声が聞こえてきた。

「夜中の音の件で」

『夜中?』

「毎晩、あなたの部屋から聞こえてくる音で眠れなくて。静かにしてもらえませんか」

 インターフォンの向こうで、彼女が黙り込む気配がした。おかしな間が空いたと思ったら、鍵を開ける音が聞こえてきた。

 そろそろと扉が開いた。

 彼女が半身を覗かせたとたん、僕は悲鳴を上げて尻餅をついていた。

 アレがいたのだ!

 つい指を差してしまった彼女の肩から、手首がだらんと垂れ下がっていた!

「なによ?」

 飛び上がった彼女は、反射的に右肩を見た。アレは、まるで彼女の視線から逃げるように背中に隠れた。

「なんなの?」

 やはり何も見えていないらしい彼女だったが、

「て、て、手首……がっ」

 陸に上がった魚みたいに口をパクパクさせている僕が喘ぎ喘ぎ絞り出した言葉を聞いて、小さく息を呑んだ。

「入って!」

 彼女の両手が伸びてきた。僕はいきなり腕を掴まれ引き起こされ、部屋のなかへと引っ張り込まれていた。




 一歩足を踏み入れるなり、ピンク色の洪水が押し寄せてきた。同じアパートの同じ1DKの一間とはとても思えない、乙女チックな雑貨や可愛いぬいぐるみに飾られた女の子の部屋だった。御札が裏に貼られていたという備えつけの下駄箱の上にも、ピンクのハート柄のクロスが敷いてある。

「ちょっとイシイ、ここ座って!」

 いきなり呼び捨てにされた僕は、彼女に引っ張られるままショッキング・ピンクに塗られたテーブルの前に座らされた。

「手首って何のこと? 教えて」

 内緒話の口調になった彼女からは、最初の夜にも嗅いだ甘い匂いがした。反射的に距離を取ろうとして、また腕を掴まれ引き戻された。こうして間近で見ると、今日はすっぴんの彼女は目の下にうっすらクマを作っていた。一瞬、ドキリとしたのは、メークをしてないちょっと垂れ気味の両目が僕をふった彼女に似ていたからだ。

「教えてって言ってるでしょ!」

 我に返った僕は腰を浮かせると、勇気を振り絞って彼女の背中を覗き込んだ。

 いない。

 アレは消えていた。

 無意識のうちに食いしばっていた唇から、安堵の息が洩れる。もっとも僕の目に映らなくなっただけで、今もそこにいるのかもしれなかったが。

 彼女に腕を掴まれ揺さぶられ催促されて、僕はそれまであったことをすべて話した。手首を初めて見た時のことや、その夜、夢にまで出てきたそれがこの部屋に入ろうと足掻いていたことも、もちろん御札の話もした。ついさっきまであなたの肩にくっついていたのだと教えると、たちまち悲鳴があがった。

「うそっ、うそうそっ! どこ! ついてない? ないよね!」

 跳び上がる勢いで立ち上がった彼女は、虫でも払い落とすように全身をバタバタ叩いた後、僕に向かって手首が消えてしまったことを何度も確かめてから、もう一度しゃがみ込んだ。

「なんなのよ、いったい!  どうしてあんなものが!」

 彼女は、傍目にもわかるほど大きく身震いをした。九月も半ばだというのに今もまだ涼しげなTシャツ姿の彼女は、袖から伸びた細い両腕をきつく抱いている。

「ひょっとして、あなたも見たことあるんですか?」

 問答無用で呼び捨てにされたのにこちらは敬語使いとは情けないことこのうえないが、とにかく彼女のこの反応はそうとしか思えなかった。

「見たんですか? あなたも手首を?」

 彼女は小さく頷いた。

「夜中に聞こえてくる音も手首と関係がある……とか?」

 だが、彼女は今度は首を横に振った。そうかもしれないけれど私にはわからないという意味だった。怪音が聞こえてくる時間はいつもぐっすり眠っているという彼女は、音の正体に思い当たることはないと答えた。

「手首のお化けね。私、あんたみたいに起きてる時に見たことはないの」

「え?」

「夢のなかでだけ。でも、毎晩出てきて……、それも片手じゃなくて両手で……」

 一瞬、強く両目を瞑った彼女の、への字になった唇が苦しそうだ。

「両手で私の首を絞めるのよ! ものすごい力で!」

 僕は思わず自分の首に手をやっていた。

「目が覚めても喉に残ってるんだよね。こう、ぐーっと指が肉に食い込む感じがはっきりと」

「その夢、最初に見たのは、いつ?」

 僕は真っ先に気になった。

「二週間前かな。この前タカくんとデートして泊まってくれた次の日だから、よく覚えてる」

 彼女は上目づかいになって思い出している。

「ひょっとして、僕とゴミ捨て場で会った日じゃないですか? 御札を捨てちゃった日です」

「そうそう!」

 ──やはりそうか!

 御札が無くなって、ナニモノかに結界的防衛ラインを突破されたんだと、僕の胸は冷たくなった。

「ねっ、イシイが見たのと私の夢に出てくるのと、同じ手首の幽霊だと思う?」

「たぶん。僕が見たのは右手だけだけど……、持ち主は女じゃないかな」

 すると彼女は首を傾げた。また胸がドキリと鳴った。そういう仕種もちょっとだけ喫茶店のあの娘を思い出させたから。

「そう? 私は男って気がする」

「どうして?」

「だって、大きくてゴツゴツしてたし」

「僕には細くて柔らかそうに見えたけどなあ」

 僕がもう一度、さっき見た手首を思い浮かべていると、彼女は急に立ち上がった。ベッドの下を覗き込んで何やらごそごそやっている。

「ハイ、これ!」

 戻ってきた彼女は、僕の手に小さくて冷たいものを握らせた。恐る恐る指を開いてみる。

 ──鍵?

「首を締められる時、いつも手首から先がありそうな感じがするんだけど、いくら目を凝らしても見えそうで見えないんだ」

「この鍵は?」

「手首が毎晩、本当に私の首を締めているのか、それとも夢のなかだけの出来事なのかわからない。イシイが夜中に聞いてる音の正体もわからない。わからないことだらけ、でしょ?」

 彼女が身を乗り出した分だけ、僕の上半身はのけぞる。

「だからね。今度音が聞こえてきたら、確かめて」

「えっ?」

「私が眠っている間に何が起こっているのか、イシイが確かめるの。いいアイデアだと思うんだよね」

「僕が? どうやって?」

「合鍵使って入ってきていいから。チェーンは外しとく」

「は? えっ?」

「許してあげる」

 僕が自分の頼みをきいてとーぜん! という、彼女の口ぶりだった。

 ──いや、駄目でしょ。いろんな意味でハードル高いでしょ。真夜中に友達でもないでもない女の子の部屋へ、しかも幽霊を見つけに入るなんて。

 僕は強張った手のひらに鍵を乗せたまま、咄嗟に頭を激しく横に振っていた。

「タカくんは? ここはタカ……彼氏の出番じゃないですか?」

 彼女は、なぜかたちまち冷気に当たった花のように萎れてうつむいた。

「しょうがないでしょ! 頼んだけど……、頼んだけどお店が忙しいんだから! それでなくとも最近ちっともかまってくれないんだし!」

 口調は強気だが、手元に落ちた視線はそのままだ。

 この前、御札をゴミに出した日を最後にデートをしてないなら、確かにずいぶん長い間、タカくんと会っていないということになる。

 ひょっとして、二人はうまくいっていないのか? 一途に相手を想っているのは彼女の方だけ? タカくんの気持ちは冷めているのかな? 暗い横顔は、手首のせいばかりではないのかもしれない。僕はつい、自分にはまったく関係ない彼女の恋愛事情を想像してしまった。

「私、山野サオリ。サオリはカタカナね」

 我に返ったように唐突に名乗った彼女に、僕の心臓は小さく跳ねた。

「サオリ……さん」

 思わず復唱してしまったのは、何という偶然! 僕をふった彼女と同じ名前だったからだ。もっとも喫茶店の彼女の方は、漢字で沙織と書くのだけれど。

「サオリさんはなんか違うから、サオリちゃんでいいよ」

「いや、あの……」

「じゃあ、今晩からよろしくっ」

「えっ?」

 気がつけば鍵はしっかり僕の手に渡っていた。




 彼女の勢いに負け、つい鍵を受け取ってしまったものの、その晩、僕は鍵を枕元に投げ出し、後悔に塗れて寝床にもぐりこんだ。

 夜も更け、怪音タイムが刻々と近づいてくる。

 ──やっぱり駄目だ!

 僕は頭から被った布団のなかで耳を塞いでいた。彼女の頼みを聞いて部屋に乗り込む気持ちは、どんなに自分を励ましてみても一グラムも湧いてこなかった。

 これ以上関わり合いになりたくなかったのだ。幽霊とはもちろんだが、それ以上に彼女とお近づきになりたくなかった。

 今日、スッピンの彼女を見て、化粧をしない方が可愛いと思った。初めて会った時、不快に感じた香水もそれほど嫌ではなかった。予想外にきちんと片づいていた乙女チックな部屋に、いい意味でショックを受けた。

 彼女を好きになったわけでは、誓ってない。タイプが違う。僕の憧れる相手はあんな短いスカートは穿かないし、夜中に酒臭い息を吐きながら帰ってきたりもしない。でも、今や彼女は単なる隣の部屋の住人ではなくなった。かなり苦手だけれど、まったくタイプではないけれど、女の子として意識するようになっていた。

 塞がりきっていない失恋の傷に、女の子を近づけるのは危険だ。喫茶店の沙織ちゃんと同じ名前の、顔立ちにもどこか似ているところのある彼女は特に。

 もしまた、初めて会った時みたいな軽蔑の眼差しを向けられたり、これ以上馬鹿にされたりしたら、弱い僕は簡単にへこんでしまうだろう。まだぐずぐず疼いている傷口に指を突っ込まれ、掻き回される気分になるに違いない。

 ──そうなれば、ますます部屋から出られなくなるぞ。

 その晩も、やはり壁は鳴った。

 気のせいか、何かを訴えでもするようにいつもより激しく大きな音に聞こえた。僕は一度は鍵を拾って玄関の外に出てみたものの、迷いに迷った末、とうとう寝床に戻ってまた頭から布団を被ってしまった。

 ──やっぱ、無理!

 手首が怖い!

 彼女も怖い!

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