翌朝、砂でもつまったみたいに重たい頭を抱えて、僕は部屋を出た。

 ゴミが狭いベランダいっぱいに溜まってきたら、しかたなく出しに行く。集配場所までの徒歩一分は、僕の貴重な外出タイムだ。

 ゴミ収集ボックスは、アパートの駐輪場の一角に置かれている。僕は埃や汁垂れで汚れた蓋を指で摘むようにして開け、もうすでにいっぱいになっているそこへコンビニ弁当やカップ麺のカラ容器がつまった袋を押し込んだ。

 昨日は九時過ぎには布団に入ったはずなのに、ちっとも眠った気がしなかった。脳味噌が働き方を忘れてしまったみたいに、ぼんやりしている。理由はわかっていた。あの薄気味の悪い夢のせいだ。

「ちょっと、邪魔!」

 突然、背中から怒鳴りつけられ、頭にかかった霞が消し飛ぶ。隣の彼女だとわかって、半眠りの目がパチリと開いた。慌てて振り向いた僕は、真っ先に彼女の肩を確かめた。ほっと胸を撫で下ろす。

 アレはいなかった。昨夜と同じ、今にも下着が見えそうなスカートを履き、胸元の大きく開いたTシャツ姿の彼女の肩に、今朝は何も見えない。

「なに突っ立ってるの? どいてって言ってるでしょ!」

 敵意剥き出しの様子からして、まだ僕をストーカーだと疑っているに違いない。ぴょんぴょん跳び上がっては全身の体重をかけ、ボックスに無理やりゴミ袋を詰め込もうとする彼女の意外に子供っぽい姿を見るともなく見ていた僕は、ギョッとなった。

 ──まさか?

 分別をきちんと守っているとは到底思えない半透明の袋越しに、赤い縁取りのされた短冊のようなものが覗いているのを見つけたのだ。文字にも紋様にも見える何かが、筆文字タッチで印刷してある。

 ──絶対そうだ。

 ずいぶん黄ばんでいるようだから、相当古いものに違いない。ということは、かなり長い時間、どこかに貼られていたということだ。

「ちょっと、なによ?」

 つっかかる彼女の眼差しが僕の視線を追いかけ、ごみ袋に向いた。

「あの……。これ、捨てるんですか?」

 僕が恐る恐る指差すと、彼女はそれをチラリと見て「はあ?」と眉をひそめた。今どきのメイクの流行りだとテレビで言っていた、太い眉。付け睫がバッサバサの、実は大きいのか小さいのか判別のつかない目。這い回る手首に気を取られていたせいで、彼女の顔をしっかり見たのは初めてだった。

「これ、御札ですよね」

「だから? ふつー、捨てるでしょ。そんな気持ちの悪いもん。下駄箱の下に落ちてたから、とっくにゴミだし」

 昨夜よりも派手なショッキングピンクに塗ったい唇を、そうするのが癖なのか、彼女は不満そうに尖らせた。キツイ印象なのにやっぱりどこか子供っぽい。

「おい」

 僕と彼女は同時に振り向いた。彼女が朝から厚化粧している理由がわかった。

「タカくーん」

 彼女はハートマーク付きの甘ったるい声で呼ぶと、すでにこちらに背を向け歩き始めている男に駆け寄った。

 ホスト風の茶髪に、黒のTシャツ&細身のパンツ。朝陽を弾いて手首でキラリと輝くシルバー・アクセ。昨夜は彼女の部屋で過ごしたのだろうタカくんは、嬉しそうにまとわりつく彼女を、半ば突き飛ばすようにして振り払った。弾みで彼女は尻餅をついたが、彼は驚きもしない。それどころか、

「うざいって言ってんだろ!」

 ちょうど足元に転がっていた珈琲の空き缶を、力まかせに蹴飛ばした。

 ──怖ぇぇっ。

 彼女を見下ろす三白眼の、白目の部分が血走っている。

 それにしても、

 ──理不尽だよなあ。あんなに雑に扱われて、嬉しそうだなんて。

 僕はため息をついた。それに引き換えこっちは相変わらずの変態扱いで、だから彼女がどうなろうが知ったことではないんだが、それでもやっぱり気にはなる。

 部屋に引き返す僕の足は、四号室の扉の前まできて止まった。

 昨夜見た夢の光景が、本当にあったことのような生々しさで蘇ってくる。

 手首は、何とかこの部屋に入ろうと足掻いていたように見えた。扉の上を執拗に這い回っては恨めしげに爪で引っ掻き、ノブに首吊り死体みたいに力なくぶら下がっていた。

 ──もし、部屋に入れずにいたのだとしたら、あの御札が守ってくれてたからじゃないのかなあ? 

 おそらく御札は、ずいぶん昔から下駄箱の裏に貼ってあったのだろう。それがついに剥がれ落ち、ゴミ箱行きになったということは……?

 そこまで考えて、僕は思わずぞくりと背を縮こまらせていた。やはり関わり合いにならない方がいい。

 ところが、その夜のこと──。




 ドスッ!

 突然、大きな音がして、僕は跳ね起きた。慌てて真っ暗な部屋のなかを見回す。無意識のうちに、例の白い手首を探していた。

 いない。

 ほっとしたとたん、また聞こえた。

 さっきの音だ。

 僕は反射的に右を見た。

 もう間違いなかった。真夜中の空気を重たく震わせるその音は、右側の壁から聞こえてくる。四号室との境にある壁だ。

 ゴッ!

 ゴガッ!

 僕はタオルケットを頭から被って丸くなった。すると今度はめちゃくちゃに蹴飛ばしでもするような音が続いたかと思うと、急に静かになった。

 心臓が早鐘のごとく打っている。

 家賃が安い分だけ築年の古い部屋だ。壁は薄く、たいした防音対策がされているとも思えない。テレビの音やトイレの水を流す音、洗濯機を回す音や、生活音はいつも洩れ聞こえてくるが、これは明らかに違う。

 慌てて目を瞑った。真っ黒に塗り潰された瞼の裏に浮かびあがるのは、壁の反対側を猛スピードで這い回っている白い蜘蛛の姿。御札が無くなり、念願叶って部屋に入ることのできた手首だけの幽霊が、嬉しそうに飛び跳ねている。

 ──考えるな。想像するな。

 たぶん、隣の彼女が酔っぱらって暴れて叩いたのだろう。そうだ。そうに決まっている。どことなく拳を使い慣れていそうな彼氏のタカくんという線もある。

 僕はこの時、まさかこれから毎晩怪音に悩まされることになろうとは、夢にも思っていなかった。

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