隣の部屋
美鶏あお
第1話 隣の部屋
1
青白い手が……、固めた蝋から型抜きしたように血の気の失せた細い手が、彼女の肩で蠢いていた。
「ひ……っ」
悲鳴を上げたつもりが、しゃっくりみたいな声が出た。
五本の指が足に見える。ピンクのタンクトップから零れた褐色の肌の上で、捕まる場所を探して歩き回る、まるで蜘蛛だ。
「何よ? なにジロジロ見てんの?」
彼女は僕の視線を追いかけ、自分の右肩に目をやった。が、特に驚いた様子もなく、すぐまたこちらに顔を向ける。
東の空が白んできた明け方、すきっ腹を抱えて一週間ぶりにコンビニに出かけようと玄関を出たところで、ちょうど帰ってきた隣の住人とうっかり顔を合わせてしまった。
日岸町の住人になって、もうすぐ三カ月。今どき引っ越しの挨拶回りなんて面倒なことをするわけもなく、誰にも会いたくないと、この古いアパートの部屋にほとんどこもりっきりだった僕は、隣人がこんな時間まで遊び歩いている女の子だと初めて知った。
「なんか用?」
どうやら何も見えていないらしい彼女の、タンクトップと揃いの毒々しいピンク色をした唇が不満そうに突き出される。
香水の甘い香りと一緒に、酒の匂いがプンと鼻をついた。まだ二十歳そこそこにしか見えないから、もしかしたら盛り上がった合コン帰りの女子大生かもしれない。
「あ、あの……」
彼女の肩の白い蜘蛛は、いつの間にか動くのをやめていた。こちらの様子をじっと窺ってでもいるようで、脇腹をぞわりと震えが這い上がってくる。
「もしかして、あなたなの?」
「は? あ……え?」
「昨日も私のあと、つけ回してなかった?」
「えっ?」
「ストーカーじゃないの? 違うの?」
──ええっ?
絶対お前だろうと言わんばかりの勢いでつきつけられた右手の指もその手首も、ピンク色のリングやらブレスレットやらでじゃらじゃらデコレーションされている。
「ち、ち、ち、ちが……」
全力で首を千切れんばかりに横に振っている僕に尚も突き刺さる、疑いの眼差し。
「違うの? 本当? だったらとりあえずは謝っとく。ごめんねっ」
力まかせに閉められた扉の音が、明るくなりはじめた廊下に響き渡った。とたんに強張っていた身体から力が抜けた。
──ストーカーって……。
不気味な白い手のことは、束の間、どこかへ押しやられていた。
頭のなかいっぱいに、たった今見た彼女の表情が広がっている。勝気な言葉とは裏腹に、怯えの色を浮かべて強張っていた。
──あの手はたぶん、女の手だな。
女性の手は手首のあたりからしなやかで柔らかそうで、指先までほっそりとして可愛い形をしている。それを僕に教えてくれたのは、ずっと片想いをしていた彼女だった。
すっかり出かける気も失せ、半ば万年床化している布団に戻った僕は、ぼうっと天井を眺めながら三カ月前、我が身に降りかかった不幸を思い出していた。
彼女とは、僕が以前住んでいた部屋の近所の喫茶店で出会った。マスターの一人娘だ。大学生になって父親を手伝いはじめたその娘に好意を抱くようになってからの僕は、会社が休みの週末にはほとんど通いつめていた。月曜日から金曜日まで仕事を頑張るエネルギーの源になっていたと思う。
でも、僕はふられた。いや、ふられたなんておこがましい。告白する意気地もなかったのだから。
忘れもしない。朝から音もなく雨の降る日曜日だった。僕はいつものように窓から一番遠い隅っこのテーブルで遅い昼食を取り、散々ねばってやっと店を出たところで彼女に呼び止められた。
初めてまともに合わせる彼女の目が眩しくて、僕は視線を何度も濡れた靴の先に落とした。なにしろ二年も通って僕にできたことと言えば、ふたつだけ。ひとつは、スマホに夢中になっているふりをして働く彼女を盗み見ること。もうひとつは、パスタやサラダやコーヒーをテーブルに並べてくれる彼女の、爪までが薄桃色をした優しげなその手を見つめることだけだった。
それなのに、彼女もう店に来ないでほしいと俯いた。
『ごめんなさい。なんだか怖いんです。いつもいつもあんまりじっと見つめられているうちに、だんだんあなたのことが怖くなってしまったんです。最初のうちはそんなことなかったのに……。私のこと気にかけてくれているのかなって、ちょっとだけ嬉しいと思ったこともあったんです。本当です。嘘じゃありません。でも今は……。不安なの。ストーカーみたいに思えてきて。本当にごめんなさい』
ごめんなさいを繰り返し、傘もさしていない彼女はそのたびに頭を下げた。細かな水滴が、窓を編み目模様に濡らしていた。彼女の肩ごし、路地の向こうで瞬きはじめたネオンサインがぼやけて溶けた。
情けないことに、僕は失恋のショックで会社に行けなくなった。仕事を辞め、引っ越しまでしたのは、彼女の思い出の残る町を離れて一からやり直そうと決めた──などという前向きな気持ちからではなかった。
ただ、逃げ出したかったのだ。彼女の言葉が頭にこびりついて離れない僕は、自分の言動が周囲の目にどう映っているのか、異常に気にするようになっていた。それまではどこの街でも見かける、これといって特徴のない平凡な容姿を誇ることはないにしろ卑下することもなかったのに、鏡を見るのが嫌になった。外に出ること自体、苦痛になってしまった。だから、知人や友人のいない土地に逃げれば少しは楽になるかもしれないと期待したのだ。
けれど、結局は求職活動をするでもなく、こうして今もこそこそ空腹に追い詰められなくては出かけられない生活を送っている。
──情けないなあ。
相手は違う女の子とはいえ、再びのストーカー発言にろくに否定もできなかったなんて。生まれて初めて遭遇した幽霊(手首から先だけだけど)すら忘れて、またもやぶちのめされリアルに痛みを感じているなんて……。会社に行けなくなった時につくずつ思い知らされたが、
──僕ってまさかの豆腐メンタル。
立ち直るまでの道のりは思ったよりも険しそうだと、溜め息が零れた。
ひょっとして、この町に来たのは失敗だったのだろうか?
九月になっても居座り続ける残暑に悲鳴をあげる古いエアコンから、生ぬるい風が降りてくる。
僕は枕元に丸めて放ってあった、フリーペーパーを手に取った。B5サイズのペラ紙一枚、しかも片面印刷。読み物と言っても一本だけだから、チラシと呼んだ方がいいかもしれない。
黒い太枠で囲まれたその記事には、[日岸町奇報]とヘタクソな手書き風のタイトルがついている。読者の投稿なのか取材ネタなのかわからないが、どうやらこの町の住人の体験談を紹介したものらしかった。
ちなみに四五六号目と結構な回を重ねた今号は、引っ越し先のアパートでの恐怖体験を綴った『隣の部屋』。昨日、ポストに突っ込まれていたこのペーパーを僕がもう一度読む気になったのは、話のなかに蜘蛛のように動き回る白い手首が出てくるのを思い出したからだった。
日岸町。
ニチガンチョウと読むが、ヒガンチョウとも読める。そして、ヒガンは彼岸を思い起こさせる。
彼岸とは、この世の苦しみから解き放たれた極楽浄土のこと。
だが、人の心には、彼岸を現世とは三途の川を隔てたあちら側、死の世界、霊魂の世界と畏れる気持ちがある。
『パワースポットってあるだろ? ああいうとこの周りには、追い払われた邪悪な気がどこへも行けずに居座ってるらしいよ。ヒガン町がそうらしい』
『霊体験したかったら、ヒガン町の住民になるといいんだって。見えない人も見えるようになるんだって』
彼女にふられて間もなく、偶然ネットで見つけた日岸町の都市伝説めいた噂話。
『なあ、聞いた? 見えるようになる人には、どっかから来るらしい。あなたが選ばれましたってお報せがさ』
人間は何かから本気で逃げ出したい時、今いる場所より明るいどこかに行きたいとは不思議と思わない。むしろ暗い方へ淋しい方へと足が向く。傷ついた動物が真っ暗な巣穴の奥へ奥へと潜り込むみたいに。だから、僕もこの町に住んでみようという気になった。
いや、あんな恐ろしいものを見てしまった今となっては、ネットを覗いた瞬間、自分は邪悪な力に囚われてしまったんだ、失恋に打ちのめされ投げやりになった心の隙につけ入られ、この町に引き寄せられたんだとしか思えなくなってくる。
今の今まで単なるチラシもどきとしか感じていなかった紙面から、不気味なものが漂ってくる。黒枠で囲まれた日岸町奇報の記事そのものが、葬儀で使われる遺影に見えてくる。印刷が悪いのか。文字の羅列がぼやけたモノクロ写真でも眺めているようで、どうにも落ち着かない。
──見えるようになるやつにはどっかから来るお報せって、まさかこのチラシのことじゃないよな?
いやいやまさかな。考えすぎだよと僕は一瞬ためらったものの、今号の話にもう一度目を通してみた。
僕と同じくこの町に引っ越してきたAという男が経験した、隣の部屋にまつわる怪異譚。彼が若い頃の、たぶんアパートの部屋はどこも畳敷きで、当然のごとくトイレは共同、ユニットバスなどというものも普及していなかった時代の、ずいぶん昔の出来事らしいが。
白い手首は、話の中盤あたりに出てくる。
※
──そう言えば、僕はどうして四号室を選ばなかったんだろう?
不動産屋に紹介された時、このアパートに空き部屋は二つあった。Aさんが今住む三号室と、問題の四号室だ。
間取りはほとんど変わらない。日当たりはむしろ四号室の方がいいくらいで、トイレに近く利用しやすい点もAさんにとってはメリットだった。それなのに、迷うことなくAさんは三号室を選んだのだ。
今更ながらに首を捻ったAさんの脳裏に、突如、蘇ってきた記憶があった。
『ほら、あの端の二部屋がそうですよ』
アパートまでAさんを案内してきた不動産屋が門の前で足を止め、二つ並んだ二階の窓を指さした時──。彼は一瞬、奇妙なものを見たのだ。四号室の窓を右から左へ、何かが斜めに這っていったのだ。
青白い、大きな蜘蛛を思わせるもの。Aさんの目には、人の手首から上だけが勝手に動き回っているように映った。
しかし、部屋を決める時にはすでにそんなものを見たことなど、きれいさっぱり忘れていたように思う。その後も今この瞬間まで、白い蜘蛛の記憶は見事に頭から抜け落ちていた。
おかしい。あり得ないことだ。Aさんはいよいよ背筋を寒くした。うっかりアレを見てしまったばっかりに、あの日あの瞬間、自分はすでに隣室に隠された何かとかかわりを持ってしまったように感じたからだ。
※
怪談話は嫌いではない。でもそれは、本当にあったことにしろ創られた話にしろ、他人事であるから楽しめるわけで、自分がそちら側の世界に一歩足を突っ込んだとなると面白がってばかりもいられなくなる。手首を見た瞬間の、頭のなかが白く霞んでいくような恐怖がじわりじわりと蘇ってきた。
「ここも三号室だもんな」
手首を肩にのせた彼女が住んでいるのも右隣の二号室ではなく、怪異譚同様、反対隣の四号室だ。
首筋を冷たい指で撫でられた気分だった。
僕はタオルケットを被って目を閉じた。
引っ越し先のお隣さんが可愛い女の子で、新しい恋が芽生えるなんてそんな漫画みたいな展開、期待していたわけではなかったけれど、よもやあんな恐ろしいものを目撃したうえストーカーの疑いまでかけられてしまうとは……!
やはり、この町を選んだのは間違いだったのだろうか? 日岸町の住人でいる限り失恋の痛手からも立ち直れない、とか?
「いやいやいや、考えすぎだって! アレだって見間違いかもしれないし!」
僕は声に出して言うと、そう決めつけることにした。でも、空腹のあまりさっきからぐうぐう鳴き続ける胃袋をもってしても、今すぐ買物に出るのは怖くてできなかった。
その夜、僕は再びアレを見た。
ただし、夢のなかで。
おかしな物音に目を覚ました僕は、音に誘われるまま玄関を出た。
静まり返ったアパートの二階。廊下は五部屋分と短いはずなのに、どちらに視線を向けても先が見えない真っ黒な闇に包まれている。
肌に触れるほど近くに気配を感じた。
微かな音がする。遠くで誰かがノックをし続けているような……。
目を凝らすと、アレがいた。
向こうが透けて見えそうに青白いその手は、五本の指を蠢かせていた。彼女が住む四号室の扉の表を、何かを探ってでもいるようにゆっくりと這い回っていた。
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