猫になる日

二夜

猫になる日

明日、我が家から家族が一人減ります。


先月の新月の夜、兄はまん丸のお月さまを見てきたそうです。

みな、笑いました。寝ぼけていたんだろうだの、まさか酒の味でも覚えたかだの。兄は困った顔で、でも見たんだよなあ、とぼやいていました。


明くる日、兄は少し困った顔で帰ってきました。

級友のケンジさんに、何だか邪険にされたというのです。呼んでも応えてくれないし、そもそも聞こえていないんじゃないか。肩をたたくと、ひどく驚かれた。結局一言も喋れなかった。…だとか。

特に仲の悪い相手でもなかったし、その日はだんだんに、落ち込んでいたようです。


みっか後、兄はまた困った顔で帰ってきました。

三年のメイコさんに、なんだか可愛がられたというのです。

メイコさんは私もよく知っています。少し彫りの深い、神秘のある顔立ちの美人さんです。私達後輩にもファンは多く、よかったじゃないの、と思ったのですが。

いきなり喉元を撫でつけられたと。

あんまり驚いて固まっていたら、つむじだのうなじだのをベタベタ触ってくるものだから、たまらず逃げ出してきてしまったそうです。

…私達も知らないありさまの先輩です。兄と二人して、考え込んでしまいました。


日が経つにつれ、おかしな事がどんどん増えてゆきました、そして、分かったのです。

兄は、だんだん、忘れられています。

そして、猫かわいがりをされるのです。文字通りの。


ひと月が経とうとしています。

親友も、先生も、ご近所さんも。もう、兄の名は覚えていません。タマだの、シロだのと、めいめい勝手な名前で、おいでおいでをするのです。あるいは、眉間にしわを寄せ、シッシッ、と追いやるのです。


昨日は父が、平皿にごはんとおかかをよそって、床に差し出しました。

ねこまんまです。

母と僕、二人、たまらず泣き出してしまいました。


兄は、落ち着き払って、四つん這いになると、静かに、まくまくと、それを平らげました。

残った米粒ひとつ、ぺろりと舐め取ると、卓に座し直し、「ご馳走様。」と。いつものように。


母はもう、自分が泣いていた事を、忘れたようでした。

ええ、忘れたのでしょう。

「どうしたの。早く食べちゃいなさい。」

味のしない味噌汁でした。



最後に残るのが、お前だったとはなあ。

兄ちゃんブラコンだからな。心配だったのかもな。

明日の朝には、お前にも俺のことは分かるまい。

分かるんだ。月が呼んでいる。

あれを見ると、たまらなくなる。きっと、本当にけものになるんだろうな。俺。

…見えないんだろ?

あの月は、何なんだろうな。まあ、お前に言っても、仕方ないけど。


まだ俺が分かるか? そうか。

少し、抱かせてくれ。その寒々しい肌の感触を分けてくれ。

…まだ、人に見えているのか。俺はもう、けものだよ。

このたましいだけが、ヒトの、人肌を、恋しがるんだ。

次に会う時は、お前ににゃんと鳴くだろう。その前に、抱かせてくれって、この声帯で言いたかったんだ。


でも猫で良かったよな。虎だったら、きっと、お前を最初に食べちゃうかも。


おやすみ。俺の弟。



私には、兄がいたのでしょうか。

不思議なノートを見つけました。日記のようですけど、一人っ子の私に、まるで兄がいるような。

確かに私の書く文章です。でも覚えはないのです。

夢遊病者のように、眠りながらしたためた、とか。突拍子もない思いつきです。


低い鳴き声がします。いつもの猫でしょう。姿は見たことがないんですよ。

きっと可愛いにゃんこに違いありません。…ブサ猫かなあ?

一度会ってみたいな。

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猫になる日 二夜 @nyah

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