モラトリウムの呼吸

桜枝 巧

モラトリウムの呼吸



    二十歳になったら死ぬ



 駅からまっすぐに続く商店街を通り抜けた外れに、その中学生専門の個人塾はあった。受付用のカウンターで囲われた空間には、職員用の机が五台と、アルバイトが使う長机が二台。

 その長机に向かって、僕は溜息をつく。

 三審制、と書かれた解答欄に大きく丸をつけた。

 一月八日、日曜日。十一時四十六分。

 解答用紙は、明日生徒に返却することになっている。昼からもう一人助っ人が来る、と聞いたものの、正直終わる気がしない。

 用紙の上を走るペンの音だけが、室内に響く。

 大問三の問四に来た時だった。


 ――『モラトリウム』


「……モラトリウム」

 思わず手が止まり、口から単語が漏れ出る。

 肉体的には大人であるが、社会的な義務や責任を課せられない猶予期間。

 私立受験で出題されるような、あまり見ない問題だ。この生徒も、記憶の切れ端を何とか捕まえて書いたらしい。

「懐かしいな」

 呟いた僕は、そこに大きく丸をつけた。

『モラトリウム、でも正解なんだよ。元々ラテン語でさ、読み方が違うだけ』

 女の子にしては低めの声が、脳内に響く。

 四年前、中学三年の秋から半年だけこの塾に通っていた子だ。同じ中学だったもののずっと違うクラスで、顔を合わせるのは塾の教室内と、その帰り道だけだった。

『ねえ、モラトリアムよりモラトリウムの方が格好良いと思わない? 何かの原子みたいでさ』

 そんなことを言っていた彼女。

 無事、県で一番の高校に進学した、と風の噂で聞いた。

「……そういえば、あと少し、なのか」

 そう、僕も十九歳――つまり彼女も、成人まであと約一年、ということになる。

 その時、不意に扉が開く。

 あぁ、助っ人が来たのか、と僕は立ち上がりかけて――目を見開いた。

 そこにいたのは、茶色いコートを着込み、鮮やかなチェックのマフラーを巻いた女性だった。

 悪戯好きの猫のような目。程よく色づいた唇。黒に近い茶髪は、背中まで伸びている。ただやはり昔とは違っていて、薄く化粧をしていた。

 しかし。

 ――あの頃と、何も変わっていない。

 外見は随分と変わったはずなのに、何故かそう感じた。女性と言うよりは、少女と呼ぶ方がふさわしいような、そんな気がしたのだ。

「久しぶりだね」

 四年前と同じ声で、彼女は言った。

 

『私さ、二十歳になったら、死ぬの。病気とかじゃなくって、――そう、自殺』


 中学時代、塾から駅までの帰り道。

 毎日のように彼女が口にしていた言葉が、重なって聞こえた。



 県外の大学に進学した彼女は、冬休みのため今日まで地元に帰省しているらしい。昨日の夕方、偶然塾長に会った、とのことだった。

 机のペン立てから赤ペンを取った彼女が、解答用紙の文字に気づく。

「あ、モラトリウムになってる」

 うわッ懐かしい、と声が漏れた。

 僕は少しだけ笑う。

「正解だよ、モラトリウムでも」

「知ってるよ。……っていうか、私が解説したんじゃん。間違いじゃないって」

 小さく頬を膨らませる彼女。

 ……間違い、ねえ。

『私、二十歳になったら死ぬの。病気とかじゃなくってさ、自殺』

『だってさ、今の平均寿命知ってる? 男性で八十歳、女性で八十七歳。正直さ、そんなに長く生きていたって、ぐだつくだけじゃない』

『だから、自分で区切るの。時間は有限だって。私はもうすぐ死んじゃうんだって。そうしたらさ、ほら、一日一日が大切に思えてこない?』

『私は死ぬよ。二十歳の誕生日、必ずね』

 四年前、口癖のようにそう繰り返していた彼女。

 何があったわけでもない。

 彼女は単純に、死にたがった。

 単なる勉強に疲れた受験生の妄想、とは言ってほしくない。それだけの熱が彼女にはあったのだ。

 そして――僕も同じくらい、真剣だった。


『――じゃあ、その時、僕も死ぬことにするよ。一緒に、連れて行って』


 あの頃、彼女の台詞に続けて言っていた言葉。あれは、果たして「間違い」だったのだろうか?

 僕は空白の解答欄に、バツをつける。



「終わったっ……!」

 両腕を上げ背筋を伸ばせば、腰が小気味の良い音を立てた。同じポーズをとる隣からも、んん、と声が聞こえる。

 全ての作業が終わり十五分もたたないうちに、僕らは外へと追い出された。頭上では、空がゆっくりと濃い藍色のヴェールを被り始めている。

「一時はどうなることやらと思ったけれど、何とかなるものだね。うん、今日はいい日だった」

 彼女はうん、いい日だった、と繰り返した。

 冬の夜の空気は厳しい。僕はそっとコートの前を閉める。

 彼女は何度も何度も楽しかった、いい日だったとうわごとのように呟いて、こう続けた。

「明日、死んでもいいくらいだよ」

 ひゅう、と。冷たい風が、二人の間を通り過ぎていく。数秒の沈黙はコートの隙間から入り込み、僕の心臓をずっしりと掴んだ。

「……二十歳じゃあ、無かったの?」

「勿論二十歳。冗談だよ、今のは」

 声を震わせる僕に、彼女はさらりと返した。

「ちゃんと、覚えてくれていたんだね。実はさ、今日は君がこの塾に居るって言うから手伝いに来たの。お話を、したくって」

 腹の奥まで落ちていくような、しかし何故か震えている不思議な低音が、今日を弔う空に響いた。


「死ぬならやっぱり人に迷惑かけない方がいいと思うの」

 彼女はそう口火を切った。

 昼と夜が入れ替わる合間の商店街を、ゆっくりと歩いていく。すれ違う幾人かが、僕らの会話に眉をひそめては足早に通り過ぎていった。

「電車に轢かれるなんて言語道断。駅員は死体の処理に困るわ、電車が遅れて他の客は大迷惑だわ、デメリットが多すぎると思うんだよね。同じ理由で室内での自殺なんてのも駄目」

 そんなある意味理屈の通った無茶苦茶な言葉のつぶてを、彼女は白い息とともに僕にぶつける。

「練炭……も、まあ後片付けが面倒なのか」

 思わず漏れた思考に、彼女は少しだけ目を見開いた。続けて広がっていく、満面の笑み。僕は、しまった、と声には出さず口だけを動かす。

 ……これじゃあ、四年前と全く変わっていない。

 自らの死について語る彼女があまりにも楽しそうで、生き生きとしていて、輝いて見える。

 恋愛感情、と呼ぶには数メートル程遠い、しかし確かな憧れがそこにあった。

「二人でお互いを刺し合うってロマンチックじゃない? 勿論、誰にも迷惑が掛からない場所――森林とか、海沿いの崖とか……やっぱりロマンチックじゃない!」

 うっとりとした表情で腕を広げ、大袈裟に一回転して見せる。臙脂色のスカートがふわりと舞い上がり、黒タイツに包まれた太ももが一瞬、露わになった。

「…………」

 思わず、視線を逸らす。

 目の前に確かにいるはずの、十九歳の「女性」は、酷く現実感がなかった。

 街は夜を迎え入れ、居酒屋の明かりに人々が吸い寄せられるようになっていく。

 会社帰りらしいスーツ姿の女性が「刺し合う」なんて単語に反応し、明らかに顔をしかめた。


 ふと一瞬、女性と目が合う。

 そこにあったのは、はっきりとした嫌悪。


 思わず俯いて、自分から目をそらす。

「まぁ、そうだよ、な」

 そりゃそうだ、と言葉を口の中で転がす。「一般人」の女性はすでに僕らの間を通り抜け、視界から消えていた。目が合ったのは本当に数コマといったところで、しかしその視線は網膜にしっかりと焼き付いていた。

 よほどおかしな顔をしていたのだろう、彼女がこちらを見て軽く首をひねった。

 三秒ほど俯いたものの、またぱっと顔を上げる。そこにあったのは、先程までの微笑みに、戸惑いと一滴の憂いを混ぜ込んだような表情だ。

 僕は、大丈夫だよ続けて、と促した。

 たどたどしく、それでも楽しげに話し始める彼女。奨学金は本人が死んだ場合、返金義務が免除されるのだ、なんて知識を自慢げに語る。

 僕はゆっくりと地面を踏みしめるように歩く。

 ……時の止まった世界だけを見ていれば、僕はきっと幸せに死ねるんだろう。でも、それは確実に「普通」ではなく、「一般的」ではない。

 ただ、脆くも強いこの少女に惹かれているのも、また事実で。

 塾からは豆粒程にしか見えていなかった駅が、徐々に大きくなってきていた。

 そのつきあたりで、僕は左、彼女は右の道に進む。

 終わりが一歩ずつ足音を立てながら近づいてきていることを、僕はぼんやりと感じていた。

「―――ねえ、あのさ」

 不意に彼女が、彼女にしては珍しい、静かな声で僕に呼び掛けた。

 僅かに震えた、緊張と焦り、縋りつこうとしてくるような必死さを湛える声。

「……どうしたの?」

 こちらを見る大人の形をした少女は、はっとする程柔らかな笑みを浮かべていた。

 優しくて、暖かくて、輝いていて――しかし、その瞳は寂しさで歪んでいた。まるで、駄々をこねる幼子のような、そんな目。

 話しながらも、二人の歩みは止まらない。あの頃よりもずっと速いスピードで、駅が近づいてくる。――僕らだって成長しているのだということを、無理矢理感じさせられる。

 彼女の、薄い唇が開いた。

「『私、二十歳になったら死ぬの。病気とかじゃなくってさ、自殺』」

 出てきたのは、四年前と全く変わらない言葉。

「『だってさ、今の平均寿命知ってる? 男性で八十歳、女性で八十七歳。正直さ、そんなに長く生きていたって、ぐだつくだけじゃない』」

 毎日、高校受験に向けて必死にあがいて、その帰り道、口ずさんでいた言葉。

「『だから、自分で区切るの。時間は有限だって。私はもうすぐ死んじゃうんだって。そうしたらさ、ほら、一日一日が大切に思えてこない?』」

 彼女は今それを、泣きそうな笑顔で、放つ。


「『私は死ぬよ。二十歳の誕生日、必ずね』」


 すっと、街が静まり返った、そんな気がした。


 無言のまま、二人分の足音だけが響く。夜の街に変貌した、昼間とはまた違った明るさを見せる商店街は賑やかで、僕らの周りだけがただ、静寂に包まれていた。

 二人の踵が、動きを止める。

 目の前には、今まで僕達を見守ってきた駅。

 彼女の目が、僕を見ている。何を言えばいいのか君にはよく分かっているはずだ、と、そう語りかけてきていた。

 僕は、震える声で、言葉を口にする。


「ごめん」


 それ以上は、何も言えなかった。

 何も言えずとも、彼女に言葉は伝わる。

 言葉は、突き刺さる。


 少女が、崩壊した。


「――――――――――っ」


 声は一つも発せられなかった。涙も零れることはなかった。ただ、顔を歪ませ、目を極限まで大きく見開いて、唇を強く噛んでいた。そこには確かに、声なき叫びが存在していた。

 あ、ああ、と、声が漏れた。僕の口からだった。壊れてしまった、壊してしまった。僕が、壊した。

 一歩、二歩、と後ずさる。喉から出てくるのは、言葉になっていない音ばかりだった。

 ――その時ふっと、彼女から力が抜ける。

「――あ」

 気づけば、目の前にいたのは、十九歳、年相応の元少女であり、一人の女性に過ぎなかった。


「死ぬよ」

と。


「私は、二十歳で――死ぬよ」

 自殺するの。


 全てを吐き出しきった元少女は、唸るようにそう呟いた。しかし、そこに夢を見るような優しさはなかった。何かに縋りつかんとする少女の我儘、にすらなれない、黒くどろどろとした塊があるだけだった。

 僕らはしばらく黙ったままだった。一月独特の締め付けるような風が、駅前を駆けていく。

「……はは」

 不意に彼女がほんの少し口端を上げた。は、はは、と、ひどく乾いた笑い声が、家路を急ぐ人々の間をすり抜けていく。

 何かを言わなければならない。そんな気がした。この目の前に居る元少女に、憧れであった女性に、何か言葉を投げかけねばならないと、そう思った。

 正解なのか、間違いなのか分からない単語が、口から漏れ出る。

「――モラトリウム」

「…………へ?」

 徐々に言葉が唇から零れていくのが、自分でも分かった。

「モラトリウム、だよ。元素みたい、だろ? そう、そうだ、僕らはさ、モラトリウムを吸い込んで生きているんだ。窒素七十八%、酸素二十一%、二酸化炭素〇.〇四%に、モラトリウム〇.〇五%。後はその他諸々。そんな世界で、僕らは呼吸しているんだよ」

 だから――だから?

 そこで、言葉に詰まってしまう。

 だから、何だって言うんだ?

 モラトリウム。

 肉体的には大人であるが、社会的な義務や責任を課せられない猶予期間。

 十九歳の僕らは少女を手放し、有耶無耶なことをはっきりさせ、丸とバツをつけていく。

 でも本当に何が正しいのか、間違っているのかは曖昧なまま、大人になっていくのだ。

 モラトリウムを吸い込んで、迷って、分からなくなって、何かに縋りついて、それを手放して、それでも歩かなくちゃならなくて。

 だから、だから――


 ふふ、と。


 笑い声が、降りてきた。

 

 柔らかな、ほぐした絹糸のような、そんな笑い声だった。

 彼女の小さかった声は徐々に大きくなっていく。腹を抱え、笑っている。目には涙すら浮かんでいた。

 思わず僕も噴き出す。何故笑っているのか、そもそも泣きたいのか笑いたいのか、自分でも分からない。それでも僕は、笑い声を上げていた。

「――ははっ、なに、何なの、モラトリウムって、いや私が言った、ことだけどさ、元素っぽいからって、まさか空気組成に組み込む、とか、はは、あはは!」

 無茶苦茶すぎるでしょ、と彼女は笑った。笑いすぎて、何度か咳き込む。

「しかもさ、なに、カッコいいこと言おうとして最後まで台詞考えてないって。あー、もう、笑う」

「そ、そこまで笑わなくてもいいじゃないか!」

「いや、だって、なんか――て言うか君だって笑ってんじゃん、何自分で言ったことがツボに入ったの? 何それおかしい」

 ひぃひぃ言いながら涙を拭う僕らを、通行人たちは訝しげに見ながら通り過ぎていく。不思議と気にならないのは、きっとモラトリウムのせいだ。

「――あー、笑った、ひさっしぶりにこんなに笑った。本当にいい日だ、今日は」

 彼女はそう言って、ふふ、と腹の中にまだ残っていた笑いを外に出した。

「今日、死んでもいいくらいに?」

 思わず、冗談が口から飛び出る。

「馬鹿、死ぬのは二十歳だよ、この裏切り者」

 なんだよもう、と彼女は悪態をついた。

 どこか疲れたように、しかしさっぱりとした様子で、大きく、深く、息を吐く。

 次に顔を上げたとき、彼女は大人の女性の微笑みを浮かべていた。


「――じゃ、さよなら、だね」


 駅に着いちゃったし。確か、左の道だったよね?

 彼女の言葉に、一度だけ頷いた。

「……やっぱり、死ぬの?」

「勿論。二十歳になったら、ね」

 零した質問に返ってきた彼女の声は、少女の頃よりも明るくて、輝いていた。

 透明な風が、笑いすぎて熱くなった僕らの頬を優しく冷ましていく。


 コートが翻った。女性はもう、振り返らない。


 ぼくは思いきりモラトリウムを吸い込むと、

 彼女に背をむけた。




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