第8話 現場検証

 カフェから外に出た途端に晩夏の陽が覆いかぶさってきた。アスファルトの照り返しがきつくて僕は目を細める。

 後ろから階段を上がってきた神無月さんに目をやると、ちょっと怖いくらいの真顔で僕を見据えていた。


「少し歩きますけどいいですか?」

「夏生さん、さっきから思っていたんですが……」

「お話は後で後で。暑いし早く行きましょう」


 僕はやや強引に神無月さんの手首を引く。それは思った以上に細くて冷たい。神無月さんは引っ張られてよろけながら僕についてきた。まるで兎みたいに弱弱しく――。




 並んで歩けばすれ違う人たちはちらちらと神無月さんに視線を送る。

 優しい色のワンピースは仕立てたかと思うくらいにぴったり、西洋人のように小さい頭と柔らかそうな長い髪、小動物みたいな丸い目。完成された容姿はお人形のよう。可愛いのはもちろんなんだけど、コンクリートに囲まれた中ではミスマッチと思われているんだろうな。

 

 ここです、と僕は伯母さんのお店よりずっと大きなビルを指さした。ファッションだけでなく雑貨店や飲食店が入った建物だ。壁はコンクリートの打ち放しでモダンな印象。

 ガラスのドアを押して入るとひんやりした空気に包まれてほっとした。喉がとても渇いてるのに気づく。ふと神無月さんを見やると汗ひとつかかずに涼しい顔をしていた。やっぱりこの人は現実離れしてる。

 僕らは通路を奥に進み、シンプルな白いテーブルと赤い椅子の並ぶお店に入った。青いガラスのコップにつがれた水を一息に飲み、僕はほっと息をつく。


「ずっと行きたいなと思っていたんですが、男一人じゃ入りにくいんです」

「夏生さんでもそんな風に思うことがあるんですか」


 神無月さんにくすりと微笑まれる。そんなに自由気ままな風に見られているのかな? 学校を平気でさぼって探偵もどきをする不良高校生ではあるけれど。

 僕はちょっと不機嫌になったふりをして、黙ってメニューを神無月さんに見えるように広げた。探偵さんは興味深そうに顔を近づける。


「御飯は白米か十穀米か選べて、お総菜は好きな組み合わせにできます。全部野菜のメニューにもできて、健康志向の女の人に人気があるみたいですよ」


 黙っているつもりがぺらぺらと説明をしてしまった。やっぱりお口にチャックは無理みたい。

 神無月さんはふむふむと頷きながらメニューを隅から隅まで凝視する。ふっと顔を上げたのでもう決めたのかなと思ったら、


「あ、夏生さんさっきは何かおっしゃっていたようですが、わたしは自分で払います」

「それは……」


 僕が言い返そうとすると神無月さんはぱっと片手をあげてウェイターさんを呼んだ。白いシャツがよく似合う爽やかなお兄さんがすぐにやってくる。


「鯛のカルパッチョ、ぶりの蜂蜜照り焼き、鶏の梅酒煮、出し巻き卵、ひじきとごぼうのサラダ、夏野菜のラタトゥイユ、ご飯は十穀米でデザートはヨーグルトのオレンジソースかけとバニラアイスと抹茶あんみつ」


 一気に告げると何事もなかったように僕にメニューを渡す。

 僕はただ目を丸くして、ウェイターさんも一瞬固まっていたけどすぐに営業用の顔に戻って注文を繰り返していた。

 僕もお総菜を三品と白米を注文する。ウェイターさんが戻ったのを確認してから椅子に座りなおして背筋を伸ばした。


「神無月さん、ここは僕に奢らせてください。僕の顔を立てると思ってお願いします」


 ……予想の二倍の量を注文してたけど。


「そんな、年下の方に払わせるわけにはまいりません」


 つれない返事は想定内。僕はちょっと顔を寄せてささやくくらいの小さな声で言った。


「伯父さんに後でちゃんと御馳走したのか訊かれてしまいます。――それに別のお願いもあるんです。父さんたちには内緒にしておいて欲しいんですが」


 神無月さんは少しだけ目を見開いて僕をじっと見つめてきた。興味が湧いてきたのかな、と期待する。


「お願いの内容にもよりますが」

「難しいことじゃないんです。食事の後にちょっと付き合っていただきたい場所があって。ここからあまり遠くないところ」


 神無月さんは軽く首を傾げて考えるポーズをとった。


「それは、現場……ですか?」

「ご名答」


 意を得たりとばかりににやりと笑った僕に、探偵さんは呆れたようにため息をつく。


「……ではいただくことにしますね。でもこんなことは今回だけでお願いします」


 僕は大げさなくらいに頭を下げた。




 神無月さんはにこにこと美味しそうに食事を平らげ、デザートも全部お腹に収めた。がっつく様子はなくずっと一定のテンポで食べていたけど、いつの間にかお皿は次々と空っぽに。

 僕も(普通に)腹ごしらえをすませ、二人でタクシーに乗り込んで十分弱。着いた先はマンションや商業ビルばかりのどこにでもあるような通りだ。

 幅の広い二車線ずつの車道、その上にかかる薄緑色の歩道橋。ひっきりなしに車が行き交い、歩道橋はあちらこちらがさび付いている。特に珍しくもない光景だけど、この場所は僕にとっては特別なところ。

 特別なんだけど、それがまだ実感できない。まるでテレビドラマや夢の一場面にいるような現実感のなさ。

 神無月さんはとんとんとリズムよく階段を上がってゆく。僕も後ろからついていった。

 リュウがここで落ちてから、僕がここに来るのは二度目。

 一度目は花束を置いただけでさっと帰った。だからじっくり現場検証みたいなことをするのは今日が初めてだ。


「龍ノ介さんが落ちたのはどの辺りかご存知ですか?」


 神無月さんが振り向いて僕に訊いた。

 僕はきょろきょろと目を動かす。前に来たときは花や飲み物が置いてあったけど、今はもう何もない。

 

「たぶんこの辺だったと思います」


 僕は記憶を頼りに橋の真ん中あたりを指さした。神無月さんは頷いて歩を進める。

 手すりに顔を近づけていたかと思えば、突然探偵さんは手をかけて鉄棒に体を引っかけるように身を乗り出した。僕は慌てて駆け寄る。


「なにやっているんですか、危ないですよ!」


 神無月さんは大きく首を動かして左右を眺め、それからようやく降りてくれた。僕はほっと胸をなで下ろす。


「ああ、びっくりした。本当に落ちたらどうするんですか」

「ごめんなさい。――でも手すりが高くてよく見えなかったので」


 それは手すりが高いっていうよりあなたが小さいんです、と言い返そうとしたけどやめることにする。

 代わりに深いため息をついた瞬間、僕のポケットから電子音が鳴り出した。

 すみません、とことわって携帯を取り出す。多恵伯母さんからだった。


「もしもし」

『ナツくん? 今ちょっといいかしら』

「神無月さんが一緒だからちょっとだけなら。どうかした?」


 僕はちらりと横目で探偵さんを見る。自分の名前が出たので神無月さんは反射的にこちらを見た。


『さっきは充さんがいたから言えなかったんだけど……リュウくんのこと』

「リュウ?」


 意外すぎて僕は首を傾げる。


『あのね、リュウくんが亡くなったときはわたしが最初に病院に行ったでしょう?』

「うん」


 急に僕の心臓がどきんどきんと鳴り始める。


『それでちらりと警察の人に聞いたんだけど、あのとき、歩道橋の上で何か音を聞いた人がいたんだって』

「音? 声とか?」

『ううん。何かパンパンって音』


 パンパンって……拳銃?

 あまりにも現実離れした想像に僕は軽く首を振る。


『何か破裂したみたいな音だったらしいけど、リュウくんに関係はないかも』

「そう……だね」

『でもせっかく探偵さんがいるから知らせておこうと思って。役に立たなかったらごめんね』

「ううん、話してみる。ありがとう」

『そう。じゃあね』


 電話を切ってまたポケットにしまう。僕は自分の手がひどく冷たいのに気がついた。


「どうしました?」


 神無月さんが顔を寄せて尋ねてきた。

 その表情は柔らかだけど、見上げた目は鋭い。嗅覚をきかせた犬を僕は思い浮かべる。


「伯母からでした。リュウが落ちたときのこと――」

「落ちたとき?」


 僕は頷き、奇妙な音のことをそのまま伝えた。


「音……ですか」


 神無月さんはすくっと立ち上がり、小走りで歩道橋の端まで行く。そこからしらみ潰しに手すりを調べ始めた。

 その豹変ぶりに僕は目を見張る。

 ついさっきまでは可愛らしい女の子の探偵ごっこみたいだったのに。今の神無月さんがもしスーツなんて着ていたら、敏腕刑事に見えなくもない。

 僕は声をかける隙もなくただ黙って見ているだけ。歩道橋を通る人は不思議そうに探偵さんを見やっていった。

 やがてリュウが落ちたらしき辺りまで来たとき、神無月さんはしゃがみ込んで固まったように動かなくなった。


「何か見つかりました?」


 僕は恐る恐る尋ねる。

 神無月さんは聞こえていたのかいないのか、ふっと口の端を上げた。


「……もしかして……」

「え?」


 聞き返そうとすると、首だけ僕の方を向いてにっこりと笑いかける。返す言葉を出せないでいると、神無月さんは甘えるような声で言った。


「今、ひとみさんは水倉さんのお宅にいらっしゃるでしょうか?」


 思いがけない問いに僕は不意をつかれる。平日だからひとみさんはいるはずだと思い首を縦に振った。


「たぶん、夕飯の支度中だと思います」

「ではこれからちょっとだけお邪魔してもよろしいですか?」

「それは構わないですけど……」


 リュウのことを調べていたはずなのに、どうして急にひとみさんに会いたいと思ったんだろう?

 その答えを聞かせてもらえないまま、僕らは家に向かった。




 タクシーで帰る途中、僕はひとみさんに電話しようとしたけれど神無月さんに止められた。だから家に着いてすぐ僕らが台所に入ると、ひとみさんは息を止めそうなくらいにびっくりした様子だった。

 まな板には細かく刻まれた人参や椎茸。ちらし寿司かな? とちらりと考える。


「突然すみません。ひとみさんに聞きたいことがまだ残っておりまして」

「聞きたいこと……?」


 神無月さんが何を言い出すか全然想像できない。

 ひとみさんもそうだろうと思っていたけど、エプロンで手を拭きながらなぜかふっと横に目線を逸らした。意外な反応。ひとみさんはもしかすると予想していた?


「はい。わたしが書斎で変わったことはありませんでしたかとお尋ねしたとき、ひとみさんはないと答えられましたよね」

「……はい」

「それは嘘ですよね?」


 さらりと発した言葉に僕はぎょっとした。

 神無月さんは小さなリスみたいな目で返事を待っている。

 ひとみさんに目をやると、下を向いたまま何も答えようとしない。

 いったいどういうこと? ひとみさんが嘘をつくなんて。


「書斎を見せていただいたとき思いました。繁さんは几帳面な方だったのでしょうね。机や引き出し、書棚はきちんと片づけられて整理されていました。ひとみさんは毎日掃除されてたようですし、少しでも物の位置が変わっていたりするのは繁さんが許さなかっただろうと思います。ですが……」


 探偵さんは一拍置いて再び続ける。あどけない笑みを浮かべたままで。


「サプリメントがたくさん置かれた場所を見たときにすごく違和感がありました。瓶は整然と並んでいるのにたった一箇所空白があるのです。――そう、まるで元々そこにあったものが誰かによって取り上げられたみたいに――」


 こくっと喉を鳴らしてひとみさんが息を呑む。


「繁さんが発作を起こしたとき、その場に居合わせたのはひとみさんと龍ノ介さんです。とっさに何かを隠したりできたのは二人以外にいません。だって繁さんが亡くなって、すぐに喬さんが鍵をかけてしまいましたから」


 ふふっと神無月さんは無邪気に笑う。ひとみさんは眉をしかめて黙ったまま。それは探偵と重要参考人というより、悪戯好きな女の子と手を焼く先生みたいだった。

 僕は我慢できなくなって口を挟む。


「神無月さん、ひとみさんが何か隠したって言いたいんですか?」

「言いたいというより、間違いないと思ってますよ。理由はお話されなくても結構です。時間の無駄ですから。わたしはただ隠した物を出してもらいたいだけで」


 淡々とした答えに僕はぽかんと口を開けた。

 探偵さんはまたひとみさんに向き直る。


「ひとみさんが思っているような心配はありません。龍ノ介さんも夏生さんも全然関係ないのです。協力してくだされば、わたしが証明してみせますよ」


 ひとみさんの心配? 僕やリュウが何か関わってると思ってた?

 神無月さんが何を言ってるのかまるでわからない。

 でもひとみさんには通じたみたいで、顔を上げて真っ直ぐに神無月さんを見た。

 それからしゃがんでシンク下の扉を開ける。お鍋をずらす音が聞こえ、ひとみさんは何かを取り出した。

 神無月さんは手を伸ばして白いハンカチ越しに受け取る。それは、茶色の小瓶。白いラベルがちらりと見えた。


「……すみませんでした……」

「いいえ、ありがとうございます。あと一つ、ちょっとお願いがあります」


 ちらりと僕を一瞬見て、探偵さんは内緒話をするみたいに手を添えてひとみさんの耳元に何かささやく。僕にはちっとも聞こえない。

 ひとみさんは素直に頷き、神無月さんは顔を離してにっこりした。


「どうもお邪魔しました。ひとみさんのご協力、感謝いたします」


 形だけは丁寧に頭を下げる。

 僕はひとみさんが瓶を隠していたショックから抜けきれないまま、神無月さんにつられて台所を出た。


「……さて、調べたいことはあと一つです」


 人差し指を僕の目の前で立ててみせる。神無月さんの小さな指に吸いこまれるように僕はじっと見つめた。




 リュウの部屋で、神無月さんは去年の自転車旅行の写真が見たいと言い出した。本棚にいくつかあったアルバムを開けばすぐ見つかって、神無月さんは床に座り込んで一枚一枚を丹念に眺める。

 さっきリュウと僕は関係してないと言ったばかりなのに、探偵さんの意図がわからなくて僕はただ見守るだけ。


「……風景の写真ばかりですねえ」


 リュウは風景を撮るのが好きだったって言った覚えがあるんですけど。

 僕は言い返すのも面倒で黙り込む。


「これ、お借りしていいですか?」

「どうぞ」

「旅行の写真はこれだけ? 夏生さんは持ってます?」


 僕はちょっと首を傾げた。撮った写真はアルバムで見せてもらったけど、まだ何か忘れているような気がしたから。


「……あ、そういえば」

「そういえば?」

「僕も一枚持ってました。撮ったのはリュウじゃないけど」


 僕はくるりと振り向いて部屋を出た。隣の自分の部屋に入ってから探ったのは机の横にある本棚。繁伯父やリュウのとは違って、本やら小物やらがばらばらに置いてある。その中に探し物は紛れ込んでいた。

 焦げ茶色の枠の写真立て。僕とリュウが自転車の前で並んで写っている。


「失礼します」


 振り向くと、神無月さんが綺麗とは言いがたい部屋にためらいなく入ってきた。

 僕が写真立てを差し出すと、そうっと両手で受け取る。


「行った先で同じように自転車で旅行してる人と知り合って。その人が僕らを撮って後で送ってくれたんです」


 写真の中では、湖を背にして僕はちょっとだるそうにあぐらをかいて地面に座り込んでいる。リュウは自転車のサドルに手をかけて、眩しそうに目を細めて立っていた。

 神無月さんは食い入るように写真を見つめ、ふっと顔を上げた。


「これも、必ず返しますので貸してください」


 そう言われるのは予想していたので、僕は「はい」と頷いた。


「では失礼させていただきます。書斎の鍵のこと、どうぞよろしくお願いしますね」


 そう言って微笑む神無月さんは、お腹いっぱい食べて満足した動物みたいだった。どちらかと言えば、肉食系の。


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