第6話 兎を救った僕

 ひとみさんが了解してくれたから神無月さんと一緒に夕飯を食べるつもりだったけれど、用事があるのでと辞退された。

 鞄を取りに応接間へ行き、それから座敷に寄って神無月さんは父に暇を告げた。父は車を出して家まで送ると言ったが、神無月さんは寄り道したいからと断った。そこで僕が駅まで送ることになる。

 玄関を出るとき土谷さんがばたばたと追いかけてきた。手にはひとみさん特製のロールキャベツの包みを持って。


「神無月さん、今日はどうもご足労ありがとうございました」


 ロールキャベツを渡され、神無月さんは本当に幸せそうな顔になる。僕も土谷さんも思わずつられて顔がほころんだ。


「いえ、こちらこそありがとうございます。最善の努力で調査をいたしますが、死因に関しては何も出てこないかもしれません。繁さんが狭心症の発作でお亡くなりになったことははっきりしていますので」


 土谷さんは一瞬きょとんとし、それから大げさなくらいに首を縦に振る。


「そうですそうです。社長は普通に病死だったとわたしも考えております」


 探偵が来たからって事件が成立したわけじゃない。むしろ逆で、繁伯父の死に疑惑を抱く父さんの方が神経過敏なんじゃないか?

 リュウの死の方がよっぽど変だ。改めて僕はそう思った。




 風はおさまりつつあるみたいで、街路樹の葉ががさがさと寂しげな音をたてている。お日様は西の果てに行ってしまい、空に残された雲をかすかに照らしていた。

 秋になると夜の訪れが早い気がする。一秒ごとにどんどん暗くなってゆくような、どことなく不安な感じ。


「風がやんでいいですけど、ちょっと静かすぎる気もしますね」


 並んで歩道を歩きながら神無月さんは空を見上げてぽつりと言った。

 りんりんと鈴虫の鳴く声が聞こえてくる。

 小さな動物さんたちは巣に帰る時間ですからね。神無月さんも早くおうちに帰らなくちゃ。


「もっと静かでも平気なら近道に案内しますよ」


 僕がすっと指差したのは、広い敷地の雑木林。一応遊歩道はあるけど背の高い木々が鬱蒼と繁っていて、夜になるとぽつぽつと灯る電灯だけじゃ物足りない。後ろから音もなく草むらに連れ込まれたら無事に戻るのは難しそうな、そんなところ。


「ここ、通り抜けできるんですか。じゃあお願いします」


 事も無げに神無月さんは笑顔で答えた。信用されているのか警戒心がないだけなのか、複雑な気持ちを抱きながら僕は先に雑木林の入り口に足を踏み入れた。


 木に囲まれているだけなのに気温が二、三度低くなった気がする。頼りない電灯に僕らは照らされ、そしてまた闇の中へ。その繰り返し。

 奥に入ってゆくと車の走る音は薄れ、代わりにせわしなく鳴く秋の虫たちの声に包まれていった。

 空に目を移せばまだかすかに明るさが残っていて、薄青い雲の形がはっきりとわかった。こんな絵を昔見たことがある。昼間の青空の下、木や家は真っ暗な闇に沈んでいる不思議な絵。

 ちらりと神無月さんに目をやる。赤いケープやふわふわした服が妙にこの道に合っていた。……ああそうか、童話からそのまま出てきたような雰囲気のせいだ。


「神無月さんて、兎が似合いそうですね」

「兎? 兎の絵のついた服とかですか?」


 きょとんとした顔で答えるので思わず笑ってしまった。


「そうじゃなくて、神無月さんが兎を抱いていたら似合いそうだなあって思いました」

「そんなこと言われたのは初めてですねえ」

「そうですか? 僕としては褒めたつもりなんですけど」


 小首を傾げて瞬きを繰り返すしぐさもどこか現実離れしている。映画やミュージカルの主人公みたいだ。


 ――兎……真っ白い兎もいいけど茶色い夏毛もいいな。


 茶色い兎がはねるイメージが頭をよぎった瞬間、僕は昔の出来事を思い出した。


「子どもの頃――今だって子どもですけど――兎を助けたことがあるんです」

「へえ、どこで?」


 神無月さんは興味深そうに相槌を打つ。その反応がなんだか嬉しくて僕は続けた。


「僕が小学校の四年生くらいのときだったと思うんですけど。あの家に遊びに来た夜に雨が降って、次の日は晴れていたので僕とリュウは公園に行きました。遊具がいくつかと小さな山があるありきたりの公園ですが、地面の土が雨で泥状になっていました。歩いてみたら足首までずぶずぶ埋まってしまうくらいです。僕らは汚れるのも気にしないで泥の中を転ばないように歩き回っていました」

「それ、とても楽しそう。めったにできないことですよね」


 にこりと笑いかけられ、僕は頷く。

 無意識のうちに足元を見た。――大丈夫、ここで足が埋まることはない。


「それで山の周りをまわったりしていたんですが、僕は泥の中に何か小さいものを見つけたんです」

「それはもしかして……」

「そう。一羽の兎でした」


 僕は目を上げてあのときの光景を思い浮かべた。空はもう闇に侵食されつつある。雑木林を出る頃には完全に夜が覆いかぶさっているだろう。


「茶色い小さな兎が首まで泥に沈んでいました。泥の重さでもがくこともできずじっとして。僕はびっくりして後ろにいたリュウに手招きして、兎を指差しました」

「それで、二人で助けたんですか?」


 神無月さんの無邪気な問いに僕は頭を振った。


「いいえ。後ろを向くとリュウは立ち止まってじっと兎を見つめていました。なぜか無表情で。……そんな顔を見たことがなかったので、僕は声をかけられなかったんです」


 小さな動物に向かって手を差し出したあの日のように、僕は両手を前に伸ばした。


「それで一人で兎を引き上げたんです。泥から出るとやっと兎は足をもがき始めました」


 壊れ物を抱くように両手を胸の前に持ってくると、冷たい泥にまみれた兎の柔らかさが一瞬甦った気がした。

 兎が無事だったのに安堵して、それから僕は振り向いた。リュウはもうにこにこしてたから、さっき見た表情は何かの間違いだったと錯覚しそうになった。

 今までほとんど思い出したことがなかった記憶。

 あのときのリュウの顔が本当は怖かった。僕のやんちゃはいつも心配していたのに、動けない兎に対して何の感情も見せていなかった。

 だけど気づかないふりをしていたんだ。


「あのタイミングで見つけられて良かったと思います。もう少し遅かったら兎は完全に泥の中だったかも。帰りに交番に寄って兎を預けていきました。泥だらけだったからお巡りさんはちょっと迷惑そうにしていましたけどね」


 もやもやした気持ちを吹き飛ばすようにからりと言うと、神無月さんは人差し指を頬に当てて難しい顔をしている。

 一瞬の沈黙。

 それから僕の視線に気づいたようでぱっと顔を上げた。


「ええ、良かったと思います。見つけたのが夏生さんで、本当に良かった」

「えっ?」


 奇妙な言い方に引っ掛かりを感じた。僕じゃなくても憐れな小動物を見つけたら助けようとするだろうけど?

 気がつけばもう出口が見えている。紺色の世界を抜けた先には道路の街灯、住宅の明かりと街路樹の影。

 僕は心底ほっとした。……このまま神無月さんと話し続けるのが、なぜか少し不安だったから。


「夏生さん」

「はい」

「あの道を左に行けば駅はもうすぐでしたよね?」


 僕が頷くと、探偵さんはくるりと身を翻し僕の前に進み出た。


「ではここでもう結構です。今日はどうもありがとうございました。皆様にどうぞよろしくお伝えくださいね」


 小さな探偵さんは僕の返事を待たずに背を向け、ふわふわと軽く飛び跳ねるように行ってしまった。

 背中から虫の声が迫ってくる。

 神無月さんの歩き方は兎に似ていないこともなかった。


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