第10話 兎にこの身を捧げて

 誰かの声が聞こえたような気がしていたけど、僕は振りきって外に飛び出した。

 玄関から門まで、明かりが途切れると吸い込まれそうな闇の中。今夜は月が出ていない。

 駅までの道、街灯の下を走りながら神無月さんを送った日を思い起こす。たった一人でも暗い雑木林を平気で通り抜けて行くんじゃないだろうか。

 どちらにしろ近道にはなる。僕は迷わず歩道から木々の中に入り込んだ。さわさわと誘うように揺れる葉擦れの音を聞きながら。


 時折現れる電灯の明かりさえもなんだか余計に心許ない。

 道の先、ふわふわと跳ねるように歩く白い後ろ姿が見えたような気がした。


「神無月さん?」


 呼びかけるとぴたりと止まる。やっぱり神無月さんだ。

 ゆっくりと振り返る。暗いので表情は見えない。


「……夏生さん。どうかしました?」


 僕は神無月さんに追いついて、呼吸を整えるのももどかしく言った。


「……まだ、聞き足りないことがたくさんあります……。歩道橋で聞こえた音、神無月さんが写真を探してた理由、それから……」


 それから、なんだっけ?

 僕の中のどこかにあるはずなのに、すっと出てこないいくつかの疑問。


「夏生さんは何か勘違いしていらっしゃるのでは?」

「……は?」


 淡々とした言い方に僕は目を見張った。

 神無月さんの顔はほんの少しの明かりで白く浮き上がって見える。

 その顔がさっきまでと違って見えるのはどうしてなんだろう。


「わたしに依頼してこられたのはあなたの父親の喬さんです。その内容は繁氏の死に不審な点がないか、脅迫は関係しているのかどうか。――龍ノ介さんの死については何も仰ってはおりません」

「それは……そうですが……」


 僕が言いよどむと、神無月さんはまた先へ進もうと踵を返した。


「でも神無月さんは僕の話を聞いてくれましたよね? 歩道橋でも何か見つけた様子だったし。ここまで調べておいて知らんぷりなんて、僕は納得できない」


 すがりつくように言えば、神無月さんは深いため息をついた。


「本来なら、調べてもらいたいことがあるなら夏生さん本人が探偵協会を通して依頼するべきなんです。……調査を受けるのがわたしとは限りませんが」

「そんな……」


 僕はがっくりと肩を落とす。

 神無月さんのポケットにいる茶色い兎が目に入ってきた。無邪気な黒いまん丸の目。


「龍ノ介さんについて、わたしがわざわざ言わなくても、たぶん多くのヒントを夏生さんは与えられているはずです。――気づかないでいるのが不思議なくらい」

「え……っ?」


 ヒント? それはリュウの死の謎について?

 与えるって誰が?

 神無月さんは振り向いて僕を見上げる。兎みたいな黒い目に僕はたじろいだ。


「龍ノ介さんを一番知っているのは夏生さんなのに。なのに、まだわからないんですね」


 僕が知っているリュウ。――いつも穏やかで優しくて僕のわがままをきいてくれて。伯父たちの前では非の打ち所のない良い子。

 でも、それだけじゃない。……そうだ、子どものとき二人で泥まみれの兎を見つけたときのように、僕の知らない何かがある。

 はっきりとは言葉にできない、そんな何か。


「…………わかりそうだけどわかりません。神無月さんが何か見つけたのなら教えてほしい」


 神無月さんはそうっとポケットの兎を撫でる。それから顔を上げた。


「今からお話することはわたしの想像で証拠も何もありません。それを踏まえて聞いてください」

「はい」


 こくりと息を呑み僕は次の言葉を待つ。


「歩道橋の龍ノ介さんが落ちたあの場所――ようく見るとほんの小さな焦げ跡がありました。そして落ちる瞬間に聞いたという何か破裂したような音」

「まさか、爆発物でもあったとか……」

「それならそれで警察が何か見つけているはずです。でもそんな事実はありませんでした。焦げ跡に音、その二つからわたしが思いついたのは爆竹です。子どものおもちゃ程度の」


 爆竹? そんなもので驚いてリュウは落ちたっていうわけ?

 僕の考えを読み取ったようで神無月さんは軽く首を振る。


「もしも、もしもです。龍ノ介さんは自ら落ちたとします。そのとき、足下で自分で爆竹に火をつけて鳴らしたのだとすれば?」

「そんなことをして何の意味が?」


 神無月さんは目を大きく開いて僕をじいっと見る。小さな哺乳類が相手が無害か天敵なのかを見極めるときみたいな澄んだ目で。


「意味は……そうですね、たぶん、知らせるため」

「自分が落ちたってことをですか?」

「いいえ」


 神無月さんは僕の言葉をきっぱりと否定する。


「全ての真相をです。どのようにして、育ての親同然である繁氏を死に至らしめたか」


 ぐっと呼吸がつまる気がした。

 神無月さんはリュウが自殺したってだけじゃなく、繁伯父さんを殺したとも思ってる。

 僕はくぐもった声で「どうやって?」と話の先を促した。


「脅迫の電話や郵便物。繁氏は腹を立て気にしないように振る舞われているようでした。ですが充さんはこう仰っていました。繁氏は脅迫を受けていらいらしていたと。おそらく一番近い肉親である充さんにはちらりと本音が出たのかもしれません」

「腹が立つのと、いらいらするのと、同じことじゃないですか」


「いいえ」神無月さんは諭すようにゆっくりと続ける。「憤慨して気にしないのではなく、脅迫が常に頭にあってむしろ怯えていらっしゃったのです」

「え? そんな様子は全然ありませんでした」

「ですから、それは怯えているのを隠していただけ。……わたしはそのように想像しておりますが」


 僕は数ヶ月前までの繁伯父の姿を思い起こす。神無月さんが言うように、あの厳しい伯父が脅迫を怖がっていたなんて考えられなかった。


「夏生さんが納得できないなら構いません。ただ、その怯懦(きょうだ)を利用して死に至らしめようと思いついた場合、どうするでしょうね」

「利用? リュウが?」


 思わず右手で神無月さんの肩を掴んだ。そのあまりの細さにはっとして、僕はすぐ手を離す。


「……すみません」


 神無月さんはびくとも動じることなく、落ち着いた声で言った。


「夏生さん、もう一度だけ言いますがこれはわたしの想像。架空の話だと思って聞いてください」

「……」

「家にひとみさんと繁さん、そして自分しかいない日、届け物があると言って書斎に入ります。差出人を聞かれて書いてないと答えた直後、包みの中から爆発音が聞こえたとすれば?」

「……爆竹を使って?」


 神無月さんはこくっとうなずいて続けた。


「小さな音だったとしてもその驚きはかなりのものだったでしょう。ましてや何ヶ月も前から嫌がらせを受けているのですから。――いえ、その嫌がらせさえ包みを持っていった本人の仕業だったかも」

「まさか……」

「まさか? わたしだったら確実に発作を起こさせる方法をとりますが。――さて、発作を止めるためにはニトログリセリンを服用しなくてはいけません。おそらく常にポケットには入れていたはず。ですが……」


 ポケットに薬……?

 その言葉で僕はひとみさんから聞いた話を思い出した。


 ――錠剤のパックだけはポケットにあったそうです。

 ――中身は空だったので……。


「薬を出して、飲もうとして……」

「口に入れる前に取り上げます。あとはそのまま死に至るのを待つだけ。発作で苦しむのを見つめながら」


 かくっと足の力が抜けた。背中にごつごつした木の幹が当たる。


「う、うそ……。違う……違う。リュウは、そんなことできる奴じゃない」

「ですから、ただの想像だとさっき言ったじゃないですか。……あ、そういえば忘れていました」


 神無月さんはポシェットを開けて何かを取り出した。

 弱い明かりの下で見えたのは、僕が預けた写真立て。


「これをお返ししなくては」


 にっこり笑って僕に手渡す。

 そのときに気づいた。いつもにこやかに笑う神無月さんだけど、この雑木林ではずっと無表情で僕と話していたことに。

 片手で受け取ろうとした瞬間、写真立てが僕の手から滑り落ちる。かしゃんと音がしてガラスは割れなかったけど枠から外れた。


「あらあら、すみません」


 拾おうとする神無月さんより先に僕はしゃがんだ。

 少ししかないリュウとの思い出の品の一つ。もう誰にも触らせたくない。

 枠、ガラス、それから写真を手に取ったとき、白い折り畳んだ紙片が目に入る。

 何だろう? メモ用紙?

 広げると小さな字で何か書かれている。僕は立ち上がり、なるべく明かりの当たる場所を探して移動した。


「兎」という字がまず見えた。

 整った字はリュウのものだ。これはリュウが書いたもの?



   いつか二人で見つけた兎を覚えてるか?

   泥の中でもがくだけの無力な兎

   運命に逆らえない憐れで小さな生き物


   あの日も同じだった

   俺の足首を引っ張り薬をせがんだあの人は、兎と同じだった

   命が消えてゆく瞬間、俺の中で何かが切れた


   言いなりになりたくないとか

   夏生と敵対したくないとか

   そんなのはただの言い訳だったんだ


   誰かの運命を弄ぶ喜びを俺は知ってしまった

   たぶん同じ事を繰り返す

   そして今みたいに後悔する


   だから、この身を捧げる事にした

   憐れな兎のために



「なに、これ……」

「夏生さん自身が仰っていましたね。繁氏が亡くなった後、龍ノ介さんがまた一緒に旅行に行こうと言っていたと」


 そうだ。リュウの部屋でそれを聞いて、神無月さんにもその話をしたばかり。


「ですから旅行の写真に何かあるのかなと思ったのです。しかし彼の部屋の写真立て、そしてアルバムに異状はありませんでした。でも夏生さんも写真を持っていることをお聞きして、それでお借りしたんです」

「え……」

「夏生さんが自分の写真立てを調べてこのメモを見つけるのを、龍ノ介さんは期待していたんじゃないんですか?」


 がつんと頭を殴られたような感覚。僕の体は足から崩れ落ちた。


「僕が、僕がこれを見つけていたら……」


 手に触れた草をぐしゃりと握り締める。


「龍ノ介さんは、死ななかったかも?」


 でももう遅い。取り戻せない。

 リュウはもういないんだ。

 今やっと、風見龍ノ介という人間がこの世からいなくなったのを思い知らされた。


「リュウ、ごめん、リュウ……」


 ごめん。何も知ろうとしないでごめん。

 ヒントをくれていたのにわからなくて。

 君の変化に気づけなくて。

 何もできなくて、ごめん。


「夏生さん」


 優しく呼びかける声が頭の上から落ちてきた。


「わたしが水倉家の方々とお話して常に思ったのは、夏生さんがみなさんから愛されているということです」


 神無月さんは急に何を言い出すのだろう?


「夏生さんは少々わずらわしく思っているようですが、御両親はあなたを心配されています。充さん夫婦には可愛がられ、そしてひとみさんからも。繁さんもたぶんそうだったのでしょうね」

「繁……伯父さん?」

「ええ。大きな会社のトップに立つのは孤独なことです。責任は人の何倍もあるのに、簡単に誰かに頼るわけにはいかないし弱味も見せられないものでしょう。繁さんはその重圧をあなたに負わせたくなかったのかもしれません。そこで育てていた龍ノ介さんを後継者にと考えた。そういう見方もあるんじゃないでしょうか」

「でも土谷さんが言っていたのは……」

「夏生さんが継ぐのは納得できないと言うなら、それより喬さんの方が納得できないでしょう? 繁さんはあなたにはむしろ自由に将来を選べるようにしたかったのでは? ……まあ、これもわたしの想像でしかありませんが」


 次々と浴びせられる言葉に僕は混乱する。

 じゃあ、リュウは? リュウがしたことは……。


「だとすれば、龍ノ介さんのお考えとはまるで反対だったことになってしまいますねえ。龍ノ介さんは龍ノ介さんで、夏生さんのために養子になりたくなかったわけですから。……脅迫の電話や郵便物。それらはいつも夏生さんがいないときに来てたそうですが、龍ノ介さんは直接夏生さんの目や耳に触れるのを恐れていたのかも?」


 暗く深い場所に落ちていきそうな心を、僕はぐっと押し止めた。

 神無月さんは「想像ですが」を繰り返しているけれど、リュウの残したこのメモだけは本物だ。――それならどうして?


「……神無月さん」

「はい?」


 僕は顔を上げて、探偵を睨みつける。


「どうしてさっき、みんながいるところではまるで充伯父が犯人のように言ったんですか? 伯父のしたことは間違ってると思います。でも、サプリメントを入れ替えたくらいじゃ発作に繋がったかわからない。『未必の故意』とさえ認められないのに、伯父が糾弾されるのはおかしい。一方でリュウのことは推理しておいて一言も言わなかった。どうしてなんです?」


 神無月さんは膝を抱くようにしゃがみ、僕と視線を合わせにっこりする。


「夏生さん、やっぱりわたしのことを誤解してる」

「それはどういう意味ですか」

「よろしいですか? わたしはただの私立探偵。警察でも、正義の味方でもないんです」


 この人は何をわかりきったことを言ってるんだろう。

 僕が怪訝な表情を作ると、神無月さんは目の前にすうっと人差し指を立てた。


「わたしの仕事は、依頼人の望みにできるだけ近い推理を述べること。今回の依頼人は水倉喬さんです」

「え……」

「多くの社員の信頼を集め、次期社長の座は確実だったとしても、ほんの小さな障害でも取り払っておきたいものです」


 ずきんと心臓が鳴る。じゃあ、父さんの望みって……。


「朝子さんと結婚されて一族の一人となったとしても、喬さんは繁さんと血縁関係はありません。充さん本人が経営に興味ないとはいえ、反対勢力がいつ彼を担ぎ出してくるかわかりませんよねえ。邪魔な芽は小さなうちに摘んでおいた方が良いもの」

「そんな、そんなことを父さんが言ったんですか?」

「いいえ。ですがすぐわかるでしょう? それくらいのこと。わたしが探偵協会でS級になれたのは、依頼人の意志を素早く理解できるからですよ」


 父さんは昔から生真面目で曲がったことが嫌いな人だ。

 会社のために仕事に一生懸命。でも僕や母さんをほったらかしにしてたわけじゃない。母さんの気分が悪いとすぐに気がついたし、僕が家を出たいと言ったら信頼して自由にさせてくれた。

 その父さんが充伯父さんを陥れるために探偵に依頼しただって?


「そんな、信じられない……」


 僕は目の前がくらくらして額を押さえる。

「そうですか」と一言告げて神無月さんは立ち上がった。


 シュッと音がして突然頭上が光る。


 見上げると紅の炎が神無月さんの手から上がっていた。


「――え?」


 よく見れば燃えているのは一枚の小さな紙。

 僕ははっとして自分の手元を見やった。リュウのメモがない。


「返せ!」


 燃えつきる前にと、飛びついて手を伸ばす。

 でも神無月さんは軽く身を翻し、僕の体は虚しく宙をかいただけ。

 探偵の満足げな顔がオレンジ色の光に照らされ浮かび上がる。

 リュウのメモは、一文字も残すことなく無残に焼け焦げた。


「なんてことを……」

「これが残っていたらわたしの『推理』が台無しですから」


 ふふっと笑い、神無月さんは紙切れを手放した。

 怒り、混乱、驚き、不信、後悔……。僕の中でいろんなものが渦巻く。

 でも叫ぶことも泣くこともできない。

 体は抜け殻のように突っ立っているだけ。


「夏生さん、そもそもあなた、自分では何かなさってきたんですか?」


 瞳をゆっくりと動かして、あどけない少女みたいな探偵に焦点を合わせた。


「亡くなった人たちのことも、生きてる人たちのことも、もうちょっとお考えになれば良かったのに。あなたは与えられて満足してるだけだったのでしょう?」


 与えられて満足するだけの、愚かな子ども。神無月さんの目はそう語っている。

 見下げられても何も言い返せない。


「僕は、これからどうすれば……」

「さあ? では本当に失礼いたします」


 神無月さんはくるりと踵を返す。

 歩き出したとき、ふとポケットに手をやった。

 兎を掴み上げたかと思うと、木々の中へ放り投げる。そのまま雑木林の奥へと入っていった。

 憐れな兎を目で追えば、音もなく闇に呑み込まれた後だった。




   ―― 了 ――

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兎にこの身を捧げて 遊木 渓 @kei_lenlen

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