兎にこの身を捧げて
遊木 渓
第1話 探偵登場
風の強い日だった。
台風がやってくるという予報は出ていなかったはずだけど、朝からびゅうびゅうと勢いよく風が吹き続けている。窓の外に目をやると、空には重い雲がたちこめ木々が絶え間なくふるえている。
大きいけれど祖父の代に建てられたこの古い家は時折がたがたと揺れ、ひとみさんはそのたびに怯えたように吐息を洩らした。
風のせいだけじゃなくて来客を迎える緊張感もあるんだろうな。
僕はなるべく普段どおりにコーヒーをお願いしたり、夕飯は何? と訊いてみたりする。
僕の言葉にひとみさんは軽く微笑を浮かべるけれど、それも長持ちはしない。やっぱり気が乗らないんだろうな。――探偵を呼ぶ、なんてことは。
僕はコーヒーに角砂糖を入れスプーンでかき混ぜる。リズミカルなその音を楽しんでいると玄関のチャイムが鳴った。
玄関に向かおうとするひとみさんを手で制し、僕は立ち上がる。
インターフォンからぼそぼそとした声で告げられる名前。
それは風の音と混じり合い聞き取りにくかったが、確かに「
僕は返事をして玄関に向かった。
玄関の横開きの扉をがらがらと開けると……
目の前には誰もいない。さっきのは風のいたずらだったとか?
不思議に思い目を遠くにやって見回すが、やはりそれらしい姿は見えなかった。空全体に灰色とも白とも言い難い憂鬱な雲。溜め込んだ雨を今にも落としてやろうかと企んでいるみたいだ。
「あのう、こっちです」
若い女の子の声がして僕は視線を真下へ向けた。
……赤ずきんちゃん?
僕の胸の高さにその女の子の頭はあった。赤いフードの中からこちらを見上げている。
そのあどけない表情。どこかでそっくりな動物を見たなあなんて考えていたら、その赤ずきんちゃんが再び口を開いた。
「初めまして。
僕は目を丸くしてまじまじとその女の子を見た。
赤いフードのついたそれは袖のない短い上着、ケープってやつだろうか? 下は枯葉色の膝下までのワンピース。フリルがついて三段階になっている。裾からさらに白いズボンが見えていて、それにもフリルがついていた。
神無月……神無月って確か……
僕の脳裏にはたと今朝見たばかりの書類が浮かぶ。父さんがいない間にこっそりと覗き見たあの書類。
神無月理久。
父が日本探偵協会に依頼して、今日やって来ることになったS級探偵の名前じゃないか。「理久」って「まさひさ」とか読むのかなと思い込んでいたけど女性の名前だったらしい。
……って目の前にいる子は全然探偵には見えないんだけど。
ま、僕がそう思っても決めるのは父さんだ。
僕は神無月さんに家の中に入ってもらい、応接間に案内した。
黒い革張りソファーにちょこんと座り、両手で大事そうにカップを持って口許へ運ぶ。ひとみさんが淹れた紅茶を一口すすると、神無月さんは「ほう」とため息を洩らした。実に幸せそうだ。
ケープを脱いだら長い栗色の髪が現れた。風除けにフードを被っていたのは髪を乱れさせたくなかったせいかもしれない。
童話風の雰囲気は薄れたものの、和室を無理やり洋間にしたこのレトロチックな応接間に、やっぱり神無月さんは似合っていなかった。
数分前、神無月さんを応接間に案内してから、座敷にいた父さんに探偵さんが来たよと僕は告げた。父さんがすぐ行くので待っててもらいなさいと答えたので、それまで僕が相手役をすることにしてここに戻ったのだ。
実のところ、初めて見る探偵ってやつに興味津々なんだ。……目の前の探偵さんは想像していたのとはかなり違っていたけれど。
「神無月さんもあれですよね、探偵検定一級の合格者」
「はい」
僕の問いに神無月さんはにこやかに返事をする。
「わたしが合格したのはもう五年近く前になります」
え、この人一体いくつ?
「資格を取ると個人で探偵活動をする方もいらっしゃいますが、わたしは協会に登録しました。それから偉大な探偵の助手として活動し、二年かかって一人立ちしたんです」
検定合格者のエリート探偵でも意外に地道な下積みが必要らしい。
「
今度は質問を返されてしまった。まあいずれは家族全員の自己紹介が必要になるしと思い、僕はすらすらと答える。
「ええ、高校三年で受験生。この家には高校に入った頃から居候してます。実家よりずっと学校に近いので。大学もこっちから通うつもりでいたんですけど」
――いたんだけど、当主の伯父さんがあんなことになったからどうなるかわからない。やっぱり実家に戻ることになるだろうなあ。
この家ほどスリリングなところはなかったのに。
それからリュウがいて。
ちょっと暗い顔になってしまったみたいで、僕の目を覗きこむと神無月さんは気遣うように話を変えた。
「わたし、大学は行かなかったので憧れがあるんです。受験頑張ってくださいね」
「……ありがとうございます」
そう答えながらも顔がひきつりそうだった。ははは、僕より年上なんだ。
そこでノックの音がしてドアが開いた。僕はソファーから腰を上げて壁の方へ移る。依頼主の父さんが来たのでお役御免だ。
父さんは神無月さんを見ると少しだけ頬が動き、それでもポーカーフェイスは崩さずに「水倉喬です」と自己紹介した。日本人離れした高い鼻とクールな顔立ちは、母親似で童顔の僕とは似ても似つかない。
父さんの後ろにはメガネの秘書さんもいる。名前は……えーとなんだっけ? この人のハの字型の眉は絶対忘れないのになあ。
「こちらは秘書の
そうそう、そうだった。
神無月さんが立ち上がって「神無月と申します」と深々と会釈し、再び顔を上げたときだった。
「あ、あなたは!」
突然の大声を上げたのは土谷さん。彼以外の全員がきょとんとする。でも土谷さんは気にせず、すたすたと神無月さんに歩み寄った。
「僕です、僕。四年前のパーティでの事件、あなたがいなかったら濡れ衣を着せられるところでした。あのときは本当にありがとうございました」
神無月さんは可愛らしく首を傾げ、人差し指の先でこめかみをくりくりといじった。指がネジだったら中に入ってしまいそうだ。
「……ああ、もしかして軽井沢の洋館の事件ですか?」
「そうです、あなたがいなかったらわたしは今頃殺人犯呼ばわりされていたかもしれない。神無月さんには感謝してもしきれません」
土谷さんは涙をこぼしそうなくらいに感激している。細かい事情はわからなかったけどなんとなく話は読めた。
何度も神無月さんに礼を言い、それから土谷さんは過去の事件について僕らに語った。
四年前、軽井沢でとある富豪のパーティがあり十数人の人々が招待される。そこで起こった刺殺事件。土谷さんはタバコを吸いに外に出ていたせいでアリバイがなく疑われるが、神無月さんの活躍で真犯人が挙げられ事件は無事に解決したらしい。
驚いたのは、神無月さんは当時まだ別の探偵の助手で、その師匠を出し抜いて真相を突き止めたということだ。
あどけない少女にしか見えないこの人は、探偵協会から与えられたS級の称号にふさわしい頭脳の持ち主ってことらしい。
「華麗でエレガントとも言えるくらいの神無月さんの無駄のない説明。そして驚愕のトリックと真犯人! いやあ本当に素晴らしかったですよ」
土谷さんはちょっと大袈裟なくらいに神無月さんを褒め称えた。神無月さんは赤くなってうつむく。
「あの、もうそれくらいにしていただけませんか。あのときはまだほんの子どもで、得意気になってしまって思い出すと恥ずかしくて仕方ないんです」
土谷さんは残念そうな顔を隠そうともせず、渋々と話を終わりにした。それでなくてもいい加減本題に入らないといけないんだからしょうがない。
父さんの表情はほんの少しだけど緩んだものになっていた。土谷さんの話で神無月さんを認める気になったらしい。
こほんと軽く咳払いして父さんは今回の依頼内容を話し始めた。
時は三ヶ月ほど前に遡る。六月の梅雨に入る直前の時分。
僕の母は三人きょうだいの末っ子で上に二人の兄がいる。
長兄は水倉繁といって祖父の築いた運送会社の代表取締役。そしてこの家の家長みたいなものでもあった。次兄は水倉充、会社の重役だけどあまり仕事らしい仕事をしていないらしい。その奥さんが多恵伯母さん、明るくて華やかな人。充伯父さんとは再婚同士で子どもはいないけど仲が良い。
母さんは伯父の会社の社員だった父と見合い結婚し、父は婿養子に入り水倉姓に変えた。それからとんとん拍子に出世して今では重役の一人。いわゆる逆玉だ。
僕ら親子三人は別の家があるけど、伯父さんたちは一緒に住んでいた。
他に繁伯父の亡くなった奥さんに遠縁の子どもがいて、十年前にその両親が他界したので伯父が引き取った。名前は
それから家政婦として通ってきている
父さんが探偵協会に依頼したのは繁伯父さんの死についての調査だ。
繁伯父さんは狭心症を患っていて、その発作で六月に亡くなった。家には龍ノ介とひとみさんがいたが、伯父さんは書斎に一人きりで発作が起こったのに誰も気付かず、お茶を持っていったひとみさんが倒れていた伯父さんを発見したときにはもう遅かった。
それだけならただの病死ってことなんだけど、父さんには簡単に納得できない理由がある。
何故って、会社が何者かに脅迫を受けていたからだ。「お前の会社にひどい損害を受けた、いつか恨みを晴らしてやる」なんて電話がたびたびあった。宅配便で気味の悪い物が送りつけられたこともあったらしい。
しかし伯父さんはプライドが許さなかったのか、警察に相談しなかった。そして脅迫は伯父さんが亡くなってからぴたりとやんだのだ。
繁伯父さんの死は本当に病死だったのか?
それが父さんにとっては気がかりらしい。
……そして、もうひとつの疑惑。
これは僕だけがそう思っていて、ただの偶然かもしれないのだけど。
父さんが話し終わると神無月さんはすっかり冷めたと思われる紅茶を飲み干した。
「ではわたしが調べることは水倉繁さんの死に不審な点はないか、そのひとつだけでよろしいのですね?」
「はい。お願いできますか」
「もちろんです」
神無月さんはにっこりと答える。
僕としては異論があったが黙っていた。父は繁伯父ほどじゃないが厳格なところがある。たとえ息子でも僕が横から口を挟むことは許さないだろう。
「では」と神無月さんは学級委員長みたいにきりりと顔を引き締めて、
「繁さんが亡くなられたお部屋を見せていただきます。それからご家族の皆さんのお話を聞かせてください」
父さんは頷いて了承の意を示した。
「義兄が亡くなって書斎はそのままにしてあるはずです。葬儀や何やらで多くの者が出入りするので今日まで鍵をかけておきました。社の機密に関する資料があるかもしれませんから。――今日この家にいるのはわたしたち親子三人にひとみさん。充夫婦は申し訳ないのですが出掛けております」
神無月さんはこっくり頷き「ご都合の良い日にまた」と微笑んだ。
それから斜め上に視線をやり、何かを数えるように指を折る。
「……ええと、風見龍ノ介さんは?」
父さんの顔は複雑に歪んだ。苦いものを噛んでしまったようなその顔を見て、僕は代わりに答える。
……できるだけ、にこやかに。
「龍ノ介はもういません。伯父の死から一ヶ月後に彼も死にました」
神無月さんは目を見開いてきょとんとした。その目で思い出した。
この人はモモンガに似ている。
風見龍ノ介――リュウに初めて会ったのは十年前。僕より二つ年上のその男の子は、学校や近所の子たちとは全然違う空気をまとっていた。
着ている服は汚れ一つないし形が崩れてもいない。髪は寝癖や乱れたところはなく綺麗に整っていた。理知的な黒い目が印象的で、歳の割に落ち着いた話し方をする。
子ども心に僕は「これが育ちの良い子ってやつなんだなあ」なんて思った。
そんなリュウは山猿みたいな僕なんか相手にしないだろうと思ったけど、意外にも伯父の家に行くと遊び相手になってくれた。僕は小学生のうちは年下の甘えがあってリュウにわがままばかり言った。でも彼は嫌な顔一つ見せたことがない。
大人になってもそれは変わらず、ひとみさんからはよく「やんちゃな弟と優しいお兄さんみたいですね」なんて言われていた。
リュウが死んだのは、伯父さんが亡くなっておよそ一ヶ月経った七月の夜のことだった。
九時を過ぎてもリュウが帰って来ないので妙だなと思っていた。リュウは大学生になっても遅くなるときは必ず連絡をしてきたからだ。
充伯父は外出中で、お風呂上りの多恵伯母さんが飲み物を取りに台所へ入ったときだった。居間の電話が鳴ったので僕が取った。リュウがかけてきたんだと思った。
受話器からは聞いたことのない男の人の声。
告げられた言葉を僕は多恵伯母さんにそのまま伝え、それから両親にも電話して同じことを言った。そして病院へ行ったのだ。
白いベッドに寝かされたリュウはひどく青白い顔をしていた。具合が悪くて青ざめた顔とは全然違う、見たことのない顔だった。
歩道橋から誤って落ち、走行してきた車にはねられて即死だったらしい。
それからリュウのいない日々が続いているわけだけど、僕にとっては全然実感が沸かないでいる。
不慮の事故に理由を求めるなんてナンセンスに違いない。それでも僕は知りたいのだ。
風見龍ノ介は何故死んだのか。
――僕をおいて。
僕はリュウが死んだ日のことだけを簡潔に神無月さんに話した。神無月さんは目線を落とし、指先を口に当ててぽつりとつぶやく。
「まだお若いのに……本当にお気の毒でした」
その言葉に僕はちょっとがっかりする。まあこの段階で彼の死におかしな点があるかどうかなんて見極められるもんじゃない。とりあえず、神無月さんと二人きりで話せる機会を作らないと。
では繁さんの部屋を見せてください、と神無月さんは立ち上がった。なぜか土谷さんが前に出て恭しく案内をしようとする。
邪魔にならないように台所か自分の部屋に行こうかなと考えたときだった。「夏生さん」と小さな探偵さんに呼び止められた。
「はい?」
「お願いがあります。わたしが部屋を調べるとき、それからご家族の皆さんにお話を訊いているときは夏生さんに立ち会っていただきたいのです」
僕は訝しく思いながら父の顔を見た。父さんも僕と同じような表情をしている。
神無月さんは両腕を後ろに回し、首を傾げておねだりをする女の子のようなポーズをとった。
「調査して結果をお伝えしても、中には自分の言ったことを否定される方がいらっしゃいます。証拠品を捏造だなんておっしゃる方も。だからわたしが調査するときは必ず関係者お一人に立ち会っていただくことにしているのです」
神無月さんの言うことは理解できるものの、父さんはそれを受け入れる気にはなれないらしく眉をしかめた。
「しかし息子はまだほんの子どもで……」
「だからこそ、先入観がなく適任だと思います」
ええと、父さんだけじゃなく神無月さんにまで子ども扱いされちゃったみたいなんですが?
僕が苦笑を顔に出さないように苦心していると、父さんは渋々と了解し部屋を出て行った。
土谷さんはちらりと僕を一瞥し、神無月さんの先導に立つ。……嫉妬されてるかもしれないなあ。
でも神無月さんと二人きりになるチャンスは早々にできたわけだ。僕としては渡りに船といったところ。
探偵の立会人。この立場は大いに利用させてもらわないと。
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