第2話 書斎探索

 四十年くらい前に建てられた二階建てのこの家は、空から見るとL字型になっている。Lの短い部分は、一階はさっきまで僕たちがいた応接間、二階は繁伯父の書斎だった部屋だ。Lの長い部分は一階に居間や台所、親戚が集まったときに使う座敷などがあり、二階にそれぞれ個人の部屋がある。

 二階まで神無月さんを案内した土谷さんは一礼して下に戻った。僕は書斎のドアを開け探偵さんを手で促す。ちょっと芝居じみた動きになってしまった。

 神無月さんは「失礼します」と一言添えて中へ入った。三方にはガラス戸のついた書棚が所狭しと天井近くまでそそり立ち、奥の窓辺には大きくてやたらと重そうな飴色の机が一つ。これらを見るたびに運んだ家具屋さんは大変だったろうななんて僕は考える。うちは運送屋だから社員に運ばせたのかも。

 書棚に並ぶのは文学全集だの百科事典だのビジネス書だの、僕とはほとんど縁のない代物ばかり。伯父さんは会社の朝礼でこういう本から引用した言葉を言ってたのかな。


 ――君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず。己れの欲せざる所は人に施すこと勿れ。過ぎたるはなお及ばざるが如し。


 なーんてね。


 他には何か表彰されたときの楯、記念写真、置物などがぽつりぽつりと。

 その中に異彩を放つ一角があった。

 それは、いくつもの薬の小瓶。正確には健康食品、いわゆるサプリメントだ。

 神無月さんはまず机の上を見て、引き出しを開けたり閉めたりしていた。そこはありがちな文房具や仕事の書類の類ばかりだ。

 外の風が激しく窓を叩いた。古い木枠に囲まれたガラスが不安定な音をたて、神無月さんはびくっと体を震わす。一瞬の後、ぱちぱちとまばたきをした。やっぱり森にいる小動物みたいだ。

 それから気を取り直したように書棚をじっくりと眺め始めた。並んだ本に沿って顔を一段ずつ横に動かしているけど、まさか書名を暗記しているわけじゃないよね。

 伯父さんたちが写っている数年前の写真があったので、僕は「これは繁伯父、こっちが充伯父」と指差した。神無月さんは頷いて食い入るように見つめる。

 繁伯父は太い眉で彫りの深い顔立ちだ。三十年くらい前なら男前の代表みたいに思われたんじゃないかな。充伯父は顔だけなら似ていないこともないけど、すらりとしていてクールな印象だ。

 神無月さんは次にサプリメントの棚に辿り着いた。そこもじっくりと見て、僕の方に振り返る。


「繁さんは随分と健康に気遣っていらっしゃったのですね」

「正確には気遣うようになった、かな。二年くらい前から狭心症を患って、仕事が忙しいのは仕方ないからせめて栄養に偏りがないように、と考えたみたいです」

「なるほど、わかります。わたしも忙しくなっちゃうとご飯が食べられないときがあって。……それで夕飯にお昼の分もって二食分いっぺんに食べたりするんですよ」

「……へえ」


 そういうことをする人はあまりいないと思うんですけど。

 僕は曖昧に微笑んでまたちらちらと書斎のあちこちを見た。


「……夏生さん。何だか落ち着かない様子ですが?」

「えっ」


 不意の言葉に僕はちょっと固まった。神無月さんに図星を突かれたからだ。僕はへらへらと軽い調子で答える。


「実はこの部屋にいい思い出がなくて。伯父は僕を叱るときいつもここに呼び出していたんです」

「あらあら」


 神無月さんは口に手を当てた。


「甥の僕にも厳しい人でしたから。成績のことにいちいち口を出されたり、門限なんて絶対厳守だし。羽目を外して予備校をさぼって遊びに行ったのがばれたときは大目玉でしたよ」


 僕はかりかりと頭を掻いてみせた。

 そんなことを口に出すと、嫌な思い出だったはずなのに何だか懐かしい。繁伯父さんに怒られることはもうないんだなあなんてしみじみ思ってしまった。


「多少は遊びたい年頃ですからねえ。でも繁さんとしては大事な夏生さんをお預かりしているわけですから」

「……そういえば」

「はい?」


 ふっと浮かんだのは、リュウの穏やかな笑顔。


「龍ノ介が伯父に叱られたのは見たことがありませんでした。彼だって僕とそんなに変わらない年なのに、びっくりするくらい真面目で伯父の言う事をよくきいていました」


 自分はこの家では他人、そんな遠慮がリュウにはあったのかも。

 リュウの存在は僕には当たり前すぎて、そして僕はほんの子どもで、そんなことさえ気づいていなかった。それに伯父とリュウは本当の親子みたいにも見えていた。


「夏生さん?」


 はっと気がつくと、すぐ目の前で神無月さんが僕を見上げている。食べ物をおねだりする動物みたいな目だ。


「……なんです?」

「夏生さんは、繁さんが発作を起こしたのを見たことがあります?」

「いえ、ありません。発作を起こしたのは会社、それから僕が予備校に行ってたときだったと、話で聞きましたけど」

「そうですか」


 神無月さんはくるりと踵を返し、頬に手を当ててまたサプリメントの瓶をじいっと見ている。動きが緩慢かと思えば妙に素早いこともある。心臓に悪いなあ。


「伯父が亡くなったとき……誰か近くにいれば死なずにすんだかもしれません」


 ぽつりと口に出すと、神無月さんは向こう側を向いたままちょっと首を傾げた。

 僕は言葉を噛みしめるように続ける。


「誰かいれば、救急車を呼んだりできたでしょうね」

「……そうですね」


 リュウがこの部屋にいれば違ったかも。

 その言葉はぐっと飲み込んだ。


一通りの調査が終わり書斎のドアを開けると、目の前に土谷さんがいて僕は軽くのけぞった。


「わ、どうかしたんですか?」

「いや……何かお手伝いできることはないかと思いまして……」


 土谷さんは歯切れ悪く答える。

 うーん、やっぱり美少女探偵の助手役を僕に取られちゃったのが悔しいみたいだ。あれ、でもどうして土谷さんは今日はうちに?

 僕の後ろからぴょこんと顔をのぞかせた神無月さんは、土谷さんを見て微笑み、ちょいちょいと手招きする。その合図で僕たちはまた書斎に戻った。


「土谷さん」神無月さんは隠してあったお菓子を見つけた悪戯っ子のように、上目遣いで彼を見上げる。「わたしに何かお話があるんですね。……喬さんには内緒の」


「え?」と声を上げたのは僕だ。

土谷さんは生真面目な顔で頷く。

 僕は果たしてここにいてもいいんだろうか? 父さんに告げ口されるんじゃないかって土谷さんは心配するかも。

 そう思っていたら神無月さんは、


「夏生さんが御一緒で構わなければ聞かせてください」


 と彼を促した。なんだか心を読まれた気分だ。

 土谷さんは神無月さんと僕の顔を見比べ、しばらくためらっているようだった。

 神無月さんはすまし顔で待っていたが「お話できないなら失礼しますね」とドアの方へ身を翻す。

 そこで意を決したらしく、土谷さんは慌てて神無月さんを呼び止めた。


「お役に立てるかわかりませんが、聞いていただけますか」

「ええ、もちろんです」


 神無月さんは満面の笑みを見せる。無邪気なようで、なのに一瞬その目がナイフの刃のようにきらりと光った気がして、僕の体に一瞬鳥肌が立った。

 意図したわけじゃないだろうけど、土谷さんはハの字型の眉尻をますます下げて話し始めた。


「社長は会社では自分にも他人にも厳しい人でした。だからといって人の恨みを買うとはわたしにはどうしても思えないのです」


 ……まあそういうことは人の受け取り方の違いだし、一概には言えないんじゃないかな。

 とか思ったけど僕は黙っていた。神無月さんは僕に意見が欲しくて立ち会ってくれと言ったわけじゃない。子ども扱いされてる僕にだってそれくらいの分別はある。


「じゃあ、脅迫というのはただの悪戯や嫌がらせだと土谷さんはお考えですか?」

「はい」


 ふーん。繁伯父さんは部下からの信頼は篤い人だったんだ。


「それより心配だった事がわたしにはあるのですが……」


 と、土谷さんは僕に目をやった。神無月さんもつられて僕を見る。

 一体何なのだろう。土谷さんは僕に出て行ってもらいたそうにしてるけど、神無月さんが了承しなければそれは許されない。それに僕も話の続きが聞いてみたいし。

 土谷さんはちらりちらりと横にいる探偵さんを見るものの、欲しい言葉はもらえなかったので諦めて話を再開する。


「社長はあと数年で還暦、そして狭心症を患っておりました。ですから亡くなる少し前からしきりに会社を継がせる人間のことを気にしていたのです」

「なるほど、責任感の強い方だったのでしょうね」


 こくりと頷き土谷さんは続けた。


「次期社長は専務……水倉喬で社の人間は納得するでしょう」


 あれれ、充伯父さんはすっ飛ばされて父さんが社長なんだ。


「社長もそのつもりでした。しかし問題はそのずっと後の話です」


 そこで土谷さんはさらに困った顔になった。

 気の弱いサラリーマンが朝から晩まで散々な目に遭う。でも周りに文句一つ言う事ができない。そんなコントの主人公みたいな顔だ。


「土谷さん、どうぞご遠慮なく」


 神無月さんがそう促すと、土谷さんはきっと顔を上げた。


「社長は御夫人との間に子どもができませんでした。弟の充も再婚同士で結婚が遅かったので夫婦だけです。しかし末の朝子さんは専務との間に夏生くんがいます」


 あれれ? 僕が登場しちゃったよ。


「何代か後には夏生くんが我が社を背負って立つことになるでしょう。……ですが」


 いえ、背負って立つ気はないんですけれども。就職難だし、どうしようもなかったらアルバイトでいいから拾ってもらおうかなあ、なんていうくらいで。


「専務がいくら優秀で社員に慕われていようとも元々は他人。その息子に跡を継がせるなど言語道断。そう社長は考えていたようなのです」


 へえ。単に厳しくて口うるさい人と思っていたけど、僕に対してそんな考えがあったなんて。

 僕は神無月さんの方を見た。また指先でこめかみをくりくりと押している。


「……それで社長は、風見龍ノ介くんを養子にして跡継ぎにと考えるようになったのです」


 意識するより早く「えっ」と口からついて出た。二人は僕の方を見やる。僕は動揺を内心に押し込めて二人から目を逸らした。


「龍ノ介さんはそのことを?」

「聞いていたようです。それで、社長には考えさせてほしいと答えたと」

「そうですか」


 神無月さんはふむふむという風に軽く何度か頷いた。土谷さんはその様子を見ていたが、急にはっと僕の方へ顔を向けた。


「あ、夏生くん、ごめんね。これはあくまで社長一人の希望で、わたしや社員たちはそんなつもりは……」


 ハンカチで汗をふきふきそう言う土谷さんを見ていると気の毒になってくる。貧乏くじをひいてしまったとか思っているんだろうなあ。


「気にしないでください。僕だって会社に入るかどうか将来のことはわからないし」

「そんな、わたしはいずれは夏生くんに任せたいと思っているんですよ、本当に」


 父さんには悪いように言ったりしないから大丈夫ですよ、と言ってあげれば良かったんだけど。あいにく僕はそれほど親切な子どもじゃない。


「ほら、神無月さんの調査が残ってますし」


 と探偵さんを理由にすると、土谷さんはバツが悪そうに身を引いた。やれやれ。


「土谷さん、たいへん貴重なお話をありがとうございました」


 神無月さんがにっこりとお礼を言うと、土谷さんは目を潤ませて感動している様子。何度も探偵さんに頭を下げ、書斎から出ていった。


「ふーむ……」


 神無月さんは片手を顎にあて、軽く目を瞑って考えに没頭するポーズをとる。事件の捜査っていうより、ケーキ屋さんで迷っている女の子みたいだ。

 いずれにせよ考え込んでいるようなので、僕は僕で思いを巡らせた。


 繁伯父はリュウを養子にしたがっていた。

 リュウはそれを聞いて考えさせてくれと言った。

 養子になることはすなわち会社の跡継ぎになることだから、即決できなくて当然だったろう。

 もし二人が生きていたら?


 ――リュウ、君はどうしていた?


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