第4話 台所事情
廊下に出ると神無月さんは先を進むひとみさんの前へ回り込んだ。
「あのぉ、できれば応接間ではなく台所でお茶をいただきたいのですが」
「は?」
神無月さんは小さな子どものように可愛らしく首を傾げてみせた。僕の方からは見えないけど、ひとみさんは不思議そうな顔をしてるに違いない。一つにくくった髪の毛が、返事をためらうようにさらりと揺れた。
「今、時間がよろしければ木戸さんにお話を聞かせていただきたいのです。台所ならお仕事をなさりながらできるかと思いまして」
戸惑うひとみさんの細い肩に僕は両手をかける。
「捜査へのご協力、僕からもお願いします」
「夏生くん?」
「探偵さんの助手、と言いたいところだけど――立会人なんだ」
ひとみさんは瞬きしながら僕と神無月さんの顔を見比べた。
煮込んだトマトと肉の匂いに充満される中、たっぷりと生クリームの載ったプリンをひとくち口に運ぶと、神無月さんはとろけそうなくらい緩んだ顔になった。
僕もプリンを食べ始める。ゆっくり味わおうと思うものの、ひとみさんのデザートを一度口にすればスプーンやフォークが止まる暇がない。
「夏生さん!」
「はいっ?」
突然呼びかけられて僕はどきりとした。目を上げると探偵さんは真剣な表情で僕を見据えている。
「夏生さんは、幸せだと思います」
「へ?」
「だって、こんな素晴らしい手作りのお菓子を毎日食べられるんでしょう? 行列ができるお店だってこれほどのプリンは出せません」
神無月さんは目をきらきらと輝かせている。どうやら嘘偽りのない褒め言葉らしい。
「……実は僕もずっと前からそう思っていました。神無月さんがそう言ってくれて嬉しいです」
僕は素直にそう答える。
でも隣に立っているひとみさんは慌てて手を振った。
「何を言ってるんですか、二人とも」
「本当のことだからいいじゃない」
「夏生くん、からかうのはやめて」
ひとみさんは三十代の後半で僕よりずっと年上だけど、照れているところはなんだか可愛らしい。そんなことを言ったら生意気だって怒られるに決まってるけど。
こつんと頭を小突かれ、僕は悪戯を咎められた子どもみたいに肩をすくめた。
「夏生さんは……」
ぽつりと神無月さんが言う。
「はい?」
笑い顔を元に戻しながら返事をすると、探偵さんは「いいえ、別に」と首を振った。いったい何を言いかけたんだろう?
「ごちそうさまでした」
神無月さんはスプーンを置いてにっこりひとみさんに微笑む。それから「さて」と人差し指をこめかみに当てた。
「繁さんが亡くなられたときのこと、詳しく聞かせていただきたいのですが」
ひとみさんは覚悟ができているという風に、神妙な顔でこくりと頷いた。
あの日、平日だったから僕は学校で、充伯父さんたちは夫婦で出かけていた。繁伯父さんは仕事が休みで朝からずっとうちにいて、午後は書斎にこもっていたらしい。
リュウは午前中は大学で、お昼ご飯を食べてから家に帰ってきた。ひとみさんはいつも通り繁伯父に昼食を用意して掃除、それから夕飯の支度をしていた。
繁伯父にお茶を持っていこうと思ったのは三時半くらい。玉露を淹れてお茶受けにはきな粉をかけた白玉団子を用意した。
書斎のドアを軽くノックしても返事がないので、伯父がちょっと部屋を留守にしてるのだとひとみさんは思ったらしい。午後にお茶を持っていくのは休みの日の日課なので、そのまま部屋に置いてゆくことにした。
そしてドアを開けると……
「社長はうつぶせで床に倒れていたんです。社長、社長と何度もお呼びしても少しも動かないし、わたしは気が動転してしまって……。そこで龍ノ介くんがいたことを思い出して廊下に出て大声で呼びました。龍ノ介くんはすぐ気づいて走ってきてくれました」
ひとみさんは視線を落として寂しそうな顔で話す。それでも探偵さんにちゃんと伝えなくてはという意思はあるみたいで、言葉をしっかりと選んでいるのがわかった。
「龍ノ介くんは社長を見た途端に発作が起こったのを悟ったようで、抱き起こして『おじさん』と呼びながら脈を取ったりして……。それから持っていた携帯電話で救急車を呼んで、心臓マッサージをしていました」
ひとみさんの眉間にくっきりと皺が寄った。リュウが必死に蘇生させようとしたところを思い出したのかもしれない。
僕はひとみさんの肩を叩き、椅子に座るよう勧めた。ひとみさんは素直に従う。
「すぐに救急隊員の人たちがきて社長を運んでいきました。龍ノ介くんも付き添って、わたしには家族の皆さんに知らせるように言い残していきました」
家に帰ろうとしていた僕は学校を出る直前で担任から知らせを受け取り、そのまま病院へ向かった。着いたときにはもう遅かったんだけど。
神無月さんはいつの間にか指を頬に当てていた。
「では、ひとみさんはそれから病院へ?」
「はい」
「部屋を出る前に何かおかしなところに気づいたりはしませんでした?」
訊かれてひとみさんは目を丸くする。
「おかしなところと言いますと……?」
「見慣れない物があったりとか、逆に何かがなくなっていたりとか」
「……いいえ、何も気づきませんでした」
ひとみさんは真っ直ぐに神無月さんを見つめて答えた。神無月さんは軽く口の端を上げ「そうですか」と相槌を打つ。
「その日から書斎に鍵をかけてると喬さんはおっしゃってましたよね?」
今度は僕が「はい」と頷いた。僕はもちろん、家族の誰も今日まであの書斎には入ってはいない。
「げん、ば、ほぞ、ん……」
歌のように節をつけて、探偵さんの口からそんな言葉がこぼれた。
現場保存?
父さんにその意図があったってこと?
「あの、お話はもうよろしいですか?」
ひとみさんが戸惑った顔で訊ねる。神無月さんはぱっと目を上げた。
「すみません、もうちょっとだけ聞かせていただきたいことが」
「はあ……」
ひとみさんは不安そうな顔になった。そりゃ探偵さんにあれこれ聞かれるなんてめったにないことだもんね。
僕はひとみさんに向けて両手を合わせ「お願い」のポーズをとった。目だけでも笑ってもらえたのでほっとする。
「夏生さんに聞いたのですが、繁さんは狭心症の発作が起こってから栄養に気を遣うようになったとか」
「ええ。お酒を控えるようにされましたし、食事も社長の分は脂肪が少ない献立にするよう言われました」
そういえば僕たちが揚げ物を食べていても伯父さんだけ煮物だったりしてたっけ。両方作るなんてひとみさんも大変だなあなんて思ったものだった。
「なのに、発作が起こったときはニトログリセリンは持っていなかったのでしょうか? それがわたしには不思議で」
ニトロ……なに?
瞬きする僕の顔を一瞥して、神無月さんはひとみさんに顔を向けて返事を促した。
「錠剤のパックだけはポケットにあったそうです。中身は空だったので、前に服用した分のものじゃないかって」
「では新しい薬を持っておくのを忘れてしまった……?」
「たぶん、そうだと思います」
発作のときに飲む薬があったなんて。そんなこと僕は初めて知った。
「それから書斎にたくさんのサプリメントがありましたね」
「わたしはよく知らないのですが……たくさん瓶があるなあってお掃除のたびに思いました」
そこで僕はちょっと口を挟みたくなった。神無月さんではなくひとみさんに向けて言う。
「あれはね、リュウが教えてあげたんだって」
「えっ」
「繁伯父さんにどんな栄養を摂ればいいか聞かれたって、リュウが言ってた」
「リュウ……くんが、」
じわり、とひとみさんの目に涙が浮かぶ。僕は泣かせるつもりはなかったのでひどく慌てた。
「あ、ねえ、ひとみさん。今日の晩ご飯、神無月さんにも食べていってもらうんだよね? いいですよね、神無月さん?」
ひとみさんは目をエプロンで拭きながらこくこくと頷いた。僕は自分でもわざとらしいなと思いつつ愛想笑いを探偵さんに見せる。
神無月さんはというと、きょとんとして首を傾げていた。
「はあ、それはもちろん喜んで」
神無月さんの返事を聞いて、ひとみさんはゆっくりと立ち上がる。
「では準備いたしますね。……あ、お話はもうよろしかったですか?」
兎みたいに赤い目になっちゃったのが痛々しい。
僕としたことがしくじった。心の中で舌打ちする。
「すみません、あと一つだけ。会社が誰かに脅迫されていたと聞いたのですが」
ひとみさんは苦いものを噛んだような表情になった。
「ええ。変な電話がかかってきたり、気味の悪いものが送られてきたり……。わたしも一度だけ電話を受けましたが、くぐもった低い声で恨んでやるとかなんとか言って、本当に気持ち悪い思いをしました」
「で、繁さんはどう思われていたようでした?」
「たいへん怒ってらっしゃるようでした。おかしな電話はすぐ切るようにとおっしゃって、もし怪しい届け物があれば自分が開けるから気をつけるようにと」
神無月さんはうんうんと頷く。これがドラマに出てくるような中年の探偵だったら貫禄があったんだろうけど、目の前にいる探偵さんはおつかいを頼まれてるお嬢ちゃんみたいだ。
「たいへん参考になりました。どうもお忙しいところ、ありがとうございました」
ひとみさんは軽く会釈して、台所に向かった。その背を見送り神無月さんがすっと目を細める。
「夏生さん」
「はい」
「龍ノ介さんのこと、もっと知りたくなりました」
もしかすると、棚からぼた餅?
僕はにっと笑って答える。
「僕で良ければいくらでもお話します」
「ありがとうございます」
神無月さんの返す笑顔が、僕と似た種類のものだったと思うのは気のせいなのかな。
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