第3話大災難

「寺に焼けた」と叫びながら、和尚様は黒い僧衣の裾をタクシー上げ、駆け込んで来た。

 事情を理解出来ずに、しばらく僕はボンヤリと和尚様の顔を見返していた。

「拙僧の豪勢な寺が燃えてしまったのだ」と彼は僕の頭上で怒鳴りつけた。和尚様の寺が豪勢な寺であるとは認め難いが、寺が焼失したらしい。

「すぐに長崎に帰る。旅費を工面しろ」と彼は命令した。  

 玄関ドア前でのいざこざはゴメンである。数千円ほど用立てし引き取らせた。三日後に帰って来て、警察での出来事を興奮してまくし立てた。彼は火事の原因は放火に違いないと主張した。もちろん警察は調べなければ解らないと取り合わなかったらしい。何しろ古い寺であり、漏電の可能性もある。何より忙しい世の中で、価値のないボロ寺一軒が焼けたことに関心を払う者はおるまい。和尚様は食い下がった。警官が疑問を抱くようなことを口走ってしまった。

「最近、長崎に悪さをするウブメが侵入しつつある。犯人はその一味かも知れない」と叫んだ。

 若い刑事は耳を疑った。若い刑事はテロリストがあのボロ寺に火を付けねばならない必要性があるのかと聞き返すと、和尚様は拙僧が日夜、ウブメら妖怪と血闘を繰り返しているせいだと説明した。

「ウブメとは何ですか。テロリストとどのような関係があるのですか」と若い刑事は顔を歪め聞いた。彼の表情に和尚様の怒りは爆発した。

「ウブメを知らない。それでも市民を犯罪から守る警察官か。警察学校で何を学んだ」と怒鳴りつけ、和尚様はゆうゆうとウブメの話を続けたのである。

「ウブメとは、航海中の船に悪さを仕掛ける恐ろしい船幽霊である。犠牲になった船は数知れず、タイタニック号も彼らの犠牲になった。これらの妖怪変化から船を守ろうとするのが寺町の古い寺に安置された馬祖神や西欧のポセイドンやビーナスなどの海神たちである」

 彼の声に県警庁舎内の刑事や警官が集まったらしい。もちろん対応に苦慮してのことである。オウム真理教との関係も疑われ、結局、二日間を取調室で過ごしたようである。

「放火で焼け落ちたと言うなら、あの軒先の赤フンドシが招いた災禍ではないですか」

 和尚様の寺で碁を刺した時に目にした軒先の赤フンドシが風に揺らぐ姿が強烈に目に浮かんだ。極左グループの一員と睨んだ中の内ゲバか、あるいは極右グループのせいかも知れない。もっと身近なところで日頃、インチキくさく、せこいかけ碁で小遣いを分捕られている近所の善男善女の仕業ではないか。刑事に説明をするうちに思い込みも激しくなり、信念はダイヤモンドのように固くなっていったようである。

「海上で活動するはずのウブメが陸上で悪さを仕掛けるとは危険な状況だ。飛んでもないことが起きるかも知れない。大災害が起きなければ良いが。祈祷に入ろう」と宣言し、その日のうちに阿蘇の山に去った。和尚様に同人誌を送った。私書箱という住所に送れば届くことになっていた。とりあえず例の恥ずかしい小説は好意で掲載して頂いたが、世間を騒がせることもなく、自分の生活にも変化はなかった。心配も杞憂に終わり、安堵した。

 ところが、しばらくして和尚様から返事が来た。

 ドン・キホーテにも劣らない傑作だと評価をしている。さらに彼と僕の関係に触れている。和尚様さえも知っているのである、やはりラ・マンチャーの男は世界的名作らしい。和尚様をドン・キ・ホーテすれば、無理矢理に下僕にされた農夫のサンチョパンサが僕になるのではないかと想像したが、寒気さえ感じ、身震いした。

 「一人でも二人でも心ある者の目に止まればよい」と自己満足の心境も書いてあった。ハガキに踊る鋭いくさび形文字にも特色があった。ハガキの末尾には理解に苦しむことが書いてあった。

「よーかちんちん」は傑作である。

 君の息子のちんちん御神体にして、「よーかちんちん教」を開祖したらどうかと書いてある。大事を一人息子をこのように扱われて面白いはずはない。郵便配達員にも読まれる恐れのない封書にしてもらいたかった。実は和尚様の寺が火事で焼失して、二ヶ月ほど経過した十月始めの頃に、また大騒ぎ起きたのである。彼の寺が焼けたのは八月の終わり頃のことである。彼が自宅にやって来て旅費を工面しろと言うのである。理由を聞くと、放火犯を探すためだと言うのである。彼の寺が焼けて、二ヶ月ほど経過している。悔しさのあまり、記憶がフラッシュバックしたのではないかと疑った。実は自分も混乱し、二ヶ月前に戻ったような気がした。

「何の犯人ですか」

「決まっている。放火犯だ」

「二ヶ月前の事件ですよ」と呆れてしまった。

「馬鹿者」と彼は怒鳴って、「長崎で豪華客船が燃えたのを知らないのか」と詰問した。

 長崎の造船場で建造中の大型客船で火災が発生したことは承知していた。その火災も放火によるものと信じている。しかも自分のボロ寺を焼失したのも、その放火犯の仕業だと信じ切っている。このまま長崎に帰せば、騒ぎを大きくするに違いないと確信を強めた。

「長崎に渡る旅費が必要だ」と、彼は石のように強ばった表情でつばきを飛ばし怒鳴った。

「金を出すことは嫌ではない」

「なら出せ」

 そんな押問答を玄関先で繰り返した。近所の者が何事かとドアを開け、顔を出し、様子を伺った。慌てて和尚様を家の中に引き込み、興奮を沈めようと酒を出した。それから説得にかかったのである。彼がいける口であることをタクシードライバーから聞いていたのである。

「下手に口を出すと、ますます警察に疑われますよ」

 僕は和尚様を諭した。

「構わん」と、彼は大声で怒鳴った。

「身柄を拘束されたら、自由を奪われ、自白に追い込まれるかも知れません」

 彼は少し考えた。畳みかけるように言った。

「僕が和尚様の考えを聞きましょう。そして警察に伝えます。これなら和尚様の霊感も犯人捜査に役に立ちます。和尚様が警察に捕まったら誰が和尚様の代わりをしますか。和尚様の代わりが務まる方がおりますか」

 妻は迷惑だと言う顔をしている。息子は物珍しそうに和尚様を見ていた。

 和尚様はうなり声を上げて考え込んだ。

「もし、あの時に和尚様の申し出に従い、警察が徹底的な捜査を行い、犯人を捕まえておれば、和尚様は興福寺の隠元和尚様に並ぶ名僧として歴史に名を残せたかも知れない。残念だ」とも言った。もちろん、おだてるための言葉である。代りはいないと言う言葉が自尊心をくすぐったようである。口を頑固に「へ」の字に曲げ、考え込んでいる。もう一押しである。仕方がないので僕は大出費を覚悟の上、最後の手段に出ることにした。昔、美人だったと自称する女たちがいる店に誘うことにしたのである。店に入っても機嫌を損じぬように最新の注意を払った。太鼓持ちの役割など仕事の延長と思えばよかった。

「あの豪華客船の放火を未然に防ぐことが出来たら、市民も大伽藍を造ることに支援を申し出たにちがいない」と。

 もちろん和尚様の推理が正しいとは信じていない。あのボロ寺に火を付けた犯人と豪華客船の放火犯が同一人物であるなどあり得ない。それ以上に、誰も放火ということなど思いもしていない。世俗的な功名心を染みこませた言葉である。和尚様にとっては悪魔のささやきに似ている。ウワバミのように飲み、酔いが回るにつれ、和尚様の心の鎧は緩み、彼の本性は露呈されるはずだった。確かに頭は壊れ、怒りが突発的に爆発した。だが体力的に衰えることを知らない御仁のようである。スサノオノミコトに退治されたヤマタノオロチのように大酒を呑み、突発的に火を噴くように呪詛の言葉を吐いた。

「おのれ、ウブメ等妖怪変化め。心優しき長崎市民を苦しめおって。この和尚様が必ず成敗してくれる。たとえ真面目な庶民の心に潜り込みテロリストとして同一化しても、拙僧の祈祷で遠心分離器に掛けたようにウブメ等妖怪だけを分離し、テロリストから庶民を解放してやる」

 明らかにテロリストや悪人はウブメ等妖怪が普通の庶民の心に潜り込んだ結果だと信じて、彼の祈祷をすれが、その分離が可能である信じているのである。

 女性が五人の小汚い店である。その日は他に客がいないので、僕たちの周囲に集まった。肥満気味で僕の好みのタイプではないが、和尚様のタイプの女性らしい。女性たちは敏感に感情を嗅ぎつけ和尚様の周囲に身を寄せた。和尚様は好みの女性に囲まれ、我が世の春を謳歌している。

「まあ素敵なタンカ。火盗あらため方、鬼平さんみたい」と、女将が和尚様をはやす。彼女は鬼平犯科帳を読みかじったことがあるに違いない。女将以外の四名の女性も男扱い慣れたものである。彼女たちのほかに薄暗いカウンターの隅に痩せて小柄なフィリピン青年が隠れてるようにして、客の注文で料理を造っていた。

 この店を、僕の周囲の者達はお化け屋敷と陰口を叩いている。あだ名の由来は店の女たちの姿が原因である。四名の女の個々に固有名詞を記し、性格を分析し表情をゆたかに表現することが作家としての本道だとうるさく説く輩もおるやも知れぬが、ストーリ展開から必要はない。せめて、個々の女を塗り壁だ、砂かけ婆だ、一反木綿だ、お岩さんなどのお化けの名前で表現せよと主張する方も現れるやも知れぬが、不可能ではない。だが、あまりに失礼なので、止めておく。店の女たちに失礼という訳ではない。比喩されるお化けたちに失礼であるので止めておく。このような話題を原稿用紙で分析をする余裕もない。忙しい読者諸君も彼女たちの性格など知る必要はないはずである。だから彼女たちの共通点のみを書くことにする。彼女たちの姿は阿蘇の外輪山の頂上に立つ真っ白な風力発電の風車のような優美な姿ではない。一言で表現するとドラム缶を縦に置いたような丸い形をしている。自己申告ではよると昔は美人だったらしいが、その名残は今では微塵も残っていない。無惨な姿をさらけ出すだけである。最近では化粧ののりも悪くなり、隠すために店全体の照明を薄暗くしてある。救いは彼女たちが、それに気付かず、毎日を明るく過ごし、客のどのような悪態にも負けない点である。目の前の変人和尚様をも簡単に手玉に取ってしまった。そのようにたくましく生きる女性たちである。

 和尚様は僕に、「解脱を果たした良い女たちだ。気に入った」と打ち明けた。いつも不思議な表現を使う。女たちはそれが気に入ったらしい。「本当に男らしい」と口々に和尚様をほめた。

「でも大丈夫かしら」

「そうそう、放火犯を逮捕する仕事は警察の仕事よね。素人が下手に口を挟むことではないわよ」

「そうよ。そうよ」

「解っておる。だが一夜にして千名の労働者の半年分の血と汗の結晶が無惨な黒こげになった。許すことはできない」

「そうです。そうです」と女将が和尚様を煽り立てる。ところが絶妙なタイミングで女将以外の女たちが口々に和尚様の怒りを静めようとする。

「警察に任せておくべきだわ」

「まだ火事の原因も放火と決まった訳ではないのでしょう」

「ところで火事って、何の話」

 実におっとりとした性格の女性もいたものである。

「最近、長崎の造船所で船が焼けて事件があったでしょう。たしかダイヤモンドプリンセスという客船だったと思うわよ」

 それなりにくつろげるので数度、来たことがある。だが女将以外の四人の女たちを見分けることが出来ずにいる。

「放火かどうかを見定めるのは消防署のお仕事でしょう」

「ウブメの仕業に決まっている」と和尚様は断言した。

「おのれ妖怪変化。今に見ておれ。拙僧が、拙僧が」と和尚様が立ち上がり額に青筋を立てて拳を握り吠えた。視線がすべて和尚様に集中し、言葉を失った。時も止まり静寂が支配した。みんな和尚様の次の言葉を待ったが、和尚様も言葉を失ってしまった。この沈黙を破ったのはカウンターの中に隠れていたフィリピン青年である。

 彼が悲鳴を上げたのである。

「ママさん蚊取り線香ないか」

 みんなの視線が、一斉ににめまぐるしくカウンターの小柄で赤黒い青年に向けられた。カウンター内の狭い空間で彼は季節外れの蚊に悩まされ続けていた。

「蚊がいる。蚊取り線香が欲しい」と絶叫した。普段は無口で恥ずかしがり屋で我慢強い青年である。その彼が文字とおり血が滲む思いで必死に叫んだのである。

 和尚様は青年の悲痛な言葉に救われた。

「我こそは火付き盗賊改め方、かとり和尚様だ」と名乗ったのである。

「このかとり和尚様が火あぶりにし、ノコギリで八つ裂きにし、銀の銃弾で撃ち貫き、心臓に杭を打ち込み、また裂きにし、あぜ道の糞尿の桶に付け込み、沢庵漬けにし、塩ゆでにし、退治してやる。ウブメらめ覚悟をし待っていろ」と勇ましいタンカを切った。

「それにしても妖怪らめ。もし拙僧が長崎にいたら、源九郎ギツネなどの雨をもたらす妖怪変化を世界中から長崎に集め、長崎水害以来の大雨、いや必要とあらばノアの箱船以来の大雨を降らせ燃える船の上に降らせ、命がけで未曾有の火災に立ち向かう消防士たちに加勢をしたものを」

 彼の顔は烈火のように燃え、赤く染まり、首筋の血管は青く浮いている。血圧もすでに三百を超えているやも知れぬ。彼本人が妖怪変化のようになっていた。

「素敵。がんばってかとり和尚様。応援する」

「かとり和尚様というお名前ですか」と女将は僕に尋ねた。

「そうでしょうね」と曖昧に応えた。

 本人が名乗ったのだからそうであろう。しかし兄弟子のタクシードライバーの話では実名は身を守るために明かさないことになっている。

 後日、和尚様自身に聞いたであるが、本名ではないと打ち明けてくれた。一種のペンネームであると釈明した。

 蚊取り線香を切望したフィリピン青年のことである。店内の歓声に彼の切なる望みは葬り去られてしまった。彼は狭いカウンターの隅で蚊を平手で遠慮しながら、邪魔にならないように遠慮しながら蚊を叩き始めた。

「それにしても腹黒い奴らだ。拙僧が留守の間を狙い。しかも拙僧の豪勢な寺で試し火を放ち、大きな咎を受けることがないと知るや、船に火を放ったに違いない。自分さえ長崎に止まっておれば、このような大事件を起こすまい」

「そんなに興奮したり、自分を責めてはいけません。万が一、大切な身体に異変が起きたら日本だけではなく世界の損失です。さあ一杯、お注ぎします。心を静めて下さい」と、今度は絶妙のタイミングで女将が和尚様を静めた。和尚様はすこぶる満足し、上機嫌である。

 ところが女性一人がささやいた「祈祷などで効果があるのかしら」と言う軽薄な言葉で態度が一変した。

「無礼な。長い歴史の中で引き継がれてきた真言密教の祈祷の効果を疑問を挟むとは。今夜、そちたちの眠りに忍び込み、この世の物とは思えない身を凍る悪夢を見させてやるぞ」

「和尚様、それは言い過ぎだ。脅迫も同じだ」と他人の夢に潜り込むと言う和尚様の力を半信半疑で信じかけていた僕はなだめた。

「何を言う。拙僧は、この世の道理をわきまえぬ娘御に道理を教えよとしているのだ」

 この和尚様の言葉に四名の情勢が騒いだ。

「キャー、娘御だってえ。感激。感激。和尚様、見直した」

 四人の単純な女性たちは和尚様の虜になったようである。

「人間には五感がある。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚である。この五感も個人差がある。問題はその延長線上にある六感だ。それこそ霊感を意味するものだ。五感にも個人差があるように、この六感にも個人差がある。感じるものと感じない者、感受性の差異は厳然と存在するのだ」

 和尚様の言葉の最後の部分の、「感じるものと感じない者」と言う部分だけが、女たちの印象に強く残ったようである。

「あら、私は感じるは」と勘違いした女が叫んだ。

「ええ。本当。私は感じないわ。相手が悪いのかしら」とキャハハと笑いながら、別の女性が叫んだ。

「そちらにも霊感があるとお見受けした。拙僧の弟子にしてもよいぞ」

「私、ひばりと言うの。よろしく」

「可愛い名前だ」

「あれと霊感と関係があるのかしら」

 別の女の声である。

「あるのよ、きっと」と、ひばりは真面目に応えた。アレの意味が分かってかどうか不明であるが、和尚様は気を良くし仏の教えを説いた。ひばりと和尚様が接近し、女将の顔が曇った。嫉妬していると感づくべきだった。

「仏法の根本に色即是空と言う言葉がある。それぞれ異なるとも取れる意味だ」

 この言葉が、和尚様と女たちの勘違いを決定的にした。女たちは色即是空と言う言葉を色恋を意味する艶っぽい言葉と理解してしまったようである。仏教の根本である哲学的な言葉を無礼にも、あの最中に即、空に登ると言う言葉に結びつけてしまったのである。

「嫌らしい和尚様」とひばりは叫んだ。

「話の分かる和尚様」と別の女は叫び、賑やかではなやかな嬌声が店に満ち溢れた。女将は面白くないのか不機嫌であった。とりかえしのつかない勘違いを抱えたまま話は進んでいた。ひばりが自分の吸う煙草に火を付けた途端に、火を見て、和尚様の心に火が付いた。

「おのれ、ウブメめ、思い出したぞ。放火をしおって」

 自分のボロ寺も、豪華客船も一緒にして、ウブメと言う妖怪変化が人の心の隙に忍び込み起こさせた人災であると言う固く信じきっている。

「放火ではなく、失火かも知れませんでしょう」と、ひばりがたしなめた。

「失火なら、なおさら悪い。これこそウブメの企てそうなことだ。彼らは人の心の奥底に潜む情欲など煩悩に働きかけ、注意を散漫にする。哀れな作業員は煩悩をに悩み注意力を削がれ、不注意のまま作業を行ったに違いない」

「和尚様、ウブメって何」と、ひばりが質問する。この質問に驚いた。彼女はすべて理解していると信じていたのである。

「ウブメの存在は常識だ。権威のある古文書にも書かれておる。海に住む妖怪変化で大洋を航海する船の船員たちに幻を見せ、恐怖におとしめ入れ、時には気をも狂わせる。一説には、あの天草島原の乱もウブメの仕業だと言われている。それだけない。これまで起きた世界中の戦争のすべてがウブメの仕業だと言う説もある。とにかく陸上に上がって来ると、ますます大変だ。妖力は強力になり、人心にひそかに忍び込み心を鷲づかみし、災いを巻き起こす。男の情欲を煽るなど朝飯前の仕事だ」

「陸上に上陸すると勢いを増すなど、まるで台風みたいね。それに東郷元帥のようなことを仰って」

「そちは良いことを言う。それにバルチック艦隊を撃沈せしめた東郷元帥の言葉を知っているとは、たいしたものだ。とにかく拙僧はウブメを上陸させないように日夜、加持祈祷に励んでおる」

「ウブメって外国の妖怪」とヒバリが聞いた。

 どうやら女将とヒバリという女性だけは見分けることが出来るようになったようである。和尚様はテーブルの上に「産女」と指で書いて、「男の心を虜にする妖怪です」と和尚様は解説した。

「若い頃の私のような者をウブメと呼ぶのかしら」と女将の口から奇妙な解釈が上がった

「化粧ののりも悪いオバケのようになったけど、これでも若い頃は、胸はバンバンに張り、腰は細く縊れ、お尻はほど良い大きさで足も細かったのよ。ミニスカートをはき男たちを意のままに操ったものよ」

 彼女は自分の色香の衰えを嘆いている訳ではない。冷静に自分の今の姿を分析している。

「何、女将さんも若い頃、ウブメだった」と

 和尚様の目は女将に釘付けになった。和尚様は不思議に舞い上がった。女将の姿を爪先から頭の天辺まで嘗めるように眺め回して、「今でも、なかなかのウブメだ」と和尚様は感心した。「もし修行中の身でなければ、今でもろうらくされたに違いない。いやいや是非、ろうらくされてみたい」。女将も艶めかしい品を造った。二人は周囲の目も憚らず見つめ合った。恐ろしい静寂が店の戸口から溢れ出した。

 「お化け屋敷」も一挙に「恐ろしい幽霊屋敷」に格が上がったようである。和尚様の推定年齢は六十は越しているはずだ。二人の様子は明らかに恋を語る若者の気配である。最近の年寄りは元気で自分の年を七掛けで勘定する傾向があるらしい。七掛けをした場合、通常は六十歳の者は五十歳と感じると言う訳である。和尚様は特別な人であるから五掛け位で見ているにちがいない。彼の推定年齢は六十歳であるから、まだ三十歳だと思い込んでいることになる。だがドラム缶のような女たちも、二人の異様な雰囲気に呆れていたが、女たちは二人を無視して、すぐに勝手に馬鹿騒ぎを始めた。

 賑やかさに引き込まれるように、年取った客たちが店に入ってきた。

 四人の女たちは和尚様の価値を見抜いていた。滑稽な和尚様は店の盛り立て役に立つと気付いていたのである。煽って、煽れば、面白いことをすると見ぬいたのである。

 女将から和尚様を奪うと、すぐに役者に仕立て上げたのである。

「よーかちんちん。よーかちんちん。幾ら修業を積んでも言うことを聞かない、よーかちんちん。よーかちんちん。幾ら鍛えても言うことを聞かない、よーかちんちん。よーかちんちん」

 僕の夢の中で演じた裸踊りを客や店の女の前で赤フンドシ一丁で披露することになったのである。阿波踊りともドジョウすくいとも言いようのない滑稽な格好で踊りである。女たちは嬌声を上げて、腹を抱えて笑った。受けていると勘違いした和尚様は、ますます賑やかに踊った。

 カウンター内のフィリピン青年のことである。

 蚊取り線香が欲しいというささやかな希望を無視され、彼は自分の肌に吸い付く蚊を追い払おうと、必死手で平手で、「バンバンと」自らを叩いていた。本当は「パンパン」と表現したいところであるが、これも政治的な判断で「バンバン」としておく。

 和尚様の「アラエッササー」と言う声の合間に、「パッチンパッチン」と言う合いの手が入ると言う具合である。

「アラエッササー」。「パッチンパッチン」。

「アラエッササー」。「パッチンパッチン」。

 その頃には彼は赤いふんどしを脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿となり盆を片手に持ち、その盆で交互に逸物を隠す踊りまで披露し始めた。

 歌は、「たんたんタヌキのパッチンパッチン」に代わっていた。絶妙のタイミングでパッチンパッチンと響く音はフィリピン青年が薄暗いカウンターの裏に身を屈めながら足下に集る蚊を叩き潰そうと自分の足を叩いている音に他ならない。あまりの賑やかさに暇な周囲の店の者達が様子を覗き見にやって来て、そのまま客になり居座ってしまった。

「ひとり娘とパッチンパッチン。醜い女とパッチンパッチン」

 放送禁止用語の連続である。だが和尚様の口から飛び出しそうになると、テレビのぼかしに使うモザイクのようにフィリピン青年が蚊を追うために腕や足をパッチンパッチンと叩くのである。あたかも合いの手が入り、かろうじて女性達の前で和尚様の品位が保たれているのである。

 蚊を追い払うために全身を叩く若いバーテンの姿は哀れである。そのことを知らずに客たちは和尚様の踊りを腹を抱えて笑った。しかし罪作りな和尚様である。和尚様のせいで彼が切望した蚊取り線香の話は忘れ去られて蚊に刺され続けると言う痛い思いをした上に、蚊を追い払うために全身を叩く音が和尚様のために踊りを助けているのである。フィリピン青年が「蚊取り線香が欲しい」と哀願した後に、自分ことを「かとり和尚様など」などと名乗らねば、彼の願いは女将の耳に届き、蚊から身を守るための蚊取り線香を手に入れたに違いない。間の悪い和尚様の一言が彼に大災難を招いたのである。言葉が通じなかったと勘違いし、覚えたての日本語能力に自信を失った。その上に彼は訳も分からないまま、彼は和尚様に奉仕を強いられるのである。

「電気もねえ。水道もねえ。パッチンパッチン。俺はこんな村、嫌だ。日本さ行くだ。日本さ行って、銭クア貯めて、阿蘇で赤いベコ、飼うだ」

 その頃になると、和尚様もカウンターの中から響く「合いの手」の音の意義を認めていたようである。ただ和尚様はフィリピン青年の合いの手が自分を応援するが故の合いの手であると勘違いし、御礼のつもりで歌い始めたのである。青年はズボンを太股までまくり上げて、青年は、かゆみに耐えれず自傷行為にも似た行為で、全身は赤く晴れ上がった。女将さんは青年の希望を閉店前に思い出し、慌てて殺虫剤でカウンター内の蚊を退治したのである。申し訳なく思い、彼女は同時にカウンター内のフィリピン青年に、ある言葉を耳打ちしたのである。その一言で青年の顔が喜色で輝いた。

 蚊を殺そうと自分を叩く音が、一層、大きくなり、「パン、パン」と言う音に変った。まるでボクサーがサンドバックを叩く音である。その苦痛は和尚様の修業の比でないはずだ。大きな音は、益々、和尚様の踊りに気合いを入れた。

「閉店よ。最後の歌よ。頑張って」と言う艶めかしい女将の声で和尚様は、いきり立った。

「よーかバン、バン。いくら修業を積んでも、言うことを聞かない、よーかバン、バン。よーかバン、バン。いくら鍛えても、言うことを聞かない、よーかバン、バン。よーかバン、バン。修業を三ヶ月で止めさせようとする、よーかバン、バン」

 フィリピン青年は、まるで涙も流さないばかりである。しかし苦痛のためではない。宗教的な喜悦感に浸っているようにも見えた。女将も困惑し切った顔をしていたので理由を尋ねると答えてくれた。

「蚊に刺された足元を見たら余りに可愛そうになって、和尚様のことを暗闇の追払う力のある偉い人だと紹介したのよ。フィリピンの彼の村には電気も水道もないのよ」

 フィリピン青年が女将の言葉を、どのように受け取ったか簡単に想像できた。彼は和尚様の踊りが終わるや否や和尚様に駈け寄り、しがみつき訴えた。思ったとおりである。

「オウ、マイゴット、オショウ。オラの村には電気がねえ。オネゲーダ。電気を付けてくれ」

 彼は女将の言葉を信用し切っている。和尚様は青年の真意を理解せぬまま大きく頷いた。同情のあまり甘いことを言ってしまった女将にも半分の責任はあるとは言え、罪作りな人だと感じた。青年は和尚様を電気や水道を引いてくれる霊力を持つ偉い人と信じて切ってしまったのである。

 結局、和尚様と僕たちは二人はこの店で夜を明かすことになった。僕たち二人は蚊に刺されることなく十分に安眠できた。なにしろ店中すべての蚊があのフィリピン青年の血を思い切り吸い、腹を脹らませていた。犠牲になったフィリピン青年は戦いが終わり、一夜明けたボクサーのように全身が膨らみ変わり果てていた。ニワトリが告げるトキの声で飛び起きた。すえた臭いの漂う狭い路地裏は、ひっそりと静まりかえり冷え切っていた。僕の財布も冷たく空になっていた。和尚様はひどく恐縮し、神妙になっていた。一夜明けて酔いも覚め、夕べの狂乱ぶりを、ひどく恥じ入っているのである。彼は慌てて汚い袈裟を着て、破れ笠を被り、すごすごと修業に戻ると言い残し、阿蘇の山に帰って行った。可愛そうなことをしたと思ったが、彼の心中で狂ったように燃えさかる正義の火も鎮火させるために他に方法はなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る