第7話和尚様の大掃除

 生きるために妻子を養うために書かねばならない。しかも二十代後半から背負い続けてきた苦悩である。年の瀬も押し迫った頃、ふたたび和尚様とタクシードライバーがいるはずの店に足を運んだ。和尚様の名前も決まり、本のタイトルも決まった。パソコンを購入し、女性編集者の会社のホームページを覗くことも出来るようなった。雨の日の出来事の続編を書くべく、準備しているが、筆が進まない。原因は解らないが、最近、例の編集者の機嫌がすこぶる悪い。以前はホームページに投稿するたびにニコリと笑って、ウィンクをし、ありがとうと迎えてくれていたのであるが、最近では、「アッカンベェー」をされている。

「こちらは仕事なの。忙しいの。あなたの駄作など目を通している暇などないの」と最近は言わんばかりの表情である。

「次作は、悲劇の蘭学者『高野長英』を長崎のシーボルト記念館付近に出現させます」と言うと、それがどうなのと聞かれるのである。大上段に聞かれて、返答に困り口ごもっていると、電話は乱暴に切れた。一日、我慢して、「それでは、長崎の中華街に太平洋戦争中にさらわれて日本軍の娼婦にされた母親を探しに迷い込んだ幼子と、その父親の亡霊を出現させます。最後には、二人が母親を救い出す設定です」と言うと、「そんな今の日本人の人々の気持ちを逆なでするよう作品を、うちでは扱えません」と電話を切られてしまった。

「雨の日の出来事」と言う乙女たちの紅涙を振り絞るソフト路線も行き詰まったのである。むかつく日が続いた。

 さらに消化不良で胃が痛くなるような悪寒を感じる男がやって来た。彼は僕の顔を確認すると、すぐに帰って行った。例の過去の女性遍歴を公言する男といつもつるんでいた男である。 最初の結婚で成田離婚に追い込まれた時にも、この男たちが裏で動いていたのではないかと心中に疑念を感じたが、証拠はない。それに法的にはすでに当事者ではなくなっている。ところがその数日後に不審な電話が職場に掛かって来るようになった。実は、その前に隣室で総務の者が対応しているが、同姓の男に関する電話のように聞こえた。正確なところを確認したいと言う思いに駆られるが、正直に応えることもあるまいと思い放置するしかない。

 一週間ほどして妻から泣き叫ぶ声で電話があった。仕事中の職場への電話は後にも先にも、これが始めてである。

「ベルが鳴り受話器を取ると、いきなり、「女を隠しているだろう。夏子を出せ。隠すと承知しないぞ」と怒鳴りつけてきたと言うのである。妻は「知りません」と答え、恐怖のあまり電話を切ったが、すぐに折り返し、ベルが鳴って受話器を取ると、「なぜ電話を切る。嘗めるな。俺を誰だと思う」と相手は叫んだ。「誰ですか」と質問したところ、「・・・・組の・・・・だ」と名前を答えたと言う。その後は電話はないというが、恐怖のあまり電話をしてきたようである。

 警察とNTTに通報した。警察的な役割を担う部署にもちろん、すぐに届けた。

「・・・・組」なるものが現実に存在するものか聞くと、それには答えられない。だが組と名乗った以上、その筋の者かも知れませんと答えが返ってきた。

「桐原と名乗ったようです」と追加すると、「名前を名乗ったのですか」と警官は呆れて応えた。名前を名乗るなど、プロらしくないと言いたげであった。市民の生命財産を守ることを目的とする組織が他人の人生や生活を土足で踏み込みじる二十年前の自分に起きた出来事や、この出来事で真相と思わざる得ない。気付くと和尚様がそばに居た。

「言い訳をする準備をしろ」

「なぜ言い訳ですか」

「内部告発は荷が大きすぎるからだ」

「誰に対してですか」

「みんなだ」

 みんなとは対象は広すぎる。だが、いつもこの言葉に隠れて、彼らは攻撃を仕掛けてきた。それなら世界中のみんなに訴えるしかあるまい。

 そんなことがあった年の瀬に、昼一番に遊びに来いと女将さんから招待状が届いた。この時間帯なら、料理の下ごしらえをするタクシードライバーだけがいるはずである。ところが、その日は、いきなり蚊取り和尚の裸体が視野の中に飛び込んできたのである。

「オッ、サンチョパンサ、良いところに来た」 冬だと言うのに、彼は僧衣を脱ぎ捨て女将が用意した毛糸の紅白パンツ一枚の姿になっていた。異様な姿に目も心も奪われてしまった。あの放浪の画伯山下清でさえ半ズボンを履き、ランニングシャツを身につけていたのである。それを配偶者が編んだとは言え、紅白の毛糸のパンツ一丁とは非常識すぎる。しかも開店前とはいえ、客商売である。

「店は休みだ。今日は年の瀬の大掃除だ。今、最後の仕上げに取りかかろうとしているところだ。天下の秘技。長い歴史の中、綿々と受け継がれて来た秘技中の秘技。古い年のみそぎ、新しい年を迎える準備をするところだ」

 彼の周囲に四人の女たちが所狭しと陣取っている。僕の視線に気付き揃って、小さく手の平を上げ、「おはよう、サンチョパンサーさん」と挨拶する。四人とも、すす払いや床拭きをすべく格好をしていた。店の奥の方で女将は隅っこで毛糸の紅白パンツを編んでいる。

「先生のための毛糸パンツよ。もう少しで完成しますよ」と話しながら編み棒を器用に扱い毛糸の毛糸パンツを編み上げいく姿は感動的である。カウンターから遅れて姿を現したタクシードライバーも掃除に参加していたようである。

「小百合。窓ふきは完了したか」と和尚様が問う。

「アイよ」と、見分けの付かない女の一人の声である。

「床拭きは完了したか。百恵」と「アイよ」と応えが返ってくる。

「お客様の座る場所はきれいにしたか。ひばり」と。

 別の声で「アイよ」と応えが返る。

「台所の流し周りは、きれいにしたか。ヒカル」

「アイ、大丈夫よ」と応えを返す。

「猫娘。店の前の溝や玄関はきれいにしたか」と和尚様が問う。

「アイよ」と女が応える。

小百合、百恵、ひばり、ヒカル、猫娘と指で数える。四名しかいないはずであるが、五名の女性が返事を返した。だがこんなことでは驚かない。昔から隣近所でもお化け屋敷と評判の店である。一人ぐらいお化けが紛れ込んでいても不思議ではないと軽く考えることにした。真実こそ勘違いである。世間は、いい加減さと八百長で出来ている。このように感じるようになっていた。年の瀬の大掃除に人手が足りないからと、異界から五人めの女性を呼び寄せても不思議ではない。信じられないような奇人変人の蚊取り和尚が身近に存在する。だからウルトラマンでもバルタン星人も存在しない訳がない。幽霊など存在しない方が可笑しいのである。


「猫娘、家中の点検はしたか」と蚊取り和尚が確認すると、姿の見えない女の声が再び聞こえた。猫娘という女性が異界から呼び寄せた女性らしい。

 返事がない。

「どうした。思いこみや庶民が理解できないような迷惑な掟や、悪い風習などの類の物もないか」

「それが」と姿の見えない女の声は答えに窮した。

「はっきり申して見よ」

「理解不能な掟が多いのです。庶民にはもちろん、作った本人たちにも解らないのです。何がどうなっているか分からない。この家の構造が分からない。怠慢、インチキや既得権でメチャクチャになっている」

 和尚様も不安げである。

「ソ連のチェルノブイリ原発事故のように大事事故は起きないか」

 猫娘は泣き出しそうになりながら、「私には分かりません。生めよ増やせよと言う古いスローガンが妨害電波になっています」

 和尚様は怒った。

「それこそ、ウブメの仕業だ。妨害電波の元を探せるか」

「分かります」

「出来るだけ強い結界を張っておけ近づけず、見極めが付かないのです」と

 和尚様も不安げであった。

「困った。仕方がない。世の中は思うに任せない」と蚊取り和尚は、彼らしくない弱音を吐いた。そしてあらためて、猫娘が張った結界に自分が張った結界で補強した。「鬼太郎、目玉親父、一反木綿、子泣き爺、我に力を」と発すると、右手の人差し指と中指を揃えて、水平に二回、垂直に二回、シャシャと空中で三角い枠を作って、それを空中の四カ所に放り投げる仕草をした。

「全力は尽くした。油断はならぬ。あの長崎の品格ある豪勢な寺が灰燼になる前にも点検をしたのだ。悪い妖怪らは、どこに潜んでいるのか分からぬ。今、出来ることはウブメらが紛れ込まないように封じ込めたつもりだが、国家の一大事を招かねばよいが」と和尚様は呟いた。

 和尚様も疲れ切った表情をした。

「これより執り行う儀式は平安の御代から行われておる、ありがたい儀式だ。弘法大師空海様が遙かかなたの唐の国より持ち帰った秘技中の秘技である。ウブメら悪霊を退散させ、悪霊に心を奪われた善男善女を救うことが出来るありがたく荘厳な儀式だ。準備はよいな」

 女たちが一斉に、手の拳を握りしめ、虚空を突き上げ、「エイエイオー」と声を張り上げた。和尚様は前口上が終わると、「始めるぞ」と声を上げて例の踊りを始めた。

「大掃除だ。大掃除だ。来年は、哀れなウブメも恐怖から解き放ち、若い乙女に帰してやるぞ」

「人生五十年、夢かうつつか」

 和尚様は合いの手で青色に変色した鈴を振る。

「シャンシャン」

 どこから手に入れて来たのか深く詮索するまい。紅白模様の毛糸パンツを履き踊り狂う和尚様を囲み四人の女が、インディアンダンスを踊っている。

「君が世も五十年、我が世も五十年」

「人生パラパラ、男もパラパラ、女だってパラパラ咲き乱れる」

「よーか、シャンシャン。よーかシャンシャン」

「タンポポ組かヒマワリ組かスミレ組かサクラ組か解らないが、それらの影に脅え姿を消し、ウブメに転じてしまった君の昔の配偶者にもシャンシャン。新しい年には脅えてウブメに身を落とした哀れな女たちをも、心優しい乙女に帰してやるぞ。シャンシャン」

 

 せっせと編み棒を操り、毛糸を編む女将さんの周囲だけが別世界のように落ち着き柔和な雰囲気が漂っている。見取れているとタクシードライバーが耳打ちをした。

「毛糸のパンツを編んでもらうことになっている」と。

「紅白色の毛糸パンツでは私には派手すぎるので黄色いと黒い毛糸で編んでくれと、注文までつけてしまいました。わが儘すぎますか」

 自分も注文をすべきだったと後悔したが、すでに僕のための物は出来上がりかかっている。蚊取り和尚のものと瓜二つである。和尚様と間違われて大迷惑なことが起きねばよいがと不安を感じた。

「大丈夫です。きっと夏海先生には似合います。僕も和尚様と同じ模様にしたかったのですが、生まれつき地味だから似合わないと思ったのです。それで黄色と黒の虎がら模様にしてもらおうと思ったのです」とタクシードライバーが慰めてくれた。

「実は私たち三名はこの界隈では野盗を追い出した七人の侍のような存在になっているのですよ。何の功績もなかった僕などは和尚様と夏海さんを結びつけた存在だというだけで、七人の侍の一人に勘定されているのです。夏海さんと和尚様は、それぞれ三人前です」

 僕は彼らを勝手に七人の侍にする書いた覚えがあるが、彼の話す内容が理解できない。

「実は夏海さんが和尚様をこの店に連れ込んだ昨年の秋の頃、この界隈はひどい事態に陥っていたらしいのですよ。細かく時間もないので話せませんが、簡単に話します」

 彼は仕事しながら、話し続けた。

「この界隈で質の悪い四名の臆病者たちが居て、タンポポ組だ、スミレ組だ、サクラ組、ヒマワリ組だと周囲の飲食業界を脅かし、みかじめ料を強要していたようです。噂も立ち、界隈から客足も遠のき、寂れる一方で、かんこ鳥さえ啼くようになってしまった。その雰囲気に誘われるように本物の黒バラ一家が入り込んで来てしまったのですよ。最終的な目的は地上げです。これまで命など惜しくないと言い徘徊していた輩も真っ先に逃げたそうです。女将さんたちも立ち上がったのですが、あくどい輩ですから、女将さんがウブメだった頃の噂を持ち出し口を封じようとするなど、あらゆる手段を講じますが、女将さんも負けてはいません。しかし、どうしようもなく、いよいよ店じまいをするしかないとところまで追い詰められた頃です。夏海先生が蚊取り和尚をこの店に連れて来たのです。その日を境に黒バラ一家が姿を消しました」

「不思議な話ですね」と頭を傾げた。

 女将さんが顔を上げた。

「何も不思議な話ではありませんよ。夏海さんが和尚様を連れて来たあの夜に店は一杯になったのでしょう。界隈の者たちが和尚様の踊りに引き寄せられて店に集まったのよ。もう一度、立ち上がることを約束したのです。あの人の踊りで勇気を取り戻したのですよ。楽しかったわね。本当に久しぶりよ。諦めかけたこともあった。その時に夏海さんが和尚様からの手紙を届けてくれたの。絶対に負けてはいけないと感じた。ロシナンテも身体を張って頑張ったのよ。何と言っても、和尚様の踊りを見た黒バラ一家の者が人生観を百八十度、変えたのよ」と。

 そんな話とは別に和尚様と四人の女たちはインデアンダンスを踊り始めていた。

「あの姿なの。あの和尚様の踊りを見たら、強面の男達も馬鹿馬鹿しさのあまり、人生を考え直し、故郷に戻ろうと言う気になったらしいの」

「始めて見る踊りですね」

「実はお一人で、何度も店に来て頂いていたのよ」

 なるほどこのような裏の事情があったのか。女将が和尚様を受け入れた一連の流れが納得できた。

「そうですか。和尚様も心の中で夏海先生には感謝をしているのよ。先生からの多額の喜捨のおかげで通えると。そんなことで今日は招待させて頂いたのです」と。

「喜捨のおかげ」と僕は不安を口にした。

 女将さんが失言したかと言う表情をした。

 インディアンダンスを踊りながら、隣を通りかけたヒバリが甲高い声を上げて教えてくれた。

「原稿料を全部、喜捨して下さっているのでしょう」と

「ええ」と悲鳴を上げた。

「みんな夏海先生が好きなのよ。でも先生には好きなんて言えないのよ。これがオ・ト・メ・コ・コ・ロと言うものよ」と言い、有無を言わさず力強い腕で踊りの中に引きずり込んだ。

 女将さんは大きく頷き、せめてのお礼をしなければ言いながら、編み棒を動かし始めた。もう少しで完成するのだろうか。隣にはタクシードライバーのためのパンツを編むための黄色い毛糸と黒い毛糸が準備されている。虎模様のパンツを編む準備である。

 踊りながらも、「喜捨、喜捨、喜捨・・・・・」と言葉が頭を駆け巡っていたが、インディアンダンスも終わり、童謡の汽車ポッポに代わり、身体が勝手に「汽車、汽車、シュポ、シュポ、シュポッポ」という踊り馴染んでいた。

「サンチョパンサ、いいセンスをしている。不器用だが、それが面白い。劇団に加えてやる」と蚊取り和尚の声で我に返った。

「ところで、タンポポ組の桐原という男は二十年前に君を離婚に追い込んだ男の仲間であろう。今度は君の新しい家庭を怖そうとしているやも知れない。戦うしかない」

 電話が掛かって以来、二週間ほど過ぎても妻は受話器を容易に取るとしない。留守番電話をセットしたままである。客感的な証拠が何もない以上、手の打ちようがない。今回も法廷で証言する者がいない。

「相手も情けない。恥ずかしいことだ。タンポポ組の名前を出せば君が脅えるとでも思ったのか。一番怖い存在はタンポポ組なのだろう。馬鹿としか言いようがない。当局には連絡をしたのだな」

「もちろんです。タンポポ組なるものが存在するかどうかと言うことも聞きましたが。当局は教えてくれませんでした」

 タンポポ組は息子が通う幼稚園の組である。桐原と言う名前は、やくざ映画に登場する人物名から思い付いたかも知れない。ナツコを出せと二度めの電話で言ったらしいが、これは僕の夏海と言うペンネームから連想する名前である。犯人は悟らせようと電話の内容を考えて組み立てつもりだったかも知れない。だが、このような時代である。思いも知らぬ誰かが犯罪に巻き込まれかけている可能性もある。単なる間違い電話ではすませる訳にはいかない。

「情報提供も善良な一市民の義務だ」と和尚様は毅然と言い切った。

「夏海先生、偉いわ」と、ひばりの声だと思ったが、和尚様はナゴミと呼び、「当然のことだ。そんなことで褒めることではない。くせになる」といけないとたしなめた。

「万が一のことがあったら、世界中の神仏の加護を受ける拙僧が弔ってやる。望むなら仏教の如何なる宗派の形式でもよい。神道、キリスト教、平和的なイスラム教徒の儀式でも弔ってやる。望めば靖国神社、千鳥が淵のいずれにでも祀ってやる。墓碑も拙僧が書いてやろう。君の大好きなカボチャのために死すと書いてやっても良い」

 勝手なことばかり言う。無茶苦茶なことを言う。ポコポコに叩きのめしてやろうと思った。

「なごみ」と和尚様が呼びかける。ハイと優しい返事が返ってきた。すると怒りは収まり、「勝手にほざいて下さい」と小さな怒りに変わった。

「誰か拙僧の高い理想を墓碑に刻まさせる人物は現れないだろうか。靖国神社にこだわらない。満開の桜が見事な千鳥が淵がよい。拙僧が刻む墓碑は、『地球と、その星に生存する全ての生命体のために。世界のために。人類のために。そして・・・・・。唯一の命をありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。サンキュウ。誰でも良い、このような墓碑銘を刻ませる歴史的英雄は現れぬものか。サンチョパンサ、どうだ」

 呆れて言葉も出ない。怒る気力も消え失せた。

 アホ。フルムン。・・・・芥川賞、直木賞など国内の文学賞を一切、無視して、ノーベル賞作家を目指す夏海惺からの提言です。日本国民の皆さん、アホ、フルムンに類する方言を募集します。そして蚊取り和尚に投げかけることを提言します。

「そんな無謀なたくらみを政府が許すものですか」

「その時には拙僧の長崎の寺にでも祀ることにする」

「とにかく人の命を粗末に扱わないでください」

「せっかく歴史に残る碑文も考えたのに」

 いつもなら蚊取り和尚の言葉を聞かずに帰っていたかも知れない。だが隣のナゴミと言う女性が思いとどませた。

「頑張ってね。夏海先生。みんな先生が好きなの。みんな先生の味方よ。きっと私たちでも役に立つことがあると思う」と彼女は心の中で祈っているのである。

「戦の前の踊りは終わった。最後のしめをする」と蚊取り和尚は宣言し、輪の中央に戻った。

「八百万の神々が、この世を支配していた頃から途切れることなく引き継がれてきた踊りである。弟スサオノの命の暴力に怒って、天照の神が天の岩屋に隠れ入ってしまい世界が暗闇に覆われてしまった時に、困り果てた神々が祠の前踊り狂った踊りである。その踊りを披露する」

 和尚様は女たちを引き連れて、ふたたび奇妙な踊りを始めた。

「エイホ、エイホ。アラエッサッサー。ドジョウすくいだ。土佐のよさこい踊りだ。ハワイのフラダンスだ。沖縄のかち足だ。エイサーだ。佐賀の吉野ヶ里遺跡音頭だ。 ・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・」

「やはりトリは香川善通寺の弘法大師空海踊りだ」

 読者の皆様にお断りしておきますが、弘法大師空海踊りなるものが善通寺にあるかいなかは確認しておりません。本書は写実主義なる文学理論に基づき描かれておりますが、蚊取り和尚の言葉や行動を写実することを中心にしております。当の蚊取り和尚から、広告収入さえ頂ければ、各地の盆踊等を追加しろと申し付けられております。異国の踊り異教徒の踊りも問いません。町おこし村おこしに活用されるのも結構です。和尚様は踊りの種類を言葉で言い分けるが、全部、同じ踊りにしか見えない。女たちも嬉々として和尚様の踊りに付き合っている。あくどい新興宗教の始まりではないだろうか。傍から見ると、そんな不安を感じる。

「そろそろ、終わりにしましょう。今日はみんなで年の瀬を迎える約束よ」と女将さんが踊りを止めさせた。

 和尚は僕の座る自分の定位置のソファ席に戻って来て、夏海先生と呼び掛けた。僕は思わず身を引いた。サンチョーパンサとあだ名で呼ぶことを絶対に止めなかったのである。四人の女性たちは、すでに夏海先生と呼ぶようになっているのに、蚊取り和尚だけは止める気配さえなかった。、ところが彼は僕にはにじり寄るようにして近付くのである。

「君の小説に登場することに不満はない。しかも主人公として多額の喜捨も頂いている。だが、かとり和尚という名前はいかん」と彼は切り出した。驚いて和尚の顔を見た。彼が本気であることは一目瞭然である。喜捨の云々を話題にする段階ではない。

「かとり和尚という名前は良い名前だ。初春の草花の香りをも感じる、かぐわしい名前だ。勘違いをして十年分の蚊取り線香を送ってきた業者もいた。おかげで界隈全体は蚊取り線香に不自由しない。ナイルウィルスが上陸することもあるまいと近隣在住の者は喜んでおる。ただウブメと戦う拙僧としては、激しく険しい名前が欲しい。かとりと言う名前は香しい女性的なイメージが強すぎる」

 どうやら香取り和尚と言う名前で小説に登場していると誤解しているようである。

 蚊取り線香業者から蚊取り線香を送られてきた理由も含めて、すべてを勘違いしている。和尚の名前は「紛れもなく「蚊取り和尚」である。蚊取り線香のメーカーが、蚊取り線香販売増加に感謝して贈ってきた理由に違いない。蚊取り和尚という名前を採用することは彼には断っていない。このことが知られてしまったら、大騒ぎにすることは火を見るより明らかである。取り返しは付かない状況である。今頃、印刷会社の輪転機は増刷増刷で、音を立て印刷をしているはずである。

「実は。実は。実はの」と蚊取り和尚は、青ざめていく僕の耳元で脅迫者のように呟いた。

「火の国和尚様という名前が自分にはふさわしいと思う。ウブメら世紀の手強い妖怪軍団と日々、戦う拙僧には、阿蘇の燎原を焼き尽くすような名前がふさわしい」と自己申告した。

「火の国和尚様」

 漠然と彼の言葉を復唱した。火の国と言葉は長い間の努力で定着し掛けてきた熊本の愛称である。和尚様にこの名前を使えば、一瞬で、この「火の国」と言うイメージは瓦解しかねない。これこそ一大事である。柔和で美しい県知事も烈火のごとくの怒るに違いない。蚊取り和尚の申し出にタンポポ組に対する恐怖もすっ飛んでしまった。とにかう、この申し出を、うまく切り抜けて諦めさせねばならぬと焦りが先行した。

「女将さんも発案し、ロシナンテも喜んだ名前です」

 動揺を隠しながら女将の方を伺い、声をひそめて言った。実は和尚様の名前を漢字にするのか、ひらがなにするのか相談をしていない。すべてワープロの変換間違いのするか。あるいは、あの女性編集者が勝手に命名したと責任転嫁をするか。次回からは平仮名で「かとり和尚様」と書くことを約束するか。とにかく「火の国和尚様」と言う名前を和尚様に諦めさせるのが先決である。あらゆ手段を講じねばならない。それでも和尚様のずる賢さや強引さに対抗できる確実な自信はない。和尚様は僕の誤りを責め、無理矢理に次作から「火の国和尚様」という名前を冠せと脅迫しないとも限らない。作品は作家の手を離れて出版されたら、作者のものではない、。作者の自由にはないのである。読み手のものになるのである。諦めさせることができる交換条件はないものか。

「実はのう。あの阿蘇の赤牛を、もう一度、食べてみたい」と彼はあっさりと白状した。

 唖然と口を開けて聞いていた。蚊取り線香は十分に手に入れた。それで赤牛を食べたい。それで名前を変えろと言うのが本音ではないか。火の国和尚様と改名することで、熊本県から赤牛を頂けると考えたのでないか。浅ましい限りであるが、間違いあるまい。

「拙僧は最後の残りの一枚を味わうだけで良い。この世のものとは思えないあの美味しい阿蘇の赤牛の肉を、この店に集まる貧しき勤労者に振る舞ってやりたい。もちろん君の駄作を読まされる者達には振る舞おうと思っている。あの同人誌も日本で一番の歴史を誇るというのではないか。実にめでたいことだ。ギネスブックへの登録も出来るのではないか。拙僧などは振る舞った後の残り物を頂ければよい」と心にもないこと言うのである。現実には聖職者であると言う立場さえ忘れ、他人を押しのけても美味な阿蘇の赤牛の肉をたらふく食べることになるに違いに。それにしてもはた迷惑な煩悩の尽きない和尚様だ。僕の世話で女将さんを配偶者に得た上で、周囲の衛生環境を整えるための蚊取り線香を十分、手に入れ、その上、阿蘇の赤牛の肉を賞味したいので名前を変えろと言うのである。このような姑息な手段を続けて使うとは、世間を馬鹿にしていると糾弾されかねない。

 心を読み取ったのか和尚様が開き直り高圧的になった。

「サンチョパンサは拙僧の真意を疑っているようだな。あの長崎の歴史ある寺での碁の対決以来、拙僧に疑念を抱いていることは気付いているが、拙僧は碁石の色を白から黒に変えたりする秘技は持ち合わせていない。黒い碁石は黒であり、白い碁石は白に決まっている。実は君の動揺に乗じて、君の隙を伺い白い碁石を多く刺したことは白状する。作品を読んだ賢い読者は、すでに気付いているはずだ。君が気付かないでいるのなら、自分の作品を毛嫌いし読み返そうとせぬ君が悪いのだ。とにかく拙僧は心理作戦と言う正当な作戦で君をうち負かしたのである」

 次第に彼の意見は飛躍した。

「すべて君が悪い。拙僧は悪くない。拙僧は常に正しい。だから次作から拙僧の名前を変えろ。『かとり和尚』から、『火の国和尚』に変えろ」と執拗に繰り返すのである。特異な論理で自己主張を展開する。これが蚊取り和尚の恐ろしさである。

「簡単なことだ。以前のことは拘らない。次作からでよい。『蚊取り和尚』を『火の国和尚』に変えれば、県民は喜んで阿蘇の赤牛を一頭ぐらい、喜んで拙僧に献上してくれるはずだ」

 彼の主張は熊本県民にとって脅迫に等しい。はた迷惑きわまりない。彼を『火の国和尚様』とすることで熊本県のイメージダウンは県民にとって致命的である。こうなったら、みんなの力を借りるしかない。第三者の力を借りるしかないと考え付いた。それも広く第三者の力を借りるのである。

「解りました。和尚様は阿蘇の赤牛を手に入れて、本当に客に振る舞ってやる気があるのですか」

「無論だ。弘法大師に仕える拙僧に二言はない。あの味を善男前女に味あわせてやるだけよい。拙僧は年老いた赤牛の筋の固い部分でも良い」

「赤牛さえ手に入れば、『火の国和尚』などと言う名前にしろなどと強要することを止めますね」と、念を押すと彼は力強く頷いた。

「あの赤牛の味は高野山の奥の院におわす弘法大師様への土産話にもなる。『火の国和尚様』と言う力強い名前もウブメと対決する拙僧には魅力的だが、弘法大師空海和尚への土産話を優先する」

「店にいるすべての者が聞いていますよ。二言はないですね」と念を押した。

 それにしても阿蘇の赤牛を丸一頭、絞め殺して食ってしまおうとは。なんと貪欲なことか。仏教では殺生を禁じているはずである。どうなっているのか不安に思い。兄弟子に当たるタクシードライバーに無言で伺うと、彼は独り言で返した。

「仏道で修業する者の到達した段階を『守』、『破』、『離』と言う三の言葉で現わします。『守』は仏の教えをひたすら守る初心者の段階です。次ぎは『破』です。世間に馴染むため仏の教えを破る段階です。仏の教えが心の底に染みついているから許される行為です。最後の終着点は『離』です。これこそが悟りの境地です。形式を捨て教えも離れ、自己で考え、庶民とともに歩むことです。和尚様はすべてを悟り仏の道の最終段階に到着されました。うらやましい限りです」

 自分だけはなく、常識人だったタクシードライバーまで、この和尚様と付き合っていると変人になっていくような気がするが、とにかく世間一般に公表し、多くの人の意見を聞くために声を大にして訴えてやる。

「奇人・変人の『蚊取り和尚』が『火の国和尚様』と名前に変更するように強要しています。嫌なら美味な阿蘇の赤牛を寄越せと言っています。写実主義に基づき書いた小説のタイトルも『それいけ トントン天翔る火の国和尚様の大冒険物語』を変更せざる得ません。嫌なら、美味で名高い阿蘇の赤牛を自らのために用意しろと言っています。僕はどうしたら良いでしょうか。皆様の知恵を拝借したく思います。」


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