第8話サンチョパンサー阿蘇で阿蘇で赤牛の世話になる

 高野山の奥の院に、未だ無事におわす弘法大師空海への土産話にしたいなどなど、様々な言い訳を言い募った蚊取り和尚の願いは聞き入れられた。脅迫に近い願いだったが、「火の国和尚様」と言う名前を名乗らせろと言う彼の大迷惑な要求は回避できた。今回の件では、大変、誇りに思う次第である。また阿蘇の赤牛を用立てることに快く応じて頂いた熊本県民に感謝に堪えない。また、まことに喜ばしいことである。最大の危機は脱したのである。下品で奇人変人、自惚れ屋、偏屈な蚊取り和尚が、「火の国和尚様」などと名乗った暁には、取り返しのつかないイメージダウン、自分が熊本県民であることを告白することすら出来なくなっていたやも知れない。郷土愛に溢れる有志たちがネットで互いに呼び掛け合った結果であると信ずる。大きな出費だったことであろう。しかし怪我の功名と言う諺もある。今回の騒動で出来たネットワークを更に発展させ、県の発展、ひいては日本の発展、人類の平和に役立てて欲しい。

 ところで蚊取り和尚のことである。彼は赤牛が手に入る知るや否や、「貧しき勤労者諸君、日の目を見ない文学の求道者諸君、阿蘇の美味な赤牛をご馳走するからと明日の夜、店に集まれ」と隣近所や、彼が思い付くあらゆる人々に触れて回った。もちろん家にも連絡が届いた。連絡を受けたのは、忘れもしない平成十五年二月三日、月曜日のことである。赤牛の肉にありつけると、ひそかに楽しみにしていたので、その日をはっきり覚えている。和尚は、前の日の早朝、太陽も昇り切らない内に四人の女性を伴い、蚊取り和尚は赤牛を解体するための大きな包丁を持参し、阿蘇に出掛けたのである。

 ところがである。和尚様たちが出掛けた日の昼頃に女将さんから、「昨夜の話は中止になった」と謝罪の電話が急にあったのである。彼女は大慌てで詳しい理由は聞けなかった。無理もないことである。肉をご馳走すると無責任に和尚様が触れ回った者すべてに彼女は取り消しの電話をしていたのである。電話の相手は数十人に及んだはずである。実は僕も対応を迫られた。蚊取り和尚の言葉を疑わずに信じて、自分が属する秘密結社の関係者に誘いの電話をしていたのである。緊急に、昨夜の話がキャンセルされたことの謝罪の電話を掛けたのである。僕以外の者は阿蘇の赤牛の肉がいかに美味であるか承知しており、落胆のあまり、僕をひどく責めて怒りに任せて電話を切った。仲間を裏切ったのだから、仕方がない。詳しい事情を知るために、店に出掛けたのである。このような悪運が付きまとう日には、次にどのような悪い出来事が続く予想も出来ないので完全武装で出掛けることにした。地味なハブ模様の大島と女将がこさえた紅白模様の毛糸にパンツの鎧で身を固めたのである。ハブ柄の地味な大島紬の裏には紅白の毛糸パンツ。絶妙なコンビネションである。和装する時の悩みの種であった風が吹き抜けるような股間の冷たさも気にならない。実はタクシードライバーが工夫を凝らした料理で最近では店の名も知れ渡り、筋の良い多くの客が集まるようになっていた。蚊取り和尚の下品さに引き寄せられて、食い意地の張った客も多く出入りするようになったのであるが、それはそれで店としては繁盛していた。その客の中にウブメに魂を奪われた者が紛れていないとも限らないのである。用心をせねば、また家庭の不和を招く電話などがかかってこないとも限らない。これまでは裏切られ続けていたが、案外、今日あたり、騒ぎを聞きつけたテレビ局が取材を行っていないともかぎらないのである。その時には他人を押しのけて一番前に躍り出て、大島の渋い風格で昔に流行った「サインはV」と茶の間の観客に喜んでもらおうと覚悟を決めている。カメラのアングルによっては、地味な紬の裾を巻き上げて、紅白の毛糸パンツをちらつかせるサービスをしても良いとも思っている。これも出版不況が叫ばれる今、大作品を世に送り出すために慎ましい努力である。

 それにしても大島は良い。目立ってしまう中年太りの体型も隠すことが出来る。生まれつき足の短さも隠してくれる。大作家の風格も醸し出すことができる。町を歩いても人目を引く。ウブメら妖怪の攻撃から身を守る効果もある。文字とおり、一石三鳥以上の効果である。亭主の安全のためである。受賞式のためにと仕立てた着物を使用することに、妻も同意をしてくれた。静かに、しかし堂々と店の扉を開けた。いきなり四人の女性たちが一塊りになり、泣いている光景みに出会したのである。

「何あった」と叫んだ。

 彼女たちは返事もせず、輪を造り泣き続けている。まるで八岐大蛇に差し出される人身御供ではないか。

 彼女たちは蚊取り和尚とともに、阿蘇の草原に出掛けたはずである。まさか乙女心をわきまえていない蚊取り和尚のことである。草原の中で、周囲に人の目がないことを良いことに四人の女に破廉恥な悪さでも仕掛けたのではないか。腕力では叶わなくても和尚には妖力がある。立てたドラム缶にも似て赤牛と同じくらい、たくましい体型をした彼女たちであるが、乙女心を持つ女たちである。四人の女たちが、恐怖で寒風吹きすさぶ阿蘇の草原に途方にくれたマウイ島の石の彫像のように立ち尽くす姿が脳裏を掠めた。

「違うの」と、ひばりの鋭い高音の声が否定した。

「可愛そうで」と朱美が付け食えた。

 朱美という女性が四人の女性の中にいたか定かでない。

「いくらうまそうでも、しめ殺せないのよ」と昌子が言葉が続けた。「和尚様の大掃除」の作品での名前と違うかも知れないが勘弁して頂きたい。最近に、かろうじて顔の区別が出来るようになった四人の女であるが、まだ名前を完全には覚えきれないのである。

「そのつもりで行ったのだろう。泣いている理由が分からない」と質問した。

「赤牛を目の前にすると、処分するのが出来なくなったらしいのよ」と女将さんが説明を加えた。それでも四人の女性は泣いている。

「それでもあの蚊取り和尚が阿蘇に残り絞め殺そうとしているので泣いて帰って来たの」

「違うわ」とひばりが強く否定した。

「和尚様は山に残ったのは、赤牛の世話をするためよ」と朱美が答えた。

 四人の号泣する理由が、これでは解らない。

「実は頂いた赤牛は一頭ではなく。親子づれだったらいの。年老いた父牛と母牛のつがい。その間に産まれた子牛の三頭を用意してあったのよ。その子牛の姿を見たとたんに、この子たちは絞め殺してなどと考えたことを後悔して泣いているのよ」と女将が説明をしてくれる。

「実は夏海先生のご家族の姿を思い出したのよ」。

 とんでもない嫌な予感する。赤牛家族を救うためよ。

「和尚様さんに嘆願するために、父牛はサンチョパンサ、母牛は先生の奥さん、そして子牛は息子さんと名付けたのよ」

 もちろん妻や息子に名があるが、ここで書くわけにはいかない。こともあろうに赤牛の家族に僕の妻や息子の名前を付けてるとは。

 最悪である。だが悪運それだけでない。女将さんが口火を切った。

「実はね先生、うちの人、高齢でしょう。それに阿蘇は冷えるでしょう。今夜は雪が降るという予報も出ているのよ。主人から先生に赤牛の面倒を見るために山に登ってきてもらえと伝言があったのよ。タクシードライバーさんも山に残ったままなのよ。早く帰さねば今夜の店の料理の仕込みもできない」

 ひばりが付け加えた。

「せっかく赤牛一家に先生家族の名前を付けてあげたしね」と、余計なことだと心の中で叫んだ。

 もちろん女将さんの申し出でも簡単に受け入れる訳にはいかない。ここ一週間で仕上げねばならない原稿もありますと言い訳をしようとした。丁度、その時、蚊取り和尚から女将さんに「寒くて死にそうだ」と、電話が来た。女性たちは大変だと、今にも蚊取り和尚が凍死すると色めき立った。背中を強引に押され、早く早くと四人の女性と阿蘇の山に急ぐことになったのである。高級呉服の大島を普段着に着替える余裕などなかった。


 キーをひねると、すでに走行距離十万キローを越えた日本製の車のエンジンが静かに回った。燃費も良い。故障知らずの優秀な車は快調に走った。アスファルト道路は優秀な日本の技術者が設計し、動労者の手で綺麗に整備されたものである。座席を通じ心地よい刺激がお尻に伝わった。実は生活習慣病である痔に悩んでいた。やがて車は外輪山に登る急な坂道を中年太りの僕が運転しているが、滑るように登って行く。坂を登り切っても車は疲れる様子はない。生活習慣病に蝕まれつつ身体を休めるために、天皇陛下も下界の雄大な景色を堪能した外輪山の茶屋の駐車場で、ほんの数分、一休みをする。百五十年前に名字を名乗ることを許された庶民の子孫であるが、天皇陛下と同じ景色を心ゆくまで堪能し、駐車場を出発した。真冬である。草の日陰の所々に白い残雪も残っている。だがさわやかなドライブである。蚊取り和尚との煩わしい関係や編集者との嫌味も忘れることが出来た。そこから一キロメートルも走ると、枯れ草の草原の中にキラキラに光る屋根が見えるはずである。そこをすぐに右に入り込む細い道があると言う。道案内のひばりは首を長くして周囲を見回している。キラキラと光る屋根を見落とさないように、ゆっくりと車を走らせた。

「あった。あった」と、ひばりが最初に見つけた。

 太陽光発電装置は大草原の中でも目印にもなることに気付いたその装置に紅色と白色の彩色を施すことが出来れば、広告塔にすることも出来るかも知れない。後日、商標登録を考えても良い。紅白フンドシを商標登録し、一山当てようと考えた和尚様のアイデアに比べたら、このアイデアの方が生産的で健全である。ブレーキを軽く踏み、ハンドルを大きく切って、右の脇道に入った。車は意のまま動いた。舗装のされていないガタガタの悪路も車はトラブルことなく走った。人影が見えた。彼は大きく両手を振っていた。黒い僧衣をまとった蚊取り和尚である。そばに大きな赤牛が二頭いて、その間に挟まれるように小さな子牛が座っている。四人の女性が交互に事情を説明した三頭の赤牛である。太陽光発電は牛舎の屋根になっている。タクシードライバーが部屋の中を片付けていた。太陽光発電は牛舎の屋根にも使え、雨や風から弱い子牛を守ることも出来る。赤牛たちは和尚様を慕うように僕たちに付いて来た。綺麗に綺麗に一畳のたたみの間がある。三畳ほどは綺麗に枯れ草が敷き詰めている。

「立派なものだろう」

 彼は牛舎の中を眺めている僕に自慢した。

゜今、完成した物だ」

「一体、どのようにして」

「電気会社の社長達に事情を説明し、無理に頼んだ。何、一夜で城を完成させた豊臣秀吉の仕事に比べれば、楽なものだ」

 簡単に入手できるものではないことは一目瞭然である。

「どの会社の社長たちですか」

「心配するな。そのあたりの社長だ。かとり和尚様と名乗ったら、ぜひうちの製品を使ってくれと数社が押し寄せて来た」

「代金は」

「もちろん払う。君の作品の原稿料が出たら払う」

 呆れて聞く気にもならない。

「編集長に聞けば分かる。電気も十分にある。湯を沸かすことも料理をする機器も揃っている。闇夜でも明かりに不自由はしない。すべて日本製の製品だ。さすがに暖房器具を使うには電力不足だが、子牛に紛れて母牛の大きな乳の間に潜り込めば暖かい。後は頼むぞ」と蚊取り和尚は早口で言い残すとタクシードライバーが運転する車に乗り、帰って行った。もちろんヒバリもである。自分が一人、山中の残されたことを知り呆然、自失した。一生懸命、余暇を活用し書いている作品の原稿料はすべて和尚様の口座に振り込まれていたことは間違いない。君は公務員だから口座を開けるまいと彼は口座を開いていた。何と愚かしいことをしてしまったことか。キャッシュカードで残高確認をすると、いつも残高なしだった。和尚様は出版社から振り込まれたら、すぐに現金をおろしていたに違いない。しかし僕にも弱みはある。公務員は原則、兼業禁止である。だからお出版社からの原稿料を受け取ることは出来ないのである。蚊取り和尚のように、金銀財宝に執着心を抱いている訳ではない。壮大な夢に僕も描いているのである。それこそ社会正義である。社会のために印税を投資しても差し支えないと思っている。印税を手にしたら、必要経費を差し引いた金額の三分の一を拙い原稿を修正する妻に、後の三分の一をアイディアを提供する息子に、残りの三分の一をウブメたち妖怪に心を奪われた者達の犠牲になった哀れな者を救うために、「ウブメ救済財団」を結成する基金にしようと考えていた。

 必要経費で入手したいのは薄く軽い高性能のノートパソコンだ。いつも携帯し、街の素敵な風景や人物を描写をする。春には草原に咲き乱れる華麗な草花を描写する。文書の行間から長く樽の中で熟成されたウィスキーのように芳醇な香りがあふれ出す文章を創り出し、魔術師のように乙女たちの感情を高ぶらせ、紅涙を絞り取る。 欲しいのはノートパソコンだけではない。欲しい物を数え上げれば切りがない。街を歩けば欲しい物ばかりで気が狂いそうだ。鈍い運動神経を助けてくれる自動操縦機能付きの車も欲しい。新築のマイホームも欲しい。

 山中の置き去りされて何日が過ぎたろうか。もちろん帰ろうとすれば帰れる。しかし三頭の赤牛を残して帰るのは出来ない。催促する電話をすると和尚様は妻の名前と、息子の名前を呼び、君の家族の引き取り先は責任を持って探すから、しばらく待てと言っている。

 タクシードライバーが料理の素材を求めて近くの市場にやって来た途中に立ち寄ってくれた。蚊取り和尚も一緒だった。

「この生活に満足しているようですね。良かった」と彼は慰めた。彼との幸福な長崎時代の交流を思い出した。そこに蚊取り和尚が加わった途端に、人生が狂った。いつまでもタクシードライバーではまずいと思いながら、ふさわしい名前を考える時間もないまま過ぎてしまった。

 蚊取り和尚は牛たちと話をしているように見えた。牛たちは彼に馴染み、彼を取り囲んでいる。

「一緒に暮らしたいと言うのか。拙僧を困らせるな。君たちと平和な草原の生活に安住している訳にはいかないのだ。拙僧にはやらねばならぬことが残っておる。ウブメら妖怪との対決が、まだ終わっておらぬ」

 父牛のモーと啼き声が、草原に響き渡った。和尚様は、父牛に向かって「サンチョパンサ、駄々をこねって困らせるな。もう少しで家族が安心して過ごせる安住の地を探してやる」

 母牛がモーと啼き声を上げる。

「あいつは頼りにない。そんなこと申すな。もう少しの辛抱だ。人間のサンチョパンサの面倒をみてくれ」と僕に視線を向けながら話している。

 子牛が甘えた声で泣いた。

「一緒に手まりをついて遊びたいと言っているぞ。分かった。分かった。人間のサンチョパンサでは面白くないか」

 ひどいことを言うと呆れながら、和尚様は牛の言葉が解るのか」とタクシードライバーに聞いた。彼は頷いて声をひそめて言った。

「牛だけではありません。あらゆる生命体と会話が出来きます。実は和尚様ほどではありませんが、私は半分ほどできます。夏海先生も理解できる時がきます」

 蚊取り和尚やタクシードライバーが牛と会話できるか疑問の挟む余地はないかも知れない。なにしろ彼は黄泉の国の死者や、妖怪変化とも会話を交わすことが出来るのである。それに比べれば、現世の動物と会話するなど、朝飯前のお茶漬けのはずである。

「とにかくウブメの妖怪と対決は一刻も猶予ならぬ出来事である。地球上でともに生きるお主たち一族の運命とも無関係ではない」と赤牛たちに告げているようだった。

 父牛と母牛の二頭が声を揃えて、モーモーと泣いた。

「分かってくれたか。拙僧の代わりにはならぬが、あの人間のサンチョパンサをよろしく頼む」と赤牛夫婦に僕のことを頼んでいる。

 赤牛たちは激しくモ、モーといなないた。

「牛たちは君の世話などしたくないと。『モ、モー嫌だ』と拒絶しておる。しかし新しい庇護者を探し当てるまで、彼に頼むしかない」と僕の意思など無視して宣言しながら、父牛の頭を撫でさすって、さらに言った。「大丈夫だ。心配するな。サンチョパンサには教育しておく」と。

「僕も一家の主です。妻に電話をしたい」と言い、彼から携帯電話を奪い取ろうとした。警察電話を保護を頼もうとしたのである。実はここ数日、僕は携帯電話も取り上げられていたのである。和尚は僕の電話で自宅にダイヤルしたのである。

「夏海さんに御世話になっております」

 掌を返したような変り様である。僕以外の者の前では劇的に常識人に変貌するのである。極端な多重人格者である。どのようにも変身できる。単純な僕の妻など、すぐに騙されている。黒衣の僧衣を身につけたまじめな僧侶だと思い込んでいるから、救いようがない。

「実は、阿蘇におりまして」と彼は妻に説明する。

「大変ですね」妻の声がかすかに聞こえる。

「私は店のこともありまして、いつまでも牛たちの面倒をみておれないのです」

「もっともなことです」

「自分が不在にする間に御主人様に私の代わりをして頂きたいとお願いしたところ、快く了解をして頂いたのです。私としては奥様や幼い息子さんのことのお気持ちを確かめたいと思いまして」

「日頃からただならぬ世話になっている和尚様の頼みです。職場には不摂生がたたり、持病のイボ痔が悪化したとでも伝えておきます。主人には後顧の憂いはないから、心ゆくまで牛たちの世話をするようにと伝えて下さい」

「君の細君にも説明したとおりだ。子牛たちに安住の地を捜してやるのが先決だ。あの大作家の夏目漱石も道に迷った由緒ある草深い草原だ。ここでの生活は君に大きな転機になる」と和尚様は僕の心をくすぶるようなことを言っているが、茫然自失した。その後、和尚様は赤牛の世話の仕方を教えた。

 その一、毎朝、ワラで三頭の牛の皮膚を擦って丁寧にマッサジーすること。

 その二、牛が草原の草を食べる時は、異物を食べぬように注意をすること。

 その三、彼らは人の世界には不慣れであるから事故に巻き込まれないように四六時中、注意すること。この時期は早朝、夕方、夜間と言えども、道路に牛たちが出ぬように見張ること。特に小牛の動向には目を離さぬこと。久住のスキー場へ向かう車が爆走しておる。屋根の上にスノーボードを積んでいる車には注意すること。

 その他、赤牛の三頭の身に危険が降りかかる時は、自分の身を盾にして護ること。

「僕の食事はどうするのですか。もう底を突きました」

「母牛に頼み、乳を分けてもらえ。決して赤牛の世話をしていると思い上がった考えを持つな。逆に世話になっていると思え。彼はそう言い残して、一陣の風とともに草原を去って行った。寒々とした草原の枯れ草の中、三頭の赤牛が和尚様との別れを惜しみ、モーモーといなないた。

 振り向き、彼は手を振って叫んだ。

「モーモー。モーーーー。(人間語訳 :心配するな。きっと安住の地を捜してやる)」

 三頭の牛たちは落ち込む僕を無視し、悠々と草原で草を食べ始めた。彼らは和尚様の言葉を信じて疑う様子はなかった。

 その日も陽が沈むと急に冷え込み、心細さも襲ってきて震え上がった。凍え死ぬことも頭を掠める寒さである。子牛と争うように母牛の懐に潜り込んだ。朝日で目が覚めると、子牛と争うように母牛の乳房に吸い付いた。そして目が覚めると彼らの身体を藁の束で力強く摩擦した。このような日がいつまで続くのか予想だに出来ない。ロシナンテがおれば、この仕事は彼にお鉢が回っていたに違いないが、彼はフィリピンに帰ったまま日本に帰る様子はない。もちろん日々の疲れを癒す暖かい風呂も洗濯もできない。高級呉服の大島も見る影もなく、汚れている。母牛も僕に同情心をするようになっていった。子牛に対すると同じように大きな赤い舌で顔を嘗めてくれる。家に戻っても、元の生活に戻ることが出来ないかも知れない。そんな不安が脳裏をよぎった。不安との葛藤の日が続いた。今回の事件の原因は説明すべきもないが、あの蚊取り和尚が仏の教え破り、赤牛を食べたいなどと言い始めたことに原因がある。すべて彼の責任であるが、ひどい目にあっているのは善良な自分である。カレンダーのなしの生活で過ぎた日々の日数さえ忘れた。文字とおり、ある朝である。牛たちの大きないななき声で目を覚ました。朝日を浴びて、草原の中、黒衣の僧衣をまとった和尚様が近付いてくる。その時に彼が救世主に見えた。和尚様は赤牛に駆け寄り、赤牛たちは土煙を上げ和尚様に突進した。彼らは抱き合い、再会を喜んだ。和尚様は赤牛三頭のために安住の地を探し当てたようである。

「赤牛を要らぬかと聞くと、みんな舌をなめ、よだれを垂らして欲しいと答える。なにしろ、この辺りの者は、年老いた赤牛でも美味なることを知り尽くしておる。赤牛の天寿をまっとうさせるようにと条件を付けると、正直者は断った。腹黒い者は、『いいでしょう』と言いながら、さらによだれを垂らす」

 二頭の赤牛が怒って、モモーと大きな声でいなないた。子牛は恐れおののき、母牛の陰に隠れた。和尚様は、「すまん、すまん。人間には悪い奴もいる」と言い、僕に視線を移した。

「ある農場にたどり着いた。そこには子供たちが多く集まっていた。そこの主人に相談したところ喜んでくれた。子ども遊び相手をしてくれる条件で、天寿を全うさせるとことを約束してくれた。どうだ、この条件で」と和尚様は赤牛たちに聞いた。

 どこやらの観光農場の類に違いないが、赤牛たちはモーモーと喜んだ。

 和尚様に遅れて、タクシードライバーがやって来た。彼は僕の姿を見てショックを受けたらしいが、すぐに和尚様と今後のことを相談を交わした。

「歩いて赤牛たちを連れて行くしか方法はあるまい」と和尚様に彼に言った。

「交通の邪魔にならないように裏道を行って下さい」とタクシードライバーが念を押している。

「手野の清水から外輪山の麓のキャンプ場の側を通り、たんぼのあぜ道、それから先は国道を移動するしかない」と和尚様は自らの考えを述べた。赤牛の首にキリスト教の宣教師が洗礼に使用する大きな鈴を付けた。ロシナンテが洗礼を受けた時にも宣教師が頭上でチリンチリンと鳴らした鈴である。和尚様がどこで手に入れたのか知る由もない。三頭の赤牛が歩き始めると、首の鈴は可愛い「チリン、チリン」と澄んだ音を立てた。その時に、そばを数十頭の馬が、「パカ。パカ」と軽い足音を響かせ通り過ぎた。和尚様はこの蹄の音で想い出したように見送る僕を振り返り、怒鳴った。

「サンチョパンサー。パカたちの脅迫に負けたり、思惑に振り回されて短気を起して、柵の中から塀の中に落ちるようなパカな真似はするな。例の脅迫電話のことも気にするな」

 三頭の赤牛たちが、モーモーと啼いた。

 さようなら、頑張ってと言っているにちがいない。数週間の彼らとの生活で赤牛たちの言葉が少し理解出来るようになっていた。

 

 和尚様たちが去った後、タクシードライバーがねぎらいの言葉を掛けてくれた。彼の言葉で現実の世界に戻ったことを実感し、涙ぐんだ。牛たちとの別れを惜しんでの涙なのではない。自己の人生に悲哀を感じのである。

だが、「痔の具合はどうですか」とタクシードライバーに聞かれて気付いたが、これまで苦しんでいたイボ痔が快癒していることに気付いたのである。後日、これは奇跡的な出来事だと知った。普通ならこのような不衛生な環境で、しかも寒暖の激しい高地での生活は痔の悪化を招き、イボ痔も切れ痔や痔瘻に変じ、処置が遅れれば死に至ることもあると言う。読者諸君の中には痔に悩む者が居ると思いますが、このような荒療治を絶対に真似をしないで下さい。

 長々と書いたが、読者諸官の中にも今回の騒動に巻き込まれて迷惑を被った方もいるはずである。彼らが旅立ったのは三月二十日前後のことであるか、国道沿いの峠道が渋滞していたと聞いている。原因は年老いたヨボヨボの赤牛の両親と生まれたての子牛の三頭をつれた「蚊取り和尚」の一行である。小説は虚構の産物である。この小説も例外ではない。真実は法廷内のみにある。高齢の赤牛の夫婦と子牛家族を本作品の作者家族とだぶらせて、作品を読むことは謹んで頂きたい。

 後日談である。家に帰った夜、奇妙な夢を見た。生活が出来なくなり、離島から引き上げてきた時に住んだ小さな六畳一間で家族六人が暮らしていた時のことである。床の抜け落ちそうな古い家、狭い路地とスラム街、そして近く流れるどぶ川の臭いが漂っていた。家の近くに手足がマッチ棒のように細い女の子が住んでいた。肌は黒く薄汚れていた。しかしある日を境に一家は忽然と姿を消した。まとまった金が出来たので家族で地上の楽園に帰ったと言う噂だけが残った。あの家族はどのような運命を辿った運命を思った。

 あの赤牛一家は無事に過ごせるだろうか。

 同じ夢を数日、続けて見た。いつも目が覚めると、周囲は白み掛けていた。



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