第10話サンチョパンサ、肥前の国でムツゴロウに食い倒れる

 また転勤であった。妻も大変である。

 今度は肥前の国への転属が命ぜられ、移り住み、半年が過ぎようとしていた。

 筆が進まない。理由は二つある。

 一つは頭の中の問題である。実は奇妙な現象が頻繁に起きるのである。紅白のフンドシを身に付けた蚊取り和尚が頭の中にワンサカワンサカ、ヤンサカ、ヤンサカ、アラエッサッサと現れるのである。人差し指と中指でハサミをV字型を作り、がに股で蟹歩きの格好で横切ったり、ウルトラマンがスペシューウム光線を発射する格好で通り過ぎたりする。有明海のムツゴロウのように泥の中で顔を出すこともあれば、気球に乗って姿を現すこともある。すべてペラペラのシール状で平面的である。明らかに遠隔操作を受けていると自覚するが、ひたすら蚊取り和尚から教えてもらった悪霊退散の呪文を唱えるが、効果はない。その呪文の解き方を彼は承知しているのである。放射能を遮断する鉛の箱があれば、試してみたいものである。降参をすると彼は勝ち誇り、大笑いしながら姿を消すのである。

 もう一つは社会的な問題である。小説に対し多数の苦情の声が寄せられることである。脅迫まがいの苦情もある。有名になるということは大変のことだと改めて認識した次第である。代表的な苦情は、蚊取り和尚のの属する宗派の件である。宗教問題に発展しかねない微妙な問題で頭を抱えている。「真言宗の宗派には貴殿の作品中の蚊取り和尚のような不真面目な僧侶は絶対に存在しない。イメージダウンも甚だしいので修正をされたい」と言う至極、もっともな指摘である。ひたすら謝るしかなかった。活字文化を活性化し日本将来を背負える人材が必要だ、頑張れと激励の言葉も数少ないが頂いているが、真言密教に対する迷惑を懸ける訳にいかない。袋小路に追い詰められた訳であるが、蚊取り和尚の言動を過去に遡り、彼の宗派や宗教を思索する日が続いた。正直に告白すると、彼が真言密教に属する僧侶であると信ずるのは、空海和尚様を褒めるのを耳にしているからである。また真言密教においてのみ現代に至るまで祈祷や呪詛という行為が伝えられているからである。ところが有名なオカルト映画「エクソシスト」で祈祷という悪魔払いという行為がカトリック教でも行われていることを知った。それに阿蘇の赤牛を安住の地ファミリ牧場まで誘導した時に赤牛たちが迷わないように彼が用意したのは牧師が洗礼用に使う鈴であった。そう思うと、蚊取り和尚がカトリック教の牧師でないかと思うに至ったのである。蚊取り和尚ではなく、蚊取り牧師と表現すべきではないかと思い始めたのである。疑いは収まらない。赤牛に対する彼の思い入れは異常である。牛を大切にするヒンズー教の聖職者ではないかと疑うことあった。いやそうではなく、日本古代の神道に属する聖職者でないかと思うこともあった。昨年の年の暮れの大掃除の際に、配偶者である女将の店で一年間の邪気を追い払うと称して奇妙な踊りを四人の女たちと繰り広げた時に彼が手に持っていたのは八百万の神々を祭る神道の道を究めた神官が使用する鈴であったことを思い出した。神社で奉納に舞う神楽を舞う時の必需品である。いやいやそうではないかも知れない。熱心な読者なら思い出して頂けるだろうが、フィリピンの故郷の上空でロシナンテに落下傘を背負わせ、蹴落とす時に「南無阿弥陀仏」と唱えるように諭すべきだったと懺悔していたことを。これは彼が他力本願を教える浄土宗か浄土真宗の僧侶であることを示しているのではないか。怒濤のごとく疑問の波が押し寄せてくる。「結論を急ぐな、待て。冷静に」と心中で叫ぶ。蚊取り和尚の一番弟子であるタクシードライバーが和尚様の到達した終業の段階を、「守、破、離」の「離」であると評したことを思い出した。「守、破、離」とは、まさしく茶道の世界の修行の段階を示す言葉である。茶道の世界観から発生した新興宗教の一派ではないか。豊臣秀吉の権力に抵抗し自害した利休を殉教者とする宗教が存続してもおかしくはあるまい。私は写実主義の精神を信奉し、小説を書いている。真相解明も重要である。ここで止める訳にはいかない。彼はウブメたち妖怪と戦いの目的を「国家安護、家庭安全」を勝ち取ることだと説いていた。日蓮宗の教えに相通ずるものがある。彼は日蓮宗かも知れず、彼のことは蚊取り聖人と呼ぶべきではないか。憶測が頭の中で飛び交うが、結論には至らない。だが、明確なことは、このように蚊取り和尚と結びつける宗教宗派が増えれば増えるほど、私は宗教界に敵を多く造ることになると言うことである。仏教の創始者である釈迦の言葉にも人を知りたければ彼の友人を見ろという教えがあるが、僕も彼と同類に見られているのだろうか。それが気になって仕方がない。彼と離別して半年が過ぎようとしている。努めて彼の存在は忘れたいと思っているが、定期的に頭をかすめる例の妄想である。会社で盆踊りが催される日のことである。盆踊りであるから、もちろん時間帯は夕暮れから九時の頃合いである。例のシール状の蚊取り和尚の像が、頭の中に現れたのである。それも無数に、これまで体験したこともない鮮明な画像である。例の踊りとは言えない滑稽な格好で踊っている。それも音声付きである。

「サンチョパンサ、どこに隠れた。逃げても無駄だ。隠れても無駄だ」と叫んでいる。薄いシール状の和尚様が選挙運動中の街宣車のごとく、やかましい叫び声が頭の中を駆け巡るのである。疑う余地はない。彼は近くにいる。吉野ヶ里遺跡音頭と言う弥生時代から伝わる歴史ある盆踊りが整然として行われる輪の中に奇妙な姿の男が紛れ込んでいる。

 吉野ヶ里遺跡と言うと説明する必要もないと思うが一応説明しておく。佐賀県の東部に位置し神埼郡神埼町、三田川町、東脊振村にまたがる広い遺跡である。米作農業が始まった弥生時代紀元前三世紀から紀元三世紀の間の弥生時代の遺跡である。そのいにしえの歴史と伝統を受け継ぐ格式高い盆踊りを楽しむ老若男女の踊り子の中に一人だけ浮き立つ滑稽な踊り子を発見したのである。投光器で照らされているが、顔は遠すぎて確認できない。だが観客の中には、その滑稽な踊り子に気付き騒ぎ出した。背筋に悪寒を走った。熱い熱帯夜あったが、全身に震えが走り、周囲を囲む観衆をかき分け、逃げようとした。

 その時である。「オーイ、サンチョパンサ、どこにいる。逃げても無駄だ。姿を現せ」とふたたび声がしたのである。「オーイ。師匠が心配して励ましに来てやった」。「心配などして頂かずとも結構です」と心の中で叫ぶ。すると返事が返ってくるのである。「無礼なことを言うな。これまでの恩義を忘れたのか」「恩を受けたことなどありません」。「かくなる上は天罰を与えてやるぞ。サンチョパンサ」

 頭が締め付けられ激痛が頭を走った。次の瞬間、はるか遠くで踊っていたはずの彼が目の前に立ちはだかっていた。

「天罰の恐ろしさを知ったか。ワハッハッハ。またな」と言い捨てて、視界からかき消えた。

 卒倒したらしい。目が覚めたのは病院の中だった。今でも私はこの時に自分の身に起きたことは不思議で仕様がない。あえて揶揄すれば三蔵法師に付きそう孫悟空が頭の輪が頭を締め付けられる時も同じ苦しみだったに違いない。気が付いた時には、内科医の病室にいたのである。簡単な問診の後に、世話になっている心療内科医の診察室に通された。もちろん心療内科の医師は卒倒する当時の様子を細かく聞いた。

「酒は飲んでいましたか」

「盆踊りですから、飲んでいました」

「前の晩は眠れました」

「いいえ、眠れませんでした」

「その前の晩は」

「眠れませんでした」

「その前の晩は」

 永遠のループを描くように医者は同じ質問を繰り返すように思えたので、私は結論を出した。

「ずうと毎晩眠れていません」

 思わず口調も強くなった。反抗的な態度だと思われたようである。医師の目が険しくった。カルテに意味不明なミミズのような字を書き綴った。ドイツ語であろうか。盗み見よとするが見えない。彼に嫌われたら、どのような目に会わないとも限らない

「それで、どうしましたか」

「焼酎をコップで数杯煽ります」

「それで眠れましたか」

「いや、それでも眠れません」

「それでどうしましたか」

「安眠剤を飲みます」

「それで眠れましたか」

「何とか」

「昼間はどうな調子ですか」

「ずうと頭が冴えず、ボとした状況が続きます」

「眠れない理由は何ですか」

 根ほり葉ほり聞きたがる。

 シール状になった蚊取り和尚が姿を現わすなど様子を正直に話した。彼は表情を変えず、カルテにミミズような字を書き止め続けた。

「一週間ほど休みますか」と言い、入院を言い渡された。翌日から毎日、も同じ質問を繰り返された。

「眠れました」

「一晩中気味の悪い幻覚に似た夢に悩まされたのです」

「日中はどうでした」

「頭は冴えず、ボーとしていました」

「酒と安眠剤の併用することは厳しく禁じたはずです」

「背は小さいが、体重は普通の二倍はあるから、大丈夫だろうと思ったのです」

「とんでもないことです」

 医師は首を横に振り、厳しくたしなめた。

「その盆踊りの時にあなたを襲った急な頭痛は蚊取り和尚などと言う怪僧の天罰などではありません。薬の副作用です。薬を変えてみましょう。絶対に処方箋以上の薬を飲んでもいけません。アルコールとの併用も駄目です。それに出来るだけ薬は服用しないで下さい。問題は何故眠れなくなったかと言うことです。蚊取り和尚などと言う者は実在しないのです」と彼は結論を出し、処方箋を書いてくれた。そして付け加えた。

「問題は蚊取り和尚と言う人の存在です。あなたは現実社会で、よっぽどひどい目に会っているのですよ。そのせいで蚊取り和尚と言う幻想を造ったのです。でもあなたのような人は世の中に大勢います。いつでも来て下さい」

 慰める若い医者の目に涙が浮かんでいた。彼の優しい言葉に、慰められる私も思わず涙ぐんだ。

「でも、もし、現実に存在したら会ってみたいものですね」と医師は、私の立場に共感をしたように言ったので、思わず咳き込むように応えた。

「無茶苦茶な人です。独善的で頑固で執念深くて、この世に存在してはいけないとしか表現できない人です。先生に会わせることができるような人物ではありません」

「そうですか。学問的に研究対象として価値があるやも知れません」と彼は応えた。

 私は医者の鋭い分析に感心した。

 とにかく約束とおり一週間で退院できた。

蚊取り和尚も遠くへ去って行った。それで早い退院となったと私は解釈した。実は入院期間中、一度も蚊取り和尚の妄想を見ずに済んだのである。

  

 翌日、出勤しようとする直前に宿舎のベルが鳴った。扉を開けると蚊取り和尚が立っていた。後ろに四名の女性も立っている。

 息を呑んで立ち尽くした。

「どうしたのですか」

 奥の方から妻の声がする。五人の乱入者を任せておいたままで出勤は出来ない。気分が悪くなったと職場に電話をし休むしかない。

「しばらく滞在することにした。非常に肥前の国が気に入った」

 気に入って頂けたのは光栄です。社交辞令である。

「なにしろ人情がよい。景色も綺麗である。食べ物も美味しい。歴史もある。ご婦人方も綺麗でエレガンスで賢い」

「そうですか」

 彼が気に入った理由など聞かない。深入りをしたくないのである。

「それで、宿の都合を頼みたい」

「ホテルか旅館を勝手に探せばいいでしょう。いくらでも良い宿はありますよ」

「お金がない」

「それでは滞在できる訳はないでしょう」

「お金を都合せ」

「都合出来るお金などはありません。」

 ところが横から妻が口を出す。

「あなた気高い和尚様にその口の利き方は何ですか。工夫をしようと思えば、いくらでも方法はあるはずです」と言うのである。

「奥様、ご主人を怒らないで下さい」

 和尚様が私を庇うふりをした。

 どうすれば良いと言うのだ。こんな狭い宿舎に、どうやって五名を泊めるのか。僕は妻の無責任な言葉に腹を立てつつ、彼の後ろに控える目障りな四人の女たちも一緒に部屋に入れてやるしかなかった。

「仕事が出来ない。融通も利かない。だから出世も出来ない。その上で人間関係もまともに構成できない。それで毎年、転属をさせられるのですよ。苦労するのは荷造りをする私です。転校を繰り返す息子です」

 妻の言葉は事実である。でもここまで亭主に恥をかかせることもなかろう妻も和尚様に騙されている。マインドコントロールされているようである。夫である私がいくら和尚様の正体を聞かせても、心を開こうとはしない。

「和尚様はあなたの命の恩人ですよ」

「和尚様が命の恩人」。さすがに耳を疑い、妻を攻めた。

「そうですよ。あなたが盆踊りに最中に卒倒した時に病院に運び込んだのは、和尚様です。そして電話で連絡してくれたのも和尚様ですよ」

「何を言う。和尚様はあの時『天罰だ』と言い捨てて、関わるまいと卒倒した僕を捨てて、その場を逃げ去ったはずである」

「卒倒して気を失ったあなたに何が分かるものですか。それに和尚様は奥さんを乱暴に怒鳴ることもありません。それに比べてあなたはどうですか。私のことを今のように怒鳴る。召し使いのようにこき使う。家が狭いのはあなたのせいですが、裏の公園にテントを張ればすれば、恩人の和尚様ご一行に何日でも滞在して頂けるでしょう」

「公園にテントを張るなど非常識すぎる」

「役場に事情を説明しなさい」と妻は畳みかける。

「馬鹿なことを言うな」

「馬鹿とはなんですか。あなたこそ馬鹿です。あなたのうだつが上がらないから、どれだけ私と息子が迷惑しているか考えたことはありますか。毎年、見知らぬ土地に引っ越しをするのは、あなたのせいでしょう」

 妻の機関銃の連射が始まった。

「どうやって役場に説明するのか。言ってみろ」

「そんなことも解らないのですか。簡単でしょう。真実を見て、真実を告げるのです。和尚様は地球を救う方です。そんな方に滞在して頂けることは町にとっても光栄なことでしょう。あの公園に蚊取り和尚滞在の地と記念碑でも建てれば、吉野ヶ里遺跡に勝るとも劣らない観光名所地になります」

 妻は完全に蚊取り和尚のマインドコントロール下にある。和尚様は妻の大演説に大満足である。

「心にないことを言え。嘘を付けと言うのか」

「だからあなたは、いつまでもうだつが上がらないのです。とにかく行きなさい。さもなければ私が家を出て行きます」

 愚妻であるが、家を出て行かれたら困る。彼女がいなくなれば食事も洗濯も出来ない。長い独身生活で、その不自由さは身に染みている。妻は私の苦境を見抜いているのである。もちろん諍いが絶えない夫婦であるから、子連れで女一人、生活する道は、いつも考えているはずである。

「ついでにテントと寝具の準備もするのよ」と厳命し、蚊取り和尚への愛想は忘れない。

「申し訳ありません。和尚様に世事のことで御心配を掛けまして、大丈夫ですよ。この人は駄目でも私がいますから。家にはこの人が使いもしないのに衝動買いしたテントもありますよ。」と妻の声は豹変し猫なで声になった。

「一張りしかない。一人で二人分のスペースが必要なのだぞ」と妻の暴言に四人の女を見るように目線で示して反論した。

「本当に本当に融通が利かないのね。だから駄目なの。あなたの会社にはテントなどの貸し出す制度があるでしょう。それを活用しなさい。それさえも出来ないの」

 午前中、役場に行き、公園にテントを張る許可を得た。昼から気分がすぐれないという理由で休んだ会社にレジャー用のテントを借りに行く始末になった。

 もちろん役場で妻の言い分が世間に通ずる訳がない。家庭の内情を暴露し説明するしかない。許可を願えなければ家庭崩壊、自分が命を絶つことになるやも知れぬと職員を前に騒いだ。騒ぎを聞きつけた若い町長が、町長室から慌てて出てきた。さすがに町長は周囲の前評判とおり大物だった。私たち家族の危機に対し、最大限の支援を約束してくれた。

「詳しい事情は理解できませんが、あなたにとって大変なことのようです。私が治める町に住む者が危機に面していることにを無視できません」と宣言し、彼は自らの政治生命をかける覚悟で僕の命を救ってくれた。お返しに議会の糾弾を受ける時には私のプライバシーをすべて公表して許しを請うことを申し出た。それにしても忙しい町長様の心や職務を乱してことは迷惑千万なことである。

「地球の危機を救った蚊取り和尚滞在の地と言う記念碑を建ててれば、将来の観光名所になるにやも知れぬ」と妻は信じ切っているようだが、なぜこのような突飛なことを思い付いたのか想像だにできない。まして「蚊取り和尚滞在の地」なる碑が将来、建立され、近隣の吉野ヶ里遺跡に同等に扱われるなど妄想もはなはだしい。

 恥を忍び、借りてきたテントを立て、夜には食事の準備をしなければならなかった。大騒ぎの一日が終わった。公園で何日間、滞在するつもりか分からないが、迷惑千万である。風呂は近くにある温泉で済ませるらしい。

 早々と明かりが消えた。公園のテントの中からスヤスヤと寝息が聞こえて来そうである。寝静まった夜中に僕はとうとう妻に爆発した。

「あの腐れ坊主の蚊取り和尚にそんなに肩入れする理由があるのか」と口汚く妻をののしった。突然、爆発に妻は戸惑った。何時もと立場が逆になってしまったようである。

「蚊取り和尚と特別な関係でもあるのか」

「特別な関係とはどういうことですか」

 自分の大失言に気付いた。

「何かあるとは、どういうことですか」

「いや。そんな意味で言ったのではない」

「それではどんなつもりで言ったのですか。情けない。女の気持ちも理解でないで、よく物書きになろうなどと思いますね。一体、将来の生活をどうするつもりですか。いつリストラされても不思議ではない立場なのでしょう。情けない。子供さえいなければいなければ、今すぐにでも家を出て行くのに」

 修羅場である。しかもいつも妻が優位な関係である。

「ふふん」と彼女は鼻で笑った。

「そんなことより、あの和尚様のお連れの四人の女性を見る時の目つきは何ですか。嫌らしい」

 妻は吐き捨てるように言った。

「何を言う。太った女は嫌いだ」

「あら、それでは痩せた女性が好みのなのですか」

「いや、そうでもない」

「嘘をおっしゃい」と彼女は厳しく断罪した。

「そういえば、町を歩く時に痩せた女性を見る時の目が汚らわしい。年を考えなさい」

 声をひそめた深夜の壮絶な痴話喧嘩である。寝入った幼い子供に対する配慮は忘れず、今にも爆発しそうな声と感情を押し殺した上での喧嘩である。刃傷沙汰につながる不慮の事故に繋がらないとも限らないが、その点は安心である。なにしろ我が家では、不眠症の私が寝付かれず、禁じ手のアルコールと多量の安眠剤を一緒に服用することもあり、不慮の事故を防止するために、包丁は施錠した上で金庫の中に厳重にしまうことにしている。鍵は妻の手にある。万が一、見ず知らずの家から金庫を持ち出した泥棒が、中をこじ開けて包丁が二本入っているだけの場面に遭遇したなら、その金庫の持ち主が「夏海惺」家の所有物であると断定しても良い。家宝とし子孫に伝えるかゴミとして処分するかは自由である。幸いなことにその夜も息子は目を覚まさなかった。

「蚊取り和尚は我が家の恩人です。少なくとも貴方の小説家としての才能を認めている唯一の方なのですよ」


 その夜、奇妙な悪夢を見た。牛乳のように白い海面は静かにねっとりとうねっている。海面を叩く小雨の波紋が見える。月はなく漆喰の闇夜である。なま暖かい夏の海である。私は木の小舟を操っている。こんな夜にはウブメが現れる。嫌な予感に震えた。予感とおりであった。やはり現れたのである。手に柄杓を持っている。手の肉も削ぎ落ち骨も青い血管が浮き出ている。浴衣の胸は大きくはだけ肋骨が浮き出ている。髪の毛の隙間からのぞく顔色は青白い。目は切れ長く細い。髪の毛は長く、先端が白く濁った海面に海面に漂っている。子を孕んでいるのか、下腹部が異常に膨らんでいる。女は顔をうつぶせにし、スーと海面を滑るように近寄って来た。シーシー、あっちへ行け、あっちへ行けと手の甲で追い払おうとするが、ウブメは低くうなり声を上げて感情を抑えた声で囁いた。「情けない。私をお忘れですか。ウブメにしたのはあなたですよ。私はあなたの妻ですよ」と。声には聞き覚えがあるが、怖い。シーシーと手で甲で追い払おうとするとウブメは許さず、私の乗る船に柄杓で水を注ぎ込み始めた。

「一杯、一杯、一杯。早く船一杯になって船を沈めてしまえ」と柄杓で海水を船に注ぎ入れるたびに船は沈んでいく。夢の中で和尚様と始めて碁を打った場面を思い出していた。実はウブメの話を聞いたのは、その時が初めてである。まさか自分がこのような目に会うことになるとは予想だにしなかった。すべて彼が仕組んだ仕業にちがいないと夢の中で思った瞬間に「サンチョパンサどうした」と気勢を上げて和尚様が夢の中に乱入して来た。「夏海丸も沈みかけて困っているようだな。助けてやろうか」。「助けなどいらんから、早く夢から出て行け」。そう答えると、彼は鬼のような恐ろしい形相に変わり怒鳴った。「師匠に向かって乱暴な口答えをするな」。「師匠などと思ったことはない」。いつものやり取りである。「おのれサンチョパンサ、思い知らせてやる」と言い、彼はたもとから柄杓を取り出し、ウブメに変じた妻とともに私の乗る小舟に海水を注ぎ始めた。目は赤く血走り、頭には二本の角が突き出していた。腕組みをし仁王立ちになった腕にも足にも血管が青く浮き出ている。「正体を現したな。鬼め」と叫び、私は必死に船のあかくみで水を掻き出しながら、「あれほど嫌っていたウブメと共同戦線を張るなど和尚様も気が触れたか」と叫んでいた。「沈め沈め、我ら泥船『夏海丸』、沈め沈め我ら泥船『夏海丸』」と声を揃え歌いながら船に海水を柄杓で入れ続ける。先まで木の船であったはずの小舟は泥船に変わっていた。船の縁から注ぎ込む採水に泥が溶け出して暖かい海水が足下に満ちてくる。船そこも溶けて、まるで田圃の中のようになっていく。沈め沈め、我らの『夏海丸』。沈め沈め我ら『夏海丸』妻と息子二人の歌声が漆黒の波静かな夜の有明海に響いた。今度は、海中から海坊主が姿を現した。まぎれもなく幼い息子である。「父ちゃん、父ちゃん、あくたまん賞を上げるから僕についておいで。父ちゃん、父ちゃん、あくたま賞を上げるよ。僕についておいで」と海中に呼び込もうとする。息子が言うあくたま賞とは芥川賞の意味である。蚊取り和尚と出会う前に三名名仲むつましく平穏で暮らしを続けていた頃に、私が芥川賞が欲しい欲しいと連発していた。それを耳にした息子はあくたまん賞と発言するようになった。さらに息子はウルトラマンショーと同一のものだと信じているのである。そのお馬鹿な息子が海坊主に変身して、「父ちゃん、父ちゃん、あくたまん賞を上げるよ、僕に着いておいで」と叫びながら泥船の縁にしがみついて揺するのである。泥船の縁から水が入り、今にも沈みそうである。

「もう芥川賞など要らん。いきなりノーベル文学賞だ。あっち行け」と叫ぶと、息子は「身の程知らずの欲張り」と叫び、子なき爺に変身、耳の鼓膜をつんざく大声に泣き船を揺すった。四人の女性たちも海面に姿を現した。そして沈め沈め、泥船『夏海丸』。沈め沈め泥船『夏海丸』とソプラノのバックコーラスをつけ始めた。もう無茶苦茶である。とにかく恐ろしい。必死に負けじと呪文を唱え始めた。「気合いだ。気合いだ。ナームー ジュゲム、ナームー ジュゲム、ジュゲムジュゲムゴコウスリキレ スリキレ ズボン ハ トウチャン ノ ズボン ナームー」と、意味不明だが悪魔払いに効果があると蚊取り和尚から伝授された呪文を唱え続ける。この呪文を唱え始めると妻が化身したウブメが大口を身体をよじり笑い転げ始めた。寸刻をおかず、蚊取り和尚が腹を抱えて「カラカラ」と大声で笑い始めたカラカラと言う笑い声はガラガラと金属を叩く時に発する音に変わった。突然、蚊取り和尚の顔が豹変し、真顔になった。「目が覚めたか」と蚊取り和尚の声である。気がつくと蚊取り和尚一行が家に上がり込み、朝餉をたいらげていた。

「佐賀旅行が楽しすぎて忘れかけていた。サンチョパンサを助けに来たのだった。お主は、足を引っ張るネットワークに阻まれ、仕事が出来なくなっているようだな。それでありがたい祈祷を上げるために来たのだ」

 和尚様の言うとおりである。毎日毎日、古い黄ばんだ書類を読み続けている付けている。意味のない仕事である。まるで拷問を受けているような日が続いている。目の前には古いがパソコンがあるが、誰も情報を提供してくれない。和尚様の祈祷などで改善するはずなどない。

「で、祈祷は終わりましたか」と聞いた。終わったら、さっさと女将さんの処へ帰れと言いたいのでる。

「実は」と和尚様は少し言いあぐねるふりをした。

「遠慮なく仰ってくださいな」


「実はここ肥前の国が気に入りまして。地味であるが、風光明媚で人情も篤く。多くの偉人をも輩出している。しかも美味しい物も沢山ある、そのような肥前の国に来たのだから、ゆっくりと味わってみたい」

「連れの方たちも一緒にですの」と台所から妻が聞く。四人の女性たちも同じだと応えた。

「そうですか。たしかに和尚様が言われるとおり佐賀は素晴らしい所ですよ。是非、心ゆくまで楽しんで下さいませ」

「困ったことに車がないのですよ」

 嘘を言っている。「熊本から車で来たのでしょう」と叫んでいた。四人の女は古いワゴン車で来ていた。病院慰問の時に使う車である。

「実は運転手がいないのですよ」

 和尚様は大声で訂正をした。

「元締めオタツがいるのでしょう」

「あなた」と大きな声が返ってきた。

 朝一番の平和な時間帯に、「元締めのオタツ」などとと物騒な名前を叫んでしまったことを戒めている。周囲に住む者は平凡な凡人である。すぐに近所の噂になるにちがいない。

「実は、オタツが腰が痛い」と申しまして。目の前の私でなく台所の妻に話し掛けた。声も猫撫で声に代わった。

「それで夏海先生にお願いを」

 妻は世間体を憚らない大声で返した。

「あなた聞いていましたね。大恩ある和尚様のお願いよ」

 あなたなどという呼び声を、ここ数年、聞いた覚えがない。実は夏海と言うペンネームは数年前に妻が私にプレゼントしてくれたのである。ところが私は才能を認められず、一向に文壇デビューを果たせない。そのようなこともあって愛想を尽かされたのである。彼女が名付けた「夏海」と言うペンネームが、いつになったら華々しくデビューを果たすか待ち焦がれていたのである。しかし、もう諦めたようである。それ以来、私を呼ぶ時は、「あんた」と呼ぶようになっていた。口も出ず、めも出ず。でもピノキオのように鼻と腹だけは出てきた。これが妻の口癖になっていた。このような時であるが、和尚様の夏海先生と呼び掛けは妻の脳裏に昔のことを思い出させ、彼女を歓喜させたようである。ますます妻の気持ちが和尚様へ傾くように思えてならない。それにしても蚊取り和尚の頭の構造を理解できない。妻の前では絶対に「夏海先生」と呼び、陰では、「サンチョパンサ」と呼び分ける。他人にはこの器用さは容易に真似できまい。

「ところで、夕べ、夢の中で何か奇妙なまじないをしていたようだが、ナーム ジュゲムジュゲム何とか。あれはなんだ」と

「それは、あなたが教えた悪霊払いのまじないではないですか。それしか知りませんから仕方なく唱えてているのです」

 効果らしきものがあった。意味不明であるが、この念仏を一心不乱に念じると不思議に心が静まった。

「それ昔の子供の名前だよ。僕も知っている。毎日テレビでやっているもの。昔の子供の名前だよ。もうすぐ始まるよ」と、隣の部屋でテレビを見ている息子の声がした。

「父ちゃんに教えてくれるか。坊や」と和尚様はあざけ笑っている

「昔、昔、子供に恵まれなかった夫婦に息子が生れたそうだよ。あまりの嬉しさに父ちゃんが喜び、息子が早く死んでは大変だからと偉い坊さんに子供の名前を相談したんだって。すると和尚様はジュゲム、ナームー ジュゲム、ジュゲムジュゲムゴコウスリキレと長い名前を考えて下さった。ところがある日、子供が遊んでいる内に井戸に落ちてしまい、彼を助けるために、他の子供たちが父の元に駆け付けたが、その長い名前を呼ぶ間に息子は溺れてしまったと言う悲しい話だよ」

「よく出来た。そう言うことだ」と和尚様は鷹揚に頷いた。

「僕をからかったのか」と私は叫んだ。

「とんでもないことを言うな」

 和尚様は両手を振り否定し、逆に説教した。

「信ずるべきことや学ぶべきことを誤ると人生を誤る。無意味なことを一生懸命、学んでも無駄と言うものだ。疑いもせず他人の言葉を信じ切るとは、愚か者め。怠け者め」と彼は説教するのである。

「そんなことより、拙僧のワッペンを無垢な庶民に売り付けて金儲けをしようと考えたであろう」

「知らぬ。記憶にない」と彼の指摘を声を潜めて突き放した。

「嘘を申すな。気球に乗る姿を最上級にして、次に地上を徘徊する姿を、そして際下位に泥の中から顔だけを現す私の姿をワッペンにして売り付けようとしたであろう。最高級の品物には金を使い、次には銀を、最後には銅を使おうと考えたはずだ」

 実はそうである。

「決して嫌がっている訳ではない。サンチョパンサ、小遣いも欲しかろう」と弱みを付いてくる。そして交換条件を突きつけてくるのである。「有明海のムツゴロウを食べたいな」と。ムツゴロウの料理なら大きな出費もかさむまいと諦めながら思った。車を動かすと、すぐに和尚様一行は本性をさらけ出した。背振山の古い温泉につかりたい。唐津城の天守閣に登りたい。虹の松原を見てみたい。呼子で新鮮なイカソーメーンを食べたい。新鮮なアワビが食いたい。新鮮なウニが食べたい。蚊取り和尚一行の食欲は飽くことを知らないように見えた。彼が言葉を発すると私の財布のお札が羽を生やして飛んでいった。もちろん出費も嫌である。だがそれ以上に、宗教家の末端に席を占める立場も自覚して頂きたいと。思い切って苦言を口にしてみたが、意に介する様子もない。店に入るなり、五名は口々に勝手なことを言いながらガツガツと食べ続けたのである。高級なイカソーメーンやアワビの躍り食いなども良かったが、やはり弥生時代からの伝統の味、ムツゴロウの蒲焼きが庶民の味が最高よね。ボリボリ、パクパク。

ボリボリ、パクパク。弥生時代の昔にはこのあたりまで海だったらしい。このタレも最高。弥生時代にこんな美味しいたれはなかったでしょうね。ボリボリ、パクパク。今の時代に生まれてきて本当に幸せよね。ボリボリ、パクパク。ボリボリ、パクパク。そうよ、そうよ。本当に幸せ。素材も素晴らしいけど、こんなに美味しく頂けるのは、このタレのお陰がよ。ボリボリ、パクパク。こうなったら誰が話しているのか区別もつかない。区別の付かない四人の女性になってしまった。お代わりをしていいかしら夏海先生。ボリボリ、パクパク。私の返事を待たず、お代わりを注文して、ボリボリ、パクパク。おいしわ。カルシウムたっぷりの骨がいけるわよ。ボリボリ、パクパク。ムツゴロウの愛きょうたっぷりの頭も捨てたものではないわ。ボリボリ、パクパク。うん、素敵。ボリボリ、パクパク。

 四名とも満腹して、タヌキのように腹を叩いた。その後も、またおしゃべりである。

 沢山、頂いたわ。これでムツゴロウさんたちとも会話が出来るようになれたかも知れないわね。きっとなれたわよと、ムツゴロウを食っておいて身勝手にことを言い交わしている。きっとサンチョパンサさんも会話ができるようになるわよ付録に付け加える。冥界の人々と話をすることに比べたら簡単よ。あら御免なさい。先生をサンチョパンサなどと呼んでと、ひばりが慌てて失言を取り消した。彼女たちも本心では蚊取り和尚と同じく自分のことを軽く見ているのであろう。その後、その失言を償おうと四人の女は口を揃えて、夏海先生、夏海先生、夏海先生と連発するが、気分は晴れない。それを見て、私が悩んでいると感じたらしい。

「先生の気持ちは解るは。先生は人が好きだから悩むのよ。人を棄てきれないのよ。だから悩むのよ。優しいから他人のために苦しむのよ」

「でも他人ことを許してばかり居れないわよ。根性の腐った輩はどこでもいるから。そんな輩は許してはいけません。徹底してやつけるべきよ。中途半端ななま殺しもいけません。逆恨みを買うこともあります。とにかく悪人に同情は禁物です」

 四名の女性を束ねるリーダー的な存在でもある、元締めのオタツの言葉である。

「そんな奴は、私がシューして上げようか」

 カミソリのオリュウは人差し指でのど仏をかっ切る仕草をした。カミソリなど刃物を使う技が特技である。女将さんの店の調理場で鋭いカミソリで器用に肉を裂き、客を喜ばしていた。超の付く、一流の技に気前の良い客が感激し、チップ投げ込むことも店の名物行事になっていた。

「夏海先生のように気前がいい人なら許して上げても良いのではなくて」と女性の誰かが言った。

 蚊取り和尚が箸が宙に止った。

「サンチョパンサーのように気前がよい奴なら、会って見たい。弟子にしてもよい。彼のような弟子がもう一人いれば、老後の心配も要らない」

 蚊取り和尚が自分に関わり始めた時期は、過去の問題などで心が弱り切っていた時期である。寄生虫のように寄生を始めたのである。

 二十数年前の出来事から背負い続けた風評と心に刻まれた傷の大きさをあらためて知った。消えぬ伝説にもなっていた。

 ボリボリ、パクパク。

 ボリボリ、パクパク。

 再び、食欲が戻った。

 有明海のムツゴロウをも食い尽くすのではないかと危惧を抱くほど旺盛な食欲である。そう思った矢先に店長がムツゴロウの料理が底を付いた謝りに来た。

「どうにでもなれ、どうにでもして」と自暴自棄になり心の中で叫んでいた。料金精算の時を迎えて、カードの許容金額を超える額だった。店に事情を説明し、一人、帰り、女房殿に救いを求めた。「何故、四人の女性たち食事代を都合せねばならないのか」と烈火のごとく怒った。お金を都合できなければ、蚊取り和尚が人質に取られたままになると言い訳をした。今回の件は生涯を通じて償って頂きますと捨て台詞のはて、へそくりを都合してくれた。ムツゴロウに食い倒されてしまったのである。三日間の彼等の滞在で要した食費はン十万円を超している。やはり和尚様は天敵だ。一時の出来心で彼を見直し掛けたことも悔いである。失った経費は明日からコツコツと返していくしかない。

 一行が去った夜に、なつかしく甘美な夢を見た。これまで住んだことのある町の風景を浅いまどろみの中で見た。ところが風景の一部が欠落して思い出せない。家路が分からず道に迷ってしまった。四国の町、琵琶湖に面した町。東北の町。

 もう住む機会もあるまい。

 昨日まで和尚様たちが滞在していた、窓の外の小さな公園や背後に広がる畑も、北の背振の山並みもやがて遠い思い出に化す日が来る。すべて、かりそめの風景である。臨終の床でこのよう夢を見ることが出来ればよいと思った。

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