第1話ウブメ(産女)参上
前書き
実に第一章の「産女参上」は面白くない。作者も認めるところである。賢明な読者は第二章「大再会」から読み始めることをお勧めする。それも面白くないと感じる方は、第三章「大災禍」からでも良かろう。
ということで作者と蚊取り和尚と出会いについて書いた「産女参上」を最期の章に持ってくることにした。
蚊取り和尚とは自分にとって如何なる存在か。
人生の無常、限界、地球と言う小さな惑星でしか生きていけないと気付いた少年時代から、自分の心に巣くっていた存在である。
それが四十五歳頃になって大暴れし始め、怒りと恐れを押さえるために書き始めた。
俗に言う中二病と言う奴かも知れない。
2011年3月11に東日本大震災、それに続く福島原発事故の頃には、猛烈に暴れ始めた。家族とは別居中であり、家族崩壊を招かなかったのは不幸中の幸いである。
ウブメ(産女)参上
寺で碁でも打とうと連絡があった。しかし大人がふたりで何の掛けもせず碁を打つのも退屈だから、賭ようということになった。学生時代に碁を打っていたので、腕にも自信があり、軽い気持ちで受けた。これがとんでも無いことになったのである。
あの日も、こんな日だったと和尚様は語り始めた。どんよりと雲が垂れ下がり、雨がシトシト降る。空から巨大な万力で押さえつけられるような閉塞感を感じる日だった。和尚様と僕の出会いの機会を造ったのは、あのタクシーの運転手である。タクシー運転手は師匠だと紹介した。強烈な人である紹介し、修行に入るからと彼は高野山に去った。僕が仕事の都合で長崎を去る前のことである。タクシードライバーは小説家志望の僕に話の種を残しておこうと善意で紹介をしてくれたのである。
寺を訪れた。
一言で言うとボロ寺である。辺鄙な場所で檀家だけでは生計も立ちそうもない。年も高齢である。宗教活動に全人生を傾けたという。
和尚様は碁を打ちながら語った。
「タクシー運転手という職業は霊感の強い者には向かない仕事かも知れない。乗客の人生が見えることで不愉快な思いをしたり、面倒に巻き込まれることも少なくない。救いようのない、おぞましい人の乗せることもあるようだ。重い宿命を背負う人が乗って来ることもあるようだ。むしろ、そのような不幸なことに出会うことの方が多い」と彼は弟子の苦労を慰めた。
「実は彼のことを本山に連絡をし、修業に戻すことにしたのは考えてのことだ。実は彼は因縁深い乗客を拾った。その日もシトシト雨の日だった。まだ昼頃の長崎駅だった。長崎港のフェリー乗り場を行先に指定された。若くすがすがしい青年に見えた。だがタクシードライバーはすぐに見ぬいた。表面は喜びで浮き立っている。表情も明るい。だが心の底には黒く重い悩みを抱えている。彼は心の奥底に潜む苦悩をうち消すために不自然に気持ちを高ぶらせていた。彼の旅の目的は妻を長崎に連れてくることだと言うことだった。好青年であった。不安を感じながらフェリー乗場に姿を消す見送った。それから十日ほど後の日だった。港に行くとタクシードライバーの耳に、ヒタヒタと船縁を叩く波の音に混じり、嗄れた老婆の声が聞こえたのである。これまで様々な幽霊や物の怪と会ってきたが、こんな怖いと思ったことはなかった。気味悪さにすくみ上ってしまったのである。うめき声のような声のようでもあり、叫び声のような声のようでもあった。周囲はネオンの夜景で夜陰も彩られているのに海面だけは暗く霞んでいる。『悔しい。悔しい。うらめしい。大事な子供を奪われてしまった。誰かこの老母の恨みを晴らしてくれ』と。強い恨みを残す声である。それに大事なことは多くの声が重なっているのである。事故、犯罪、戦争、自殺などで子供を奪われた女の声に違いない。『恨んでやる。滅ぼしてやる」。次の日もやむを得ぬ事情で港に立ち寄ると、また同じ言葉が聞こえた。そこでタクシードライバーは私に相談をしてきた。その種の声は時空を超えて伝わってくる。しかし媒体をする物体や物質があるはずである。人形などが、良い例である。波止場に停泊する船も荷物や人を運ぶだけではない。海中に沈む霊や、物の怪の類を拾って来ることもある。船は生き物と考えてよい。だから人形などに比べて霊を運びやすい。今でも英語圏の国では船を彼女という代名詞を冠して呼ぶのも、そのためだ。しかし自然界に悪霊が自由行き来きし、害をなさぬように結界も存在する。問題はその結界に穴が開きつつあるということである。それで彼に行動を急がせた。三日ほどして、タクシードライバーが結界を破る隙間を見つけたと報告してきた。『何を苦しんでいる』と私の助言とおり船に話しかけたが、老婆は恨みの呪いの言葉を繰りだけであった。ところが次の日、夕方に波止場に行くと、同じ船が停泊していて、『「私たちの声が聞こえるのか。どなたか』と質問してきた。タクシードライバーは『「拙僧は真言宗弘法大師に使える僧侶だ。あなたが善良な方なら拙僧は助けよう。人に害を与える霊なら祓うしかない」と応えた。次の日に老婆から答えが返ってきた。しかし声の主は一人になっていた。『あなたは私の息子をこの港へ運んだタクシードライバーではないか。私は息子を追い、海中に身を投げた老母だ』。タクシードライバーは、港で別れた好青年が亡くなったことに気付いた。そして、その老婆の霊に海中を漂う多くの死霊たちの声の声まで付着し、複数の声になっていたのである。『息子の亡骸は海中から引き上げられたが、私は海中を漂っている。あなたが冥土で息子が自分に語った有り難い和尚様か。是非、力を貸して欲しい。仇を打ってくれ。息子に問い質すために自ら命を絶ち、冥土に渡った。死を選んだ理由を聞きたださんがためである。だが親孝行は応えない。私が恨みを抱けば私も周囲を漂うウブメに変じ、成仏できなくなると言うのである。タクシードライバーは気付いた。昨日までの不気味な声はウブメという恐ろしい化け物の声だったである。しかしその夜の声はウブメにはなりきれない老婆の声だけになっていた。『拙僧に何をしろ』と言うのだ。タクシードライバーは尋ねた。次の日に老母からの答えが帰ってきた。『この船に乗り、保険調査員の夢の世界に入り込め』と告げ、会社名と名前を告げた上でそこにすべてがあると老婆は言った。
タクシードライバーの師匠に当たる和尚様は碁を打ち続けながら話している。彼の名前は聞いていない。タクシードライバーも同じであるが、互いに本名は明かさない決まりになっていた。理由は名前を明かすと呪詛をされる可能性が大きくなるからである。決して彼らの世界は平穏ではないのである。まだ彼らの世界に入り込まない状況であったが、日夜、物の怪との戦いに精魂を傾ける彼ら一族の厳しい現実は感じていた。
目の前で物語る和尚様が、拙本の主人公であり、蚊取り和尚という名前を付しているが、決して本名ではない。作者である私が勝手に名付けたものである。用心のために断っておくが、この物語を通じ、宗教家として蚊取り和尚のデタラメさに激怒し、呪詛しても、まったくあらぬ方向に飛んでしまうのである。物語を写実的に書き進める作者である夏海惺という名前も本名ではない。個人情報は確実に管理されているのである。勝負を急ぎたかった。勝負は自分の優勢で進んでいる。しかし和尚様は動揺の気配さえ見せなかった。ここからが自分の出番であると、和尚様は告げて、白い碁石を打った。
「今回の妖怪変化は、これまで出会った妖怪変化ではない。扱いを間違えるとウブメにもなりかねない。しかも彼女に同情するウブメは無数に存在する。もし、その老婆がウブメに変じて、そのウブメ軍団とともに長崎に上陸すれば、どのような混乱が起きるか想像できよう」と私に問いかけた。一瞬、男の不作法を追求するために桃色のヘルメットをかぶり、集団で会社を襲う中ピ連という女性軍団を連想した。和尚様は私の心の中の連想を読み取ったようである。和尚様はうなずき、人間は誰にも似たような傷を背負っている。彼も自分を責め掛けていた。拙僧は有無を言わせず、彼を高野山の修行に送った。そして老婆が告げた場所に足を運んだという訳だと言った。
「ところで、和尚様、ウブメとは何ですか。」と聞いた。これまでの彼の話が、まったく理解できていないことを打ち明けたようなものである。和尚様は顔を上げ、別世界の生き物でも見るように、虚ろな視線を投げた。
「お主、ウブメを知らぬのか」
大きな衝撃を受けたようでもある。私の無知は和尚様を傷つけたように見えた。
「ウブメと言うのは、船幽霊の一種だ。船幽霊、幽霊船。海坊主など海にまつわる幽霊は昔から人々に恐れられているが、中でもウブメが史上最強で恐ろしい存在だ。古い記録によると不知火湾内では幼い子供を失った女はウブメとなり、亡霊に変じ、海水の色を母乳のように白く染め幻を見せ、漁に勤しむ漁師の船に柄杓で海水を注ぎ込み船を沈める。島原の乱前後に有明海に現れ、善男男女を苦しめたらしいが、中国から長崎に渡って来た隠元和尚様が祓い清めて以降、静かになったと言う記録が残っている」
「隠元和尚様と言うと、あの隠元豆を伝えた方ですか」と知識を披露する気になった。
「お主も、多少の知識はあるようだな」と認めてくれた。
「馬祖神は知っているか」と聞いてきた。
「それは知っている」と答えると多少、安心したようである。寺町のお寺が出島貿易が盛んな頃、停泊中の船の馬祖神を祭っていたと言う案内板の記録を思い出したのである。
「すべての神々はウブメ対策だった。有名なビーナスもそうだ」
「とにかく翌日にタクシードライバーに変わり、拙僧は船に乗って出掛けた。実に快適な旅だった。最新式の船は猛スピードで海面を滑走した。拙僧が乗船しているからには、寺町の興福寺や崇福寺の馬祖神が全力を注ぎ、船を守っていると実感した。だが港に着き、船のタラップに足を乗せたとたんに悪寒が全身に走った。無数の小さな飛翔体が船を覆い尽くそうに飛び回っている。まるで船の周囲に黒い霞が掛かっている。ブヨである。ブヨは小さな悪鬼たちである。悪鬼が集団で船を守る馬祖神を攻撃しようとしている。霊感の弱い凡人には見えるはずはないが、不快感は感じるらしくタラップを降りる客たちは表情を汚している。馬祖神の強固である、だがこれ以上、悪鬼が増えると、いつかは馬祖神の守りも破られてしまう。そうなれば悪鬼の集団は船を媒体にして長崎にもやって来るのである。だから急がねばならない。子供を想う老母の霊がウブメに変ずるのも時間の問題である。地獄に戻れと一喝した。なぜ無理に哀れな老婆の霊を海底に封じ込める。貴様たちが空中で蓋をし、封じ込めているせいで船を媒介にし、遠く離れた長崎の港に霊が姿を現わすことになる』と、『そんなこと、俺たちの知ったことか』と無責任な答えが返ってきた」
「ウブメは分かりました。ブヨは何ですか。ウブメとは違うのですか」
「よいことに気付いた。西欧でいう堕天使と同じ存在である。互いに競い合うこともある。人間社会も同じであろう」という回答が返ってきた。
「馬祖神、キョンシー、ビーナス、ゲゲゲの鬼太郎が黙っていなぞ」と正義の使者たちの存在を上げて怒鳴りつけると、臆病なブヨどもは黙ってしまった。すかさず拙僧は、誰の指示だと聞くと、ブヨどもは『みんなが、みんなが。みんなでやれば怖くない』と騒ぎ始めた。彼らは生霊の類にちがいない。生霊とは生きている人間が起こす悪い霊だ。憎む相手を呪い殺そうと五寸釘で藁人形を打ち抜く術があるが、あれも生霊に頼る好例である。とにかく上陸をしたが、見ず知らずの土地で誰を頼れば良い検討も付かず、さすがに途方にくれた。ところが足下に近付いた黒猫が語り掛けたのだ。当地の名産の店の鰹節を一本買ってくれれば、良いことを教えてやろう」と、独り言に似た話が耳障りになってきた。実は碁の勝負の行方も危うくなっていて、いらついていた。
「和尚様。いくら何でもデタラメだ。船が喋るだとか。猫が語り掛けてくるとか。子供でも真剣に相手にする訳がない。こんな話は小説には出来ません。」と僕は叫んだ。
「渇。だまらっしゃい。偏屈な堅い頭では理解できないことも世間には多々あるのだ。お主のような偏屈者の堅い頭では理解できないことも世間に多々ある。君は人類が月に行ったと信じるか」
「当たり前だ。世間の常識だ。歴史も証明している疑う余地もない事実だ。人類はアポロ計画で月に行った」と呆れながら反論した。
「証拠はあるか」
「テレビで月の上を宇宙飛行士が歩く姿を万人が見た」
「テレビで放送したら真実か。テレビ局が地球上で捏造したと疑わないのか。幼いね」
「和尚様より、テレビ局の方が信用できる」
雨漏りのしみ跡が残る畳の上に座る碁板を見た。まだ挽回の機会はある。
「和尚様が船で旅をするなどとは嘘に決まっている。自分で船には乗らないと言ったばかりだ」と矛盾点を追求した。
海には正体不明の魔物が多く住み着いている。ウブメはもとより海坊主、船幽霊の魔物、大だこなどの怪獣も生息している言ったのである。和尚様がいつの時代に生きている人物か疑問を感じる方も現れようが、自分たちと同じ時代に生息しているのである。彼は近代文明に対する懐疑主義者である。人間の精神は文明を正しき使いこなすほど成長していない。悪意があればマッチ一本で彼が守る由緒正しいこの立派な寺をも灰燼に帰すことが出来ると彼は初対面の私に主張したのである。できるだけ正確に記録をし披露したいと考えたが、読み物として筋も大事にしたい。やむを得ず、彼の主張を追加したのである。寺中も見回しても価値がありそうな物と言えば、古い碁盤が一つある。小雨の降る軒先を見て僕は苦笑した。和尚様の不潔な赤いフンドシが雨に濡れそぼれている。僕の視線に気付いたのか、「今日は赤フンドシだが。明日は白いフンドシを掛ける」と碁盤を睨みながら言った。
「一緒に掛けたらどうですか。紅白幕になりますよ」
「そうしたいが、それぞれ一枚づつしか持っていない」
「残念ですね。二枚掛けれたら、紅白幕になり、福の神がこの寺に立ち寄ってくれるかも知れないのに」
白い碁石が、碁盤を叩く音が響く。
「そうだ。紅と白は対になり、福の神を招く。日本の国旗は白地に紅い日の丸だ。だからめでたい。めでたい一年を振り返り、家族が打ちそろい見るテレビは紅白歌合戦、これも目出度い、目出度い。天国も地獄も目出度い。生きるも死ぬも目出度い、目出度い。紅と白をうまく使い分け発展を遂げた日本人たちも目出度い、目出度い」
日本の戦後の政治史を言い表す意味深長な言葉にも取れるが、そのような深い意味を込めて言っているのかは疑わしい。
「とにかく拙僧は黒猫と一緒に一軒の土産屋の前に立った。猫にやる鰹節の品定めをしながら、中年の女に話しかけた。『最近、この港で若い男が身投げをしたことはなかったか』と聞くと、他の店員に気付かれないように小声で教えてくれた。『その後、後を追うように老婆が石を身体に巻き付けて飛び込んだの。先に自殺した若い男の母親だと言うことは噂で聞いたけど、まだ亡骸は上がらない』。身投げをしたのは二人だけか質問した。悪鬼の数から犠牲者は他にもいるに違いないと確信したのである。彼女は頭を強く振って、眉を曇らせて答えた。『ここ数年で七名よ。こんなに続くと気味が悪い』と嘆いた。そんな時には彼女は吐き気や息苦しさの悪寒を感じるという。彼女は、たえず周囲に気遣っていた。気味の悪い話をよそ者に話すなとを口止めらされているのだろう。ブヨのような存在がいるのである。女性は霊力の持ち主だった。私たち話している間も、猫は聞き耳を立てて足下に座っていた。最近でも夕方に車が港に飛び込むのを目にしたことがあったらしい。目の前の建物から透明な霞が現れてきて、車を包み込んだまま、地面を這っていく。それに追い詰められて車は海中に飛び込んだわ。霞に似た物を最初は会社から流れ出した排気ガスかと思ったけど風上に流れていく。あれは何だったのかしら。周囲の者には見えていないようだと頭を傾げた」
自殺者が続出する会社は港に隣接していた。頑丈な塀に阻まれ、刑務所のようである。ブヨが群れを作り集中する理由にちがいない。老婆が打ち明けた保険調査員を捜さねばならない。後は夢に潜り込み、自殺に至る事情を把握することである。
保険会社の自宅前の公園で待った自殺した青年の自宅も保険調査員の自宅も原発で有名なS市にあった。もちろん夢に潜り込むためである。へその緒のような紐を現実と夢の境目に結び付け、夢の中に飛び込むのである。万が一、夢から脱出する前に夢から覚めたり、結わえた紐を見失ったりすると永遠に本来の肉体に戻る帰ることは出来なくなる。真言宗に伝わる秘技中の秘技で、失敗をして永遠に他人の夢の世界に封じ込められた者も多い。あるいはあなたの夢の中にも術に失敗した者が封じ込められているかも知れない。長く封印をされてきた技であり、知る者も少ない秘技である。だが成功すれば大きな成果を得ることができる。
夢の中の世界は混乱し、迷路のようになっている。空間は歪み、しかも自由に変化する速度感もない。様々な形状の物質が宇宙空間を飛び交う流星のように飛び回っている。様々な声も交差する。そのような混乱の中でも細い糸のイメージは描き続けねばならない。また夢を見る人物の目覚める気配も察知しなければならない。幸福なことに彼の夢の大部分が仕事である保険調査のことで占められていた。簡単に言えば保険金詐欺事件を疑っているのである。ただイメージがバラバラに入り乱れているのである。整理できな断片的な情報も飛び回っている。正義感は強く『あがなうべき者にあがなわせろ。保険会社にしわ寄せするな。安易な死を招く。安易な死は次の死を招く』と叫びという彼の叫び声が聞こえる。この若い正義感こそが老母が期待したものであろう。簡単な作業ではないが、夢の中で飛び交う断片を整理し、欠けている情報を新しく加え、エポックのように組み込んでいくのである。彼が目覚める前に、この作業を終わらねばならない。黒猫が、やはり足下に横たわっていた。その頃になると、その黒猫が拙僧を導き助けているようにさえ思えた」
碁の勝負のことである。形勢が逆転していた。自分が白い碁石を打っていたのか、黒い碁石を打っていたのかも怪しくなっていた。形勢を逆転するとために和尚様の注意を殺ごうとした。
「あのような場所に派手な赤いフンドシが干すなどと非常識すぎます」
和尚様の目は碁盤に釘付けになったままである。
「ところで紅いフンドシと白いフンドシは、どちらが有益ですか」
白い碁石が碁盤を叩く。
「何とも難しい質問だ。紅いフンドシは鮫よけになる。白いフンドシはウブメら妖怪に対する魔よけに効果がある。神官が神事に際して白い服を着るのも意味がある。結界を構築する力がある」
黒い碁石が碁盤を叩く。
「白いフンドシは緊急時に包帯になります。戦場で刀も矢も尽きた時には、降伏の印の白旗にすることも出来ます」
白い碁石が碁盤を叩く。
「やはり白いフンドシが人々のためには有益ですか」
「いや、そうとも言い切れない。やはり白と紅が和合してこそ社会や人々に役に立つ」
「和尚様のフンドシも紅白になってこそ、目出度いと言うことですか。やはり紅白饅頭も対になってこそ価値があるのですか」
紅白饅頭と口から発した途端、自分が朝から何も食べていないのに気付いた。すでに三時を過ぎている。ひもじさのあまり、食い物らしきものを物色するが、唯一の鍋らしきものが壁にぶら下げられている。もちろん冷蔵庫などはない。庭には柿の実が実りかけているが、まだ青い。それでも食べたい。深刻な空腹である。空腹を感ずると碁を打つ手も力が萎え、思考は胃袋に集中した。和尚様は自殺した青年の妻の言葉を伝え始めた。
「帰った夫は、単身赴任はしたくないと思い詰めた様子で相談を持ちかけてきました。まるで駄々をこねる聞き分けのない子供のようでした。彼が単身赴任をすることは、長く話し会って決めたことです。『時間を下さい』と言いました。この町には住めない。町に戻ることも出来ないと興奮して泣き始めたのです。理由は打ち明けてくれませんでした。何故、あのようなことを泣いたのか理解できません。彼は死んでしまいましたが、最後には彼は納得してくれたものだと感じたのです。私が主人を追い詰めて殺したような噂が世間に広がり、毎日が軽蔑の白い目で監視されているよう辛い日々が続いていますが、決してそんなことはありません。落ち着いたらすべてを捨てて、この町を出て行きます。そして都会で人混みに紛れ、ひっそりと暮らします」
「この町には帰れないと妻に訴えた理由は何でしょうか。」と僕は和尚様に聞いた」
「長崎で共に働く上司に関係していたようだ。長崎で彼が仕えている上司は、以前に、S市の支社で勤務していた。彼の在任中に輸送中のトラックの交通事故が連続し発生した。彼は原因か突き詰めた。不正義が蔓延していたのである、不正義が組織を毒して混乱を招いていたのである。走行キローメーターに細工をするなど悪質な行為である。営業中のトラックが大事故を起こすと言う事件が連続して起きた。その原因は女癖の悪い男性の言動に原因があると気付いた。彼はS市の実力者と縁続きであった。S市への原発誘致運動にも関係していた。多勢に無勢で追い出しに掛かった。争いに負けて職場に居れなくなった。家庭まで失った。三十年以上も昔の話である。私とS市の支社の関係が彼の自殺の原因になったとは思いたくないが、その恐れはある。S市には私と関わった者を一人残らず不幸にしてやろうと言う意図を持つ者が存在することに暗い気持ちになる。久しぶりに元同僚と会った彼は不用意にも、私の名前を口にしてしまった。私を追い出しに掛かった男たちが集まってきて、『裏切者の肩を持つ裏切者だ、疫病神だ』と彼を罵り始めた。そのことも自殺の原因になったかも知れない」
和尚様は長崎の上司の言葉を注意深く話した。
僕は絶句した。
その上司とは僕のことではないか。
僕が法廷で証言した言葉と同じだったのである。和尚様が、その自殺者と私の関係を知った上で話しているのか不明であるが、和尚様は僕の身を案ずるように上目づたいに顔色を伺った。自分自身の顔が青ざめていくのを感じた。指に挟んだ黒い碁石も宙で止まったままである。これまでの滑稽な作り話として聞いていたが、いきなり自分の身の上話になったのである。しかも、この話はタクシードライバーにも話していないのである。
「ところで、色の話の続きであるが。この碁石のように白と黒と言う色の組み合わせも面白い」と切り出して、白い碁石を碁盤に置いた。
「貴殿の話も実に哀れだ。二十数年経た今でも、まだ逃れることが出来ないのか」
白黒は付けることが出来ずにいる。自分では灰色のままでも良いと思うこともあったが、世間は放っておいてくれない。しかも黒のままである。
「君には黒のままでいてもらわねば困る連中が多いようだ。しかも昨年の福島原発事故が回避できなかった理由とも無関係ではない」と言い和尚様は白い碁石を碁盤に置いた。
「風紀の乱れ。特に異性を絡めた乱れほど、組織の秩序を乱すものはない。まさしく煩悩だ。ウブメの思う壺だ。人を従わせるためにも強烈な威力を持つ。地方政治家などの縁者に悪が潜んでいると終始もつかなくなる。しかも実力者の派閥の一員が闇金融から借金を重ねていることを隠すために君を陥れて時間稼ぎに活用するなど、とんでもないことだ。しかし多くの者は知っているにも関わらず君を追い出しにかかった。そして君は葬られた」
和尚様がここまで達観していたとは。驚きである。また白い碁石が碁盤を叩いた。白い碁石が碁盤上に目立つようになった。
「自殺に至るまでに、周囲から脅迫が日常的に行われていたことは明らかである。だが証拠は出てこない。殺人事件として扱うことで保険会社は保険金を節約できる。保険調査員は、それを目指しているが、容易ではない」
和尚様の白い碁石が碁盤を叩いた。突然、和尚様が素っ頓狂な声で叫んだ。
「あたり。」
次ぎに和尚様は叫び声を上げた。
「勝った。」
勝負は僕のボロ負けだった。
「近所の年寄りと碁を打つが、貴殿が一番強かった」
普通なら負けるはずのない相手であるが、空腹と心を乱された結果である。高い賭代を奪われボロ寺を去った。二度と行くまいとも誓った。彼は日常茶飯事にこのような掛け碁で近隣の善男善女から金品を巻き上げているのではないかとも疑った。今回の話は物語にするまいと誓った。ところが一ヶ月後にテレビで驚くべきことが放送されていた。「疑惑の保険金殺人事件」と言うタイトルで保険金に絡む事件が田舎町を揺るがしているという内容である。もちろんS市での出来事である。和尚様がテレビ放送なら信用するのかという激高して吐いた言葉も脳裏に蘇った。
「数年の間に会社で働いていた者が七名も港に身を投げて亡くなっている。会社ぐるみで犯罪を犯しているのではないですか」と数名の記者は責任者らしい男に必死に食い下がっている。
「関係ない。事件は個人的な問題だ。偶然が重なっただけだ」と責任者は反論した。
「多額の保険金が掛けていたとか言う噂もありますが」と別の記者が食い下がった。
「会社の規則だ。危険な仕事も多い。保険会社とは正規の契約をしている」と。
それ行けトントン 天翔ける蚊取り和尚の大冒険物語 夏海惺(広瀬勝郎) @natumi-satoru
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