第5話大騒動
今年の冬は訪れは遅くなりそうであるが、確実に秋の気配は深まり、街路樹の銀杏も黄金色を深めている。あの非常識で騒がしい和尚様は、どのように過ごしているのだろうか。近くにいれば煩わしいし、遠くに去り連絡も来なければれば来ないで寂しい。まったく迷惑極まりない存在である。阿蘇の外輪山の東端に位置し、冬には寒風に曝されて凍ってしまう古閑の滝壺で滝に打たれると言う荒行に励み、風邪をこじらせて、テントの中で熱にうなされて死にかけていると言うことは絶対にあるまい。せいぜい修行と称して、阿蘇の中岳や根来岳も一望できる大観望でポン引きまがいの客引きでアルバイトをしているのが関の山であろう。万が一でも弘法大師空海のように錫を片手に山中を放浪し、鉄や銅など鉱脈を探していることなどあるまい。
それでも寒かろう。今度、訪ねて来る時があればラクダの股引と手足のひび割れ予防のクリームでも用意しておこうかと感傷的になっていた時に、和尚様から便りが届いた。
「拙僧、日ノ本けん法が保証する基本的人権に基づき幸せな人生を送ることは拙僧にも許されることだろうか」と、このような書き出しで始まった。
和尚様の文字は極端な癖のあるクサビ形文字である。解読も苦痛な作業である。予備知識を与えず、この文字をメソポタミア文明の専門家に見せたら、新種の楔形文字の発見だと大騒動が起きないともかぎらない文字である。それだけではない。彼は古い新聞チラシの裏紙も利用して手紙を寄越して来たのである。いつもはハガキであったが、少し進歩したかも知れない。日ノ本けん法とは何であろうか。修行の一環として、少林寺拳法に続く新しい拳法でも始めたのであろうか。あの非常識な和尚様のことであるから、思い付かないこととは言えない。最初の書き出しから理解できなかった。次ぎに読み進めないのである。それと基本的人権とどのような関係があるのだ。日ノ本けん法と言うのは、阿蘇山の別称である火ノ山から取った新しいけん法の間違いではないだろうか。もともと和尚様と基本的人権なるものが結び付かない。彼の姿が醸し出すイメージからほど遠い言葉なのである。違和感ばかりが先行する。意味不明な「日ノ本けん法」と言う書き出しに戻り、その部分を無意識に思い指先で触ってみた。すると、ポロッと「ノ」の字が欠け落ちてしまったのである。日と本の間にあるノと言う文字は、和尚様の鼻毛がこびり付いたものであった。
思わず「ワアー、ヒェイ」と悲鳴を上げ、汚い手紙を放り捨てていた。おぞましい記憶が脳裏に蘇った。阿蘇の大観望の麓にあるキャンプ場に彼を尋ねた時、寝起き頭に人間電柱広告と化した和尚様から、鼻くそも混じる鼻汁をクシャミとともに、顔中に浴びせられたことも思い出したのである。放り出した後、先を読む気にもならず、机の引き出しの奥にしまい込んでしまった。ところが数日して激しい呼び鈴の音で玄関の扉を開けると、いきなり和尚様が顔を覗かせ、「あの手紙を読んだか」と飛び込んで来たのである。彼の動揺を見た瞬間、彼の困ることが書いてあったに違いないと直感した。彼の弱みとして長く、いたぶることが出来ることかも知れないとひねくれた考えが思い浮かんだ。
「エエ、しっかり読ませて頂きました」
と和尚様に表情を盗まれないように冷徹に答えた。その時の彼の目を大きく見開いた表情は、滑稽で、今でも思い出すと可笑しくなる。
「遅かったか」と言い、肩を落とし立ち去ろうとした。嘘をついた手間へ下手なことは言えないが、気になり、どこに行くのかと尋ねた。和尚様は力なく首を回し、「阿蘇に帰る。後は頼む」と言い残し去ってしまった。帰り際の彼は寂しく気で背中には哀愁が漂っていた。
「後を頼む」と言われてもなと首を傾げながら、慌てて手紙の解読を始めた。
日本けん法とは「日本国憲法」のことのようである。暗号を解釈するように、解釈すれば後の意味が理解できる。
「拙僧、長く山野での厳しい修業に明け暮れる日々を過ごしてきた」
彼の修行の内容に疑問は残るが、ここで疑問を挟まず、先に読み進んだ。
「ところが最近、空しさを感じる。薄暗い山中で草を枕に夜を過ごし、小鳥のさえずりで目覚める日々に満足してきたはずである。ところが、このように一人で過ごして来た月日に後悔し、人生の空しさが心を襲うようになっていた。すなわち修行にも身が入らなくなったのである。ところがである。ある日を境に拙僧の心は理由も解らないまま、騒ぎ出し、心臓がドックンドックンと波打つことがある。その理由を深く思索する日が続いた。心臓の波打つ時に自分はある女性のことを思い描いていることに気付いた」
驚天動地とは、このようなことを言うのである。一瞬、開いた口も塞がらず、呆然と目の前の壁を見つめた。
「思えば、このような気持ちは初めてである。君が機会を作ってくれたのである。あの女性に会って、私の人生は一変した。あの方のためにも修行に頑張らねばと思う反面、会いたいと一途に思うのである。その時、心臓は激しく波打ち、自分が生きていると実感できるのである。拙僧の気持ちは若返り、ほのぼのとした気持ちになり、また女性がほかの誰かのものになるのではないかと想像すると胸が張り裂けんばかりに苦しいのである。いつぞや君に語った紅白合体するとは、まさしく、そのようなことであろうか」
さすがにここまで読み進めれば、事態は飲み込める。しかし次の文字を見て、自分が容易ならない立場に追い込まれたことを知った。
「拙僧はこいをしてしまったようである。相手は貴殿も知っている、あの麗しい女性だ。後はよろしく」
「こい。こい。こい。・・・・」
和尚様の姿からは思い付かない文字である。蚊取り線香の、あの和尚様が恋をしたと。生臭坊主の和尚様が魚のコイの食したいと言うなら理解できるが、恋をしたと。厳しい修行で身体を壊しているのではないかと一瞬でも彼の身体を思いやり、防寒用のラクダの股引を用意してやろうと思ったことを後悔した。それにしても個人の恋に日本国憲法の話を持ち出すことも非常識すぎる。
今度は女色に溺れたいと。しかし相手は一体、誰だ。肝心な相手のことは書いていない。自分の周囲には妻を除いて麗しい女性などいない。現世の女性でないことも考えねばならない。阿蘇の外輪山の寒村で和尚様と過ごしたあの晩、周囲に集まった紙幣の肖像画の一人である神功皇后ではあるまいか。あるいは天照の神ではないかなどと不謹慎な想像した。いくら平成の世でも皇室のご先祖様を和尚様の恋相手と想像することが不敬罪で訴えられかねないと自責の念に駆られたのである。
実は、後はよろしくと書きながら手紙は、まだ続いているのである。非常識の代表である和尚様のことだから、勘弁するしかない。
「この年で良寛和尚様のような恋をするとは思いもよらなかった。拙僧はウブメら妖怪変化と激しい血闘を続けてきた。彼らとの闘争は拙僧の宿命である。彼らが仏の法にのっとり、安らかに成仏するまで続く。彼らを成仏させることは彼らのためである。現世の俗事に気を奪われる時こそ彼らに隙を作ることであり、世界の危機である。人類の危機になる恐れもあることも承知しつつ、君に露払いをお願いしたいのである。後はよろしく」
「相手は誰だろう」と詮索をした。
女性の正体を明かすことも手掛かりさえも触れていない。ヒントも伏線もない、出来の悪い推理小説に出会ったようなものである。三日後に懐かしい長崎のタクシードライバーから手紙が来た。彼は奈良の高野山で修業の最中であるはずである。
「今回の和尚様が目出たい話の実現の折りには、是非、帰りたいと思う。師匠の選んだ相手は、ふくよかで酒に強く、昔はウブメとして世間を騒がせた絶世の美人であり、今ではウブメの悪行は捨てたが、昔と変わらず絶世の美人であるということで、私も喜んでいる」と。
さすがに和尚様が相手の女性について気付いた。三ヶ月も前に彼が長崎で発生した豪華客船火災の犯人を捜すため長崎へ帰ると怒鳴り込んで来た時に興奮を静めるために連れ込んだ店での出来事を思い出したのである。その時、二人は周囲が白けてしまうのにも気付かず、熱烈に見つめ会っていたが、すぐに和尚様は恥ずかしい例の裸踊りに転じた。好きになった女性の前で出来る踊りではない。あれ以来、僕も恥ずかしくてあの店には行っていない。
タクシードライバーの手紙は和尚様の弁護に変った。
「師匠の行いや言動には非常識なことも多いはずだ。師匠の宗教家としての非凡な才能は凡人も認めるはずである」
他ならぬタクシードライバーの頼みである。小説のヒントとして彼から得た啓示は多い。最近では奇妙な和尚様をネタにした作品を多く世に送り出しつつある。和尚様を食い物にしていると言えなくもない。婦人たちの前で裸踊りをする時にも周囲と女性と一緒に楽しんだ。和尚様が恋した女性とは女将であろう。もし間違っていても彼女は一軒の店を切り盛りするしっかりものである。大事にはなるまいと思いつつ、店を訪ねて、和尚様の手紙を渡した。女将は、一読して「マアー。嬉しい」と叫んだ。僕には解読不能な暗号にも見える楔形文字で綴られた手紙を声を上げ、スラスラと読み進んだのである。読み終えた時に手紙を大切に胸にかき抱き、女性らしい柔和な観音様のような顔になっていた
「この手紙を頂いてよろしいかしら。一生の思い出にします」と聞くので、二つ返事で了解した。
カウンターの中から、ママさん、おめでとうと、フィリピン青年の祝福する声がした。彼だけが開店準備のために早く店に来ているようである。女将は和尚様が自分に恋している思いこんでいるが大丈夫だろうかと不安に感じたが、誤りの場合は紛らわしい手紙を寄越した和尚様のせいである。和尚様の懸想の相手が女将であることを祈るしかない。
話はトントン拍子に進んだ。二人を祝福する宴席の日も決まり順調に実行された。
末席に座るフィリピン青年に釘付けになっていた。彼は自傷行為にも似た激しさで自己の身体を太鼓代わりにして打ち叩き、和尚様の歌を盛り上げ下品な部分をかき消してくれた。彼に敬意を払うためにも僕の作品の登場人物になってもらおうと考えた。本名ではなく偽名でもよい。雰囲気を現わす名前を与えてやりたい。ロシナンテと言う名前はどうであろう。外国風で素敵な名前でないか。聞き覚えのある名前だとも思ったが、純朴で素敵な名前だ。 そう決めた。それにしても和尚様はロシナンテとの約束をどのようにするつもりであろうか。まさか反故にするつもりではあるまい。彼は闇に明かりを灯す神様であると勘違いしている。
目出度い披露宴は順調に進んだ。
兄弟子であるタクシードライバーも高野山から駆けつけて来てくれた。僕の隣の席に座っている。近所で店を営む者たちを招待している。
だが和尚様だけが騒いでいる。
「人生、最良の日だ。生きていて良かった。お父さんお母さん生んでくれて有り難う」と歯の浮くようなことを臆面もなく衆目の面前で叫んだ。
「この幸せを周囲に分けてやりたい。神仏の罰が当たる。新婚旅行にはフィリピンに行く。あの若者の故郷にも太陽光発電をプレゼントをする」
「プレゼントをする」と言う言葉を聞いて、和尚様の貧しい姿を知る僕は絶句した。
「和尚様。そのような金を、どこに手に入れた」と、驚きのあまりに口にした。犯罪を犯して手に入れたような意味になったようである。例のごとく怒鳴りつけてきた。
「馬鹿者。拙僧が阿蘇の大観望で寒さに打ち震え、厳しい修行に励んでいたか理由に気付かなかったのか」
そばに座る女将が笑って、和尚様の苦労を称えた。
「素敵。寒い中でも暑い中でも頑張っていましたものね」
和尚様は女将の声に勝ち誇って笑った。
「すべて、この時のためだ」
「ついでに紹介しておこう」
彼は、女将の横に座る美青年を紹介した。
「義理の息子だ。今回の縁で親子の契りを結ぶことになった。自慢をする訳ではないが、この息子はキャリアと呼ばれる人種で財務省に勤めておる」
自慢するわけではないがと言いながら、すっかり自慢している。この自慢話に水を刺すように女将のそばに座るひばりが、「キャリアってエイズの感染者のこと」と隣の女性に聞いてしまった。
誰もが不味いと感じた。
和尚様の耳は地獄耳である。この小声を聞きとがめて、和尚様が「馬鹿もん」とひばりを怒鳴り掛けたが、女将が和尚様の袖を引いて、たしなめた。
「めでたい席で無闇やたらに怒鳴るものではありません。あなたも間違ったことを言っています。息子は財務省ではありません。外務省で仕事をしているのですよ」
さすがである。この女性なら和尚様をうまく操縦してくれるかも知れぬと期待した。当然、私の負担も減る。
「そう言うことだ。息子は外務省のキャリアだ。キャリアと言うのは出世コースを歩くエリートのことだ。この出来の良い息子のおかげで、今回、拙僧が電気もない貧しいフィリピンの村に太陽光発電をプレゼントしようと企てたことが、はしたなくも総理大臣様の耳に入った。総理大臣様は、ひどく感動し、拙僧のことを日本人の誇りだと表彰としようと申し出てくれた。しかし、拙僧は勲章などは欲しくない。計画すればよい。それなら日本国政府が全面的に支援をすると申し出てくれた」
和尚様は女将に「今回の計画には、ロシナンテも連れて行くことにしよう。いいかい」と言った。
「もちろんですよ、あなた。彼にもは話してありますわよ。道案内にも必要ですし。彼は喜んでいました」
「ロシナンテ」
耳を疑い四人の女に聞いた。
「ロシナンテはロシナンテよ」と四人の女は声を揃え、相づちを打った。ロシナンテと言う名前を思いついたばかりである。それが彼の本名だった。単なる偶然とは思えない。
「どうしたの。顔が真っ青になっているよ」
女将は僕を案じた。
「落ち込むな。ロシナンテに焼き餅をやくことはない。君を捨てることはない。安心せよサンチョパンサ」
和尚様が僕のことをサンチョパンサと呼んだ。一体、どういうことだ。自分でひそかに例えに名付けた名前である。心を読まれている。ひそかに恐れていたことである。夢の中だけでなく起きている時も心に入り込まれ、心を読まれる日が来るのではないかと。彼は進化しているのである。
「拙僧がドンキ・ホーテなら君がサンチョパンサー、当然、フィリピン青年はロシナンテになるだろう。何の不自然さはない」
「君は、これからも拙僧の活躍を世界中に伝え、社会を閉塞感で覆おおうとするウブメら妖怪の企みを粉砕するのだ。閉塞感を打ち破るためには想像力をかき立て、人々に夢と希望を与えねばならない。もちろん今回のことも書いて良いぞ。和尚様フィリピンに行くと言う題で拙僧の活躍を書いて貰って結構。貴殿は文学者や言語学者になりたい訳でもあるまい。目標は小説家だ。嘘吐きだ。ほら吹きだ。妄想性病人だ。誤字脱字も真実にする世間の常識も通じない小説家だ。科学も常識も通じず妄想で新しい世界を創造する小説家だ。世間から無視されても、誹謗されても突き進め。想像せよ。妄想せよ。そして新しい宇宙、新しい地球、新しい人類、新しい社会を創造せよ」と和尚様は吠えた。
「あなた。みなさんも待ち焦がれております」と女将が和尚様の袖を引いた。
「そうだな。この目出度い席にお披露目をしよう。女房が心を込めて作ってくれた紅白のフンドシでのめでたい踊りを披露してやらねばなるまい」と和尚様は言った。
顔から血の気が引いた。和尚様はそれを空腹のためのと勘違いした。
「サンチョパンサ。あの時は長崎の格式ある豪勢な寺で碁を打ったときには紅白饅頭を食したかったであろう。今日は目の前にある紅白饅頭を遠慮なく食べるがよいぞ」
「ロシナンテ、合いの手の準備は良いか」
「アイよ。マイゴット。和尚様。いつでもOKよ」と返事するなり、ロシナンテは上半身、裸になった。和尚様は袴を脱ぎ紅白フンドシ一丁になった。
客席かた拍手が沸き起きた。
「めでたや。めでたや。紅白のふんどし」
「笑うアホに見るアホ」
「ええじゃないか。ええじゃないか。佐渡おけさだ。高知のよさこい踊りだ。どじょうすくいだ。チャンチンキおけさだ。熊本のオテモヤンだ。牛深のハイヤ節だ。目出度い紅白フンドシが似合う日向のヒョットコ踊りだ。エエジャナイカ。ええじゃないか。明治維新の革命歌だ」
あきれるほどデタラメな歌と踊りである。
「ア、ソレ。人生、五十年。夢か幻か。バン、バン。君が世も五十年。我が世も五十年。ア、ソレ。バン、バン」
ロシナンテが自らの身体を打ち据える音がひときわ大きく鳴り響いた。
「よかバンバン。よかバンバン」
パンパン聞こえない訳でもないが、政治的判断でバンバンと書いておく。
「和尚様とお女将を結びつけた。よかバンバン。素敵なバンバン」
めまいが残る披露宴だったが、無事終了し、翌日に和尚様夫婦とロシナンテの三名はフィリピンに旅立った。(はずであった)
二週間ほどして和尚様から手紙が届いた。彼は新妻との新婚旅行でロシナンテの故郷のフィリピンにいるはずであった。とんでもない大騒動が起きたと言う書き出しで始まった。予想していたことで、もう驚かない。一部始終の顛末を女房に申して、代筆させると書いてあった。紙も和尚様が寄越す汚い新聞チラシの裏紙ではない。字も丁寧で読みやすい。今回の作品は、手紙の引用が多く、容易に原稿用紙の枚数も稼げて、良い商売だろうと余計な皮肉が書いてある。文字は見間違うほど整っているがやはり和尚様の手紙である。
「出発をしてから、しばらくして、とんでもない勘違いを犯したことに拙僧と新妻は気付いた。拙僧達が乗ったフィリピンに向かう飛行機でなく、東ティーモル行の自衛隊の専用機であった」
馬鹿馬鹿しいと思った。もちろん読者諸君も、同感だろう。だが現実である。真実は小説より奇なりという諺もあるとおりである。
「この間違いは愛妻の義理の息子を絡めたことから始まる。今回の企画に総理大臣様も全面的に賛同し、協力をする旨の約束を申し出て、自衛隊機でフィリピンまでの輸送を支援するというはずだった。ところが、そのことが現場に伝わっていないのだ。飛行機は東ティーモル行の専用機であると言うのだ。国賓並の丁重な扱いを受けて機内に案内されたので、迷彩模様を施した民間機も良いのではないかと拙僧らも心強く思い、同行する行くロシナンテも勇ましい迷彩模様を見て大いに喜んだのであるが、肝心なことを確認せぬまま離陸した。飛び立った後、周囲を見回したら、みんな屈強な男たちばかりである。みんな押し黙っている。まるで戦場に向かう兵士たちだ。きっと総理大臣様が世界の宝である拙僧の身を案じ、警護のために準備した隊員たちであろうと想像したが、ここまで徹底するとはと不思議に思いながら、彼らを見回しておった。新妻は若い青年たちに気軽に話しかけ、世間話に興じておった。この世間話で新妻が、とんでも無い勘違いが起きたと気付いたと言う訳である。
この飛行機も乗客も少し変っていますねと新妻が尋ねると、青年たちもしばらく呆然としていたが、自衛隊では普通ですがと答えた。
「自衛隊ですか」と妻は漠然と繰り返した後、質問した。
「何故、私たちが自衛隊の飛行機に乗っているのですか。これは民間機ではないのですか。私たちは総理大臣様との約束でフィリピンに行くことになっているのですのよ」と言う妻の一言で機内が騒然となった。
「お三方が乗ることは総理大臣の命令に間違いはありません。でも行き先は東ティモールですよ。お荷物と皆様を東ティーモルまで御案内しろ」と命令を受けていますと答えが返ってきたのである。正確な情報が現場まで伝わっていないのである。
「東ティーモルですか」
新妻の目がうつろに機内をさまよった。
「東ティーモルはロシナンテの故郷だったかしら」と虚ろに呟いた。哀れであった。息子との連絡がうまく付かなかったのであろうか。息子を責める気持ちと、庇おうとする気持ちが交叉しているに違いない。拙僧の頭脳は最新鋭のコンピュータ以上の計算速度で事情を分析し、理解した。
「恐れ多いが、総理大臣様と、その周辺の皆様と皆様の間に大変な誤解があったようである。拙僧たちは、ロシナンテのフィリピンの故郷に太陽光発電を届ける予定である。何とかならぬか」と申し出た。
飛行機は、すでに日本の領空外に出つつある。もちろん引き返すことも出来ない。この飛行機は飛行機はと、うつろな表情で妻が盛んに問いただすのに同情する隊員が教えてくれた。
「おかあさん、この飛行機は専門用語で輸送機と言うのです」と。と言うわけで、今後はこの飛行機のことを専門用語で輸送機と呼ぶことにする。たしかに一般の飛行機とはちがう。窓は小さく音もうるさいが、問題はこの輸送機はフィリピンには着陸せず、東ティーモルに行くことをロシナンテに説明し、彼に納得して貰わねばならない。さすがに乱暴な酔っ払い相手に幾つもの修羅場を潜ってきた妻も、ロシナンテの落胆を思うと、言い出せない。妻に拙僧が説明しようと申し出たが、彼女は決然と言った。最後の幕引きはあなたにお願いすることになるかも知れませんが、最初は私が説明しますと。その前に、もう一度、運転手に頼んで下さい。
「お母さん、運転手ではなく機長と呼ぶのですよ」と優しい女性のような声で隣の隊員が教えてくれた。
とりあえず機長に頼んでみることにした。
「まずフィリピンの空域に入ることは出来ません。次に燃料もあまり余裕がありません」と機長は理路整然と応えた。
仕方ないので。今回は諦め次の機会にしようとロシナンテを説得しようと妻がロシナンテを説得しようとしたが、彼はは「ノー」と厳しく拒絶した。もの凄い形相で妻に喰ってかかった。あの大人しく従々なロシナンテではない。周囲の隊員の視線は一斉にロシナンテの声に周囲の屈強な自衛官の視線が集中した。だが、ロシナンテは怯まなかった。
「日本人は嘘つくのか。フィリピン人を馬鹿にするのか」と彼は獣のように身を膨らませて叫んだ。新妻もロシナンテの怒りに怯えた。救いを拙僧に求めた。いよいよ拙僧の出番である。以前、彼女は拙僧に打ち明けたことがあった。出来の良い自分の息子には気おくれをするせいで、ロシナンテの方が可愛く思うことがあると。血の通う実の息子の手違いで、息子以上に可愛く思うロシナンテの夢がつぶされてしまおうとしている。せつない妻の気持ちが分かった。サンチョパンサには理解出来ない気持ちえあるから解説するが、彼女は実の息子とロシナンテの板挟みになって、葛藤しもだえ苦しんでいるのである。
拙僧は毅然と言ったものである。
「ロシナンテ。事情は妻が説明したとおりだ。次の機会もあるぞ。それでもどうしても許してもらえないのか」
「村長以下の村人全員が首を長くして、待っている。村を上げて、村に電気が来る。ラジオも聞ける。テレビも見えるとみんなで喜んでいる」
ロシナンテは泣きじゃくった。
彼にもプライドがある。拙僧が何とか努力をしてみようと機長と、総理大臣様に交渉してみることにした。
「過去の歴史もある。フィリピンのマニラの空港に迷彩模様の航空機を着陸させるのは不可能である」と一方的に事務的な回答の後に無線を切られてしまった。総理大臣様を出せと何度も訴えたが通じない。ロシナンテも意気消沈していた。さすがに拙僧にも手の打ちようがない。輸送機はフィリピンの領空を掠め抜けようとしている。拙僧は最後の手段を使うことにした。
ロシナンテの耳元で『狂え」とささやいた。
彼はしばらく呆然としていたが、すぐに彼は言葉の意味を理解した。ロシナンテは『オラはこの飛行機から飛び降りる」と叫んだ瞬間、操縦席の横の搭乗口に突進した。なにしろ拙僧たち三名は総理大臣様の招待客である。その上、ロシナンテというフィリピン人が絡む以上、国際問題化しかねない。ランボーなみの屈強な男たちが止めに入った。
「村のみんなが待っている」と叫びながらも彼は扉から引き離されてしまった。
機内で緊急に対応が検討された。ロシナンテも話し合いの行方を見守っていた。結局、村人が待っているかどうか確認するのだけでもと言う拙僧の意見が採用されたのであるが、村人も日本の飛行機を見れば、何か事情があったと許してくれて次の機会を待ってくれるだろうと考えたのである。ロシナンテの故郷はフィリピンの北端にあると言う。彼が言う小さな島を地図で捜すのも容易ではなかったが、やっと探し当てた。パイロットも腹を決めた。レーダー網をかいくぐるように海面すれすれの低空飛行をして、島に接近した。ロシナンテの言葉は嘘ではなかった。歓迎のため白い砂浜に多くの人が集まり、空に向かって手を振っている。彼らは激しく手を振りながら、飛行機を追っかけて来るのである。それを見てロシナンテは「飛び降りる」とふたたび叫び始めた。拙僧にとっても予想外のことであった。
機内は、ふたたび大騒ぎになった。
「飛行機を降ろせ」と彼は叫び暴れた。
「狂え」と彼の耳元で囁いたのは自分であるが、手の打ちようがない。必死に抵抗する彼は強かった。屈強な兵士たちが数十名がかりでも、彼を取り押さえることは出来ない。彼の身を拘束しようとするが、国賓並の待遇を受けているロシナンテに傷を負わせる訳にはいかない。そのような気持ちもあってか、ランボーなみの男たちは彼にはかなわない。隊員たちに比べたら、子供のように小柄な彼だがはロバの類の暴れ方ではない。発情した馬が凶暴になっても、かほどは暴れまいと思うほどである。
「おいらはドラマ、やくざなドラマ、おいらが怒れば嵐も止む。チンだ。ボディだ、ボディだ。キンキン蹴りだ。ノックアウト」だと言う具合である。
足にしがみつことする隊員に対しては蹴りを入れ、後ろから羽交い締めにしようとする者には強烈なひじ打を鼻かしら食らわせる。相手の急所を蹴り上げるなども遠慮しない。恐怖の噛み付き攻撃、引っ掻き攻撃。ロシンナンテは全身を武器にして戦った。正面から近付くする者にはフックだアッパだと手を振り回す始末だが、さすがにギリシア時代にピタゴラスが三角関数の定理で発見した最も有効なストレートは打つことは出来なかったが、当て損ねたパンチは強烈なひじうちになり、フックになった。内心、拙僧も新妻もロシナンテの応援をしておった。おとなしい新妻も露骨にロシナンテを応援している。彼がパンチを繰り出すたびに、拳を強く握りしめ、エイエイと宙を殴りつけ、ロシナンテが急所を蹴り上げるたびに、思い切り急所を蹴り上げるように足が上がる。まるで操り人形のように糸で操られているようだった。同時に優しい新妻は苦痛に顔を歪めて飛行機の床に転がる隊員を見かけると顔をしかめた。思わず自制心を失い我を忘れた隊員の全身の力を込めた当て身をロシナンテは食らった。ロシナンテは輸送機の壁を突き破り、外に放り出されるのではないかと思うほど強くはね飛ばされてしまったが、ロシナンテは平然としておる。なにしろ貴殿も承知しているとおり、彼は拙僧が優雅に歌い舞いを舞うたびに太鼓代わりに自らの身体に激しくムチを打ち、合いの手で拙僧の優雅な歌や舞いに加勢をしてくれていた。この姿を世界中の神仏をごらんになり加勢をしてくれたのだ。その上に、あの行いは彼に強靱な肉体を与えてくれた。全員、汗だくになり、機上での格闘は数十分間も続いた。多勢に無勢である。ロシナンテは大勢に取り押さえられて、紐で縛り上げられようとしたが、ふたたび彼は叫び、力を振り絞り、立ち上がり暴れ始めた。その頃には兵士たちも疲れ切り、戦意も失なっていた。誰もが多かれ少なかれ怪我をしていた。
「人権侵害だ。訴えてやる。マスコミに自衛隊の輸送機がフィリピンの国境の中に侵入したことを暴露してやる。それが嫌ならおろせ」と叫んだ。彼の叫び声で乗務員一同は縮み上がった。なにしろ、国境を越えたことは、すでに引き返すことの出来ない国際法違反であり、総理大臣様の指示に従わなかったことになる。
「国際問題にしてやる」という言葉は致命的である。日頃、我が新妻は自分の息子と分け隔て無く可愛がっていたことは聞いていたが、喧嘩の仕方までもロシナンテに教えていたとは思いもよらなかった。拙僧も呆然と、ことのなりゆきを見守っていた。
ロシナンテの叫び声は壁を隔てた操縦手まで届いている。あわてた機長が操縦桿を離し、客室まで駆け込んで来た。そのせいで輸送機は失速し、あやうく墜落しかけたほどである。すぐに副機長がハンドルを握って、難は避けた。
「フィリピンで機内の乗客の金品を巻き上げた追いはぎ男が自家製の落下傘で旅客機から飛び降り墜落死してしまった事件があった。彼は本気だ」と物知りの隊員が叫ぶと、機内は一層、パニック状態になった。この言葉は情報の少ない狭い密室で、一層、現実味を帯びた。なにしろ本国との無線は、一方的に遮断されたままである。万が一に彼が輸送機から飛び降りることにでもなったら、国際問題に発展しかねない。無責任なマスコミは不祥事が発生することをハイエナのように待っている。彼らの餌食にされることも目に見えている。自分たちで国際問題化に発展するのは防がねばならないと機内の意見は一致した。燃料の残りも少なくなっていると操縦席から連絡が入った。知恵も出尽くし、絶対絶命であった。そのような時、ある隊員が妙案が口にした。輸送機は軍用機であるから落下傘が積んでないかと言うのである。自由落下などと言う難しい技は必要はなく、飛び降りたら自動的に落下傘が開く仕組みも備えているはずだと言うのである。前もって言って置くが、この物語で落下傘のことをパラシュートなどと言葉などで表現してはいけない。いかなる人間も永遠に、この縁起の悪い言葉を拙僧の前で永久に使わないように帰国した後に運動を始める。落下傘のことをパラシュートなどと表現されると、傘が開かずパラー、シュートと地上に落ちて、墜落死してしまいそうな気がするのだ。結論を言えばロシナンテは拙僧の功徳で無事に故郷に降り立つことが出来たのだが、今でも蹴落とした時の彼の悲鳴が耳の奥に残っている。思い出すと背筋が凍り、身震いがする。無事に終わったこととは言え、パラシュートなどと言葉を使おうものなら、時計が逆回りし、彼が墜落死してしまいそうな気がする。だからパラシュートと言う言葉を使うな。あの時の恐怖を思い出してしまう。とにかく隊員の助言で輸送機に積んである落下傘を使うことになった。危険はないかと聞くと、この世に絶対安全とは言葉はないと言う言葉である。着地に失敗すれば足の骨を折ることもあると神妙な顔で答えた。ロシナンテにも、そのことを伝えると、彼は大丈夫、日本の製品を信用していると健気に応えた。拙僧と妻もロシナンテと一緒に飛び降りるかと兵士たちに聞かれたが拙僧たちは断った。拙僧も若い頃に空を翔る空の神兵に憧れた時期もあったが、今は高齢である。ウブメら妖怪と戦うという余人にはできない仕事が残っている。絶対安全とは言えないという言葉に臆した訳ではない。兵士たちも拙僧のかけがえのない身を案じて、快く了解してくれた。輸送機は大きく旋回し、また村人が集まる海岸に戻った。もちろんレーダー網をかいくぐる超低空飛行である。ロシナンテの故郷に届ける太陽光発電のパネルと、飛び降りるロシナンテには落下傘を結びつけいた。
輝く白い砂浜を村人たちが、盛んに手を振って飛行機を追い掛けてくる。南国の椰子の木をかすめるように飛行機は飛ぶ。新妻は豊かな胸の前で両手を合わせて祈っている。まるでキリストの無事を祈るマリア様の姿である。輸送機は速度を落としさらに低空で飛行した。その方が落下傘が風に流される心配ないと言うことである。専門家が言うことであるから間違いあるまい。後部の扉が大きくパカッと開き、太陽光発電のパネルが空中に放り投げられた。落下傘はパッと開き、まるでタンポポの種のように宙を舞い、砂浜に落ちた。
「次ぎ、行け」
屈強な男が気合いを入れたが、ロシナンテは動かない。足がすくんでしまい動けないのである。もう一度、旋回をします。これが最後です、燃料がありませんと運転席から副機長の声がする。
「これが最後だ。燃料がなくなるぞ」と機長が復唱する。
「おっかさん、怖い」
ロシナンテが、わが妻のことを『おっかあ」と呼んでくれたと、妻はすすり泣いた。
「ロシナンテ。怖ければ行かないで残りなさい」と彼女は母親の真情を吐露した。
「でも、行かなければ」
ロシナンテは決意を披露した。
「和尚様、オラーの腰を押してくれ。お願いだ。もし落下傘が開かずに墜落死しても和尚様の手で突き落とされ死ぬのなら、オラア、絶対に天国に行ける」と彼は叫んだ。拙僧も涙ぐみな、二つ返事で了解した。搭乗員から渡された紐を腰に結わえ付け、ゆっくり大きく開いた後部扉に近付いた。白い砂浜の椰子の木が、ゆっくりと遠ざかっていく。吸い込まれるような悪寒を感じ、全身が凍り付いた。拙僧は生死を超越した存在である。死などに恐れない。しかし拙僧が死んだら、この世がウブメら妖怪に支配されて、世界中が闇に覆われてしまう。しかしロシナンテの気持ちも大事にせねば」
「これが最後だ。燃料がない」と運転席から副機長の大声がする。輸送機はふたたび村人の集まる上空を通り過ぎようとしていた。ロシナンテは、突然告白した。
「和尚様、今日はオラが村の祭りだ。あの人たちはオラたちのために集まって来た訳ではない。その祭りで集まった者達が飛行機が珍しいから手を振っているんだけだ」と。
「全世界、いや全宇宙の宝物である拙僧をだましおったか」と怒鳴りつけ、思い切りロシナンテの背中を蹴飛ばした。蹴飛ばした後、後悔した。仏に仕え悟りを得た身でありながら、感情に駆られた行動だと恥じたのである。せめて「南無阿弥陀仏」と唱えることを教えるべきだったと。それにしてもロシナンテは罪深い大悪人である。一瞬とは仏心は放棄してしまったことを恥じた。拙僧に蹴飛ばされた彼は、『ヒェイー」と長い長い悲鳴を残し、空中に放り出された。
妻は「ロシナンテーーーー」と言う長く波のような悲鳴を上げながら彼を追おうとしたが、そばに座る屈強な兵士が取り押さえてくれた。
さすが日本製の優秀な落下傘である。パッと開いたかと思うと、ロシナンテはタンポポの種のようにゆっくりと宙を舞い、去って行った。安否を確認するために、小さく旋回すると、彼は白い砂浜を足を引きずりながら砂浜を押し寄せて来る村人たちの群れの方に歩いて行った。後ろの扉がパカッと閉じられた。
ひと騒ぎ終わったが、機内を見回すと、台風一過のように乱れている。鉄兜が転がり、水筒が転がっている。ロシナンテと隊員の争いがいかに凄かった伺わせる様子である。中には床に転び動けなくなった兵士もいる。椅子に座るどの兵士もロシナンテとの格闘で多かれ少なかれ傷を負っていた。目の周囲にくまを作った者もおれば、顔全体が青く腫れている者もいる。前歯を折った者もいる。急所を蹴り上げられ兵士などは、すっかり男でなくなっている。拙僧を欺いた上に兵士の急所を蹴り上げて女性にしてしまったロシナンテは自然の摂理に逆らったことで、神仏の罰を受けるのではないかと危惧しながら見詰めている。実に美しいのである。まるで女性のように髪も伸び、拙僧を見て微笑む姿は新妻に負けずと美しい。弱々しく顔をうつぶせてしまったが、その態度は、まさしく女性である。心身とも女性になりきっている。本物の女性より、女性らしいのである。こんなにも早く、しかも簡単に完璧に女性になれるものかと感動しながら見ていると、新妻が小声で拙僧の耳元で囁いたのである。
「あの方は元から女性よ。ロシナンテに急所を蹴り上げられた方は、あちらよ」と視線で教えてくれた。妻の視線を追うと急所を蹴り上げられた本人は、まだ床の上で苦悶で身をよじっている。やはり男から女性に変身するのは容易なことではないようである。まるで幼虫がサナギから蝶に変身するように身をよじっている。苦痛を知る他の兵士は見て見ぬふりをし黙っている。
後で知ったのであるが、女性自衛官と言う者が居るらしい。拙僧が見詰めた女性は元々、本物の女性であった。もともと死者と生者の違いも認めぬ拙僧であるから、男女の隔たりなどないに等しいものであるが、屈強な男に混ざり活動する女性がいることに深い感動を覚えた。
何とか拙僧たちの乗る輸送機は東ティーモルの上空まで無事にたどり着いたが、飛行場の上空で輸送機のプロペラは停止してしまったのである。ガス欠である。
運転室から叫び声が聞こえる。
「機首を上げろ」
「これ以上は無理です」
「このままでは落ちるぞ。根性だ。根性で機種を上げろ」
「アイアイ サア。根性」
と怒鳴り合う声が運転席から薄い壁を通して聞こえてくる。寡黙な隊員たちは両膝の上で必死に両拳を握りしめ、縋り付くような目で拙僧を見詰めている。世界中の神仏が加護する拙僧の功徳に縋り、生きながらえたいと言う願いを痛いほど感じた。この願いを叶えるべく、拙僧は世界中の神仏に祈った。拙僧もこの世からウブメら妖怪を退治し、人々を閉塞感から救うまでは拙僧も、まだ死ぬわけにはいかん。弘法大師空海様が中国より命がけで持ち帰った旅の安全を祈願する経文を諳んじた。
「運転室は大丈夫かしら」と新妻が不安を訴えた。隣の隊員が、「運船室ではありません、操縦室だ」と教えてくれた。しかし大丈夫と保障はしなかった。
拙僧の功徳と祈りは神々に通じた。
輸送機はガス欠のまま、無事に飛行場に不時着した。機長の努力にも報いたいところであるが、無事に輸送機が飛行場に着陸できたのは百パーセント、拙僧のおかげである。地上に降り立つと、『この輸送機は二日後に、日本に向かい飛び立つことになっている。この輸送機で帰るか」と聞かれたが、拙僧も新妻も、『折角来た東ティーモルです。観光をしたい」と申し出を断り、今に至っておる。ロシナンテと隊員たちとの激しい乱闘の場面を目にしており、機体のどこかに亀裂が入っており、空中分解しないとも限らない。その上、空中で途中停止したエンジンである。焼き付けを起こしていないともかぎらない。日本に無事帰り着けるかと言う整備士と機長の不安気なやりとりも耳にしていた。彼らも命がけである。拙僧を同乗させ、神仏の加護を得て、安全を確保したかったのであろうが、拙僧は巻き添えは御免だと思った。噂によると、その輸送機も無事に日本にたどり着いたが、すぐにオーバーホール点検を受けることになったらしい。無事に故国に辿り着けたのも、やはり拙僧のありがたい功徳が残っていたせいである。そのような理由で次の便が出るまで、しばらくの間、東ティーモルで足止めを食らうことになった。
二通目の手紙
ここは暑い。
愛妻が薄手の生地でこさえてくれた新品の僧衣でも暑く僧衣を脱ぎ捨て紅白のフンドシ姿で街を歩いていた。ところが自分の周囲に見る見るうちに人だかりが出来たのである。この国ではめったに見かけない立派な車までが止まり、教えを乞いたいと願ってのことかと思った。車から降り立った立派な身なりの紳士は、しばらく周囲の者と話をしていたが、通訳を通じて拙僧に申し出てきた。拙僧が身につけておる紅白のフンドシを寄越せと言うのである。たどたどしい日本語で上手い通訳ではない。
何にすると聞くと、「国旗にしたい」と言っていたように思う。
拙僧も、さすがに耳を疑った。幾ら修業を積んだ気高い聖職者であろうと、身につけたフンドシを国旗したいと言う申し出を、ハイハイと受ける訳にはいかない。建国したばかりの小国とは言え、独立国である。丁重にお断りした。ところが群衆は増える一方である。人垣が二重、三重と出来た。不思議な熱気も帯びてくる。いつ暴徒化しないとも限らない。拙僧は用心のために、その場を立ち去ろうとした。
話せば分かる。互いに人間同士、礼を重んじ平和に話し合おう、平和こそ発展の源だ。と日頃、常に考え実践していることを叫びながら囲いの外に出た。
恐れたとおりである。彼らは暴徒化し、拙僧のフンドシをはぎ取ろうと追いかけてきたのである。乱暴な話ではないか。もちろん獲物は拙僧が身につける紅白のフンドシである。公平な一対一の立場で、静かな大統領公邸で話し合いの席が設けられるなら、拙僧も妥当な価格で譲る気にもなろうというものを。とにかく拙僧も身の安全を図るのが先決であった。儲け損ねた今回の損失は日本に帰り、紅白のフンドシを商標等登録して、奪われないようにしようと考えている。
とにかく日本に早く帰りたい。同じ輸送機で拙僧とともに東ティーモルに来た自衛官たちは、あの格闘の際の傷も癒えぬまま、現場で黙々と一生懸命頑張っておるが、拙僧はやることもない。一刻も早く、故国日本に帰りたい。次の帰りの便が待ち遠しい。気も狂わんばかりだ。最後に申しておく。サンチョパンサ。昔から事実は小説より奇と申すとおり、この手紙の内容は、すべて事実である。人生とはかくも面白く意外性に富むものだ。君も日夜、亡想力を磨き、このような事実を越える面白い小説を書けるようになれ。そしてウブメら妖怪変化と激しい格闘を繰り広げている拙僧の活躍を描け。和尚様がウブメら妖怪を退治する日が近いこと伝えよ。世界中の人々に希望を与えよ。世界中の良い子供達には、和尚様の良い行いを見習い立派な大人になれと伝えるのだ。サンチョパンサも拙僧の教えに真面目に耳を傾ければ一人前の嘘つき小説家になれる。
余計なお世話と言うものだ。僕が目指す小説の世界は、あの「母を訪ねて三千里」や「家なき子」のように、無垢な乙女たちの紅涙を搾り取る作家への道だ。ところが和尚様に出会って、まったく別世界でさまようことになった。そんなことより和尚様は東ティーモルで大歓迎を受けているようなことを書いてあるが、あの非常識な和尚様のことである。東ティーモルの市民が烈火のごとく怒る破廉恥行為でもやらかして、元首以下の群衆に追い掛けられたにちがいない。それで追いかけられたに違いない。
真実を知ろうと、私は紅白に関するデザインを調べた。結果、驚くべきことを知ることになった。東ティーモールは独立する前はインドネシアに属していたが、紅白はフンドシはインドネシアの国旗でもある。独立する前の国の国旗とはいえ、フンドシにされた群衆の心情は計り知れない。これ以上は申すまい。
燃料切れで墜落し掛けた輸送機の中で寡黙な兵士達が和尚様に救いを求めていたように書いてあるが、燃料切れの原因を作った和尚様を、とんでもない迷惑な存在と睨み付けていたにちがいない。
この二通目の手紙から一週間ほどして和尚様と女将は帰り着いた。無事にと言いたいが、二人とも疲れ果てた様子であった。いきなり和尚様は切り出した。
「案ずることはない。善良な者が犯す勘違いとウブメら悪い妖怪に支配された小人が犯す勘違いとでは、結果が違う。大事なことは拙僧のように日頃、善行を積み、世界中の神仏の加護を受ける者の勘違いは人類の歴史上、極めて有益な役割を担うと言うことである。旧ソビエト連邦の崩壊の原因はチェルノブイリ原発で起きた事故は馬鹿な官僚たちの勘違いが引き起した事故であった。彼らこそウブメら妖怪に心を奪われた悪しき勘違いだ。結果は拙僧の加護する勇気あるゴルバチョフ大統領が情報公開を行い、最後には善行を積んだ善人の警備兵の勘違いでベルリンの壁が崩壊し長い東西冷戦も終わりを告げると言う良い結果を招いた。それにすべて事実だ。昔から事実は小説より奇なりと申すではないか。勘違いだとしても何の心配する必要はない。」
フィリピンに帰ったロシナンテからも近況を知らせる便りが届いた。故郷に持ち帰った日本製の太陽光発電が大好評らしい。代理店として営業を始めたが忙しいという。そのうち和尚様や日本のお母さんに会うため日本に帰る。日本万歳。ハイテック万歳、日本に帰る時には、御土産を沢山、持って帰ると書いてある。欲張りの和尚様が、その下りを見て大喜びだったことは断る必要もあるまい。だが同時に、和尚様は東ティーモルに太陽光発電が設置出来なかったのは、聞き分けのないロシナンテのせいだと言っています。そのうちに東ティーモルにも太陽光発電を寄付すると言うことです。
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