ガトーショコラを甘くして Change bitterness to sweetness

花岡 柊

ガトーショコラを甘くして Change bitterness to sweetness

 柔らかな桃色が咲き乱れる桜の季節は大好きだ。強く吹く春一番が髪の毛をさらって乱したとしても、桃色が散る様は圧巻だから。

 けれど、それよりも少し前の甘い季節を私は嫌っている。甘いはずの恋が、とても苦いものに変わってしまった思い出を抱えているからだ。


 初々しい高校生の頃。お菓子作りが得意だった私は、それまでも親友の誕生日や家族の誕生日にはケーキやクッキーを焼いて贈っていた。

 親友には美味しいと喜んでもらえていたし、家族にもケーキ屋さんで買わなくても、私がいれば必要ないとまで言ってもらえるくらいだった。だから、私自身もお菓子作りには自信があったし、プライドも多少は持っていた。

 晴れやかな気持ちで入学した高校で、私は素敵な人を見つけた。スポーツが得意で笑顔が素敵で、時々のぞく片方だけある八重歯がとてもキュートな彼だった。

 夏を超え秋になり、寒い冬を超えた頃、見つめ続けるだけの毎日を変えたくて告白すると決めた。得意のお菓子作りを生かして、バレンタインに手作りチョコを渡そうと張り切ったんだ。

出来栄えは上々だった。母にも、売り物になる。と太鼓判を押されたハート型のガトーショコラを綺麗にラッピングして、私はその日高鳴る緊張を胸に彼を呼び出した。

 しかし、結果は酷いものだった。

「えっと。これって手作りだよね?」

 含みを持った苦笑いの表情に違和感を覚えたものの、緊張から深く考えることもできず、ただただ照くささにコクリと一つ頷いた。すると、そんな私へ片思いの彼は言ったんだ。

「ごめん、君のこと知らないし。手作りとか、無理。気持ち悪くて、こんなの食えない」

 気持ち悪い――――。

 脳内が真っ白になった。体は一瞬にして灰になり、遠く異国の地へ飛んで行ってしまうんじゃないかというほどの衝撃だった。

 ふられたこともさることながら、唯一得意としていたお菓子作りを“気持ち悪い”と一蹴されてしまった。

 この日から、私はピタリとお菓子作りというものをやめた。

 お菓子? なにそれ。

 バレンタイン? 無駄無駄。

 だって、気持ち悪いって言われるもの。


 世の中は、チョコレートのように甘くない。社会に出てしまえば、付き合いで義理チョコを渡さなければいけないことも出てくるからだ。

 あと数日でやってくるイベントに、社内には浮き足立つ人たちばかりだ。

 誰が誰に渡すのか。

 自分は貰えるのか。

 はたまた、自分のチョコは受け取ってもらえるのか。

 判り易いほどのバレンタイン空気に私は辟易していた。

「関川さん、課長たちに渡す義理チョコ。みんなで合わせてってことになったんですけど、それでいいですか?」

「ん? ああ。なんでもいいよ。任せる」

 同じ部署で一つ下の川原ななみちゃんは、とても可愛らしい。ふわりとした印象で、着ているスーツも明るめだ。ななみちゃんは愛らしい仕草で、さっきから部署の女子社員に今のセリフを伝えて回っている。あんな子に本命チョコを貰う男性社員は、嬉しくてたまらないだろうな。

 それに引き換え私ときたら。高校以来お菓子作りをやめてしまってからというもの、女子力もなければ男っ気もない。スーツだって、ななみちゃんとは真逆の暗い色合いのパンツスーツばかりだし。髪の毛だって、肩より伸ばすことはなくなった。サバサバしていて話しかけやすいと男女問わず親しまれるのはありがたいけれど、それ以上にもそれ以下にもならないのが現状。

 付き合ったことがないわけではない。気持ち悪いと言われた事件以来、男性不信にはなったけれど。つきあって欲しいと言われた男の子とは、何度か一緒になったこともあった。けれど、どれも長続きしなかったんだ。きっと、自分から好きになったわけじゃないからだろう。向こうから告白されても、なかなか気持ちが盛り上がらずに、最終的には相手からふられるという不甲斐なさ。

 自分から好きって言ったくせに、とは言い返せなかったけれど。

「ねぇ。今日の飲み会、行く?」

 データと睨み合う私の隣から、不満そうな顔でこそこそとミカが話しかけてきた。

「もう二月だっていうのに、新年会もないよね」

 少しばかり面倒臭そうにミカが息をつく。

「そうだね。ただ、新規開発の成功もあったから、それのお祝いも兼ねてるんじゃない」

「そうかもだけど」

 ミカにしてみたら、こんな飲み会に参加するくらいなら彼に会いに行きたいというのが本音だろう。私はといえば、家に帰っても一人でビールを飲むのだから、会社のお金で飲めるなら喜んでというところだ。

 そんな風に女子力がない代わりに、捌けたとっつき易い人間を前面に出しながらも、つい目で追ってしまう人物がいた。同じ部署で同期の宮原君だ。なんだかんだと言ってはみても、女を捨てきることなんてできない。

 彼もまた、サバサバしている私に話しかけやすいのか、周囲の人たちと同じでよく声をかけてくれる。そうやって話しかけられるのはとても嬉しくて、内心かなり舞い上がってはいるのだけれど、きっと女にはみられていないのだろうと期待の“き”の字も持たないように心がけていた。それに、可愛らしいななみちゃんと話す、楽しげな宮原君を見るたびに落ち込む自分がいて、対抗する勇気など欠片も出てこない。

 宮原君だって、ななみちゃんから本命チョコをもらったら、きっとすぐさまオーケーするはずだ。だって、毎日あんなに楽しそうに笑いあっているのだから。二人が話す様子を見れば落ち込む以外何もできない自分が情けない。けれど、私にはあんな可愛らしい仕草など到底できないのだからしかたがない。


「それでは。新規開発の成功を祝してかんぱーい」

 たくさんのグラスがぶつかり合い盛り上がる中、隣ではミカが容赦なく愚痴る。

「新規開発なんて、大袈裟。ちっちゃなプロジェクトじゃない」

 盛り上がる声たちとグラスのぶつかり合う音に紛れた愚痴は、周囲に聞こえることもなく私としてはホッとする。つまらないいざこざに巻き込まれるのは面倒というもの。

 チェーンのイタリア料理店を貸し切った祝賀会は、他のお客がいないのをいいことに大盛り上がりだった。飲み放題のお酒は安いものに限られているけれど、それでもピザやパスタは美味しいし、デザートもついている。

 ミカと並んでテーブルに着き、パスタやピザをお皿に取る。斜向かいにあるテーブル席に座っている宮原君の隣では、ななみちゃんが甲斐甲斐しくお皿にパスタを取り分けてあげている姿が目に入った。

 あの二人、お似合いだな。

 口元に手をやり笑うななみちゃんは、きっと宮原君のことが好きなのだろう。私も好きだから、よくわかる。あの表情は、恋をしている顔だ。

 あんなに素直に自分の気持ちを出せるのは、とてもま羨ましい。

 私もななみちゃんとまではいかなくても、素直に感情を表に出せていたならもう少し可愛げも出たのだろうか。

 心に寂しさが舞い降りて、仲良く話す二人から目をそらした。

 安いお酒に飽きてきて、パスタやピザにも満足した私は、デザートの置かれている奥のテーブルへ向かった。

 小さなカップに入ったオレンジのクラッシュゼリーに香ばしいカラメルののったブリュレ。マンゴーのプリンもある。小さくカットされたケーキは四種類。王道のショートケーキにチーズケーキにフルーツタルト。それに、苦い思い出になってしまったガトーショコラ。

 ガトーショコラも定番のケーキに入るから、今までも目にする機会は少なくなかった。けれど、その姿を目で捉えるたびに、あの頃の切なさがぎゅっと心を締め付けて苦しくなってくる。

 手作りなんて、しなきゃよかった。それとも、私が作ったから気持ち悪かったのかな。だとしたら、もっと最悪だよね。

 今更過去を後悔したところでどうにもならないというのに、飽きもせずにタラレバばかりを思ってしまう。

 真っ白い粉砂糖が振りかけられた、濃厚そうなガトーショコラをしばし見つめる。

 あれ以来ずっと食べるのも避けてきたけれど、いい加減克服した方がいいかな。苦い思い出ごと飲み込んだら、少しは女子力を上げる努力もできるようになるだろうか。

 久しぶりに口にしてみようかと、用意されているお皿を手に取り、ケーキトングを持ってみた。けれど、迷い箸のようにガトーショコラの上をフラフラさせて踏み出すことができない。

 迷いに迷い、やっぱりまだやめておこうとフルーツタルトへ視線を向けた途端に耳元で声がした。

「ガトーショコラ、食べないの?」

 真隣から突然声をかけられ、驚いてトングを落としそうになった。

 ガチャガチャとみっともなく慌てて、トングをどうにか落とさずに手に持ち声をかけてきた相手を見てから更に驚いた。

 宮原君。

「あ、ごめん。急に声かけたら驚くよな」

 いつも通り普通に話しかけてくれるのだけれど、心拍数が跳ね上がっている私は、なんとか必死さを堪えて冷静になろうと返した。

「な、なんだ。宮原君か」

「なんだ、の宮原です」

 自虐めいた返答をされて、慌てて謝った。

「あ、ごめん。そういう意味じゃなくて」

 ああ、もう。そんな言い方したら、相手に悪いじゃない。しかも、好きな相手に向かってなんてことをっ。

「じゃあ。どういう意味?」

 失言に後悔している私へ面白そうに訊きながらもう一つあるケーキトングを手にすると、宮原君は私のお皿へひょいっとガトーショコラを乗せた。

「えっ。ちょっと」

 驚きの行動に、思わずお皿のガトーショコラと宮原君を交互にガン見してしまう。

 もう何年も口にしていないものをぽんと簡単にのせられて、瞬時に苦い思い出が鮮明に蘇り動揺を隠しきれない。

「あれ。食べるんじゃないの?」

 何も知らない顔が不思議そうに問いかけるから、引くに引けなくなった。

「た、食べる」

 両手でガトーショコラの乗るお皿を持ったまま固まっていると、宮原君はくるりと踵を返していってしまった。

 ガトーショコラと共に取り残された私は、今更お皿の上のものを戻すわけにもいかず、結局、苦い思い出と共に席へと戻った。さっきまで隣に座っていたミカはいつの間にか別の席へと移動していて、他のみんなと会話を楽しんでいる。空いた隣の席が、なんだか余計に惨めさを煽った。

 何が悲しくて、一人嫌な思い出のあるガトーショコラを食べなくちゃいけないのか。

 睨みつけるようにしていても何かが変わるわけではないけれど、どうしても口にする気にはなれなくて、ガトーショコラを前にため息しか出てこない。

 すると、空いていた隣の席に影が差して席が埋まった。ミカが戻ってきたのかと、隣へ視線を向けるとまたも宮原君だった。いなくなったから、てっきりななみちゃんのところへ戻ったのかと思っていた。

「なんだ、の宮原です」

 また面白そうにいって、コーヒーを二つデーブルに置いた。

「飲むでしょ?」

 甘いものにはつきものだとでも言うように、当然の顔をしてカップの乗るソーサーを私の前に置いた。

 確かにその通りなのだけれど、ななみちゃんのところへ戻らなくていいのだろうか。しかも、隣に座られてしまったら、いやでも目の前のガトーショコラを口にしないわけにはいかない。

 高校以来だから、何年ぶりだろう。ああ、数えるのはやめておこう。年齢を意識してしまう。

 目の前のガトーショコラをみつめたまま、私のフォークはなかなか動き出さない。隣では、どうして食べないの? というようにコーヒー片手の宮原君が私をみている。

 というか。

「宮原君は、デザート食べないの?」

 未だ口へ運べないガトーショコラの代わりに話をそらすようにして訊ねた。

「関川さんが食べて美味しかったら、俺も食べるよ」

 え? 私、実験台?

 さあ、食べてとでも言うように、宮原君が私とガトーショコラを見るものだから覚悟を決めてフォークを突き刺し口にした。

「うまい?」

 食べる私に宮原君が注目している。

 久しぶりに口へ運んだガトーショコラは、懐かしくてやっぱり苦い。思い出の辛さが合間って、甘味よりも苦味に支配される。

 気持ち悪い――――。

 脳裏に蘇る冷たい言葉。

 どうしよう、涙腺緩みそう。

 咀嚼するのが苦しくて、ゴクリと塊を飲み込んだら、その音が意外と大きくて隣の宮原君が驚いたように目を見開いた。

「まずいの?」

 丸呑みした私の顔を探るように見て訊ねる。

 わからない。

 そんなのわからないよ。

 悲しい味しかしない。

 辛い味しかしないよ。

 苦い味しかしないよ。

 思い出せばもう無理で、緩みそうだった涙腺は完璧に緩んで、気を抜けば涙が浮きこぼれ出そうだ。

 テーブルに手をつき、立ち上がる。

「関川さん?」

 突然立ち上がった私を、座ったままの宮原君が驚いたように見上げた。

「ちょっと、ごめん」

 パタパタとその場から去り、パウダールームへ駆け込んだ。

 何やってんだろ。あんな昔のこと、いつまでも引き摺って泣けてくるなんて馬鹿みたい。

 洗面台に手をついて、誰も居ないのをいいことに盛大に溜息をついたら、涙の雫がぽたりと落ちた。

「いい大人でしょ。しっかりしなよ」

 涙のあとを残す鏡の自分にいって、大きく深呼吸。突然あんな行動とったら、宮原君だって不審に思うよね。

「戻ろう」

 涙で少し赤くなった目を気にしつつも席へ戻ろうとしたら、そのまま座っていた宮原君のそばにななみちゃんが立っていた。私の椅子の背もたれに寄り添うように立ち、話し込んでいる。

 戻りづらいな。

 距離をおいて二人を見ていたら、宮原君が私に気がついた。

「関川さん。大丈夫? 具合悪くなった?」

 苦笑いでなんでもないと首を横に振ると、ななみちゃんが胸元に手を置きながら会話に混ざる。

「関川さん。バレンタインってどうするんですか?」

「え?」

 何の脈絡もなく訊ねられた内容は、今なら漏れなく触れられたくない話で、誤魔化すようにして僅かに首をかしげた。

「私、手作りにしようかと思ってるんです。宮原さん、どんなのが好きですか?」

 あからさまなアピールに、羨ましいと思うよりも先に驚きがくる。あんなにわかりやすく好きな人へと訊ねられる勇気など、私には到底ない。

「えーっと。どんなのかな」

 曖昧に応える宮原君から、ななみちゃんが私へと視線を移した。

「好きな人への手作りチョコって、憧れじゃないですか? ザッハトルテとか作ってみようかな?」

 人差し指を口元へ持っていき、少し上に視線をやる表情は可愛さの塊だ。

「川原さん、ザッハトルテなんて作れんの?」

 宮原君が驚いたように訊ねた。私も同じ気持ちでななみちゃんを見た。

「作ったことないんで、チャレンジです」

 顔に似合わず大胆で思わず頬が引き攣った。

「チョコレートケーキにチョコレートをかけちゃう感じですよね?」

 ザックリ言えばそうだけど。

「えーっと……、チョコレートをかけるタイミングは意外と難しいと思うよ」

 やんわり教えると、そうなんですか? と特に何も考えていないような返答に大丈夫かなとこちらが心配になってくる。

 冷め始めてかたまる寸前のチョコをとろりとかけ、表面へと綺麗に撫で付ける作業は意外と難しい。凸凹になったり、撫で付けるスパチュラにケーキがはがれてついてきてしまったりするからだ。

「関川さんは、詳しそうだね」

 宮原君に訊ねられて、そんなことない。と即座には応えられなかった。

 これがつまらないプライドの正体だ。今になっても、そんなプライドを抱えているなんて馬鹿みたい。

 そこで課長からななみちゃんへとお呼びがかかった。

「もうっ。まだ宮原さんとお話したかったのにー」

 拗ねた表情も可愛らしい。

 また後でお話ししましょうねと笑みを置いて、ななみちゃんは課長の元へと軽やかにヒールを鳴らして行った。その姿から視線を戻した宮原君は、もう冷めているだろうコーヒーのカップへ手を添える。

「関川さんは、どんなのが得意なの?」

 訊ねながら、ななみちゃんがいなくなった事で私がさっきまで座っていた椅子を引き、席に座るよう促された。

ストンと腰かければ、ウキウキとした宮原君の訊ねる目が眩しくて、つい正直に応えてしまった。

「ガトー…ショコラ」

 躊躇いながら言葉にすると、テーブルへと視線が移動する。

「え? これ?」

 さっき一口だけ食べてお皿に残したままのガトーショコラを見て、宮原君は驚いたと私を見た。それから優しい笑みを浮かべて言ったんだ。

「食べてみたいな。関川さんの作ったガトーショコラ」

 宮原君の言葉に体が固まった。

 ズルイよ。そんな笑顔でそんなこと言われたら、私勘違いしちゃうよ。

 だって、手作りだよ。気持ち悪いでしょ?

 気持ち悪くて、こんなの食えない――――。

 あの瞬間が蘇り、胃がキリキリとしてくる。

「もうすぐさ、バレンタインじゃん。俺に作ってくんない?」

 何言って……。

「手作りだよ」

「うん」

「大丈夫?」

「何が?」

「気持ち悪く、ない?」

「え? なんで気持ち悪いの。関川さんが作ってくれるなら、喜んで食べるし。なんなら、もったいなくて食えないかもしんないけど」

 目尻を垂らして笑う顔に、思わず心を持っていかれる。

 そんな顔して、そんな発言。やっぱりズルイよ。期待しちゃうじゃない。そういうのは、本命のななみちゃん相手にだけやってよ。

「あ、えーっと。そか、義理だよね。義理チョコ。ね」

 何を舞い上がっているのか。チョコを催促されて浮かれるなんて、調子に乗りすぎだよね。

 無駄に笑顔を浮かべてからコーヒーを口元へ持っていったままの宮原君を見れば、なんだか悲しげな顔をしていた。少し離れた場所では、ななみちゃんが課長や他の男性社員相手に可愛らしく笑顔を見せている。

 ななみちゃんなら、素直に喜んで作るんだろうな。

「本気って言ったら?」

 宮原君があえて体をこちらへと向けるように座り、まっすぐな目で私を見た。

 吸い込まれそうな瞳から目が離せない。さっきまでガヤガヤとうるさかった周囲の音が私の耳から遠ざかる。

 本気って、どういうこと?

 そんなはずないと思う自信のない私と、素直に期待してしまう自分がぶつかり合う。トクトクと左胸が反応しだす。見つめる目を見つめ返せば、その中に期待する答があるような気がする。

 宮原君、私――――。

「みーやはらさんっ」

 不意にかけられた可愛らしい声に、はっとなる。さっきまで遠ざかっていた周囲の喧騒が一気に耳へと近くなった。ななみちゃんが戻ってきたんだ。

 私だけ見ていた宮原君の視線が、やってきたななみちゃんへと再び注がれる。

 あっという間に持っていかれた好きな人の眼差しから目をそらし、残ってしまった黒い塊を前に私はまた席を立った。

 当然のように私の席にはななみちゃんが座り、宮原君と向き合って会話が始まる。

 楽しげな彼女を羨む自分がいた。


 あれ以来、宮原君を避けていた。ロボットのように機械的に必要事項を話すくらいで、何か声をかけられても私はうまく対応することができなかった。

「なんか調子悪い?」

 書類の束に向かってため息をついたところで、隣の席のミカが顔を覗き込むように話しかけてきた。

「どうして?」

 ほんの少し動揺したことは、悟られたくなかった。ななみちゃんには敵わないと諦めている自分を誰かに気づかれることが辛い。こんな所にも小さなプライド。

「平気だよ」

 頑張って口角を上げた私の肩に手を置き、ミカがたんたんと軽く叩く。

「飲みたくなったら、言ってよね」

「ありがと」

 些細な優しさが身に沁みる。

 午後になり、みんなで買った高級チョコが課長の手へと渡った。義理だと知っていても、なんとも嬉しそうな顔だ。お返しが大変だろうな。

 肩を竦めながら、机の引き出しに視線が行った。

 あんなに作ることを拒んできたのに、なにを思ったか私は結局ガトーショコラを手作りしていた。久しぶりで感覚が少し鈍っていたけれど、悪くないできだと思う。ラッピングも綺麗にできた。

 なのに、ななみちゃんの顔や宮原君の顔を見てしまえば、引き出しから出す勇気などどこにもない。このまま引き出しの中で、箪笥の肥やしのようになってしまうんじゃないかと思うくらいだ。

 ミカにあげちゃおうな。

 ため息をつき、一息入れようと席を立つ。休憩室でコーヒーを淹れ、窓の外へ視線を向けると飽きるほどの青空が広がっていた。

「眩しい」

 ポツリと呟くと、隣に宮原君が現れた。思わず、半歩後ずさると待ってよと声をかけられた。

「関川さん、最近元気ないっていうか、俺のこと避けてたりするよね?」

 図星すぎても、そんなことないというように私は首を振った。

「俺の気のせいだといいんだけど」

 それから窓の外に広がる青に目をやり、空に向かって話すみたいにポツリとこぼす。

「今日は、俺。朝からずっと関川さんからのガトーショコラを期待しちゃってんだけどな」

 人なつっこい笑みをたたえて宮原君が再び私を見るから、心臓は正直すぎる程にドキドキと彼に反応する。

 本気なのだろうか。

 ここまできてもまだ彼の言葉を信用しきれていない。あの日ふられた光景がいやがおうにも私の勇気を退ける。

 背後を振り返れば、ななみちゃんが少し離れた場所からこちらを見ていて、こんな風に宮原君と話している自分がいたたまれなくなった。

「ほら、ななみちゃんだよ。ザッハトルテ、作ってきてくれているんじゃない?」

 おかしくもないのに笑ってからまた半歩下がると、宮原君の眉間にシワが寄った。

 もう一度後ろを振り返ると、ななみちゃんが可愛らしい包みを持ってこちらへ向かってきていた。お目当てのチョコと彼女の登場。

「本命チョコじゃない?」

 一言告げて、私は踵を返した。

 ななみちゃんとすれ違い少ししてから振り返ると、彼女は嬉しそうにはにかんで宮原君へチョコを渡そうとしていた。

 席に戻った私は少し乱暴に引き出しを開ける。隣の席のミカが、そんな私の行動に驚いているのがわかった。けれど取り繕う気力もなくて、作ってきたガトーショコラの入った袋を掴んで席を立つ。

 小走りにフロアから出たあとは通路を一直線に行き、一番奥にあるゴミ箱へと向かった。少しでも期待して作ってきた自分がバカみたいで、どうしようもなく泣けてくる。

 ふられるのが恐いくせに、何で作ってきたりしたんだろう。

 気持ち悪いってまた言われちゃうだけなのに、どうして期待しちゃったんだろう。

 あの頃の自分と何一つ変わっていない。少しの成長もないことが、情けなさ過ぎて笑えてくる。

 袋の取っ手を握りしめ、ゴミ箱へ捨ててしまおうと持ち上げた――――。

「待ってっ!」

 止められた声にびくりとして振り返ると、宮原君が慌てたように走り寄ってきた。

「捨てるくらいなら、俺にちょうだいよ」

 今まさにゴミ箱へ投げ捨てようとしていた袋を私の手からさらった。

「俺のために作ったんでしょ?」

 違うといいそうになって口籠もった。はっきり否定できないのは、こんな風に来てくれたことへ期待をしてしまっているから。

「ななみちゃんがチョコくれたでしょ」

 それでもまだ素直になれなくて、返してというように手を伸ばすと、宮原君は子供みたいに袋を高く上へ持ち上げた。

「彼女からのは受け取らなかった。俺が欲しいのは、こっちだから」

「どうして? 手作りだよ。気持ち悪いでしょ?」

「だから、なにその気持ち悪いってやつ。俺なら大歓迎だし」

 そういったと思ったら、中に入っているガトーショコラを取り出した。

「すげー。売りものみたいじゃん。食べていい?」

 感動したような笑顔を見せると、良いとも悪いともいう前にラッピングをあっという間に解いて、ガトーショコラを口へと持っていった。

「うまっ。マジ、美味しい。この前のイタリアンで食べたやつなんて目じゃないよ」

「目じゃないって。宮原君、食べてないでしょ」

 苦笑いで指摘したら、食べたよと即答された。

「関川さんが残していったガトーショコラ、あのあと食べた」

「えっ。どうしてっ。食べかけだよっ」

 慌てて訊ねたら。

「関川さんのだから、いいかなって」

 屈託無くいって笑うから、なんだか力が抜けてしまう。

「これ、本命ってことでいいかな?」

 ガトーショコラを手にして宮原君が訊ねる。良いも悪いも答えは初めから出ている。

 私がコクリと頷くと、よっしゃというように空いた片手が拳を握った。

「よかったー。こんな荒技使ったけど、正直めっちゃ緊張してたんだ」

 ほっとしたような顔の後には、一瞬の間に唇が触れた。

 驚く私に、しーっと口元へ人差し指を置く。

「関川さんの唇、甘いね」

 それは宮原君が食べたガトーショコラが甘いからだよ。

 心の中で言い返し、甘く塗り替えられたガトーショコラとクシャリと笑う宮原君に笑顔を見せた。

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