私は魚だ


 あの日から、どれほどの年月が経っただろうか、ふと少女はそんなことを考えた。

 当時、大人たちは世界の終わりだ、そう言って大騒ぎしていた。

 けれど、少女はそれが間違っていたことを知っている。


 世界の終わりだなんて大嘘だ。


 今日も太陽は東から昇り、少女はいつものように目覚めた。




 朝日と共に起きて、まずすること。いつものように、家の裏手を流れる川で、水を汲んだ。

 生で飲むにはさすがに不安があるが、それなりに手を加えてやれば今のところは問題なく利用出来た。

 汲んだ水をお手製の濾過装置に注ぐ。その前に昨日注いであった分を取り出して、いくらかを使ってお湯を沸かす。

 最近はもっぱら学校の理科室で拝借したアルコールランプを使っていた。のんびりとお湯が沸くのを眺める。


 彼女は時間に追われる、ということをしない。


 お湯が沸いたら、それで好きな飲み物を淹れる。今日はコーヒーにすることにした。

 インスタントコーヒーの粉末と、熱々のお湯を魔法瓶に注ぎ入れる。

 余ったお湯で、マグカップにもコーヒーを淹れて、それを時間をかけて飲んだ。

 ついでに乾パンを少々かじる。今日の彼女の朝食は、それで全てだ。

 マグカップを片付けて、お弁当と魔法瓶をベージュのいつもの肩掛け鞄に詰めると、彼女は家を出た。



 向かう先は、決まっている。図書館だ。

 図書館まで歩いてどの程度の時間を消費するのか、この少女は正確に測ったことがない。

 時計なんて、彼女には不要だった。



 少しの時間をかけて、図書館についた。自動ドアは、開いたまま壊れていた。

 故に、中には何かが居るかも知れない。外から見た様子では、中は静まりかえっていたけれど。

 特に危険を感じなかったので、少女はいつものように図書館へと足を踏み入れた。



 うっすらと誇りの積もった書棚をぬって、本を抜き取ってはパラパラと捲って、元に戻す。

 この時間が、少女は好きだ。もしかすると、本を読んでいる時以上に。

 まるで、宝探しをしている気分だ――、少女はそう思ってから、宝探しなんてしたことが無いことに気づく。

 どうして私は宝探しをしている時の気分を、こんなにもはっきりと想像できるのだろう?

 ちょっと考えて、その答えはこの図書館にあるに違いないと気づいた。



 結局、彼女が書棚から抜き取ったのは、宮本常一の全集から一冊、だった。

 彼は民俗学者だ。彼の書には多少のフィクションが紛れているとされることもあるが、少女にとってそれはさほど問題ではなかった。


 読んで、興味深ければ、それでいい。


 いつもの場所に腰掛ける。ゆっくりと表紙を開く。

 そうして彼女はページを捲り始めた。心なしか、のんびりと時間が流れていく。



 彼女は何でも読んだが、その中でも好んだのは歴史の本と、科学の本だった。小説も読まないではなかったが、優先順位としては高い方ではなかった。

 彼女はその理由を考えたことがある。その結果は次のようなものだった。


 登場人物に感情移入出来ないのだ。

 

 登場人物の感情が理解出来ない、というわけではない。宝探しをする時の、あのわくわくする感じさえ知っているのだから。

 ただ、彼女はどうしても登場人物と自分の間に壁があるのを感じていた。どうしても、その壁を取っ払うことが出来ないのだ。

 それは物語の中だけで無く、現実の他人との間にもそうであったのだが――、その問題が表面化する前に、あの日は訪れた。

 もしも彼女が社会に出ていたら、共感の力に欠ける、そう評されていたかもしれない。

 そんなわけで彼女は、フィクションの中では恋愛小説よりも推理物を好む。特に、読者をだますような奴がお気に入りだった。



 常一の全集の一冊を区切りのいいところまで読み進めて、愛用の栞を挟んで本を閉じた。

 ベージュの肩掛け鞄から魔法瓶を取り出して、コーヒーをカップに注ぐ。特有の香りが、湯気と共に広がった。

 本来この図書館では飲食は厳禁だが、それを咎める者は、彼女自身しかいない。

 ゆっくりと、彼女はコーヒーを飲む。その間は本を読み進めないのが、飲食厳禁の代わりに作った彼女の決まりだ。

 読み応えのある本を相手にした時の、頭を休める一時の休憩。

 その時間も、彼女は好きだった。



 自分が歴史の本を好むのはなぜか――。

 その理由も彼女は考えたことがあった。結論は次の通りだ。


 まともな歴史学者なら、なるべく客観的に叙述しようとする。


 実際にそれが客観的かどうかは、今の少女にとってはさほど問題ではなかった。要は、全部を語っていなければそれでいいのだ。

 第三者的な視点から得られた情報を元に、当時を生きた人々の気持ちを考えるのが、彼女は好きだった。

 想像の翼を広げるなら、少しは足りない部分があった方がいい。

 ミロのヴィーナスの失われた腕のように。



 コーヒーブレイクを済ませて、彼女は再び常一の文章に取りかかる。

 彼が生きた時代の日本は、少女にしてみればほとんど異国に等しかった。

 おかげで、出てくる言葉がさっぱり理解出来ないことも時折あった。


 ――苗代って、なんだろ。


 そんなとき、彼女は次の二つの行動のうち、どちらかを選んだ。

 一つ、辞書を引っ張ってきて、調べる。

 二つ、意味を勝手に想像して読み進める。

 あらゆる言葉の正しい意味が失われた今となっては、どちらを選んでも正解だった。



 空腹を感じたので、昼食を取ることにした。

 宮本常一の本に、お手製の栞を挟んで脇にどける。残すのは最後の「放浪者の系譜」という章だけだ。

 お弁当、つまり乾パンと缶詰を取り出す。缶詰を開けて、魔法瓶のコーヒーをカップに注ぐ。それと、鞄からお箸を用意した。

 いただきます、と手を合わせてから、愛用のお箸で缶詰の中身を取り出す。

 シーチキンを乾パンにのせて、そのまま食べる。それをコーヒーで流し込んだ。

 少女は元々、味にうるさい方ではなかった。お腹が膨れればそれでよかったし、細かな味付けの違いなんてさっぱり分からない。

 彼女の食べ物に対する評価はおおむね次の三通りであり、今回の食事は最初の評価になる。


 「おいしい」「味がない」「人間の食べるものじゃない」


 こういう少女の食に対する無頓着さは、この状況においてはよい方向に働いただろう。



 「おいしい」食事を終えて、少女はごちそうさまでした、と心の中で唱える。

 空になった缶詰を、持ち歩いているゴミ袋に詰めて、そのまま丸めてベージュの肩掛け鞄に突っ込んだ。

 今にして思えば、真っ先に保存食と生活必需品を確保していたのは賢明だっただろう。

 数週間もしないうちに、スーパーマーケットの生鮮食品売り場は節足動物たちの天下となっていた。

 あの量がいったいどこから出てきたのだろうか。あの時だけ、少女は自然発生説を信じた。虫が湧く、というのは正しいのだと。



 太陽が高く昇っていた。少女は続きを読み始める。

 この場所なら、いつの時間でも日光が照らしてくれる。雨の日でも、まあ読めないことはなかった。

 やがて少女は一冊まるまる読み終えた。文字に残らなかった、当時の人々の生活に思いを馳せつつ、立ち上がる。

 常一の本を元在った場所に返して、次の攻略対象を探す。

 少女は、同じ分野の本を続けて読むことはしなかった。その方が驚きがあると、経験的に知っていた。

 だから、反対の方へ歩く。迷い込んだ先に並ぶのは自然科学の本だ。



 少女は科学も好きだった。気にもしていなかった疑問にさえ、たまには答えてくれる。

 彼女は晴れた日に気が向けば、夜に星空を眺める。

 だから、星々にいろんな色があることを知っていた。

 けれども、それが恒星の表面温度の差に由来していたなんて、知りもしなかったし、星の色がなぜ違うのか、気にしたことさえなかった。

 そしてそれを元に、星の年齢さえ推測出来るなんて。


 冬の空に青白く輝くおおいぬ座のシリウスは、比較的若い星。

 夏の空に赤く輝くさそり座のアンタレスは、大きく膨らんだ年老いた星。

 黄色いぎょしゃ座のカペラや――我らが太陽は、その間。


 まあ、太陽はあまりに近すぎるから、真っ白にさえ見えてしまうけれど。



 やがて、少女は一冊の本を抜き取った。生物学の入門書だ。比較的新しい書物である。

 スズメが恐竜の子孫だなんて、わくわくする話だったし、少なくない生物に存在する性というものが、効率的に進化するためのシステムである可能性なんてのも、興味深い話だった。

 あるいは好熱菌の尋常じゃない耐久能力も、ベニクラゲとかいう若返りする生き物の話も、どれも好奇心をくすぐられる話だ。

 そんなわけで、前々から少女は生物学に興味を持っていて、入門書のたぐいも何冊か読んではいた。

 久しぶりに、少女は生命の神秘の世界に身を浸すことにした。



 途中、何度かの休憩を挟んで読み終える頃には、太陽が傾いていた。

 元あった書棚に本を返して、図書館を去ることにする。恐らく少女はあの本を、二度と読まないだろう。

 少女はじっくりと本を読む代わりに、一度読んだ本を再び読むことはなかった。なにせ、まだ読んでいない本が山ほどある。

 それはたぶん、幸せなことだった。当面は退屈しそうにない。

 仮にこの図書館を制覇したとしても、まだ次の標的は残っている。近くには書店もあるし、古本屋もあった。

 図書館に飽きたら、あそこの古本屋の漫画を読もうと目星をつけていたのだけれど、当分その日は来なさそうだった。



 家に帰って、玄関を開ける。山積みにされた段ボールの間をかいくぐって、寝室へ。

 段ボールの中は言わずもがな、食料と生活必需品だ。

 もうすぐ日が暮れる。その前に缶詰と乾パンで夕食を済ませた。

 魔法瓶のコーヒーがなくなったので、お湯を沸かして今度は紅茶を入れる。食事同様、飲めればいい、という考えの少女は、紅茶にも何も入れなかった。

 下手に砂糖を放置すると無限に蟻がたかってくる、というのもある。



 食後の紅茶の後、ふと尿意を覚えたのでトイレで用を足して、裏の川で汲んできた水で流す。

 彼女の最大の心配事は、ここと図書館の下水が詰まりやしないか、ということだった。



 日が暮れれば、後は眠るだけだ。その前に彼女は服を脱いで、湿らせたタオルで体を拭く。

 たまった衣類を見て明日は洗濯をしようと決めた。



 新しい服に着替え終わると、彼女はベッドに腰掛けた。

 そして少女はA4サイズの大学ノートを開く。それは彼女の備忘録、あるいは手記だった。

 そこにはお世辞にも丁寧とは言えない筆致で、雑多な言葉が記されている。

 たいていは、今日読んだ本を受けての、彼女の一言。

 彼女は誰かに見せるためでもなく、さらには読み返すためでさえもなく、それを書いている。

 ただ、自分の言葉にするためだけに。

 何を書こうか、と思案して、思いついた。

 今日読んだ本によれば、人類は硬骨魚類の一員だ、と言えなくもないらしい。

 恐らく、人類は猿だ、というのと同じくらいには、人類は硬骨魚類なのだ。

 単に言葉の定義の問題ではあるのだろうけど、どこかおかしな事実で、少女はそれが気に入った。


 「私は魚だ」、そう一言だけ書き込んで、彼女はノートを閉じる。



 後は、眠るだけだった。太陽が沈むと共に、少女は眠りへと落ちた。

 夢さえ見ない、深い深い眠り。

 やがて朝が来れば、少女は目を覚まして、裏の川で水を汲んで、洗濯をするだろう。

 そういう日々を、恐らく少女は一生繰り返していく。

 それは長い長い暇つぶしに過ぎないのかもしれないが、きっと彼女はそれを不幸だとは思わなかっただろう。


 少女は自身が硬骨魚類であるという事実に、満足していた。

 その愉快な事実で、十分だった。

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私は魚だ 鹿江路傍 @kanoe_robo

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