蚊
かなしみの雨は止んでいる。股ぐらに付着した真っ赤な経血を静かに啜り取ろうとしているときであった。君が我に返ったのは。
両のふとももの肉に指を食い込ませて、まくり上げられたプリーツスカートの、それが本来あるべきだった場所をみずからの顔で埋めていた君だが、突然ある嫌な音が耳元をかすめ去っていく。それで注意を向ければ、自身の左腕の一点に、あの忌まわしき影が貼りつけられているのであった。いや、左腕のみではない。右腕にも、そしておそらくは両足首にも止まっているようだ。部屋がいつのまにか蚊の巣窟になっている。
気づいたとたん、君は全身を異常な掻痒感に蝕まれ、同時にただでは済まさぬぞという復讐の意欲に駆られた。いったん作業の手を止めることも辞さないほどの。
その一方で、君は奇妙に冷静沈着である。それはこの機を絶対に逃すまいという決意からかもしれないし、実はあまりに途方もない作業にいまいち身が入りきらなかったために、些事に気を削がれることをみずから歓迎していたからかもしれない。さてどうしてくれようか。君はいまこういう状況にある。右腕にも蚊。左腕にも蚊。両手は静脈の浮き出た白い内腿の肉を掴んでいる。頭の前には、生理中だった森本樹里亜の陰部とそれからタイの手前までボタンを外されて両側へ向けて開かれた、真っ白なシャツ。その薄い生地の見返しと、見開き。そして垣間見られる水色のブラ。ショーツは足首までずりおろされている。――すべて君がどうしようもなくやったことだ。
ひとつの単純な思いつきによって、君は腕を動かすかわりに、筋肉にぐっと力を入れてみる。するともう蚊どもは動けない。針が抜けないのだ。君は痒みと怨恨とをうまく制御して、自由を奪われた、憎らしい
君はもう樹里亜の肉体をほとんど隅々まで愛しつくしていた。顔面を舐め、頸の太さを手で測り、鎖骨をなぞっては腋窩のにおいを嗅ぎ、乳首も吸ったし、乳房も千切れるほど搾った。……それでも、君はそこに書かれてあったはずの言語をどうやっても読み解くことができなかった。なぜなのか? そこにひらかれているのはただただ、文字通りの不毛な沙漠であったのだ。樹里亜そのものは見出されなかった。こんなものがあの樹里亜であったとは思われない。確かにこの中に綴じられていたはずなのに、いざ精読しようとなると、行方がわからなくなってしまう。意味が消滅してしまったのか、最初からなにもなかったのか、あるいは無限にあるがゆえにどこにも定まらないのか……いずれにせよ、空っぽだ。まるで騙し仕掛けのように。
だが、それはやる前からだいたい予想がついていたことだ。それでも君はやらずにはいられなかった。なぜなのか?
(――最初、僕は君に近づきたくて、君をもっとよく知りたくて、その一心だった。でも近づいてからは、知ってからは、その言動の全部がいちいち許せなくなった。なぜなのかと考えてきて、それでようやくわかったことがある。つまるところ、愛が悪い。僕は愛なんてきらいだったんだ。だから君を愛そうとしてしまった自分のことをきらいになるのは当たり前だし、そんな自分の愛を拒まなくなったどころか、僕の愛を積極的に求めるようになってしまった君のことも、僕はどんどんきらいになっていったんだ。なぜって、僕が君を追いかけていられたのは、じっさい君があらゆる意味で僕からもっとも遠い存在だったからだ、自分とはちがう、まったく新しいなにかだったからだ。ああそうさ、追い求めているうちはたのしかったよ。だけど捕まえたが最後、僕が否定したくてたまらなかったものを君のなかに見ないわけにはいかなくなった。君のことをまるごと好きになろうとしても、僕がいちばんきらいなものが最初から入ってしまっていたんじゃ仕方がない。それは結局いままでの僕、にせものの僕のことだ。そんなものをどうやって愛すればいい? まるで世界の終りじゃないか……)
君は左腕にとまっている蚊を見た。それは二匹に増えていた。ありえない。幻覚であろうか。
(――だってそうだろう、特別な選良から特別に選ばれて特別なおつきあいをすれば、自分だって特別な存在になれないはずがないと思っていたのに、実際はどうかといえば、不満ばかりが高まるだけで、結局のところ僕自身はぜんぜんなにも変わっちゃいなかったんだから。おかしな話だ。ジーンリッチなのか何なのか知らないけれど、事実君はギフテッドだよ。いっぽう僕はこのとおり、なにをやっても二流止まり、平々凡々、よくてそれなり――そんなものさ、生れたときからそうときまってるんだから。それを君自身どう思っていようがこっちには関係ない。自分でもわかってるんだろ。馬鹿にするな。腹が立ってくるんだよ、近くで見れば見るほど、自分の恥を知らされて。そんなふうになれるんだったら、僕もなりたかったよ、ジーンリッチに! おい、なんで僕は天才じゃないんだ。なんでその他大勢なんだよ。答えろ。天才じゃない人生なんて人生じゃないだろうが。生れてきた意味がないだろうが……)
君は右腕にとまっている蚊を見た。それは三匹に増えていた。まるであの不可解な数列のように……。
「穢らわしい! 穢らわしい!」
思わず叫喚して右腕を左手で叩き付ける。が、その一瞬の隙に、蚊どもはみな飛び立って行方をくらましてしまった。左手の蚊の姿もない。君が痛めつけたのは、やはり君自身の皮膚でしかなかったのだ。さて少なくとも五匹の敵がこの部屋の中にいる。御しがたい征服的な感情に囚われた君は、やたら無闇に全身を掻き毟ったあと、他のあらゆる物事を忘れて虱潰しに怨敵を探し、見つけ次第殺していった。一匹、二匹……数えるごとに君の手のひらには君自身の鮮血が赤い染みとして付着していく。
最終的に、君は生徒会室の中の七匹の蚊を殺すことに成功した。それ以降はもう発見されなかったのである。にもかかわらず、いまだ君の耳には、あの怖気立つほど不快な羽音がとりついて離れないのであったが。
(――君を自分のものにしたところで、けっきょく僕が積み上げてきた成果は、とうとう僕のものにはならなかった。だから僕はそれをみずから突き崩し、破壊することでしか、実感を得られなかった……)
実は君も気づいていたのだが、ずっと無視を続けていたあることがらがあった。それは、樹里亜の身体にだけは蚊がとまらなかったことと、それが小刻みに痙攣していたことと、さきほどからまったく寝息が立てられていないこと、の三つである。
寝たふりではない。――樹里亜はとうに事切れていた。
だが、しかし、なぜなのか? ありえない。いくら彼女の身体が弱かったといえども、すこしばかり量が多かったにせよ、たかだか飲料に混入させた程度の睡眠導入剤が死亡事故を引き起こすなどということは、あってはならないのだ。
だから次は、隠蔽しようと考える。直後にいくつかの実現可能な方法が頭に浮かぶ。だが、最後にはあの白猫のアスを呑み込んだ巨大な水路トンネルの暗黒が目前に現れて、頭からみんな呑み込まれてしまうのだった。そんなときに鍵のかかった引き戸が蹴破られ、観崎映子がずかずかと這入ってくる。驚きの声すらほとんど上がらない。おそらくあのとき樹里亜が助けを呼んでいたのだ。しかしなぜ駆けつけてきたのがほかでもなく、映子だったのか。そのことばかりをぼんやりと考えていた。映子は状況をを見るやげらげらと笑いだし、それから突然白けたような真顔に戻り、明日言おうと思っていたことがあるといって、君に向かって口を開く。
「あんたさ。もういい加減死んでけよ」
救急車を手配した映子は、その後ためらいなく人口呼吸と心臓マッサージとを樹里亜にこころみているかに見えたが、甲斐なしと見たのか早々に諦め、ため息を吐いて、君に胡乱なまなざしを送りつけてきた。
「もうだめかもね」
「ああ」
「ああ?」
感情を押し殺したような低い声で詰られ、君はなすすべもなく二人の背後に立ちつくしている。
「……ごめん」
「あたしに言うな。樹里亜に言え。届くまで一生言い続けてろ」
そのように言われて君はいろいろなことを理解した。ああ、樹里亜はもうだめなのか、ここにあるのは、もうだめな樹里亜なのか、もうどんな呼びかけにも応答しない、人を愛することもできない、樹里亜としてのあらゆる機能と価値とを剥奪された、無名称の《肉》――彼女は自分がこうなってしまうことを知っていただろうか。それを確認するすべはない。なぜなら彼女はもうここにはいないのだから。おどろくほどあっけない。いったい樹里亜とはなんだったのか、それを考える猶予すら与えてくれない。たった一瞬にして、樹里亜のなかにあった、無限的なるものの源泉が途絶えてしまった。あるいは樹里亜という無限は、無限の点集合だったのかもしれない。いまここにあるのはただの器だった。美しい顔は眠りに入ったまま、それでもなお生きていた残像をこしらえて、やすらかに天井のほうを向いている。
……ただその様子をそばから見ても、君はまだ、責任というものを正しく引き受けられる状態ではなかった。その所在のことは認識している。ただそれは自分の外側からやってきて、身のまわりに巻きつかれてしまった、謎めいた尾のひとつだった。君はこれを因果ではなく、たんなる事実として習得する。また同時に君は、あの杜撰な確率論の結果によって、明日の自分の予定運命が決定されていることを悟った。すなわち君の目前には「人殺し」としての生活が待ち受けているのである。受け容れるかどうかの問題ではない、事実なのだ。そしてこれは覆らない。君は樹里亜を殺害した。樹里亜と君との関係性はこうして永久に固定される。樹里亜の人生のどこをさらってみるにしても、終末論的に君という存在が現れるようになった。そして君のこれからの人生にも、この動かしがたい事実がいついかなる場合においても同伴するようになった。君は殺害という行為によって、自分たちのもつ可能性をすべて一点に集約させてしまったのである。今度ばかりは涙も出ない。茫然として、非常に乾いた心境だった。
手の届かない無花果を懐に入れるためには腐らせて落とすしか方法がなかった、たとえそれが最終的に中毒を引き起こすことになるのだとしても。
裏切りつくした涯てにあるのは、かならず純粋な寂寞だった。
「――薬返せ」
気づけば映子が厳しい顔で、所在なげに佇む君に詰めかかり、片手を差し出していた。
「……なんで?」
「いいから」
有無を言わせぬ口調だったので、君は鞄の中から残り少なくなった風邪薬の小瓶を取り出して映子に手渡す。するとそれを受け取った映子はその場で蓋を外すやいなや、また君に突き返してくるのだった。
「飲めよゾンビにんげん」と彼女は当たり前のように言った。「全部な」
「え、……ああ」
このとき君は現実感の欠如のために、何を命令されても即実行してしまいそうな境遇であったから、しばし息を呑んで見つめたものの、それを受け取ろうとして手を動かしたのは、ほとんど自動的な反応であった。ところがこの瞬間、君はにわかに目つきを鋭くした映子から、瓶を持つほうとは反対の拳で、顔面を殴りつけられているのである。唖然としつつ立ち直れば、映子は小瓶を机に叩きつけながら、妙に落ち着いた調子で吐き捨てるようにこう言った。
「騙されやがって」
「え?」
「嘘だよ」
「あ、ああ、嘘かよ……」
「嘘じゃねーよ虫けらやろう」
「……何?」
「何? 何って、ききたいのはこっちだ。樹里亜レイプして殺した感想は? 犯罪者になってどんな気分? 樹里亜は泣いてたよ。あんたのことを呪ってね。でも同じように愛してた。あたしは殺せっつったのに」
「僕は……」そこで君は口ごもった。何を言おうとしているかわからない。そして本来出るべきだった言葉が何かに征服され、死んだような言葉が出てきた。「僕は……樹里亜から愛されるのがおそろしかったんだ」
「あっそ!」螺旋が切れるように映子が張り叫ぶ。「樹里亜がきいたらなんて言うかね。後になってのお楽しみだ」
君は映子がなにか皮肉か、さもなければ言い間違いをしたのかと疑って顔を見た。だが彼女はいつにも増して断定的な口調であったし、後に続くような打ち消し文句もいまのところない。さらに彼女はやたら大きなため息をついて、君の目を見るなりこう言ってくるのだった。
「ゾンビだよ。生き返る。運がよければ」
「ゾンビっておい……」そして君は目を瞠る。「いまなんて言った? 生き返る?」
映子は混乱する君をよそ目に鞄の中からコーラなど取り出して、キャップを回しながら平然とつぶやいた。
「まあ、あんたがそうだったみたいにね」と。
「なんだって?」
映子はペットボトルに口をつけ、それを机に置き、「あー」と黒髪を掻きむしったあと、億劫そうに話しはじめた。そしてここからは、映子の独擅場なのだった。
「まあゾンビってのはさあ、ようするに一回死んでから蘇生した、しかばね人間のことだ。これはまあ実在したね。どっかの古い部族なんかでは実際に人間からゾンビつくって農園労働させてたっていう。けど一回死んだ人間は当たり前に生き返らない。じゃあどうやってたかっつうと、仮死状態にさせるわけだな。うまくいけば復活する上に、脳がぶっこわれてるから意志の自由がほとんどきかない。つまりこれ以上ない奴隷の誕生だ。で、ゾンビパウダーっていうのがある。これがまさにゾンビをつくるための薬なんだけど、あんたテトロドトキシンってきいたことあるよな?」
さまざまな重圧から君は焦りをおぼえはじめていた。
「いや、あるけど……それで?」
「よくきけよ。まあぶっちゃけ、ゾンビパウダーの主成分はテトロドトキシンってことがわかってんのだ。これはね、フグだけが持ってる毒じゃない。そしてあたしが思うに、イモリのいいところの三つ目は……」
君の脳裡に絶望的な閃きが訪れた。――イモリ。変態するイモリ。セックスをしないイモリ。……そして媚薬の原料としても伝えられるイモリ。心臓まで黒焦げになったそれは、向こう側の相手を想う熱情の記録であった。
……だが媚薬というのは、人から意志の自由を奪うのである。
「おい……まさか……」
君は思わず長机の端に寄ってそれを確認した。コーラのとなりに置かれてある、驚異の詰まったこの小瓶。眠れぬ夜の睡眠剤。そしてまた樹里亜に使った
だんだん映子がおのれの感情を露にしだしてくるのがわかった。いま君に向き直り、正面から見据えられたその顔には、これまで彼女の見せてきたなかで最も惨烈な表情が刻まれている。
「ああそうさ……あたしはこれまでいろんな動物を使って、イモリの毒を研究してきたよ、あたし流のゾンビ睡眠薬をつくるつもりでね。なんのためって? もちろんあんたを殺すためだよ。もうわかるだろ、マヌケなあんたは、あたしが真心こめて塗ってやってた毒に気づかず、寝てるつもりが死んじまってて、朝になったらまた生き返る、そういう繰り返しを延々とやらされていたわけさ。なにか文句ある? ……いやいや、だまれ、こっちは言いたいことがまだあんだよ、あのさあ、おまえいい加減にしろよ、マジで、勝手なこと盛りだくさんやりやがって、クソ、全部おまえのせいだ、あたしは悪くない、あたしにはあんたを何回でも逝かす権利があるからな! あたしは正しいことをやった、あんたが狂ってる、それだけだ。あんたにあたしを責める資格はない。あんたに人権なんかないんだ! 当たり前だろ、おまえはもう人間じゃないんだ、イカれすぎたゾンビ、人間を襲うほんもののゾンビじゃねえか、なあ? おいだまってんじゃねえぞおまえにしゃべってんだ」
眩暈とともに、こいつは何を言っているのだろうか、と君は思わざるを得ない。なぜ自分がこのようなことを言われているのかわからない。そもそも相手は自分だろうか。そうなのだろう。だが、君は遠くの彼方にいているのだった。罵詈雑言が透けていく。当然意味も理解できない。ただ、「全部おまえのせいだ」、「あんたに人権なんかないんだ」という二言だけが頭に残った。
それでも、君にとって重要なのは最初の部分だ。もしこれが正しいとすればこういうことになる。つまり、君が樹里亜の日本茶に混入させてしまった睡眠導入剤には、さらにこのテトロドトキシンが混入されていたということだ。もしや樹里亜の心臓が止まってしまった原因も、さらに言えば君の体調不良の原因も、過失や体質だった以上に、この神経毒だったのではないか。そうだとすればあの眠剤は、まさに観崎映子の呪いそのものだ。君は毎晩のようにみずから猛毒を身体に入れ、痙攣死するように眠り、ずっと半死半生の日々を送らされてきたのであるから。……脳にも異常があることだろう、それ以前がどんなだったか、君にはもはや思い出せない。
「……自分が何をしているのか、わかってて言ってるのか?」
声をふるわせて君が問えば、映子がさらに過敏に反応してくる。
「ああ、当たり前だろ、あたしがどうやってあんたを見つけ出したか話してやろうか? 来る日も来る日もあんたのことを想いながら過ごしてきたんだ、それだけで充分だった、中学のおわりにあんたが帰ってきたって噂をあたしは聞き逃さなかったよ、それであたしは進学に変えたんだ。苦労したよ、何がって、あんたの行く高校を調べるのにね。でも、神のような力があたしに味方した。この世でいちばん人を能動的にするものが何だかわかるか? 憎しみだよ。愛じゃない。憎しみだ。あんたも知ってんならわかるよな? ほんものの、憎しみは、命を、最適に進化させる。……つまり純粋に理論化する。あたしはそれ以外のものを全部棄ててきたよ。嘘じゃない。あたしは自分の未来がどうなろうがもう全然構わなかったんだ。あたしの読んだ作文を憶えてる? 『もしも世界が終るとしたら、いちばんきらいな誰かを殺します』――あの世紀末の参観日、あたしはそう発表したよね、今でもそれは変わってない。実際あの年に、あたしの世界は終った。……なあ、おまえにこんなことがわかるか? あの日から、……あの日から! 見えなくなったあたしの右目には! 世界の終りが映ってんだよ! 憎しみの炎が燃え盛ってんだよ!」
言い切ったときには、映子は額に汗をかき、歯を食いしばって、ほとんど肩で息をしていた。異なるふたつの眼球、ほんものとにせものの眼球がまったく相違なく最大に見開かれ、おどろおどろしき眼光で君を直視しているさまは、およそ人間の見せうるような形相ではない。――いま君は観崎映子という目の前の顔をほんとうの意味で理解させられている、つまり、およそ理解など不可能なのだということを。なぜなら彼女もまた人間をやめていたのだ。いま映子は断言した、最も人を能動的にするものは憎しみであると。だが憎しみ自体についていえば、彼女はもっぱら受動的なのだ、憎しみというプログラムをインストールされて、それに基づいてあらゆる演算を行っているのだ、君という顔を心の底から憎み、すなわち意志の究極対象として、あらゆる犠牲を払ってでも、この炎によって君が行く道の長手を繰り畳ね、心臓まで黒焦げに焼き滅ぼさんと願っているのだ、それがここにいる女、観崎映子なのだ、それは人間ではない、それは、
鬼だ。
(君と肌を触れ合わせていたとき、彼女は何を考えていただろう?)
奇妙なことに、強められればられるほど、愛と憎しみはあたかも同根から伸びた花弁の雄蘂と雌蘂のように似てくる。憎しみとは斥力だ。不倶戴天。それはたんなる距離の問題にとどまらず、究極的には相手をばらばらに分解し、物質に還元させたいという欲求になっていく。ところがこれもパラドクスだ。映子の頭があとほんのわずかでも悪ければよかった。もしそうであったなら、君は問答無用に殺害されていたであろうに、あまりにも理智的であったばかりに、完全な死体には変えてくれなかったのだ。彼女は――行きすぎた愛がその直後から無限に過ぎ去っていくように――行きすぎた憎しみがその達成の直前で無限に減速し、ついに完成形には至らないということを、知っていたのだ。
鬼だから、君を見つけ出す。鬼だから、君を虐げる。歳月が過ぎ、互いに変わってしまっても、彼女は同じ姿を見ていた。同じ時間を生きていた。いま君が奇妙に陶然としているのは、世界の終端、絶対的な「否」の前に立たされている気がしているからだ。
映子自身も憎しみの鬼に囚われている。しかも決して自分から解放されようとはしない。だからこれはまちがっても、自分さがしのかくれんぼのような遊びではなかった。かえってそれは、ある別種の形態をとりうる。君のほうが動くべきかもしれない。もし彼女が解放されたときには、君自身の解放をも意味されなくてはならないのだから。さてある考えが起こった。すると皮肉なことに、この考えは生れた瞬間からビッグバンのように膨れ上がって、気づけば君の手はその厖大なエネルギーによって動かされている。映子に勘づかれるよりも早かった――君の身体は早くも机の上の小瓶を奪い取り、すでにその中身のかぎりを口いっぱいに詰め込んでいたのだ。
こぼれたいくつかの錠剤が床の上に散らばっていく。乾いた音が立つ。君の手はさらに映子のコーラをも奪い、これを使って一気に毒薬を飲み下してしまった。喉がつまる。くるしい。勢いをつけすぎたためだ。吐き気がこみ上げてくる、ざけんじゃねえと怒鳴りながら飛びかかってきた映子に横面をぶち抜かれたのはそのときだ。ペットボトルが飛んで中身も飛び散って樹里亜のシャツにかかった。赤いキャップが転がっている。拾う者は誰もいない。誰も。いま君は樹里亜の死体のあるそばで、激昂した映子から床面に組み敷かれ、口腔奥深くまで指を突っ込まれていて、
「おまえ! 勝手にすんな! 卑怯者! 卑怯者! 逃げてんじゃねえ! そんなんで赦されると思うなよ! あたしはどうなる! このあたしは!」
強い言葉の調子とは裏腹に、映子の顔は悲痛に歪んでいて、そのときちょうど、遠くからサイレンの音がきこえてくるのがわかった。君の腕が小柄な映子の身体を突き飛ばす。ふらりと立ち上がる。よろめく。蹴倒された扉へ向かって進む。しかしそこでは、回り込んできた映子が髪を振り乱し息を切らせながらもう立ち塞がってきており、
「どこ行く気だよ、死刑囚」
君は炭酸が抜けるように笑った。
「僕の居場所かな」
「そんなものはない」
「いや――」
君はすばやく向きを変え、反対側へ走り込んで窓枠に飛び乗った。振り向けば、映子が迫ってきている。そのとき君は考えた。はたして彼女は自分を引っ張るのか、それとも突き飛ばすのかと。それはほんとうのところまだわからない。保護するにせよ加害するにせよ、等しく接触を必要とするからだ。逆に言えば、押すなり引くなりできるのは接触が可能な場合のみである。
……映子の手が君に触れられることはなかった。声を詰まらせたような気配がするころには、君はもう、背面から地球の手に引っ張られている。そうやって、自分自身を大地で叩き潰してもらうつもりであった。が、空の高さを目にしたとき、まず思い当たる。足りない――
煉瓦の道に直撃して、一瞬、はじめて母に抱きとめられたような錯覚があったが、腰と後頭部とを強かに打ち、脳天が割れ、骨が砕けて激痛が走り、視野が真っ白に染まったあと、もとに戻っている。肺が潰れて息ができない。ましてや立ち上がることなど。全身が麻痺している。脊髄が損傷したかもしれない。それでも死にきれていなかった。悪運も尽きたか。朦朧とする頭で無駄に丈夫な身体を呪う。地面は雨と血に濡れている。くるしい。いたい。それよりもむしろかなしい。ほんとうにかなしい。そしてみじめだ。なにもかもうしなった。だがこの大きなかなしみだけは残ってくれた。
サイレンの音が近くなってくる。もしやこのまま自分も運ばれてしまうのだろうか。しかし行き場所などもうないのだ、たったひとつしか。空は灰色に曇っている。だがなぜなのか、雲の切れ間から、幾条かの薄い光線が地上に降りそそがれているのがにくい。ぼんやりとした頭で思い出す。さまざまな過去の光景を。観崎映子最後の舞台、森本樹里亜が代表挨拶を読んだ入学式、それから、……そう、あの昼下がりの、よく見慣れた顔がずらりと背後に整列している光景。クラスの面々から見送られつつ、はじめて校門から去っていくときの空。憶えているということは、上ばかり見ていたのか……。
……どこまでも過去を遡れるような気がしていた。にもかかわらず、遡れば遡るほど、いやになるほど思い知らされていく。過去のどこを探っても、〈僕〉の姿を見つけることなどできないということを。そしていつしか君は自分自身についての、ほとんど絶望的な結論に辿り着いていた。それは、君が決して〈僕〉を引っ張ることができない、ということである。引っ張ることができないのだから、接触することも到達することもできない。ちょうど神父が神そのものへ到達しえないのと同じようなものだ。君は〈僕〉になったことなどなかったし、これからそうなることもない。神父は神からの導きがあるという。だがそんなことはありえない。〈僕〉からの導きなどなかったのだ、君をここまで引っ張ってきたのは、どこまでいっても君自身の足取りでしかなかった……。
それでも、神父が神に近づくことはありえるだろうか。ありえるかもしれない。殉職した聖職者がいる。かれらは神の方へと引っ張られ、聖人となって神性を獲得した。つまり君がこのまま死ねば、〈僕〉に殉じたことになるといえるかもしれない。葬式が開かれる。
重要なのはそこではない。〈僕〉の正体がつねに反実仮想でしかなかったと気づけたことだ。これまでのところ、君は〈僕〉というものが先にあって、これがあの乖離の感覚を引き起こしているのだと考えてきた。しかし現実には乖離の感覚だけがあり、これに〈僕〉という名を与えているに過ぎなかったのだ。だからこれを引っ張り出してくることは、君にはできなかった。だがそうとわかったいま、君はもうひとつの選択肢があることに気づく。つまり、〈僕〉を突き飛ばすという方法が。
たとえば神を殺す。神は死んだ。ああすっきり、ではないのだ。神などはじめからいなかったのだ。だから触れられる以前に、神はもう死んでいた。しかし後には人間が残り、孤独が残る。それは認めなければならない。その上でなお信じるかどうかを決めるだけだ。そのために神父がいる。そもそも神父は神の代理なのではなかった。神父は神の証人だったのだ。
同じことが〈僕〉にも言える。〈僕〉は実現されえない。なぜなら死んでいるからだ。いま君の閉じられつつある意識には、中庭に行きたいという思いがある。あの合歓木の花をもう一度だけ見たい。あれはまだ咲き残っているだろうか。しかし君の足はもう動かない。これが現実だ。〈僕〉なら中庭へ行けただろうか。答えはすでに出ている。君は孤独を抱えていくしかない。その孤独だけがほんものなのだ。君のほんとうの居場所は家族の中にも友人の中にも恋人の中にもなかった、君のほんとうの居場所は君の孤独の中にしかなかった。もう君は誰も愛しはしないだろう、樹里亜にも言ってやればよかったのだ、自分さがしなどやめるがいい、どうせ見つかりはしない、むしろこれは信仰の問題なのだと。自信とはそういうことなのだ。君はもはや自分自身の代理ではない。自分自身の証人なのだ。胸を張って言うがいい、僕は強姦殺人犯だと。
……きらきらした破片が血と吐瀉物のまわりに散らばっており、その脇の湿った地面に、はじめて瓶の中から外に出た醜いカメレオン、嘘のようにちいさな、その死骸の姿があった。(了)
frozen chameleon in the love 鹿路けりま @696ki
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