毒薬
かつてこの部屋の中ではさまざまな議題が審議され、さまざまな決定が下されてきた。さまざまな仕事、さまざまな顔ぶれ、さまざまな光景があった。もはやそれらが目にされることはない。すべては終わった。過去は眠る。棺の中で。
ごうん、と目の前の冷蔵庫が唸り、追憶を終えたとき、ふと、片膝をついている自分が、祈るような格好でいたことに気づかされる。辺りを見回せば、巨人のかかとの下のように薄暗い。時刻はとうに正午を回っているが、しばらく前から降り出した俄雨が間断なく大地を叩きつけ、悪運を匂い立たせ、かえるべき人々の去就を迷わせるように校舎の出口を塞いでおり、また手許では、あらゆる循環から疎外され、何とも交わらず、氷の孤独に閉じ込められたカメレオンが、君の前でその姿を変えることも偽ることもせず、目に見えぬ速さでゆっくりと腐敗しながら、あたかも忘れられた神仏のごとくに潰れた瞳を殊勝に閉ざし、瓶の底でなお横になっている。
みずから変化を望むとき、なによりも重要なのはまず己を知ることだ、しかしこれがなかなか難しい、などと君は言っていたらしい。
そう、森本樹里亜の身体からは、古書のようなにおいがするのだ。いや、ような、ではなく、ほとんど古書だ。少なくとも新刊ではない。擦り切れて日焼した、紙魚でも棲んでいそうな、あの独特のにおい。これが彼女の全身に染みついている……のではなくて、遺伝子の奇特な配剤なのか、特殊体質的に、つねに内側から発せられているのである、それも強烈に。樹里亜に近づくと街のちいさな古書店に足を踏み入れた気分になる、という表現ではまだ充分ではない。樹里亜に足を踏み入れられたが最後、その空間が街のちいさな古書店になるのである。このにおいを抜きにして森本樹里亜を語ることは絶対にできない。それは彼女の美貌や才知における記述をすこしも阻むことなく独立に存在している。だがいかなる可視的な要素をもってしても、このにおいの圧倒的存在感には敵うことがないのである。君はこの生徒会室でも、校門前でも、どこでもつねにこれを嗅がされてきたのであった。
好みが分かれることも事実だ。現に嫌う人も多い。なまじ好きだといっても、四六時中嗅いでいたいと思う人もなかなかいないだろう。誰も口に出せはしまいが、だから彼女が周りから孤立しがちであるのは、その非凡な素質からというより、むしろこちらの理由が大きい。
だが君は違う。その点君は倒錯した古書
……天井の蛍光灯がつけられたとき、だから今回の君は、君にとって真の意味で特別であった存在、森本樹里亜が室内に入ってきたということを、すぐにも察した。弱められた光の対照がこの部屋を外の
「話ってなに?」
「ええ、まあ、座ったら」
樹里亜が長机の上座すなわち窓際の椅子にいつものように座っている。そう、いつものようにこころもち椅子を引き、いったん横向きに腰をおろしてから、脚を閉じたままくるりと半回転させて正面を向くのだ。そういうしぐさを君はいつも見てきた。彼女が会議中に冷蔵庫の日本茶を好んで飲むことも、君はよく見て知っている。だからそれを出した。粉にした多量の錠剤を混ぜて。
「お疲れさまでした、会長」
「ありがとう。いまさらなんのつもり?」
「今日で最後ですからね」
「ねえ、なんでまたそんな話し方するのよ」
「ここは生徒会室なので」
「でも、私たちがここにいる理由、もうなにもないわ。ちょっと悪いことしているみたいね?」
「そう、かな」
それでもなおここにあるのは紛れもなく公平無私の生徒会長・森本樹里亜の連続性であったし、そうであらねばならなかった。彼女を中心にある種の被写界深度を深め、習慣や形式、これらの記憶に裏打ちされた全体性を一望のうちに把捉しようとこころみている君は、いまやこの最終的な先端に立っているといえる。生徒会室はいまあるがままに過去へと潜り、海底遺跡の光景を、同時に写し取っていく。
「これなにか味変わってないかしら?」
「日が経ってたんだろうか。ところで今日、表彰状を抱えて壇上に立ってたとき、何を考えてた?」
樹里亜はコップの中の半分を飲んだ。
「『いますぐ家に帰ってお風呂に入らず寝たい、それかゲームしたい、マリオパーティがしたい、髪もまた染めたい、やっぱりなにもしたくない、できそこないの私、誰か助けて、こわして、ばらばらにしてまた組み立てて、観崎さんみたいにならせて』」
「なったらだめだよ、あんなやつ」
あまりにも印象と違ったので思わず口を挟んでしまったのだが、樹里亜はこれを明確に無視した。すると宛先不明となった言葉が閉曲線をえがいて自身の咽喉元まで差し戻されてくる。鋭い刃となって――これを回避する方法を君はひとつ知っている。みずからを人質にとる自己欺瞞だ。
「話は変わるんだけど、僕はね、会長が……君が、その、ジーンリッチだなんていう話は、どうしたって真実とは思えないんだ。……もちろん君が嘘をついたと思ってるんじゃないよ。でも、前の話からいくとね、君の母親がほんものの大嘘つきだったって筋も、あるんじゃないかと思ったんだけど」
樹里亜がどこか投げやりなため息をつき、疲れたまなざしを君に投げかける。しかしその目には、自分が対等であることを主張する光が宿されている。
「もう一杯もらってもいいかしら。喉からからなの。暑くて」
以前の樹里亜だったなら自分で取りに行っていた、と君は感じざるを得ない。そんな彼女であったが、無言で冷蔵庫を開けている君に向って、雨音のあいだに滑らせるような声で、ぽつりとつぶやいている。
「M氏とはそんなんじゃないわ」と。
「だけど、それを証明するのは難しいよ。それこそ遺伝子鑑定でもしないと」
「そんなの、しなくてもわかるわよ。だって……」
「でも、……じゃあ、一応やっておいたほうがいいんじゃないのか」
すると樹里亜が椅子からがたりと立ち上がって、君に突っかかってくる。まるでページがめくれたみたいに。
「ねえ、そんなことしたって、あなたの何になるの? もう私のことなんかどうでもいいんでしょう? もう充分知りつくしたくせに、いまさらそんなのが重要?」
「どうでもよくないし、知りつくしてもいないよ」
「だったら、どうして謝ってくれないのかしらね。ああ、ふしぎだわ、あなたと喋っているとね、苛々してくるの。世界がばらばらになったみたいに。だいたいあなたがそんな態度だから……」
君はカメレオンの瓶を再度手に取って、窓のそばに凭りかかり、滂沱たる雨を背にして言った。
「佐藤のやつと付き合うの?」
すると樹里亜は驚いたようにぱっと目を瞠り、にわかに表情を硬くして、湿気でごわついた金髪をまるで猫のようにあやしながら、やや吐き捨てるように放言した。
「いやよ。あんなストーカー。私のことを『天上界の美』とか言って変な似顔絵を見せてきたのよ。信じられない。もういまは焼却炉のなかだけれど」
やっぱりな、と君は思わずにはいられない。どれだけ完璧でも、似顔絵では駄目なのだ。
「でもいい男だろ」
「あなたはもし仮に私が彼と付き合ったとしてもそれでいいの?」
「それは僕が口を挟むべき問題ではないよ」
「嘘。ほんとうは口を挟みたくてたまらないくせに」
「僕にはもう、ほんとうと嘘との境界がはっきりしない、わからないから、それだけは言っておくよ」
最高の徳を身につけていた彼女がこのような痴態を演じる姿など目に入れたくもない。しかし同時にこれこそ君が欲していたものにちがいなかった。樹里亜という女性が内部から重力崩壊を起こしてゆく音が君にはきこえる。限りない安らぎと限りない無念とをもたらす音が。このふたつは君にとって硬貨の両面に過ぎなかった。君は樹里亜がなお自分を愛していることを望んでいるし、それを信じてもいる。ただ、肌身でたしかめ合うためにはあまりにも偽装された鎧で身を固めすぎていたばかりに、相手の皮膚を傷つけて浴びる返り血のような形でしか、それを確認することができないのだった。
「そういえば、観崎さんからこんな話を聞いたわ」
「よく話せたね」
「ええ。べつにいいじゃない。それであの子ね、あなたのことなんてこれっぽっちも好きじゃないって。残念だったわね。それとねもうひとつ。『真実も嘘もなにもない。あるとすれば嘘だけだ。ばれなかったものだけがほんとうになる。すなわち唯嘘論。すべては相対的に嘘だ!』だって。どう思った?」
「今度はニーチェ気取りか、と思った」
樹里亜が一瞬ぐっと息詰まり、それから静かに口をひらいた。
「それだけかしら?」
君は硝子の表面に反射した電灯と、その上をこすっている長すぎる親指を見ていた。
「世の中はすべて欺瞞なんだろうか。だとすればその言葉も嘘になる。でも、それはにせものたちにとってはすこしだけ生きやすい世界なのかもしれない――」
すると、「もういい加減にして!」と声を突然張り上げた樹里亜が、君の持っている瓶を強引に取り上げてしまい、片手をふるわせながら、そこに害意ある視線を注ぎだした。「なによ。こんなもの持って、スカして。気持ち悪い。どうしたら素直になるのかしら! そうだわ、いっそのこと……!」
そう叫ぶやいなや樹里亜が――あの規行矩歩たる生徒会長が――四階の窓から身を乗り出して――止める間もなく――カメレオンの入った瓶を真下の道に向って勢いよく投げ捨ててしまった! ……降りしきる雨にまぎれてしまい、硝子の破砕する音まではききとられない。だがしかし、同時に天が発光し、ほどなくしてけものの低い唸りのような、遠雷が轟いた。それを耳に捉えた瞬間、目を見開いていた君のうちでは、突如肚の底からとてつもない殺意が湧き起こって来て、そのまま彼女の身体を窓から突き落としてやろうとさえ思った。だがそうするまでもなく、仕事はある意味では完了している。樹里亜がふらふらと体勢を崩して二歩三歩よろめいたかと思うと、落ちこそはしなかったが、床の上で腰を抜かして、立ち上がれなくなっているのだ。
「ねえ……さっきから気になっていたんだけりぇど」と樹里亜が舌をもつれ気味にさせて言う。「なにをしてるの? 私の身体に……」
「あいしてはいる」と君は答えた、目下で膝を折り畳む彼女の旋毛をみつめながら。
「そうなんだ。アリガトウ」……樹里亜のまなざしはうつろに壁の方面へ向けられている。どことなく自閉的になって、応答も機械的になる。「……だけどごめん、ちょっと、今日のとこぉは帰ゅわね。なんだか、急に具合が悪くなってきたみたいなの。話はまたにして……」
樹里亜が無理やり立ち上がり、鞄を担ぎ取るのだが、その足取りは優雅とはいえず、歩行のおぼつかない肉がぶよぶよして見える。ふだんの水面を闊歩するような軽やかなさを可能ならしめていた身のこなしとは打って変わり、意志が弱まれば身体も統一を失って、一歩踏み出されるたび沈みこむ。拭いがたい重さ。がらがらという不調和な音として開かれてゆく立て付けの悪い引き戸。一秒ごとに、像が打ち砕かれていく。
しかし樹里亜はそこで一瞬だけ平衡を回復したように君のほうを振り返り、あ、と口をひらいて目をみつめ、なにか無明の晴れたようなあっさりした顔で、最後にこう口にしていた。
「でも、いま気づいた。あなたにあげられるようなものは、なにも持っていなかった、私も」
……あ、終りだ、と君は直観した。とうとう樹里亜も去っていく。完全に喪失されてしまう。君の足は動かない。ただこの後ろ姿、このぽっかりとしたもの、これは何かと考えている。どこかに見憶えがあった。いや、君はいつだって、最後に目にするだろうこの背中の幻を思い描き、追いかけ、これに親しんできていたのだった。やはりそういうことだったのだ、君が手にしていたつもりのものはやっぱり獲得されていなくて、失われていくときにこそ、君はこれを得るのだ、はじめから持っていなかったもの、持ちえなかったものは、こうして幻として消えていくとき、はじめて現実となって君のところにおりてくる。愛はそこにあった、もともとはあった。もともとはという形のみが信用に値する。獲得のために喪失されたのか、喪失のために獲得されたのかはわからない。ただ、なにかを持つということは、失いつづけるということだった。それに気づくのが遅すぎたのか、あるいは早すぎたのか。
だが。君はもう樹里亜を回収したくなっている。そういう法則だ。離れすぎてしまったものはまた引き寄せねばならない。愛とは引力だ。引力のはたらきを目で見るには、それと釣り合うだけの斥力をもってするほかはない。愛の客体となるとき、だから君は憎しみの主体となる。
生徒会室を出て廊下へ。様子を見に行く。すると、人工石の廊下をすこし行ったところで、やはりと言うべきか、ほんものの眠り姫がぱったりと倒れているのであった。ほかに人の姿はない。校舎はもう空っぽだ。少なくともこの別棟の二階は。……君は樹里亜の細い身体を丁重に抱きかかえると、そのまま来た道を引き返し、生徒会室に運び込んで、いちばん手前の、俎板にも似た長机の上に仰向けにねかせる。そして内側から施錠。――彼女の意識はすでに混濁していると見え、ここまでの行程においてもいっさいの反応を呈さなかった。おそろしいほどの効き目だ。まさかここまでうまくいくとは。もはや何をしても抵抗されることはないだろう。雨音だけが支配する静まりかえったこの部屋で、君はこれから何をするのか。この水のない水槽で、何が実行されるのか。頭の芯はいやにつめたく、ぞっとするほど明晰だ。明晰すぎて困るくらいだ。
目の前にひろがっているくすんだ白の長机。高さは腰のすこし下。長さはおよそ二メートル。その上に横たわり、膝から先と片腕をだらりと下に垂らしているのは、学校の夏服を着た、おんなという名の一冊の書物。そこにはまだ見ぬ異国の地理が記されている。森本樹里亜の説明書きも載っているにちがいない。
いまからそれを紐解いてみよう。……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます