告白

 君は僕の太陽、と熱唱するバラードの歌詞を街中で耳にして、どう考えてもまちがっている、と感じた君にも一理ある。なぜなら君のなかでは太陽とはあの斃すべき父のことであり、一方で森本樹里亜のことは優美なる月として眺めていたのだから。つまり、同じ顔の一面しか見ていなかった。

 だが、ある人物のある一面を見れば、もう一面の見方も変わる。たとえどんな相手の場合でも、ある人物を知るということと、それまでの経験が覆されるということとはかならず表裏一体なのであり、そうでないかぎりは、その人を知ったということはできないのだ。こういうことを、君はいささか軽視しすぎていたかもしれない。


 君たちは付き合って最初の日曜日に映画を観に行っていた。ちょうどハリー・ポッターの最新部作が公開された時期である。しかし今でこそ言えるが、君にはおそろしく巨大な幸福を前にした際、ほぼ例外なく逃走心理が働いての状態に陥るという法則があり、最後まで行くか行くまいかと悩み続けてしまったばかりに、待ち合わせの時刻にも遅れてしまったのだった。そのせいか樹里亜はひどく機嫌をそこねて、映画の内容までこき下ろしていたほどだ。エマ・ワトソンは好きではないのだとも口にしていた。なんという苦い経験だっただろう、モダンなカフェの一席で、自分の論理がもはや十全には展開されえないことを悟らされることになるとは。このときから君のなかではすでに――自分でも気がつかないうちに――あるものが溶けかけていたかもわからない。

 君は話題に困り、ジーンリッチについて詳しく聞きたいと言った。彼女はそこでは多く語りたがらなかったが、いまは高層マンションで一人暮らしをしているのだという。君はその部屋へ案内してもらうようせがむとき、無意識のうちにという口実を用いていたのだが、これまであまりに長いあいだ片恋というメビウスの輪のなかにいたばかりに、ひとたびそこから抜け出せば、あらゆることが可能になるという幻想が依然としてあったのである。

 モノクロで統一された樹里亜の居室はひろびろとしていて、君が思っていたよりも随分汚かった。流しには洗い物の残りやカップ麺のごみ。床には脱ぎ散らかした衣服。そして書類やレジ袋の残骸。……君はそれに見かねたというよりは、臆病心から出る突発性によって、とりあえず台所から片づけようとしていたのだったが、茶を濁すためのそうした行動は、やめて、と彼女に阻まれることによってあえなく終る。彼女はこう言った。

「こうしておかないと生きているという心地がしなくて」……。

 壁やコルクボードには何枚かの美麗な写真が飾ってあったけれど、ほとんどが風景写真であり、樹里亜自身が写されたものは一枚もなかった。そして――そのうち君の目にとまったのは、ある胴長で不格好な日本人夫妻の写された、古い結婚写真である。


 両親なのだと、樹里亜は話した。


 ……森本樹里亜は、ハーフでもクォーターでもなかった。純日本人であった。しかしながら、あの写真にあった二人の人物とは、彼女は似ても似つかない。その理由は、彼女の説明に嘘やまちがいがなければ、自分が、すなわちデザイナーベビーであったから、というのである。

「……ママがね、どうしてもハーフの赤ん坊を産みたかったんだって。でも残念なことに、外国人からはまるで相手にされなかったみたい。それでこんなことになっちゃった」

 てへ、と彼女は空元気で言い足していた。その様子を見て、君は内臓を見させられたような気持ちになる。その直観を信じるならば、これは率直な樹里亜の自己認識だった。他人事みたく振る舞わざるを得ないのは、自分自身に切り込みを入れるときしかないからだ。しかし――

「でも、そんなことってほんとうにありえるのかな、きいたことないよ、そんな話は。だいいち、遺伝子改良の技術なんてたかが知れてるし、可能だとしてもいろいろ問題もあるし、やろうったって、なかなか……」

「そう思うのも無理はないわ。でもお願い、きいてほしいの」

 壁の一点を見つめたまま、沈痛な面持ちで下唇を噛みしめている樹里亜だが、そこに含まれているのは、海ほど深く、しかしどこまでも空虚な――この世に存在しえないような――半透明の濁りである。……まだ君にはこれがどういう意味なのか、何が明らかにされようとしているのかがわかっていない。いや、自動的な計算によって、あらかじめ思考が鈍重になるよう制限されているのだろう。何の構えもなく水風呂に飛び込もうものなら、心臓が止まりかねない。


「ママは頭だけはよくて、研究職だった。それで、ある国へポズドクで行ってたんだけど……」彼女は滔々と語った。「帰国して結婚して、私をつくろうというときになって、もう一回そっちのほうに行ったの、夫婦で。そこは体外受精とか、そういう研究がなされていたところで、ママは不妊症だったから……でもこれは口実。それで私の遺伝子を調べてみたそうなのだけど、どうやら最初はだったらしくて、このまま生れたらどちらも苦労するだろうって、全員から判断された。……ママは中絶という選択も、そのまま母胎に戻すという選択もとらなかった、きっとラッキーと思ったにちがいないわ、そのちいさな研究室にはめざましい成果がなくてうだつの上がらない状況だったし、ダウン症の遺伝子を健常者のそれに戻す実験なんてまだ例がなかったから、そういう兼ね合いで、私の受精卵は素材に変えられていったの。……私はそんなこと望んでなかったのに。名目は治療、でも実際はちがったわ、知らないうちにいろんな思惑が重なって、『より高級な個体』をつくることが目的になっていたのよ。それが私? ……冗談じゃないわ。こんなの失敗作よ。だってほんとにそうだもの……違法だったし、結局外から止められて、私は半端な形で生れさせられたようなもの。ダウン症ではなかったけれど……ねえ、どう思う? この身体。これでも私を愛してくれる?」


「……ちょっとごめん」

 君は樹里亜に断って長椅子から立ち上がり、口元を押さえてトイレに駆け込むやいなや嘔吐した。それから壁に手をついてよろめきを抑え、目を見開き、茫然自失となった時間を、便器の中の吐瀉物を眺めながら過した。意味がわからない。樹里亜の話は、意味がわからない。まったく。なにもかも。

 ――知ったところで、あなたはそれに耐えられるの?

 なんとか整理をつけたつもりになって洗面所で口を濯いでいるとき、鏡の顔が死人のように映っていることに気づかされる。……これではいけない。そう思い、君は顔も洗った。

 部屋に戻れば、樹里亜の身体が君のいた長椅子の上にのっている。瀟洒なチュニックの腰、キュロットから伸びる長い脚、そして床上で組み合わされた足首……こういう各部が彼女本来の形質だったといえるかどうか、君にはもうわからない。君はもう、テレビに映る有名人を見るようなしかたでは、彼女を眺めることはできない。そこにあるのは、緩衝の取り払われた、事物としての、ある欠落としての、一箇の偽らざる生身なのだ。

「ごめん、最近こういうの多くて」

 同じ長椅子の、遠からぬ位置に腰かけながら君が言えば、

「気にしてないわ」と樹里亜が言い、続けてひどく気恥ずかしそうにこう口にする。「ねえ……抱きしめて」

 そんなことはあってはならないような気がされた。自分は満足に何も持たない、だから与えることなどできないと。けれど君はとてもかなしくなってしまって、救いをもとめるように手を伸ばした。少女のように薄い肩を抱きかかえながら思う。無数の見えない傷跡がある、彼女はこれを隠してきたのかと。そしてほのかにあたたかく、力を加えれば簡単に折り畳めそうな、弱い構造であるなと。神経がびんとふるえて、理由はわからないがなにか衝き上げてくるような切迫したくるしみが胸の内側にあふれ、君は涙が出そうになった。

「……パパはすぐ死んじゃった。シングルマザーで育ったの。だから、知らなかった」

 耳元で囁くような声。君に甘えているのだろう。だが君はいっそう樹里亜を愛していながら、心に大いなる欠落を感じざるを得なかった。ああ、違う、こうじゃないのだ、腕のなかに樹里亜がいて、自分が包んでやっている、それは確かなことなのに、かえって自分のほうが搾りつくされてなくなってしまうではないか。なにかが、哀切が、君の想念に対し猛烈に抗っている、およそありえないほど深刻に抗っている。あれほどの偉容をたたえて見えた彼女が、真近にするとこうもはかないとは……。

「つらかったんだね」そう言って頭を撫でる。樹里亜は安心していそうだった。


「ううん。……私ね、ママからこう言われて育ってきたのよ、『樹里亜はわたしたちの最高傑作』だってね。あの人ほんとにそう思ってたみたいなの。だから私をほめるんじゃなくて、自分をほめる。いいことは遺伝としつけのおかげ。わるいことは『私』のせい。……そんなこと言われたら、かえってわるいことしたくなっちゃうわよね。だから一時期ちょっとてたわ。あはは。身体が弱くてあんまり外で遊べなかったんだけど、それでも精いっぱい反抗してた。ふつうの子どもみたいにね。でもあるとき突然言われた。『自分の娘と思えない』って。……これどういう意味だかわかる? 『私』なんかいらないってことなのよね、結局。そのあとママは自殺しちゃった。ええ、ある場所でね。……遺書には全部が書いてあった。私のママは嘘つきだった。それどころじゃない。『私』が、全部、嘘だったのよ。……私の身体って何? 私の心は? もうわけわかんないわよね。……だから結局私には、『設計』とか、『周りの期待』とか、他人がつくりだす森本樹里亜さんのイメージに頼っていくしか生きるすべがなくて……。みんなは私のことを天才だとか言うけれど、ほんとうはそんなんじゃないのよ、私は、森本樹里亜さんになりきってるだけなの。つまりにせもの。それがいつもの私。これがほんとう。ごめんね、こんなずるして。騙すつもりじゃ、なかったんだけど……」


「騙すだなんて……そんな」

 とはいえ、君の頭は非常にこんがらがっている。この場合、騙すというのは何を指すのか? 誰が、誰を騙していることになるのか?


 少なくとも彼女は森本樹里亜として真っ当に生き、自分の成果を残し、その評価を受けてきたのであった。そしてそれは君があこがれ、恋にこがれ、追いかけてきた姿であり、手を伸ばそうとした高みである。しかし、もしそのイメージが虚像であったとしたら? そして虚像が本体であったとしたら? ……森本樹里亜という存在とは、化学ばけがく的な、すなわち抽象的な存在なのだ。では、ここで喋っている彼女とは? ……それは森本樹里亜の「器」ともいえるし、森本樹里亜から森本樹里亜らしさの仮面を剥ぎ取った単位――「私」――ともいえる。ところが「私」というのもまた一箇の抽象的な単位なのだ……。なので君の視点においては、やはり「私」=森本樹里亜として完全に一致する。そこに嘘などない。にもかかわらず、彼女のなかではアイデンティティが一致していないのだ! だからその告白は、それが正直なものであればあるほど、二者をべつものとして分離させてしまう。森本樹里亜のアイデンティティを嘘で腐蝕させてしまう。

 しかし一方では、この告白自体が真っ赤な嘘であるということも、ありえなくはない。――話が突飛すぎはしないか? その場合君は明確に騙されている。だが、かわりに君のあこがれである森本樹里亜はやっぱり天然の、ほんものの天才美少女ということが約束される。彼女は天才的に回りくどい謙遜をしているだけなのだ、肉を切らせて骨を断つではないが、君としてはそのほうがよい。

 さて、森本樹里亜と、それを「私」……どちらが嘘になるのか?

 あるいは、彼女騙されていたのではないか? 親からも、森本樹里亜自身からも……

 さらに「森本樹里亜さん」がイメージの産物なのだとすれば、騙したのはむしろ君のほうではないか?

 ……君はこれ以上話をきかないほうがいいのかもしれないと思った。けれども、樹里亜は君が「知りたい」と言ったから話しているに過ぎないのだ。そしてそれが許可されたのは、君がその資格を得たからにほかならない。君は樹里亜の肌を現に感じているのではないのか。――どうしてそれを疑る必要があろう? 疑った自分をむしろ恥じるべきである。


(僕は樹里亜の恋人なのだ)


 結局頼るべき綱はそれしかない。

「それでも、僕は樹里亜がこの世に生れてきてくれてよかったと思ってるよ」

 ああ、たったこれだけのことを自然体で口に出すために、どれほど不自然な困難を君は強いられたことだろう! 報酬はこれだ、樹里亜がひかえめに微笑して、君の唇をもとめにきている。それで君の思考の糸はぷっつりと切られる。長椅子の上に樹里亜を押し倒す。長い髪が一面にひろがる。きゅっとした頸が目に入った。頭の中で虫の声が響く。やってしまうか、やってしまおう、やらなくてもいいが、やればやったことになる……だまれだまれ……だが、乳房……これさえ手に入れば……しかし彼女のほうは乗り気でない目で、君の顔をじっと見つめており、

「ねえ、もし私が今みたいな顔じゃなくて、もともとの……ダウン症として生きていたとしたら、それでもあなたは私を好きになったかしら。それが不安なの」

 そんな言葉が口に出された。唐突に、ほんとうになんでもないかのように。だが、問答無用で鳥肌を立たせるような、それは凍りついた言葉だった。君の手はだからそこで止まってしまう。もうそれ以上先へは進めない。


(現存在するダウン症患者に対する君の公平な価値観は別にしても、君が好きになったのは、やっぱりこの樹里亜なのだ。はいと言うのはあまりに安直な嘘だ。しかし、いいえと言うのはあまりに残酷な真実だ)


「……どうだろう」と君は口を濁すしかない。「たぶん、出会ってすらいなかったと思うから」

「そう、よね」

 長椅子に頭を倒したまま、カーペットに転がった真珠や、古い懐中時計のあたりを見ている樹里亜。君はその髪の奥所おくがより、尽きることのない黄金が生み出されようとしているのを、当初とは異なる目線で発見してしまう。気づけばふたりの間には、放置すればするほど手に負えなくなる、沈黙という名の放射能が横たわっている。それが君の眼を冒し、樹里亜の横顔を別のものへと変質させていく……。

「これは、意地悪な質問かもしれないけれど」と君はぶつけずにはおれなかった。「もし遺伝子を加工せずに障碍児として生れるか、加工して天才児ギフテッドとして生れるか、どちらかを自分で選ぶことができたとしたら――」

 やめてよ、と樹里亜が君を遮って、ふさぎ込む。が、しばらくしてからまた口を開いた。

「ごめんなさい、私も、ほんとはわかってるわ。誰かを恨むことなんてできっこなかった。私は今の、森本樹里亜として、この人生には大きく感謝しないといけない。それもわかってる。でもね、でも、……あなたにはわかる? この顔ね……私だいっきらいなのよ、ほんとに。あまりに人工的で、玩具おもちゃみたいで……自分の顔を見るとね、顔から命令されるの。私はそれに逆らえない、だから……。でも、よかった、話せて。ごめんね、私、甘えのためにあなたを利用した」

「もう考えるのはよそう」

「ええ」


 ……それから君たちは夕飯を食べに出かけた。君は樹里亜の生活費がどこから出されているのか気になっていたが、どうやらM氏という、ある研究者の男性がパトロンになっているらしい。夜の七時を回っていたが空はまだほのかに明るく、寂寥たる光に包まれていた。うらぶれた橋の上を歩いているとき、あ、今――と樹里亜が口にした瞬間がある。それは川沿いの鴫が飛び立って、向こう岸へ至ろうとする直前のことだった。目測を誤ったか、飛距離が微妙に足らずして鴫は川面に転落しそうになる。しかし間一髪のところで大きく翼を羽ばたかせ、ぶわり、と魔術のように舞い上がって見事着陸に成功する――こういうとき、人間ならば大抵ほっと胸をなで下ろすか、うしろを振り返ってVサインなど出してみせるか、あえておどけて笑いを取りに行くかする。ようするに喜劇的になる。だが鴫はそうはしない。鴫はなにごとも誇張しない。いかなる場合にも鳥類の眼は超然としている。樹里亜が撮りたいと語るのはこういう美しさであった。

「こんなこと言うのも恥ずかしいんだけれど、じつは日本に来たのって、半分くらいは自分探しのためだったのよね。私これでも日本人だから、こういう風土のなかで暮らせば、なにか自分のルーツが探れるかと思って。まあそれはさっぱりだったわ。でもいいこともあった。それはお茶がおいしいことと、山や川がたくさんあることと、お寺の鐘が鳴ることと、きれいな花火が上がること」……。


 樹里亜がみずからの生い立ちを話してくれたことを君は恋人として誇るべきだ。幻滅などしてはならない。君はこの問題を軽視していたが、人と人とが「付き合う」というとき、その第二目的格となるのは、えてして「自分たちのことを語る」ということに尽き、恋人関係というのは、つまるところ仮面を一枚とりはずした顔のための、保護条約であったのだから。

 にもかかわらず、その一日のあとも、君は四十もの思いに沈みこんでしまっていたのだった。


 樹里亜は自身のことをずるをしているにせものだと君に話した。騙すつもりではなかったとも。そしておそらくは、ダウン症でもありえたかもしれない可能性が亡霊のように彼女に取り憑き、今の美しい栄光の背面にたえず影を差さしめているということも。もしや彼女はダウン症の型の遺伝子をもっていた自分のほうが「本来の自分」であるとさえ思い込んでいるかもしれない。鏡や自画像を見るごとにその顔面が醜く溶け出していくのを感じていたかもわからない。だからこそ人工的な自己像をより固めようと必死になる。自分で自分を模倣する。しかしそうして得られたどんな栄誉も彼女の心を救いはしない。自分を否定してつくりものに変えていくことでますます自分がにせものに思われてくる道理である。その疲弊しきったありさまは君が目にした通りだ。こうして嘘の羽で飛びつづけることを余儀なくされた樹里亜の、一本の止り木として求められていた君は、一応のところありのままの姿を見せてくれた彼女に対し、誠実なる愛をもって報いるべきであった。可能ならもっと気の利いた慰みの一言でもかけてやればよかった。

 ところが、これがなにより運の悪いことに、樹里亜の抱えている問題とは、君が抱えているそれと奇妙に類似したものだったのだ。過去と未来、それぞれ別の方向から来るだけで、現在の自分がにせものとしか思われないという点では実にまったく等しい。だから君には樹里亜の苦しみがわかるつもりだが、なまじわかっているだけに、これに対する有効な処方箋をもたなかったのである。

 しかも君のほうがもっとわるい。これまでの君の行動原理は、樹里亜のところへ行き、彼女を得ることによってまたほんとうにそうあるべきところの〈僕〉へと至るという、一種の目的論にほかならなかったのに、そうして行き着かれたところの森本樹里亜が、まさにその彼女自身によって否定されたことで、たんなる残像に過ぎないものと化してしまったのだから。そして残ったものは、仮面の剥がれ落ちた〈彼女〉という一箇の空白でしかなかった。――ここにあるのはとりもなおさず、彼女の姿が、ほんもののには見えない、というおかしな逆説現象なのだ。したがってそのような〈彼女〉を獲得したところで、ほんとうにそうあるべきところの〈僕〉とは決してなりえず、ただ形式的な〈彼〉の役をうつろに演じさせられるのみにとどまるであろう。……ところで、そうなったのも君たちが恋人同士になったからであった。こうして、君の論理は足許から瓦解することになるのである。


 次の週の土曜日には、樹里亜からの誘いで、君たちは試験を顧みず水族館へ行く予定だったのだが、待ち合わせの時刻を過ぎてもまだ布団の中にいた君は、例によっていたずらな恐怖に怯えていた。なにをやっても悪くなるという確信があるだけでなく、もはや君にはあらゆる持続や継続といったものが苦痛なのだ。なにもせず隠れていたい。それは樹里亜相手でもというよりは、樹里亜相手だから余計そうなのだ。彼女から怒りの電話がかかってきてようやく腰を上げることになるが、着いたころにはもう夕方である。

 さすがにこれには愛想をつかされてしまった。と思いきや、どうやらこの待たせるという屑の罪業が、図らずも樹里亜の未知の部分を引き出してしまったらしい。それというのも、彼女は男から待たされたことなどなかったのである。今回の樹里亜はなおのこと君に甘くなって、怒り方も法外に甘くて、顔色が悪いというので心配までしてくれるのだった。たとえそれが運悪く君の一方的な不信感を募らせる結果になるのだとしてもだ。

 閉館までのわずかな時間で、君たちはクリオネや熱帯魚たちが収められた小水槽から、紙のようなエイや疲れ気味のジンベエザメなどがゆらゆらと漂う大水槽までを、それぞれ燐光にも似た薄明かりに招かれつつ見て回った。エリアによって床面の素材が変わり、タイルもあれば黒檀もあって、水と空気のたわむれる音が空間をまるごと閉じている。人の数は多くないが、車で来たであろう親子連れの姿が目立った。樹里亜は薄手の襟付きブラウスにスキニーパンツを穿き、小公女さながらにキャペリンをかぶって、グッピーがほしいと言ってみたり、ゼブラフィッシュの模様に表される数学的神秘に感心してみせたり、気味の悪い棘皮動物に対しては露骨に顔をしかめてみせたりして、かわいらしいのだが、かわいらしすぎる。これに対して君のほうでは何が起こっているかというのが全然理解できなかった。むしろ何も起こっていないということが起こっていると言わざるを得ない。いやいや、樹里亜はちゃんと君を楽しませようとしているではないか。だが、それはつまり何が起こっているのだろう。まったくわからない。頭がおかしいのか。もうこうなったら君はいつものようにやるしかない。そう、あの方法だ。さて今の状況。あこがれの樹里亜、夢の水族館デート、念願の成就、夏の青春、恋愛されている時間、リア充、……ああ、そうだそうだ、こういうものに君は触れられているのだった。それで、それはどういうことなのだろう? 意味不明だ。いや、もしかするとこういうことかもしれない。君はいま挙げられた単語の部分ではなく総体というものを考えてみる。そしてこのように結論した。目前にあるのは「幸福」であると。よし、ではあとは君が幸福になればよいだけだ。幸福になりたまえ。どうした。できないのか。なぜだ。樹里亜を見よ。君のとなりで乳房のような魚を眺めている樹里亜を。幸福そうではないか。君だって幸福になれない理由がない。頑張りたまえ。努力しろ。かくなるうえは口に出せ。僕は幸せだと。うまくいったか。いかない。なぜだ。もう一度言え。そうだ。念仏のように唱えまくりながら歩きつづけるといい。そうすればいずれ幸福になれるはずだ、僕が。


(君は幸福という十分条件に対する必要条件のことを〈僕〉とよんだ。そういうとき、君は幸福の状態を外から確認している。つまり君自身は幸福のさなかにいられない。さなかにいるのは〈僕〉なのだ。〈僕〉だけが幸福だ。君ではない。君は幸福になれなかった)


 だが本来こんなことはおかしいのだ。おかしいではないか。ここにはあの樹里亜がいるというのに。これが理想ではなかったのか。百点だろう。ほんとうにそうあるべきところのはずだろう。君は本来もっと満ち足りていなければならぬのだ。それなのになぜこんなにも自己が実現されていない? まだ何かが足りないというのか。ああ、君にはもうあらゆることがどうでもよくなってきた。帰りたい。やはり来るべきでなかった。樹里亜には申し訳ないが、この場所にはなんの価値もない。

 と思っているうちに、長い回廊の、ある小水槽の前で君の足がはたと止まる。そこにいるのは、白と黒のけばけばしい模様の、薄気味悪いイモリたちだった。仰天した樹里亜が腕をひいてくるが、君はなかなか動こうとはしない。イモリ、という単語を見るだけで君の頭には二人の人物の名が自動的に浮かんでくるようになっている。そのとき自分に足りないものが何なのかがわかった。また同時に、ある現実を包装している不可視の覆いの一枚が突如はらりとめくれあがって、その切れ端を自分の手に触れさせたような気がした。中指だけが奇妙に湿り、別人のものになっていく。こういう感覚を得たのはなにも初めてではない。君は一人の行為者になるとともに一人の観測者となる。

「ねえ、あっちのほうへ行かない? 素敵な水槽があるみたいなの。それとも、もう帰ったほうがいいかしら。具合が悪いのだったら言ってくれればよかったのに」

 イモリたちの前で君は樹里亜に向き直って訊ねた。

「僕のこと好きかい?」

「なによ急に。話聞いてた?」

「ねえ」

 すると樹里亜は困惑の形相でぱちくりとまばたきをして、目を逸らし、なにかごにょごにょと言った。

「ききとれなかった」

「……そうですけどって言ったの!」

「そっか」

 いま君の手があざやかに樹里亜の右の乳房を掴んだ。ブラウス越しに形がはっきりとわかる。てごろだ。すこし固い。薄い布の両端からやや皺が寄っている。直立姿勢の樹里亜。水族館。乳房が掴まれている。通行人の気配もあるが、君にとってはどうでもいい。

「――ちょっと!」樹里亜があわてて身を屈して防禦し、周囲を窺って小声で怒鳴る。「なにするのよ!」

 君はやるせない吐息を洩らし、水槽の手前に翳された尖った手先を見つめている。

「映子は……眼球を舐められるのが好きな女だった」

「……は? ……って、」

「孕まないんだよ、何度やっても」

「いや、ちょっと、あの、何が? ねえ」

 肩を回されて樹里亜の目に向き直らせられた君の顔は、だらんとしている。

「僕は観崎映子の体温を――」

 次の瞬間、感電したような鋭い痛みが光速に等しい速さで君の頬の皮膚を縫って突き抜けていって脊髄に達し、脳幹が痺れて視界には電球が灯った。樹里亜から強かなる平手打ちを食らって。

「なんて人なの……」

 樹里亜は呆然とそう言い捨てたあと、内部から湧き上がる衝動にしたがうようにして背を向け、足早に回廊の奥へ去っていった。そばにいた何人かの見物客が何事かと怪訝な顔を向けてきている。……頬をおさえて立ちつくしていると肚の底から愉快な気持ちがこみ上げてきて、君は衆目を憚らず絶笑してしまった。そこへ突然雷光とともに最高善たる森本樹里亜の姿が心によみがえって来て、これが君にあらゆる渇愛タンハーの起源を思い出させるのだった、君は深く嘆息し、感動の涙を流している。――ああ……! すさまじい全力だった! なんという痛み! なんという官能! 見たか! 今の一撃はたしかになにものをも媒介しなかった! ああ、樹里亜は意志そのものをくれたのだ、聖なるおくりものをくれたのだ、灼きつくような皮膚の熱、これだけは確かだ……。燃えるかのごとく情念がふたたび胸に灯されたときふと、「愛されていしや……」と君は口ずさんでいた。

 誰よりも正直に走って後を追えば、上下左右を水槽の硝子に囲まれた、青く幻想的な通路のなかほどに樹里亜はいた。前のめりになって透明な壁に凭れかかり、うちうなだれて、目の前を横切っていくクラゲの大群をぼうっと眺めている。君の姿に気がつくと、たっと走り出して逃げていく。その腕を君がつかみ取る。

「なんなのよバカ!」

「君が好きだ」と君は言った。

「そうなんだ。バイバイ」

 男性の化身となった君が、樹里亜の身を引き寄せて強引に唇を奪った。……一分か一秒、君たちは静止する。クラゲの触手がもつれ、細かな泡が立ちのぼり、巨大なマンボウに陰から見られていたからか、樹里亜がぱっと身を振りほどき、また君の頬を張るかと思いきや、その手が力を失って胸のあたりに落ち込んで、そのまま身ごと君の懐にしだれかかってくる……そして涕泣。これだ、愛と憎しみの混淆。もしかすると世界全体はいまこういう状態にあるのかもしれない。心性がこれと同一になったとき、君が限りなく信頼に近いものを感じてしまうのは、このためなのであろうか……。

「もう別れようかな」

「やだよ」

「別れる」

「わかった」

「好きじゃないし」

「うん」

「きらいだし」

「うん」

「うんじゃないわよ!」

 君は自分の世界が非常に拡張されてゆくのを感じていて、おそらくそれは、樹里亜にとってもそうだった。

「樹里亜には僕しかいないよ」

 天井の水槽アーチを見上げれば、鋼のように青白い、無数の雑魚たちの群れがゆっくりと旋回しているその上で、遥かなる水面の光がオーロラのように棚引き、瞬いて見える。ここまで完成された海の模型ジオラマのなかにいると、閉じ込められているのが魚たちではなく、自分たちのほうだという気もしてこよう。それも不安ではなく、安らかに思えるのだからふしぎだ。水族館は人にいろいろなことを思い出させる。古い眠りのなかの記憶を呼び覚ます。いま君の脳裡をかすめていくのは、あの白い子猫を抱きかかえているときの光景だ。


「……私がこんなだからっていうの? ひどいわ」

 樹里亜が自分からそんなことを言いだしてきてしまったので、君はひどく泡を食ってしまう。

「気にしてるの?」

「だってあなたが言ったから……」

「え、言ってないよ。いつ?」

 善良なる君がそのようなことを彼女に告げるはずがない。なぜならそれは、年ごろの女性にとってはきわめてデリケートな問題にちがいないからだ。ましてや樹里亜ほどの人物に向かって申し立てるなど言語道断。畏れ多くて誰も口にはできないし、しようものなら万死に値する。むろん君とて例外ではない。これは君の金科玉条の一であり、なにがあろうと、伏せてこられねばならぬものであった、はずなのだが……。

「電話で……最初……って……」

「あっ……」

 ――とぼけないでよ。真剣な話、でしょう。

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