downfall

裸婦画

 夕景の中庭には植物が多く、桜や榎、黒松、山茶花などの木が自然な間隔で並び、足元に枯葉が降り積もっている一方、北棟と南棟のあいだの空から射する落陽が頭上の渡り廊下を黄金いろに煎り、よじれたその影が中央の土に投じられている。君は佐藤の後をついて金木犀の生垣に挟まれた小径を通り、茶色い木のベンチに腰かけて、そわそわとした彼が鞄に手を入れているあいだ、真上に咲き乱れる合歓木の花を眺めていた。

「笑わないって約束してくれるか」

「わかったよ」

 放課後にこんな場所まで君が連れてこられたのは、見せたいものがあるという、佐藤の頼みをきいてやることにしたためだ。教室で見せればいいものを、よほど危険な品物なのか、なかなか見せようとしてこない。君としてはいい迷惑なのだが、何を期待しているのか、このごろ彼はすっかり君になれなれしくなり、親友に対するような物言いをしてくる。べつにそれはかまわないが、彼女と下校しなければならないのではやく済ませてほしかった。

 やがて取り出されたものは、「地理B」と書かれた一冊のノートブック。怪訝に思いつつ受け取って、緑色の表紙をめくってみれば、一ページ目からいきなり現れるのは「森本樹里亜」のスケッチ。君は神妙に押し黙っている佐藤と顔を見合わせ、それから手許にまた目を落とす。なるほど。美術部というだけあって腕前のほうはなかなか見事だ。おそらく相当な熱意をもって描いたのであろう、至るところに修正の跡が見られるものの、鉛筆で大きく精細に描き込まれたその上半身の絵は、たしかに樹里亜の似姿といってさしつかえない。……それにどこかで見たような構図だと思ったら、左にやや顔をうつむけて、両の指を組み合わせているこのポーズは、あのカルロ・ドルチの『悲しみの聖母』とほとんど同じものではないか。もっともラピスラズリのヴェールもなければ、表情もそれほど深くはないし、樹里亜が佐藤のモデルになってくれるわけもないから、空想で描いたのにちがいないが、それにしても、佐藤はいったい何を思ってこんなものを見せてきたのだろう。失笑どころかなんの感慨もわいてはこなかった。それは全体の上から大きくがつけてあったからかもしれない。つまり君はわざわざこんな失敗作を見せつけられたというわけだ。

 君が正直な感想を述べると、佐藤は「いやぁ」とはにかんで、頭をかきながら解説をはじめだした。

「どうしても表情を描こうとするとうまくいかないんだよなあ。だけど最近のは比較的いい出来なんだよね、うん。あ、これとか、ほら、これなんかちょっとよく見てほしいんだけどね」

「ちゃんとノート取ってたんじゃなかったのか」

「いや取ってる取ってる。けど文系科目はなあ。受験に使わないっていうか、もとからギャグみたいなものじゃん。しかもすべってるギャグ。まあそんなことはどうでもいいんだよ」

「へえ」珍しく君は快活に笑った。

 ……次のページも樹里亜だ。その次も。どのページもさまざまな距離・角度から見た森本樹里亜の顔で埋めつくされているのだった。よくもまあ、ここまでひとつの対象に執着できるものだと君は他人事のように思う。だがやはり彼の言ったように、残念ながらどの絵のなかにも、それとぴたりと来るような樹里亜そのもののおもざしは見当たりそうにない。描かれるたびに樹里亜自身が揺れ動いてでもいるのだろうか。たとえばある凛然とした目つきなどは本人よりもどちらかといえばエマ・ワトソンに似ている。かと思えば、べつの顔ばせの飄々とした雰囲気はよりローラに近い。しだいにほんものの樹里亜のほうがどんな顔つきだったかわからなくなってくるほどだ……。

「おっと! そこまでそこまで。……ここから先はね、とてもじゃないが、見せられないよ」

 君が手を止められたのは、だんだん退屈してきて、惰性でぱらぱらとページをめくりはじめている最中であった。見ればすっかり御機嫌になった佐藤は、あわててノートを隠すようなそぶりを見せてはいるのだが、実際には逆の内容を伝えている。君はその魂胆が見えたので、ノートをそっけなく突き返し、両手を払ってから言った。

「で、これが何?」

 すると佐藤はすこしきょとんとして、ノートを脇にしまいながら、うん……と、なにかためらうように一言こぼしていた。それでも決意をかためたのか、やがて君に向きなおってくると、率直に、しかし改まった口調で、次のように話すのだった。


「なあ、きいてくれ。……ぼくはこのとおり平凡な人間だ。でも、どうやら絵はすこしばかり描ける。絵だけがぼくの唯一の取り柄だ。……それでな、あの、ぼくはな、いまはまだ駄目だが、いつか完璧な一枚が描けたときには、そのときには、ぼくはそれをもって……森本さんに告白しようと思ってる」


 その目には、図らずも人に眩暈をおこさせるような光と、およそ人の同情をしりぞけるような、しかし思わず彼に同情の念を向けたくなるような、果敢かつ宿命的ななにものかの瞬きが認められていたと言わざるを得ない。この名状しがたき力のために、君はだまって口を閉ざすほかなく、視線は彼の目からのがれるようにして、肩越しの景色へと流れ込んでいった。……あらゆる形の雲が佐藤の背後にはあった。すべてが立体的直接的に君の目には映った。中枢には打ち付けられた殻にも似た雲のひび割れがあり、その奥のところからは、こんじきの日射しがみずからを放射状に押し拡げようとしているのが見える。

 ……君は論理の上でも原理の上でも他の上でも完全に佐藤に勝利していたと断言してもよい。だから彼女を得るということが可能だったならば、それは佐藤ではなく、君のほうなのだ。にもかかわらず、君はいま言葉を失っていた。君がどうしても手に入れられないものを、佐藤ははじめから持っていた。……気づけば君は、無言で彼のことを睨みつけている。にわかに挙動不審になって弁解する佐藤のことを。

「あ……いや、わるい、迷惑だったか。でも、きみだったらぼくの話もきいてくれるし、わかってくれると思ったんだよ。それに二人は生徒会で一緒でもあるし、だからなんか知ってるかな、とも思ってさ……」

「何を?」

「だからさ……あの子がぼくのことをどう思ってるか、とか……」

「ああ」

 君のなかに邪悪な虚栄心がふつふつと起こって来て、自分がすでに樹里亜と付き合っていることを言うかどうかが迷われたが、やはり律する意識がはたらいて、今度きいておくよ、とだけ口にされていた。ああ、照れくさそうだが素直によろこぶ佐藤の顔にはほんとうに吐き気がしてくる。――このときのふとした思いつきで、かわりにといって君はあるものを要求することにした。例のノートの、任意の一ページである。佐藤は一見渋りながらもまんざらでもなさそうな顔をして、その場で思い切りよくページを切り離し、ちょっと気取りながら二つに折って君に手渡してきてくれる。誰にも見せるなよ、と言い留めつつ。

 用件はこれだけだった。手を振って佐藤の後ろ姿を見送った。手許には一枚の紙の切れ端。……ぼんやりしたままなんとなく目の前にかかげて夕日にかざすようにして眺めてみれば、描線が光のなかに溶けてゆき、影も形もなくなってしまう。だが、もし森本樹里亜という顔を紙の上に表現しようと望むなら、このようにするしか方法はあるまい。……やがてそれにも飽きてしまうと、観崎映子がいつか進路調査のおりにやっていたことがふと思い出され、これもなんとなくだが、ベンチの上で黙々と紙飛行機を折りはじめていって、出来上がった簡易なそれを斜め上に向けて飛ばしてみる。だが風のせいなのか、軌道は安定せず、飛ぶというよりは終始飛ばされたまま、あっけなく小径に落下してしまった。ふうと息を吐き、立ち上がっておもむろに歩き出し、墜落した紙飛行機を見下ろす位置に立つ。このとき、これを拾うのではないもうひとつの強い欲求に君は衝き動かされている。次の瞬間、君が目にすることになったのは、自分の小汚い足跡でいっぱいになった紙飛行機の姿だった。笑い出したくなってしまうのも無理はない。ふと思えば、痛みのような、疼きのような、鈍い感覚がここにある。何かと思えば、勃起しつくした陰茎がズボンを突き上げる力の反作用であった。

 ああ、これを見せたら彼女はどんな美しい顔をするだろう。……




 観崎映子の停学期間が開けていた。にもかかわらず、彼女はなかなか登校してこない。やがて噂をする者もいなくなり、教室では映子の顔が忘れかけられたまま、期末考査がはじまろうとしているところだった。すると映子がそんな矢先にふらりと顔を見せにくる。まるで思い出したとでも言うように。しかも彼女はその外見の変化もさることながら、試験のほうでも予想を裏切る結果を出してしまったものだから、驚きでは済まされず、当然のようにカンニングが疑われたが、その証拠もなければ、カンニングをしていないという証明もできないということで、隠れた天才として陰の噂になり、秀才を自負する男子の恨みを買っていた。教師も頭を抱えたかもしれない。その結論としてなのか、後日貼り出された成績順位表のなかに観崎映子の名前はなかった。それというのも、すべての答案について彼女は名前欄をまるきり空白にしていたのである。

 こうして七月二十四日になった。学校が夏休みに入りゆくこの日、生徒会の任期も終わりになる。三年生の君に次期はない。あっという間に過ぎ去っていった日々だった、時はもう君のなかでは液体のように流れはしない、気体のように散漫としている。流れるとすれば、それは光だ。比喩ではなく、君の時間というものはほとんど光の性質を帯びている。粒子と波。生きることと照らされること。君にとっては同じことだ。そして記憶とはプラズマのごときものである。

 この日は朝から入道雲が立ちのぼり煮えるように蝉が鳴いていて、いたるところに太陽の幻が上がり、あらゆる方向からの焚きつけるような日射しが過度に血を温め、精神をよく湯灌した。樹里亜との烈しい一件の熱もいまだ去らず、君は両目をぎらぎらとさせて爆発的な不満とともに学校を蹴りに行き、本の返却ついでに、終業式前のひとときを図書室で凌ごうかと考える。殺気を鎮めるには死を充填するのがいい。そういった意味でこの静物的な図書室は、夏から隔てられた、あるいは隔てられたい人々を本能的に引きつける場であるらしく、外界にたぎる生全般の活力と、内界に沈殿した死の養分の堆積とが混合的に結びつき、しかも調停されないまま匂い立っている、愛すべき冷厳な空間のひとつであった。ひんやりとした室内、ごうごうと鳴る空調、そして自分を超える圧倒的物量の知。ここに来ると君は〈僕〉が死んだ物質のなかへラジウムのように放射されているのを感じると同時に、皮膚の表面に語られない言葉たちがみっちりと貼りついてくるのを感じるような気がする。

 少なくとも、一冊の書物が真横から君めがけて投げつけられてくるまではそうであった。

 短い悲鳴を上げることもせず、左肩を押さえながら本が飛んできた方角をさっと振り向けば、黴臭い書架のあいだにて、短い黒髪の、いかにも理智的な風采の女子が仏頂面で立っており、……これが観崎映子なのである。よう、と彼女が本を投げた構えのまま言ってくる。

「昨日はよく眠れたか」

 君は挨拶には答えず、足元にひろがってしまった書物を拾い上げながらぼやく。

「本を投げるなよ」

「バーカ。本なんか投げるか殴るか枕か踏み台にするしか使い道ねーんだよ」

 この独断的かつ威圧的な口調と、身にまとわれる香水および煙草のにおいだけは変わらない。むしろ外側がいくぶん落ち着いた反面、その内側との不均衡が知覚に押し出されてくるようになり、それが独特の胡散臭さや竜巻のような荒々しさとして外面にもあらわされてしまうから、結果としてはそこまで変わっていないかもしれない。マスカラはやめたが、目のまわりには淡いピンクや銀が星のように鏤められてある。自他を片方ずつ見おろしているような目だった。

「また痩せてないか。少し」

「マジ? ラッキー」

 君たちは書架に手をかけながら短い会話を交わしたけれど、そのあいだ映子は眉をすこしも動かさなかった。一部カーテンの閉めきられていない窓があり、書架の手前から望見すれば、人気のない大机がいくつも並んでいる先に、青空や雲の切れ端が浮かんでいるのが目に映る。映子はかつて君に話した卵巣奇形種に関するあの考えのことを力学的情念構造論とよんで、抵抗というものを軸にすえ、エントロピー増大や散逸構造や進化論やエラン・ヴィタールなどの考えと合わせることで、生命現象全般に再解釈を与えることができると言っていた。それに耳をかたむけながら君は城門寺アキのことを考えていた。あれ以来映子の像が二重に見えるのだ。しかしあのAV女優の存在は、こうして君が前にしているかぎり映子と直接関係があるとは言いがたかった。関係がないから心配をする必要もない。そう、これについては触れられないほうがよく、より賢明であろうと望むなら、ただ自涜においてのみ虚数解の接点がもたれるべきなのだ。そもそも君の心配など映子にとって一銭の値打ちにもならない。値打ちがあると考えるのは、訪問販売的な利己心に過ぎない。

 だが、君は……どうにも心配してしまう。不安なのではない。心配なのだ。映子に言わせれば、心配と不安とを大きく分ける違いとは、積極的な働きかけ《アフェクション》であるかないかだというが、これは「愛の力」に属するということだった。だとすれば、君は映子のことを愛してしまっているのだろうか。これはまた、疾患とも言い換えられる単語なのである。

 身体の調子を訊ねられ、あまり芳しくないことを伝えると、眠剤の供給源が断たれたので次はないかもしれないということを告げられた。だから大切に使えと。それは君にとっての死活問題である。食い下がると彼女はなにやらすこし考えたあと、善処する条件といって、明日あのラブホテルの駐車場へ来るよう君に言いつけておき、そうかと思うと、またいつのまにやら姿を消しているのだった。君は一度に想像する、あの乳房と陰部の両方を。……拾い上げた書物をまだ手に持っていたことに気づき、元の棚に直すために背表紙を確認した君は、そのときになって、これが樹里亜のいつか読んでいた本と同じタイトルのものだったと知った。


 次の瞬間には、時間が来て順当に体育館に集められ、形だけの整列をなし、名もわからぬような、壇上に立った校長が――輝かしいスポーツ選手のインタビューや権威ある著作を引き合いに出しつつ――不断の努力を怠らぬようにと同じ教えを説いているあいだ、高窓のほうに首をむけて、どこか遠くのサイレンの音をきこうとしている君がいる。表彰状の授与があり、真っ先に呼ばれて壇上に立たされるのはやはり樹里亜であった。全身から光輝を発しながら、空気ほど軽い巻き毛をしたがえて、まさに瞬間ごとに、つどあらたに地上に降り立てり、といった印象を受けざるを得ないのは、その髪が塗料によって金いろに染めなおされているためであろうか。……樹里亜はアメリカの大学へ進むことがもうきまっているという。これも君の知らないところで、おそらくずっと広い世界で羽ばたいていた彼女なのだ。エスペラント語スピーチ大会準優勝、物理学論文コンテスト入選、――表彰状の束を受け取って一礼し、踵を返して壇上から降りる直前、樹里亜はそこで一瞬だけ足をとめて、ほんのすこし冷めた目で、こちらのほうを見やる。いつもそうする。おそらくその目はどこも見てはいない。ただ向けられているだけ、といった感じである。けれどもこちらからそれを見たとき、その美しさは遠目にもっとも映え、あらゆる形容を水の泡に変えてしまう、表現することが即冒涜となるような一種の神秘となっている。それでもなお試みるならば、あのギリシアの、翼の生えた勝利の女神。あの彫像にもし顔があったなら、きっとこんな表情をしていたにちがいない。


(だがこのような栄光も、美も、ある信じがたい事情から、今の君としてはどうしても穿った見方をしてしまう。もしこれらの天分までがすべて、であったとしたら……)


 大掃除の時間に見出された樹里亜は、両脇に大きなゴミ袋をかかえてひとり歩いていて、君はそのとき三階廊下の窓硝子を拭きながら中庭のほうを見下ろしていた。蜂の巣をつついたように騒がしい炎天下の校舎では、誰もが働き蜂の一員なのだ。樹里亜とて女王ではない。それが学校社会というものだ。せっせと駆け回るのは戦闘準備のためなのか、家出支度のためなのか。いずれにせよ、それぞれが思い思いの「夏休み」を心に描きつつ、つかの間の自由を得るために奮闘しているのであった。

 いっぽう君には「夏休み」というものがおそろしくてたまらない。それは明日からやってくるという。いやもうそれはすぐそこまできている。家に帰ればもう夏休みだ。立ち止まっていてもやがてはそうなってしまう。明確な境界などそこにはない。ぬるりと君に入ってくる。そして君を通り越していく。森本樹里亜のように。……まもなく余情甘々しき略式の終礼がはじまり、それが終われば、机という机が一斉に廊下へ放り出され、ひろびろとなった床面には、蜜のようなワックスがかけられるだろう。そして日が当たり風に吹かれる飴色の教室は、からっぽの巣穴になるだろう。それが終われば、どうすればいい?

 そのとき君は眼下のうちに認めた、中庭を闊歩する樹里亜の後方に、ひとつの人影がさっと現れるのを。その男がいま、逡巡気味に小走りで樹里亜の背中に追いついて、姿勢を正し、おずおずと声をかけにいった。樹里亜が振り向いて笑みを返している。その場でなにごとかのやりとりがなされた。樹里亜が手に持っていた片方のゴミ袋を、そのやせぎすな男に手渡す。そして二人はそのままゆっくりと、校舎裏の焼却炉へと歩きだしていく。それを目にする君の内部では、怒りでもない、不安でもない、昏くて否定的な、なんらかの心根の細胞分裂が開始されている。


 あの哀れな、謎めいた、ちいさな怪獣のことが、無性に恋しくおもわれた。

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