火山

 ひとつの不安がまたべつの不安を呼び寄せ、やがてそれらが全体への不信感まで高まるように、自分が異常であると、まわりすべてが異常であると感じるのであろうか、朝から熱っぽく、何度か嘔吐もして、足元すら覚束なかった君は、うつろに通学路を歩き、マンホールを踏みしめながら、その下に流れているであろう悪臭と毒気のたちこめる下水道のことを思った。そして行き違う人々を目で追いながら、その粧いの裡にかくされた臓物のことを思った。皮膚が裏返り、あたかも臓器を丸出しにして歩いているような気持がしている。干涸らびたミミズ、打ち棄てられたビニール傘、そういうものがやたらと目につく。街は凶悪な瘴気にみたされ、木々は地球が受けた矢のごと大地に突き刺さり、今にも次の一矢が雲間から自分めがけて襲い来ることがあっても不思議ではないような君の視界だ、日常生活がこれとかかわりなく進行していることも、そのなかで自分がひとりの高校生に過ぎぬということも、またこんなふうにして平然と秩序のたもたれていることも、にわかには信じがたいことに思われる。唯一の栄光であるゴミ収集車が社会の血管を通り抜けていく。妊婦を見れば恐怖におびえる。からっぽの胃がきりきりと痛む。なにが現実だ、と君は空き缶を蹴る。青空は君になにも語りかけない。車のフロントガラスにそれが映っていることにも、アスファルトがほんのすこし蒼に染まっていることにも、君は気づかない。


 人身事故で鉄道ダイヤが乱れており、プラットホームの上では、スーツの男が高そうな腕時計をしきりに確認しては舌打ちをする様子がうかがわれ、君は電車が遅れることよりも、この男が苛立っていることに対して無性に腹が立ち、どこかの線路上でバラバラになった名も知れぬ自殺者が、この男のかけがえのない家族であることを望んでいる。そしてこの禿げ頭は後になってその事実を知り、絶望して後を追う。そういう運命もありえないわけではない。だがこの感情が根源的な恐怖と結びついていることを君は頭で理解せずとも感覚でわかっている。それがいちばん気にくわなかったのだ。

(……あるいは。自分がそうと気づいていないだけで、本来この男はとっくに死んでいるのではないか? 生活に殉じ、生活に血を吸い尽くされ、ただその痒みのためだけに反復行動を繰り返しているならば、もうそれはゾンビと寸分違わない。〈僕〉にはまだかろうじてあの生活の耳鳴りがきこえる。まだ生活を格闘することができる。しかしこの中年はなんだ? もうすっかり馴染んでいるではないか。きっと若いころの感受性をとうにうしなって、もはやあの音のことも忘れてしまったことだろう。それとも、生まれてこのかた一度も感じたことがないと言うだろうか。そんな風采だ。服を通してもわかるぶよぶよとした脂肪が、肉の上にびっしりまとわりついている蛭に見える。いまもその人生を養分としている蛭だ。この男はそれに気がついていないのか。ああ、誰かが知らしめてやるべきだったのだ、こうなってしまう前に誰かが……)

 さて君はほんの良心から、この男の肩か、あるいは背中をぽんと押してやりたくなった。またこのときはじめて、『誰でも少なくとも一度は無条件に犯罪を実行することできる』という観念が、きわめて純粋な気づきとして訪れる。この世で犯罪者と一般人とを隔てるものは、たかだか仕切り一枚か、むしろこの腕一本分の距離しかなかった、ということであるらしい。それはたんに蓋然性の問題でしかなく、ここにも〈そうする僕〉と〈そうしない僕〉との二律背反があって、明日の自分が学校にいるということがありえるかぎり、留置所の中にいるということも同様にありえるのだった。

 ……突然「やりたいことが絶対に見つかる」という文言が君の目にぱっと飛び込んでくる。よく見るとそれはホームの壁に貼りつけられた黄色い広告板であった。その私立大学には文学部と社会福祉学部しかない。そうこうしているうちに電車が音を立ててやってくる。潰れる、潰されていく、時間が、意味が、人生が、自分がなにをしたいのかわからなかった、ほんとうにわからなかった。

 やるか。

 やらないか。

 しかし、どうやらそれは君が乗らなければならない電車のようだった。こうして車両は順当に減速して止まり、待ちくたびれた人々が一斉に足を数歩出して、まだ扉の開かないうちからその両側にわらわらと群がりはじめ、そうなると蓋のあいた君の計画も、たちまち気体となって揮発してしまうのだった、願望も欲望もこのとき同時に消え失せ、一瞬で過ぎ去ってしまうのだった。

(ほんとうは別にどうでもいいのだ、こんなことは。殺されても仕方ないような人間もいれば、わざわざ殺す価値もないような人間もいて、世の中のだいたいの人間は、その間におさまってくれているのだから……)

 ところで車体扉のガラスには、例の中年男性と君の姿が並んで映り込んでいた。……おや、と君は思う。どこか見覚えのあるような雰囲気なのだ。ポスターの市議会議員、学校教師、近隣住民、さまざまな大人たちの顔が脳裡にずらりと整列する。しかし、どれとも違う。やはり見知らぬ人物であった。しかし、凝視する君の視線に気づいてか、その男が君のほうを振り向いてきたとき、その胡乱な顔を直接目の当たりにしたとき、君の全身は怖気立っている。本能的に勘づいた。それは君にとってもっとも身近な他人であるところの、父親の面影だったのだ。



 日が高くなるにつれ熱も上がってきていたが、四限を抜けて訪れた保健室に常勤の先生の姿はなかった。

 ガーゼや体温計といった備品が放置されてあるだけの深閑としたこの部屋は、それ自体がつめたいひとつの模型のようでもあり、いままで時間が止められていたのに、自分が中に這入ってきたことでまた重々しく動きはじめた、しかし自分の持続だけは仲間はずれにされている、という異質な印象を受けなくもなく、さながら空き巣にでも入るような心地で君はつんとくる消毒液のにおいを嗅ぎ、後ろめたいこともないのに息を止め、空いている片方のベッドに忍び込む。カーテンを閉めて横になったはいいものの、他人の毛布に身をひそめ、天井を見つめながら自分の呼吸音をきいていると、授業中の教室の光景がいやでも目に浮かび、それとの対照が自分に脱落者としての自覚を植えつけ、休まるどころか、かえって焦りや言いしれぬ自虐心を生み出してしまい、けっきょく落ち着かないのだが、それでもやはり、しだいに心はうつろいで無意識の淵に沈みこんでいき、それと同時に、泡のような思考がふつふつとわいてくる。

 忘れることは眠ることだ。呼吸が空気と一体になり、感覚は溶け出して無からくる波にさらわれ、彼我の境界もふやけてちぎれてばらばらになり、いまや保健室として息をしている身の上にも、心地よい眠気がおりてきている。ああ、静かだ。誰もいない。よそよそしいチャイムの音も耳に遠い。もう昼休みだが、あたたかな毛布をかぶって横になっているせいか、だんだん時間感覚も、教室に戻る必要性も失われてくる。わるい兆候だ。しかし、ここが安息の地なのに対して、あそこは猖獗の地なのだ。いっそいつまでもこうしていようかと思う。そんな気分だ。喧噪から離れ、生活から離れ、だれとも関わらず、一生このまま……。


 そのときだった、保健室の扉があいて人が這入ってくる気配があったのは。

 先生、ではない。生徒だ。すこし高めの咳払い。さきほど君が通ってきた経路をたどってくる、擦るような上履の足音。そして空気の変化。はたしてそれが何者であるか、ある種の特権によって君はただちに理解することができていた。わからないはずなどない。彼女は君にとって例外中の例外、特別な人物なのだから。

 眠気はすでに雲散霧消し、眠気が包んでくれていたもの、ほどけかかっていた自我とそれをとりまく周辺との関係がいまいちど縒りあわされ、またそこに帰ってくるやいなや、君はすべてを思い出す。カーテンの向こう側に耳をそばだててみる。ああ、間違いない。樹里亜の気配だ。彼女も具合が悪いのだろうか。たびたび保健室を利用するとはきくが。

 さて君はいまなにもしていない。なにもしないことで、彼女から隠れている。正確には息をひそめ、耳をすましている状況だが、君にはわかる。この無言の緊張感が。もうこれはただの静寂ではないのだ。相手の出す気配のすべてが呼びかけとなり、自分の出す気配のすべてが伝達となるような圧力が加えられたとき、それは沈黙に変わる。足音はベッドのふたつある部屋の片隅に向ってきているが、その一方の足元には、名前の書かれた君の上履がおいてある。かくれんぼの鬼は君を見つけてくれるだろうか?


(見つけてくれ)

(いや、見つけないでくれ)


 相反する願いを君は持っている。

 足音はベッドの前まで来て立ち止まった。君にはその吐息をきくこともできるが、急に気配がかたくなったから、おそらく先客がいることには気づいただろう。俄然カーテンを開けて身をさらけ出してみたくなる君だが、その衝動をどうにかこらえ、まずは落ち着けと自分に命じている。いま飛び出してしまっては元も子もないかもしれないというのが半分の理由だ。

 考えてもみよ。まだ君たちは半分未満しか出会われてはいないのだ。つまり、彼女は君の存在に気づいたか、気づいていないかのどちらかではあるが、仮に気づかれていたと仮定しても、君が樹里亜を認知している、というところにまでそれが及んでいることはまずありえまい。もしかすると、樹里亜はまだ自分だけが君の存在に気づいているというふうに思っているかもわからない。だとすれば、聡明なる樹里亜はそのことについて悟られまいとするのではなかろうか。いずれにせよそういう状況だから、むこうから存在を主張してくるでもないかぎり、おたがいの存在にあえて触れないでおくことこそ、ここではもっとも賢明な判断であろうと思われた。ところで君のペニスのほうはまったく賢明でなかったから、近くの気配がとなりのベッドへ移り込み、カーテンのぴしゃりと閉まる音がするころには、君のそれは早速いきり立ち、同時に睾丸がじんとしてきて精管も蠕動し、不条理な糸によって脊髄のあたりが引っ張られているというのを否応にも自覚せざるを得ない。これはまったくのところ君の意志には反している。が、神経が疲弊している際にある種の観念的な触発を受けると、男はやはりこうなってしまうのだ……。とにかくこれをどうするべきか。


(鎮まれよ暴漢)

(いやいや今こそ出番)


 君は両者を止揚せねばなるまい。

 保健室のベッドの上で足を伸ばしたままズボンのジッパーをおろし、おのれの半身を露出させている君はたしかに醜悪きわまりないが、それにしても保健の先生が不在であるというのはなんと僥倖なことだったか。おかげで君はその場で手淫をはじめるということに関してあまり躊躇がなかった。とはいえ、森本樹里亜だけはここにいるのだ。君のすぐとなりのベッドで横になっている。おまけに気配を殺しているのか、むこうはさきほどから死んだように静まりかえっており、もれてくる息遣いも、衣擦れの音もない。――もしこの自涜が清楚たる彼女に伝わりでもしたらどうなるであろうか? そう考えるとこれはきわめて危険な行為だ。即刻やめるべきであろう。それは君も承知している。承知しながらも、君の息はいやほど熱くなり、カーテンで仕切られたベッドにおいて不浄な音を立てていることについてもほとんど反省がない。むしろすすんで彼女に聞こえるぐらいの音を鳴らそうとしているのではあるまいか? そうなのだ。君はこうして本能に身を任せてはいるものの、理性の権能をこれに譲り渡しているわけではない、ちゃんと最後には理性の許可をも得て実行しているのだ、という変な自負がある。じっさいこれは抗議であり、破滅的な自己主張の最終形態の一歩手前だ。君は樹里亜からろくに返事ももらえず、いい加減心にも限界が来ていた。そこでこの蓋然性の蓑を借りつつ、ほんものの賭けに乗り出そうとしたわけである。それにかなしいかな、このような顧慮も結局のところ、君の手を加速させる燃料にしかならなかった。君は目の前に樹里亜の幻影を呼び出して、そのにおいを全身に抱きしめている。


(ああ、樹里亜)と君は現実では呼んだことのない名を心の中で呼ぶ。(最低な男がオナニーをしています、いま、あなたのとなりで……)


 すると、まるでタイミングを読んだかのようにポケットの中で携帯がふるえる。君は一瞬びくりとして、それからやや興醒めした気持ちになりつつ、端末を取り出す。なんとそれはそこにいるはずの樹里亜からの着信であった! たちまち心臓が跳ね上がり、蒸し暑い白日のもとに曝された心地を味わい、いやな汗がにじみ出てくる。

「――もしもし。いま何してますか?」

 と、樹里亜は妙にくぐもった、ちいさな声で訊ねてくる。なんの真似だろうかと君は疑う。おそろしく不安であった。ところが君のペニスのほうはまったく不安そうではなく、異なる原理によって、眼前にてなお塔のごとく屹立しており、そうなるとこれはもう猥褻物以外のなにものでもない。出たところの廊下では授業時よりいくらか賑わいが増し、物音が引き戸とカーテン越しにひびいてきている。いつだれが這入ってくるともわからない。ほんとうにこんなところで何をしていたのであろうか。君はとっさに毛布をかぶり込み、押し殺した声で話す。

「いまですか。ああ……保健室で休んでいますね」続いてこう告げる。「ちょうど会長のことを考えていましたよ。奇遇にも」

「余計なことは言わなくていいの」

「失礼しました」

 受話器の奥でふっと息が洩らされているが、その雰囲気には、観崎映子が持っているような独特のいやらしさもなければ、担任のようにさもしい厳格さが装われたところもない。ただ君としては、いまにも彼女から厳しく断罪されるのではないかと身構えていたし、むしろそれを待ち望んでさえいたのだが。

「もう、あなたってどうしてそう……」

 語り出されたその言葉はしかし完成せず、重々しい沈黙に呑まれていく。

「……なんですか?」

「ううん、ごめん。余計だったわ」

「言ってくださいよ」

「なんでもございません――」

 君はほぞを噛むしかない。どんな言葉でも君なら甘受していたはずだった――どうしてそう、(愚かなの)(物好きなの)(変態なの)(気持ち悪いの)――存在を口で扱われるということそれ自身貴重な快楽ではないか。それはもしかすればその惨さと痛烈さによって一生苦しんでいられるような頸部の歯形になるかもしれないし、あるいは一瞬で絶命させかねないほど鋭い牙による流血になるかもしれなかった。いずれにせよ、彼女に捕食されるためなら君はすすんでみずからの頸を差し出せる心持ちがする。森本樹里亜は、君にとってそういう存在なのだった。

「あの、会長はいまどこにいるんですか」と君は白々しく訊いてみる。

「さて、どこにいるでしょうか?」そこでとなりのベッドからもぞもぞと動く気配。

「そうですね……ベランダか、あるいは生徒会室か……」君は適当に嘘を並べながら、これはいったいどんな名目上の通話かと頭を悩ませていた。「いや、ひょっとすると……」

「だめね、全部はずれよ」

 樹里亜はまるで突然子ども返りでもしたようにくつくつと笑う。そして咳。そのひびきは同じ空間からも伝わってくるが……。

「会長は、いま火山におります」

 と彼女は唐突に言い出した。

「花壇?」

「ノー、火山ボルケイノ

「えっ、火山って、あの、え?」

「そうよ、ヴェスヴィオス火山」

「ちょっと何言ってるんですか」

 君は呆気にとられて噴き出しそうになってしまった。だって、樹里亜はいまそこに寝ているのに。

「んー、知らない? 大昔にあのエンペドクレスが自殺したって言われている場所なんだけど。これって哲学者のなかでもいちばん乗りなのよ。それで会長もいまそこにいて、火口に靴をそろえてみた感じかな」

 君が聞きたいのはそういうことではなかったが、なぜこんなところでまたもエンペドクレスが出てくるのかと思うと、君の突端的ロゴスがすっかり萎えてしまうのもやむを得ない。

「……ほんとうですか、なにしてるんですか、そんな危ないところで」

 そうして君は片耳に受話器をあてがいつつ、もう片方の耳で注意深く気配を探ってみた。するとやっぱり、カーテンの向こう側から押し殺した声がわずかずつ洩れてきているのがわかってしまう。それでも彼女はいたって真面目に真っ赤な嘘をつき続けているのだが。

「うん、写真を撮ろうかと思って。でも大丈夫よ。とてもすばらしい眺め。ナポリの湾岸が見はるかせて、気持ちのいい風が吹いている。でね、足元には赤い粘土質の地面。それから、噴煙をあげる灼熱の溶岩……どう? この場所。地水火風の自然にとりかこまれてるの、わかるでしょう。すごいと思わない? まさに四大元素リゾマータって感じだもの。もしかしたらエンペドクレスにとっては、ここが世界の中心だったのかもね、なんて。結局そこに身を投じてしまったのだけれど……ねえ、彼は最期にどんな思いでここに登ったんだと思う?」

「なぜそんな話をするんです?」

「私にはわからないのよ」と樹里亜は言った。「この世界、フィリア憎しみネイコス、わからないから悔しくて。どちらのほうが勝るんだろう。私はどんな形を撮ればいいんだろう。……あのね、私思うんだけど、あなたが私に好きだと言ってくれたのって、ほんとうは私のことなんかべつにどうでもよくて、ただあなた自身を特別不幸にするためにそうしただけではないの? なんだか引っ込みがつかなくなったから、いっそ出るところまで出るか、さもなくばどん底まで落ちてしまおうって、そうたくらんでるように見えるんだけれど。でも、それってあんまり甘い考えだわ」

「ああ、お願いですから、そんなことは言わないでください」話題の急な転換に君は当惑させられていた。「僕の気持ちはほんとうなんです。信じてください」

「だって、あなたって私のことをなんにもわかってない」

 声を押し殺すのをやめたのか、いつのまにかそれは大きくひびいていた。

「……そう、かもしれない。けど、僕だって、もっと知りたいんだ」

「知ったところで、あなたはそれに耐えられるの?」

 幾重もの隔たりをふくんだ奇妙な会話のなかで、また現実から遊離していく君の意識だが、すこしずつ、見えてくるものがあった。樹里亜のいる場所は……案外近いのかもしれない。というよりも、いま君たちの魂は現界をはなれた上空にあるのかもしれず、そこでなら、そこでのみ、君たちは交われるのではないか。ただし、肉体が這入るすきまはそこにはない。樹里亜の空想が非現実のなかを飛翔しているかぎり……。

 しかし一方で、君はエンペドクレスなどには一顧だにも与えていなかった。むしろ想起されていたのは次のようなことだ。すなわち、観崎映子の部屋の水槽のエクリチュールとパロールについて……。


(そう、いつか聞いた話では、古来日本には「イモリの黒焼き」というに関する風習が伝わる。というのは、求愛行動中のイモリの番を強引に引き離し、たとえば山一個を隔てて、あるいは竹筒のしきりを隔てて、それぞれを炭火で焼けば、向こう側にいる相手に恋焦がれるあまり心臓まで黒焦げになってしまうという作り話だが、これを粉にして意中の相手へふりかければ、たちまち愛の力に引きつけられるという……)


 さて君たちはイモリではないが、状況は実に似ており、こういう形式的類似性の発見によって、君は火事場の力を得る。しだいにこの保健室が炎に包まれているように思われてくる、といったように。そこにあるのはつまり模倣の可能性だ。君は〈僕〉が黒焦げになるという事態を想像してみる。その際用いられるのはどんな火か?

 ――あの、と君は口にしていた。さながら帽子が風にさらわれるかのごとく。

「いまからそっち行っていいですか。火山」

 えっ、と声をつまらせる樹里亜。

「いや、だめよ、そんな、無理にきまってるじゃない」

「いけますよ、たぶん……。ひとっ飛びすれば」

「でも、あなたわかってる? ここ危ないのよ。落ちたら火傷どころじゃすまないわ」

「別にいいじゃないですか」

「よくないわよ。ふざけないで頂戴」

「でも、……」

「知らない」

 沈黙。枕を叩くような音。

「……行きますね」

「何しに来るの。私もう帰るわよ」

「それじゃあ迎えに」

「そんなの結構」

「そうですか……」と君はしょげて言った。「……わかりました。ではお気をつけて」

「ああ、あなたってほんと最低」と樹里亜。

 突如として胸に陶酔がみちてくるのを君は感じる。

「知ってますか? ここは火事なんです。僕はもう焼けそうだ」

 すると、しばらくしてよそよそしさに輪をかけて樹里亜が言う。

「そういえば、こっちには海があるわ。すこし離れたところに」

「それはちょうどよかった。今すぐにでも飛び込みたい気分なんです」

「どうぞ。私のじゃないし、ご勝手に」

「あの、それじゃあ……」

「うん……」

 君は通話を終える。

 ――白々しいほどの静寂にしばし目を瞠った。ベッドに膝をのせているのだが、せまい空間のなかを見回せば、まるで別世界のように、印象がからりと変わっているのに気づく。音のしないようゆっくりとカーテンを開ければ、その目と鼻の先に、おなじ色、おなじ形状の、静謐な寝床がある。気配はない。そこは外界から隔絶されたかのようにしんとしていて、ゆったりとしたクリーム色のカーテンの裾を、乾いたすきま風がわずかにゆらめかせており、時の流れに従順なのは、この部屋ではたぶんそれだけだった。だがそれさえほんとうは定かではない。樹里亜はほんとうにそこにいるのだろうか。そんな不安がふくれあがり、途方もなく君を浮き足立たせる。夢かもしれない。なにかの罠ではあるまいか。そう考えることは、君を孤独な反逆者にさせる。夢の中で夢への疑いがもたれたとき、夢は君の敵に回るだろうから。


(お願いだからまだ誰も来ませんように)


 祈りとともに、君の足は慎重に一歩踏み出される。熱のためかすこしふらついている身体。だが、一歩一歩、近づいている。その場所へ。君は〈僕〉という存在がラジウムのように死んだ物質のもとへ放射されていくのを感じる。だが〈僕〉それ自身は風船のように頭上を浮かんでおり、君はその紐を必死に手放すまいとしているに過ぎない。なにかひとつでも過ちを犯せば、それはたちまち彼方へ消え去るか、その場で破裂するかしてしまうだろう。そうさせないためにはかなりの集中力を要した。

 いつのまにか鬼が交代して、君が相手を見つける番になっているというのはふしぎだ。彼女は自分が火山口にいるという。だが実際にはここにいる。いっぽう君は四角く仕切られたカーテンに手をかけるかたや、実際には火山口へ登攀していたのかもしれない――マグマの海へ向っているのは〈僕〉なのだ。

 君は息を殺し、カーテンにほんのすこしだけすきまをあけ、まずはそこから、中を窃視しようとしている。……すると、白いシーツの敷かれたベッドの上に、蕁麻のごとき葉柄の毛布の盛り上がりがあり、それを肩までかぶった樹里亜は、目を閉じ、仰向けになって、眠りについているではないか……。

 だがそんなはずはあるまい、と君は思う。彼女はついさきほどまで、はっきりと目を覚ましていたのだから。ということは、彼女はわざと寝たふりをしているのであろう。その証拠に彼女は寝息をまったく立てていない。しかしなんのつもりなのか。見事に整った球体関節人形のようなその寝顔は、まるでこの部屋の、精緻な模型の一部と化してしまったかのようだ。――ただ、それは限りなく美しい。君は息を呑んでいる。そこには不浄なものがなにひとつとしてなかった。そこが寝室であるという点をのぞいては。


(君の心にあの冷凍庫の扉が出現する。君はそれを開け、瓶を手に取り、考える。カメレオンの氷を溶かすものは何かと。こんなものは地下の炎にでも投げ入れてしまえばいいのではないか。そうすれば君だってほんものの〈僕〉になれるかもしれない……)


 開かれるカーテン。かぐわしい生きた芳香が全面にひろがって、たちまち君を陶然とした境地へ招き入れる。……樹里亜はなお目をあけない。まるで眠りの仮面が身を守るとでも言いたげに――それはある意味ではもっとも正しく、ある意味ではもっとも間違っている――君が感じたのは、まるで薄氷の膜が身体のまわりに張りめぐらされているようだ、ということであり、それが彼女の美を包むとともに、君自身の醜さを反射させていたのだった。しかしそれを破ったところには、ひとつの秘宝がかくされているにちがいない。

 君はベッドの前まで歩み寄り、跪き、その縁に手をかけて、寝顔を覗き込んでみる。ああ、ささやかな抵抗のつもりであろうか、しかし反応しないようにしているというのも、すでに一箇の反応なのだ。そして君はそのとき見た、樹里亜の閉じられた目のあいだから、ひとすじの涙が、こぼれて頬をつたっていくのを……。またそれを親指でぬぐおうとしたとき、彼女に目をあけさせるためには何をすればいいのかを、君はおのずから理解していたらしい。

「――おはよう」

 彼女はそう言って、またすこし泣いた。


 君がいわゆるについての説明を受けたのはその後だった。




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