変態
眠剤の効き目には当りと外れとがあり、効いたときには、まるで凍りついたかのように、仮死状態になったように眠り込むことができるものの、そうでないときには、君の避難場所であるはずの非人称の夜なのに、たえず蚊が飛び回っているような、暗闇にたずねられているような気味の悪さに襲われ、そうなると明け方まで寝付かれず、起床後はしばしば嘔吐した。症状を訴えると、謹慎中にもかかわらず、今度の観崎映子は君の自宅へ乗り込んできて、しかも泊まっていったのだが、彼女が持ってきたものはもはや薬ではなく、ブラックニッカウイスキーであった。君は彼女の勧めでそれを薬と一緒に飲み、酩酊したのち交わる。そして頭痛のように鈍い外灯がまだ朝から取り残されているころ、君が目を覚ますと、彼女はもういない。行為中、映子は君を罰するようなまなざしを度々送っていた。だが君は女性から罰せられることをみずから必要とする人間だったのだ。だからなのか、君たちの身体の相性は悪くなかった。やがてそれが雑な習慣になっていくぐらいには。
あの行為中に君が展開していた論理体系は一回きりのものではなく、それ以前から存在し、以後も存在しつづけている。だが、それをあれほどまで鮮明に認識し、あれほどまで積極的に駆使しようとしたことが、これまでにあっただろうか。あのときを境に、君があの乖離の感覚をますます強く意識するようになったのは、必然の成り行きである。君はテレビゲームをプレイするかたわら、ゲームのキャラクターとしての視点をも有し、画面の中で行動しているという夢を頻繁に見るが、これと同様のことが現実においても起こっていると感じざるを得ない。あたかも天上に潜む〈僕〉に魂の実権を握られており、地上に固定された君はそこで具体的な選択をしているように見えながら、実は搾取されているに過ぎず、もっぱらその成果を吸い上げられるために存在しているといったように、君は自分としての権能をなにひとつ持たず、およそ生の実感というべきものを得ることはない。逆に言えば、君がかろうじてその身に宿すことができた現実的な感覚とは、ただ逆接の感覚、欠落の感覚、喪失の感覚のみであり、それ以外のものは、せいぜい記号によって感じた気になるのがやっとだった。
だが希望しうるものはまだある。それは森本樹里亜だ。君はいつしか自分の定立させた命題が変形して意志をも引っ張っていくのを感じ、恋愛という名の誤謬によって、〈僕〉の居場所と森本樹里亜の居場所とを完全に同一視していた。ほんとうにそうあるべきところの自分に戻るためにも、樹里亜のところへ行かなければならないと。どちらも理想の上にあるという点で同じなのだから、彼女の獲得と真の自己の獲得とは、同時に達成されなければならなかった。君を導くのはこの粗野な論理であり、文法だ。 そして転機は気が滅入るような梅雨空の、創立記念日に訪れた。近い定期考査に備えるという名目の下、生徒会メンバーで駅前のファストフード店に集まり、勉強会を開こうという運びになっていたのだ。森本樹里亜はベルトのついた松葉いろのワンピースに黒のレギンスを穿いた私服姿で現れた。もし君が機会というものについて旧態依然の考えをもっていたなら、その日もいつもと同じように過ぎていったことだろう。
さて同じ目的で集まる生徒も多いこの時期、混雑した店内は四人掛けテーブルと、仕切りを挟んだその横の二人掛けテーブルしか空いておらず、いっぽう君たちは全部で五人だったから、なかば必然的に、三年生すなわち樹里亜と君とが向かい合わせで座り、残りの後輩たちとは分かれる形になった。もともと自分の勉強には困ることがなく、いわば講師役としてその場に招かれていた樹里亜は、だから基本的には本を読んでいて、ちょくちょく後輩から来る質問に答えるために、テーブル間を行ったり来たりしているという状況だ。むろん君の目は休まる暇がなかったし、彼女が立ち上がったり席についたりするごとに、その空気を吸い込もうとがんばった。
そこで君は自分が得意な数学の難問を、わざとわからないふりをして樹里亜に訊いてみる。――そうやっておいて、白い装丁の本を脇に置いた彼女が、ざっと設問に目を通すやいなや、手元のルーズリーフにシャープペンシルを走らせさらさらと数式を書いていく、その指先の踊るような跳ね具合や、ふだんはかけない眼鏡の奥の長い睫毛を、忘我の境地ではなく脱状況的に、官能的な驚きをもって眺めるのである。ああ、それにしても樹里亜の髪は、冷厳な黒への憧れでもあるのか、まるで漆塗りのようだ。しかし君としては、彼女本来の美質である、
――なにかの拍子で消しゴムが床に落ちる。
それは樹里亜の不慮であったかもしれないし、あるいは君が無意識裡に手を回していたかもしれない。とにかく樹里亜がテーブルの横に回り、消しゴムを拾い上げるために若干身をかがめているのだが、……このとき君は目の前の、暗色系統の衣服の襟元から――その彼方から――一瞬、きわめて眩しいゴールデンイエローの光が放射されるのを、不用意に目撃してしまう。これはあってはならないできごとだった。網膜に焼き付けられたのはそれだけではない。それが覆い隠すところのもの、ある禁止されたもの、真の意味で猥褻たるものが、電光石火のごとくに、君の目に形容されるためだけに受肉されていたのであった。これについて君は計り知れない衝撃に打たれ、ほとんど
樹里亜は消しゴムを拾い終えて姿勢を戻すと、君のほうをすこし見やり、それとなく髪や衣服の皺を直してから、まだサインだのコサインだのと言って、説明を続けてくれている。だが君としては、もうその口や舌がいじらしくてたまらなかったし、シャープペンシルを握るその手も、いよいよペニスを握る指先にしか見えなくなってきてしまった。それらはみな森本樹里亜の精神にどうしようもなくこびりついている、森本樹里亜の肉だった……
肉、という言葉のひびきは、まるで毒薬のように血を駆けめぐり、脳へ到達し、君をなにか渾然とした、あやしい赤と黒の世界の側へといざなう。身体でもなく、肌でもなく、肉なのだ――肉とハンバーガー、肉と店員、肉と「お客様」――それは美しいとか醜いとかいった線引きのすべてむなしくなる、究極の単位かもしれなかった。あるいは高貴なものも下卑なものも等し並みに持ち合わせている、宿痾というべきか。
結局は。
(いや、そうやって森本樹里亜という人間を《肉》の単位にまで還元してしまうことは、森本樹里亜本人にたいする限りなき冒涜だ。あとでしっかり戻しておこう。だが、今は……)
(もしこの場にいながらして、あらゆる関係、知性、美、栄光、名前、そういったものがすべて相対化された状況が想定されうるならば、君はなにものをも恐れずに済むだろう……)
君はテーブルの下でじぶんの靴の先を、こつん、と樹里亜のそれに当ててみた。反応は、顔にはさっぱり見られない。冷静沈着だ。
しかしあとからその下で、こつん、と靴がぶつけかえされてきた。
君はなんだか調子が弾み、いまの感覚をたしかめるようにもう一度おなじことを試してみる。するとまたおなじことが起こる。
こつん、こつん、こつん、こつん。
前立腺が駆動しはじめるときの最初の一啼きが不意に自覚された。そこにはしだいに高まってくる魔術的な魅惑が渦巻いている。
だがそこで君の意志は分裂した。すると同時に、森本樹里亜という不可侵の顔が君の目の前に立ち上がってくる。《肉》ではない。《顔》だ。それは君を外部から告発し、圧倒する驚異そのものだ。不断に高みより去来し、君の想像限界を凌駕していく、予測不可能な顔……やはり君と樹里亜との間にはどうあっても接触の許されない一点があるらしく、いわばこの「世界の外側」にこそ、樹里亜の真の居所があるように思われた。その場合君は実に無力である。
しかし君はもはや一箇の強迫観念によって、行為の義務をみずからに課していた。ただちに次のような思考防衛が展開される。――それでもなお森本樹里亜に至ろうとするにはどうすればよいか? ――内面の海を泳ぎ切ってわたるか、またはこれを思いきって飛躍するかの、どちらかの冒険が絶対に必要だ。すなわち自己を拡張して未知の大陸へ向かい、そこで異邦人となることをあえて辞さぬという構えが。この場合、君は一人の行為者であるとともに、一人の観測者となるであろう。
(まったく同じことが樹里亜についても言えるのではないか? つまり森本樹里亜の世界にとっても君という顔が端的に外部でありうる、ということが……)
さて君は力を得て、かかとを使って靴を脱ぎ、今度は脚をもっと伸ばし、テーブルの下の、樹里亜のすねに近い部分へ寄せていく。すると樹里亜はびくりとして、君の節操なき脚をきびしく一蹴する。ところでテーブルの上では、君たちはふつうだ。何事もない。栞のはさまれた本の背表紙に目をうつらせてみる。『Escape from Freedom』――堅苦しそうな本だ、と君は思う。隣のテーブルでは後輩たちが世界史の問題を出し合っているようだ。もっとも君の関知するところではなかったから、またもや水面下で両脚を伸ばし、勢いまかせに、樹里亜の脚にからませていこうとしている。が、さすがにこれは不快と思ったか、樹里亜は怒ったようにひょいと脚を上にあげてしまい、そうして椅子の上で膝をかかえたまま、ちょっと口をとがらせて、ルーズリーフの端に美しい逆さ字で〝変態〟と書き、その隣にちいさく〝?〟とつけ加えていた。君の手がとっさに伸びてそのペンを奪い取る。それから何か書くべきだと考えた。なかなか思いつかない。そんななか、君の頭にのしのしと歩いてきて勝手に居座ってしまったのは、文脈錯誤的なあるひとつの観念で……。
「イモリ……」と口に出ている。「イモリっているじゃないですか」
樹里亜はだまったまま、首をほんのすこしかたむけ、君を見て困ったように微笑している。ほとんど空気を含まない、一本一本の細い髪が傷つきやすい花顔を保護するようくるみ、頬骨や口の端、デコルテのあたりにも達していて、乾いたような倦怠の影が差しているのは、今にはじまった話ではない。
「いや、映子……観崎とこの前言ってたんですよ、そう、ちょうど変態の話をしていて。変態といえばだいたい蝶かイモリですからね。でも映子は、人間も変態すべきだって言うんですよ。なんのことかと思えば、たとえば武士の時代には、男は人生の節目に名前を変えたりしていたと。あれもある意味変態だぞって言うんです。それが現代では忘れられている、だから全員まだ幼生なのだと。変な話ですよね。……あ、観崎です」
「観崎さんってあなたと幼馴染なんだっけ」
樹里亜がおもむろに口を開いた。
「一応そうですよ。広義では」
「どんな感じだったのかしら」
「彼女ですか。……まあ、一言で言えば、オタマジャクシでしたね」
「アーハー」
……一連のやりとりから君が感じていたのは、ある種の斥力であった。迂闊にも君は樹里亜の心からまた遠ざけられているみたいなのだが、もしこれを元に戻そうと欲するならば、逆に引力をもってしなければならないのは必定である。ところでこれは愛の力にほかならない。よって君が樹里亜から奪い取ったペンを用い、不器用な逆さ字でルーズリーフに書く文面はこのとき決定され、これに蛮勇がともなえば準備は整う。怪訝そうな顔をうかべる樹里亜の視線を感じつつ、君は余白に立ち向かう。
だが最初のおんな偏で早速つまずいてしまった。もとより君には「女」という象形文字をうまく書けたためしがないのだ、あの中心を欠いた奇怪なバランス感覚のせいで、これまで君が書いてきた無数の女たちはかならずどこか歪んでおり、その原型をとどめていないこともしばしばだった。しかも今回は逆さ字だったものだから、書き順さえもおぼつかず、やはりそれは潰れたアスタリスクのような形に成り果ててしまった。樹里亜とは脳の構造が雲泥の差だ。同じ条件で〝変態〟という複雑な文字を完璧に書いてみせた彼女とは……。ところで「子」という字も君はきらいだった。要するに字が全部下手なのだが、笑われることへのおそれから、君は黙々と目を伏せたまま、続く「き」を書きはじめざるを得ない。……しかしここでも、君はあたかも自分自身から飛び出してその外部を漂っているような散漫きわまる浮遊感と、驚くほど激しい騒音とのさなかにあって、正しいとする意志と、これを打ち消さんとする意志とが二重に存在しており、そして書いてしまうと同時に、今すぐこれを取り消したいという強い欲求に駆られてしまったのであった。
(ほんとうにこれでよかったのだろうか)(これになんの意味がある?)
(こんなことでなにほどかのものが相手に伝わるということがあるのだろうか?)
だが、君が書いたのだ。
沈黙のなかでおそるおそる顔を上げれば、いつかと同じように、周章狼狽した樹里亜と目が合ってしまう。
「……何? これ……」
君はこれが決して冗談などではないということをまず相手に信じさせ、また自分自身に証明してみせるためにも、きわめて真剣な眼差しを用いて、その瞳の奥を深く覗き込む決断をせねばならなかった。ところが厄介なことに、このとき突然君は自己との聯関を一挙になくした。行為者が死に、観測者だけになってしまった。君はもう、(自分が何をやっているのか)(何がしたいのか)という問いに、みずから答えを与えることができない。あまりにも自己中心的かと思いきや、その自己が世界から締め出しをくってしまい、留守なのである。樹里亜の瞳の中で揺れている像、そこに居座る男の姿が、まるで赤の他人に見えてしまう。
なぜなのか。現在が先鋭化されていけばいくほど、君は現在から疎外されていく。
こうなるともう君は機械的な推定によってしか自分と関わることができなくなる。すなわち君は計算していた、このメッセージを読み、その意味するであろうところのものが直截伝わって、そこから反応が引き出され、これを基礎とする相互作用が生まれているらしい現在、森本樹里亜の目から今の自分がどう見えているかということを。その手はいま君からペンを奪い返し、新たになにごとか書き加えようとして、そこでためらっているところだ。君は書かれる言葉を予測する。……いずれも君の悲運を物語っていた。
しかし、その紙元を眺めているうち、君は自分の内部または前後に、少なくとも二者の姿があることに気づく。つまりある行為における〈そうする僕〉と〈そうしない僕〉の姿が。このどちらかが「にせもの」で、どちらかが「ほんもの」なのではなかろうか。
此方にいるのが〈そうしない僕〉、彼方にいるのが〈そうする僕〉だ。
どちらがより樹里亜に近いかを考えよ。
……樹里亜は絶対に正しいのだから、樹里亜に近いほうが「ほんもの」の〈僕〉なのではないか。そうなのだよ。助走をつけて過去から飛び出したはいいものの、未来には至らず、着地点を見失っているのが現在の君である。ならば君は〈そうする僕〉すなわち「樹里亜を恋するあまり衝動をおさえきれない男」の代理へと今すぐ移行しなければならない。同時に〈そうしない僕〉など霊安室にでも放り込んでしまうがいい。自己を充足させよ。しかして変態せよ。愚かさゆえの快楽。みずから罰を受けに行け。
さて君は自己に対して厳格な命令を下し、あたかも指が躓きでもしたようにして、ペンを持つ樹里亜の手を、上から押さえつけるように握っている。それは驚くほどつめたく、そして、樹脂のようになめらかな肉をもつ、繊細な手だ。一方これにかぶさる肉は熱く、しかも骨張っている。肉と肉との接触によって、均衡をもとめたその熱が暴力的に浸透していく時間。ああ、止まらない。そうだ、この手を離すな。もっと強く握れ。締めつけろ。破壊しろ。だが、なぜなのか。温度差はなくならないどころか、いっそう顕著になるばかりで。
「――でもね、こんなこと言うのもなんだけれど」
と、握られた手に目を落としながら樹里亜が口を開く。表情を凍りつかせながら。
「やっぱり、どんな人にも限界ってあるわ。私にも、あなたにもね。変わることにも限度はあると思うの。蛙の子は蛙かもしれない。変化や変態といっても、見かけ上の問題に過ぎないかもしれない」
「……そうでしょうか」
君がおもむろに手を引けば、樹里亜はプラスチックのコップをストローでかき混ぜて、氷でうすまったアイスティに口をつける。君が手に入れ、つかまえておきたかったものは、もうそこにはない。それから、ひどい気まずさ……。
「たとえばの話ね。このまえまで、生徒会室の冷蔵庫に私のプレーンヨーグルトがあったじゃない。……あったのよ。でも、それが減ってたならともかく、ある日すっかりなくなっちゃってて、かわりに気持ち悪いタピオカのあれが置かれてあったとしたら? ヨーグルトがタピオカになったなんて誰も考えないわよね。ふたつは全然関係ないんだから、きっと誰かが勝手に食べたのよ。ああ、思い出してきた。許せない……」
にわかに怒りを露にしだす樹里亜だが、おそらくこれは君に向けられたものではない。あるいは、なにかそうすることで気持ちを発散させるためのそれは回路なのか。いずれにせよ、君は充分に相手にされておらず、ただその様子だけを見せられているようだった。こんなにむごいことがあるだろうか。君の望みは自分ひとりを対象にしてもらうことだったのに。なんならいっそこの場で、後輩たちの目の前で、公然と非難を浴びせかけてほしかったのに。そしてそのことを後から反省したり、自己嫌悪に悩まされたりしてほしかったのに……。
じっさい君はみずからの行為を完全に統御してはいたし、そうすることもしないこともできる、という意識があったことはまちがいないが、その上であえてそうすることを選び、そこに賭け、そのことによってまさに〈そうする僕〉となった自分を信じていた君は、しかしそれと同程度か、もしくはより高い確率で〈そうしない僕〉であることもまたありえたということを認識している最中で、その距たりの大きさにあらためて驚いているところだった。にもかかわらず、これが森本樹里亜の心にいささかの変化もきたしえないのだとしたら、それは君にとって大いなるルビコン川であっただけで、彼女にとっては、せいぜい不便な水たまりか、流しそうめんのレーンに等しかったのかもしれない。
だから君は、彼女を傷つけてしまったのではないかと心配する以前に、あれだけの力を振り絞ったにもかかわらず、彼女に微塵も影響も与えることができなかったのではないか、という点について心配しなければならなかった。
君はあの旧い冷凍庫のことを思い浮かべる。それは君の心のなかにあった。冷凍カメレオンはいまだ健在だ。相も変わらず死んでいる。だが、君は久しくそれを目にしておらず、そのこと自体も忘れかけていた。しかし君が認識しなくなれば、ほかにカメレオンを気にかける者はもうだれもいなくなる。いずれそうやってすべての意識から消失してしまうときは、カメレオンの存在自体もまた消えてしまうのだろうか。たとえその亡骸がいまも冷凍庫の奥で眠りつづけているとしても――。
梅雨の中を帰ってシャワーで汗を流し、部屋を片付け、バレエを流しながら青空文庫で『河童』を読み、冷凍食品を解凍してひとりで食べ、放置していたメールに返信し、夜更けごろ、如何ともしがたい生理上の必要から、暗い自室のパソコンでアダルトビデオを視聴しようとしていたのは、さもなくば夢魔がやってきかねなかったからだ。女性がロープや器具で拘束されたり、薬剤を注入されて動物的な媚態を呈したりする、非日常的かつ不道徳的な映像を好んで消費する男のひとりであるが、こういうアブノーマルなジャンルはノーマルにくらべていくらか格落ちするのが常だから、物色には短からぬ時間を要する。さて今回は幸運にもインターネットの海の中からとりわけ肌が白くて若々しいひとりの女性を拾い出すことができたので、早速サムネイルをクリックして再生画面を開く。
そこで君は目を疑った。出会われた女は、静止画で見るかぎり判別不可能であったが、動いているさまは、あの観崎映子と瓜二つだったのである。
はたして本人であろうか。いやいや、これを観崎映子と呼ぶのはあまりに忍びない。そのスクール・ガールははじめ安っぽい制服を着て登場したけれど、まもなくしてカメラの前に惜しげもなく肢体を晒し、器具で犯され、下から突かれ、左右のペニスを咥えさせられ、おわりには全身に精液を浴び、しかもそんな状態で笑顔だったのだから。そもそも彼女は素人ではない。撮影会社から正式にデビューしており、名前もある。城門寺アキ。AV女優としての名だ。
なぜなのか。なぜここまでオブジェのような演技をするのか。
……君は椅子に座って、どこかから入り込んできた羽虫を、放心状態で見つめている。ああ、ディスプレイの発光を天国だと勘違いしたのか、さもうれしそうに表面を這い回っている無辜の民。こんなに小さな生命を維持するために、文句も言わず一生懸命、あるいは必死に、こうして働いているというのはなんとも奇妙なことと言わざるを得ないが、当の小虫からしてみれば、きっと疑問にも値しないことなのだ。そのまましばらくしていると、もう一匹同じ虫がやってきて、上に重なるようにしてとまった。二匹はそこで安らぎを得たかのように静止して、こまかく前翅だけをふるわせている。
君は手に取った二枚重ねのティッシュペーパーで、虫たちを上からそっと包み込んだ。そのまま椅子から降り、ベージュのカーテンと網戸を開けて、窓からやおら腕を伸ばす。もう向かいの家々はほぼ寝静まり、生活の明かりも軒並み消されている。湿った道路や公園にも、動くものの気配はない。その上にはラグビーボール状の月があり、左右には影の樹冠、電柱、鉄条網がある。夜が揺り籠のように揺れていた。猫たちが喧嘩しているのか、闇の中から嬰児のような、幼い悪魔のような叫びが上がる。
六畳間のフローリング洋室には、勉強机と、書棚と、ベッドと、あといくつかの最低限の備品をのぞいては、ほとんどなにもない。そのほかに必要なものは一階のリビングか、その隣の和室にみんな収納されてある。きれいに整頓されていると言ったらおしまいだが、凝ったインテリアもなければ、白い壁を彩る画もない。君は二日置きにこの床を掃除して、デオドラント剤を撒く。
目が細められている。が、いつのまにやら、拳には力が入っていた。ふたつの小さな命が手のなかで静かに潰えている。君は伸ばした腕を引っ込め、握り潰したティッシュをゴミ箱に放り捨てた――同じように丸められてしわくちゃになった、似て非なるもの、しかしやっぱり同じようなものが詰められた、もうひとつの塊が転がっている、ゴミ箱に。それからブラックニッカで眠剤を飲み下す。
(君はどうしようもない焦慮に駆られていた。あの厄介な音を耳にしたのだ。君が家族、人生、幸福、生活、それらの手続き、こういったものごとについて考えようとすると、すなわち神経を弛ませていると、隙を捉えてかならず襲ってくるあの高音。それは新聞配達の音や、人々が寝起きしはじめるような音ではない。もっと蚊の鳴くような、細く、耳障りな声である。しかし、それが頭のまわりでぶんぶんと唸り、背後から、でなければ四方八方から、まさに君の血を吸いに来ていたのだ。いわゆる飛蚊症の一種にちがいないが、君には音まで伴ってきこえてくるように思われた……。こういうとき、君は孤独、死、栄光、「世界の終り」等の観念や、小説あるいは音楽の世界によく逃避する。君にとってそれが離れてありさえすればよかった。樹里亜のことを思い描くこともある。樹里亜は「生活」ではなかったから、そのもっとも遠いところに位置していたから……)
体調は悪化の一途をたどった。肉体と精神との両面から、生活は困難になっていた。
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