力学的情念構造論
午後五時ごろ、塗装が剥がれて錆び付いた玄関扉の前に立つ。インターホンを押してはみたけれど、壊れているのか反応がないので、仕方なくノックをすれば、しばらくしてから鍵が開く音だけがきこえる。中に入ると、ラッパーのような出で立ちの観崎映子がそこでにやにやと笑っていた。狭い玄関だったから、君は靴の置き場をつくるついでに、一種の手癖でそこにあるものをざっと観察してみる。学校用のローファー、若者向けのパンプス数種類、厚底のハイヒール、クロックスのサンダル、ブーツ、それから明らかにサイズの違うスニーカー、黒い草履。……突き当たりの居間に人の気配があり、競馬かなにかの実況音声が煙草の煙と一緒に流れてきていたが、映子の部屋はその手前の右手にあった。煙草と書物と香水とが混じり合った異様なにおいの支配している室内だが、ナイフ・パーティだかクルーウェラだかの激しい音楽が始終鳴りひびき、畳の上でゴールデンハムスターが滑車を回しているほかは随分と殺風景で、目立った家具のないかわりに段ボール箱が壁を囲むように置かれており、片付いているとも、片付いていないともいえる。中央の円卓には雑品に混じって例の小瓶が置かれてあり、君たちはそこでまず一通り取引を済ませた。映子は教室での話をきくと、「相変わらずだね」とまるで在りし日を懐かしむかのように笑い、ウイスキーコークを当たり前のようにくいと飲む。君はそこで退出してもよかったのだが、特別にといって一杯ふるまわれたのでやむを得ず居座っている。
「地震か、戦争でも起こればいいんだ」と映子が極言していた。「死ぬやつはそこで死ぬ。生き残るやつは生き残る。全員が目を覚ます。ありもしない明日に追いすがるのをやめる。――デストロイゼェムウィズレーザーズ!」叫びがスピーカーの声と重なっている。
「でも震災も戦争も明くる日には消費される夢だった、僕らにとっては」
「ふん」グラスが円卓に置かれ乾いた音を立てる。「かもね。なんだかんだで人間のバランスって一定だな。バカやクソは幸せだし長生きする。賢人はもっと早く死ぬ。死んだやつだけが偉い。バカが祭り上げるから」
畳に落ちた髪の毛をつまみあげている停学だが、樹里亜に人を見る目があったかどうか疑わしい。「盗みか、それとも詐欺でもやったか」と君は訊いてみた。
「まさか。あたしが詐欺師なら世の中のやつら全員逮捕だ、会期中の議員以外は」
君は返答に困り、琥珀いろの真水を嘗めながら、円卓の足元に積まれたファッション雑誌の山と、その上に乗っかった古ぼけた二冊の本とに目をやった。リラダンとヘッセ。そのうち一冊を手に取ってぱらぱらとめくり、ふとにおいを嗅いでみてから目をあげると、中ぐらいの大きさの水槽が、積まれた段ボール箱の陰にかくされるようにして置かれてあるのが不意に発見された。ばれたか、とぼやく映子を横目に見つつ、その水槽へ寄っていく。――ニホンイモリだ! ちいさいが、二匹いる。石粒の敷かれた水槽の底で、一匹がもう一匹をつけ狙うかのようにもみ合って動いているようだ。背は黒く、腹は赤い。そして太古より受け継がれてきた鋭利な尾。老人のように険しい
「かわいくない?」映子が円卓からななめに首を向けてきている。
「すごい、元気だ」
「繁殖期なんだよ」
遥かに遠い親近感を君はおぼえた。こうして見るとイモリも悪くない。なまなましい優雅、白痴の知性。人の心に眠る最も正直な部分をくすぐられる官能。見たところ、自然の水場に対して水槽が狭すぎるのか、かれらはしょっちゅう透明な壁にぶつかっているのだが、角を蹴ってうまく方向転換しているようで、硝子に手のひらを押しつけた際には、腹部の紅模様が際立って目に映る。
「忍者みたいだね」
「どこが。かぶき者だ」
「それこそどこがだよ」
やがて映子が水槽の前までずりずりと這いずってきて、二匹をそれぞれ指しながら愉快げに言った。
「こっちがエクリチュール、でこっちがパロール」
「雄と雌? 違いは?」
「バーカ。どうでもいいんだっつーの」
その生きている、黒々としたイモリたちはただでさえ外見が似通っている上に、互いに位置を入れ替わりながら水草の間をそそっかしく泳ぐものだから、注意しなければどっちがどっちだかわからなくなってしまうのだ……。
「……おいっ、静かに。ちょい見てみな」
にわかに映子が声をひそめ、鬱陶しい音楽を消したそのとたん、水槽の中ではまさに例の奇怪な求愛がはじめられたようだった。……突然エクリチュールがその尾を鋭くJの字に曲げたかと思うと、まるで全身でかぶりつくかのようにパロールの頭を囲い込む。さらに横腹と片脚とを使ってこれを挟み込み、がっしりと固定するように覆いかぶさっているのだが、巻かれた尾の先端はパロールの鼻先に突きつけられた状態で、細かくそして挑発的に振動している様子である。これに対し、パロールはさも鬱陶しそうに前脚でエクリチュールを退けるやいなや、さっと身を翻し、水槽の向こう側へ遁れ去ってしまう……だがそれで諦めるエクリチュールではない。エクリチュールはまたもやパロールの行く先に立ち塞がり、さながら軟派な男が女に言い寄るかのように身を絡ませていき、ついてこいとでも言うように、くるりと背を見せている。するととうとう諦めたのかそれとも痺れを切らしたか、ひとまず誘いに応じることにしてみたらしいパロールは、おもむろにエクリチュールのことを追尾しはじめていく……。
「結構かぶいてるね」
「だろ」
映子が半笑いで説明するところでは、おもしろいのはこれからで、このあと雄のほうが「精包」とよばれるおくりものを地面に落とし、雌のほうがこれを拾ったところで受精が完了してしまうということだった。
「イモリのいいところは二つある」と彼女は言った。「変態することと、セックスしないこと」
……見られているのは広大な暗黒の海の情景だ。凪いだ沖へと投げ出され、ただ首だけをうかべつつ、冷えきった夜を漂う孤独。月もなく、大陸も島も見渡せず、星だけが無数に瞬くその下で、静かな波に打たれては世界の涙を口にして、少しずつ存在がふやけていくのを感じながら、忘却のにおいを嗅いでいる。どこから来たかも、どこまで行くかも知れないが、涯てにある闇の濃淡の境目には、まるき
映子は眼球を舐められるのが好きな女だった。
これは罰だ、君は思う。
からからから……と滑車の回るすぐそばで、君たちはもつれ合い、絡み合い、布団も敷かぬ畳の上に倒れ込む。映子が君の頬に手のひらを這わせてくる。母親のようでありながら、同時にそれを否定するような手のひらを。
君はこのまま映子の身体に溺れてしまうことが自分にとって不都合となるだろうかと考えた。やはりそうはならないだろうというのが結論だった。こうなる可能性はたえず頭の片隅にはあったし、あったからこそ何かの拍子で実現されたというに過ぎないし、はじめから君たちの間には何かオセロ盤のごときものが存在していて、これが次から次へと裏返されていき、そして盤上がすべて黒に変えられたと同時に、君は映子を押し倒しているに過ぎない。
罰がほしかった。
映子のシャツを下からまさぐる君の手が、乳房に触れようとして、一寸驚きにふるえる。あるべきブラがそこにない。それなりに大きな生の脂肪の塊が、図らずも直接手のなかにあるということ。これについて、君の手は揉まないという選択をしない。ああ、おっぱいだ、君の手がなごやかに包み、しかも君の手がなごやかに包まれているところのおっぱいなのだ……これに顔をうずめていると、君はなんだか泣きたくなってきてしまう。甘えんな、と上から目線で毒づかれながら頸に手を回されるのだが、このとき唐突に、自分は映子を愛しているのではないかと君は疑ってしまった。だがそうではないのだ。君が愛しているのは乳房に過ぎなかった。あたかも砂場のトンネルから向こう側を覗くようにして、君はひとつの観念的同一を夢見ているにちがいない。映子はおっぱいだけはすばらしかった、おっぱいだけはやさしかった。……
もちろん君の上にはいついかなる場合にもある種の超越的な規範が君臨しているし、厄介なことに、これについてもある種の審問を免れることは許されない。いやしくも森本樹里亜に恋をしている十八の男として、このようなことは道理に悖るのではないのか。
答えはこうだ。
『ある規範から逸脱することは必ずしも規範そのものの放棄を意味せず、反対にしばしば規範の尊さを確かめることに奉仕する。たとえ百点満点の試験における平均点が七十点であったとしても、そのことが全体の欠陥とみなされることはないというように。そこで観崎映子――この場合、森本樹里亜という絶対基準から差し引きされたところの観崎映子――彼女という科目は、森本樹里亜がそうであるのと同じほどには、君のなかで重要になりえなかった。重要になりえないから、七十点であることが許される……』
いやこんな程度の理屈では理想主義者は満足できない。君は百点の理想に対して七十点分しか存在していないことになってしまうし、言い方を変えれば、三十点分の減点をくっている男がここに存在していることは疑い得ないからだ。
それは君のことか?
――否。
以下の推論より、君はこの男を自分自身であると認めるわけにはいかない。
『もし君が百点ならば、君は観崎映子とは性交しない。
君は観崎映子と性交している。
したがって君は百点ではない。
ところで、ここでいう百点とは、ほんとうにそうあるべきところの自分、すなわち〈僕〉のことにほかならない。
よって君は〈僕〉でもない……』
このように処理されるかぎりで、目下の君はほんとうにそうあるべきところではない自分、すなわち〈僕〉の模造品、鋳造品、演繹的分子、その堕落した「にせもの」に過ぎないものでしかない。ただし、たとえ銅があるとき喇叭になっていたとしても、すこしも銅の落ち度ではないという言があるように、「にせもの」の君の所業はいささかも〈僕〉の落ち度ではないのだから、〈僕〉はこれについて責任を負っていない。そしてこの離人感のあるかぎり、君にとって重要なのは〈僕〉のみである。その場合、目下の君の置かされている立場はかえって相対的に不当であると言わざるを得ない。――だから君は、この男を自分自身であると認めるべきではないのだ!
最後に、いま考えられたようなことは全部バツであり、零点であることは明らかである。ゆえに君はすべからく罰を受けねばならなくなっていた。こうして最初に戻ってくる。君たちのセックスは、髪の毛を引き回したり、首を絞めあったりするセックスだった。映子が君のペニスを切断しようとして鋏を持ちだしてくる。しまいには君もやむを得ず攻撃的になっていく。女の肉体がこのような形状をしていなければならないことに対して腹が立ってくる。肌の抵抗が憎らしい、溶けろ、潰れろ、ぶち破って風穴を空けたい、なんとか粉々にできないものか、あるいは胃袋に入れてしまえないものか……。
さて君の当座の論理はほぼ完璧であった。ただしひとつの重大な欠陥があった。君はこのような人称的場面に遭遇した際、自分自身を論理的に客体視し、解体し、抽象化しすぎるあまりに、そのどこにも生(なま)の自己意識が見当たらずして、目の前の事象に対する現実感をまったく享受することができないまま、終ってしまうのである……。自分はなにをやっているのだろうか、なぜこんなところにいるのだろうか、目の前の化物はなんなのだろうか、なにひとつ理解できないまま腰を振らされていたと言わざるを得ない。
からからから……と車輪がせつなく回転し、仮象が薄暗い部屋で流転しつづけ、映子が短い吐息を漏らす。
「あたしがいま何考えてるか当ててみな」
「他の男のこと」
無言で目を閉じたまま、映子が不敵に微笑んだ。
「あんたは?」
「じゃあ他の人のこと」
「樹里亜?」
「え?」
「樹里亜、なんだろ」
「……違う」
「じゃあ誰」
「わからない」
「おい、あたしの眼はごまかせねぇぞ、心が読めるんだ」映子がぱっと目をひらき、次いで舌打ちをした。「なんで顔だけはいいんだよ」
「僕のせいじゃない」
君は膣内射精していた。
君にとっては幸いなことだが、映子は自身の卵巣を全摘出しているのだという。だからたとえ妊娠したくてもできないようになっているのだと。君に散々責苦を負わせた末の一言であった。随分あっさりと言い放たれたものだから、君にはかける言葉さえ思い当たらなかったのだけれど、ほっとしたのも束の間で、彼女はまだ武器を用意していた。
「――卵巣奇形種っていってね」
酔いが回ってきたのか、やや頬を紅潮させた映子が、畳の上にあぐらをかき、煙草を吸いながら、まるで何事もなかったかのようにつぶやいている。
「あたしの卵巣から、髪の毛やら歯やらがにょきにょき生えてきてたんだ。それもでっかいのがね。信じられる? しかも原因不明なんだとさ」
「……あまりぞっとしない画だね」
君はうなだれたまま、映子の下腹部あたりにちらりと目をやってみた、もしそれが嘘だったらどうしようかと考えながら。
「でもなんかそこまで珍しいわけでもないらしい。サイズは別として。……これさあ、結構シャレになんなかったんだよなー。最初はふつうに生理痛かと思ってたんだけど、別の機会で検査してもらったらもうとんでもないことになってて。脳みたいなのもあった。意味わかんないよね」
そのように語るわりには映子は淡々としていて、そのあと突然話題が変わり、卵巣奇形腫というものが世の中に存在することについてどう思うか、と君は問いかけられることになった。
「原因不明なんだろう。気の毒だね、としか」
「そういうことじゃないんだよなぁ」
映子が言うことには、この謎めいた病は人体におけるなんらかの特異点をなしており、この問題を解き明かすことは、生命のさまざまな問題を解き明かすことと同じなのだという。どうやら彼女には一家言あるらしく、「まああたしが思うにはこうだね」などと言って、学校から配布されたプリントを円卓の上にひろげるや、その裏にペンを用いて簡単な図を描きはじめていくのであった。
「まずさあ、卵巣ってのは卵子をつくるところだから、ようするに卵母細胞のことってわけで(円を描く)。けど卵母細胞って、大元をたどれば始原生殖細胞が分化した姿なわけじゃん(上にもうひとつ円を描き、線でつなぐ)。あれ、そういや確か始原生殖細胞って、精子とかいうゴミにも分化したっけ(線を増やし、分岐先に尾のついた小円を描く)。まあそれはいいとして(ぐちゃぐちゃに書き潰す)、始原生殖細胞から一次卵母細胞までは減数分裂してないから、染色体の数は全部揃ってる、と(「46」と書く)。つまりニワトリの無精卵じゃないけど、ここがフツーの身体のなかではいちばん完全な胎児に近い条件にあると思うんだよね(最初に描いた円の隣に下手なカメレオンのような絵を描き、両者をニアリーイコールで結ぶ)。ていうかこのときだろ、絶対。卵母細胞が分裂して卵子になって、受精してから胚を形成するってのがありきたりな予定運命だけどー(円の下に矢印を付け加える)、実はもっと前から胎児に分化する機能は潜在的に持ってたっつーか? って考えるとわかるよね、あたしのすごさが(一番上にでかでかと「あたし=神」と書き、全体を丸で囲う)。……なんの話だっけ。ああそうそう、ところで男のY染色体とかいうのって最初は存在しなかったってあんた知ってる? なんか大昔は女だけで生殖してたんだってね。あれだけが男の器みたいにちっちゃいのはそういう名残なんだとか。知らんけど。だからその気になったらあたしだけでも自家生殖みたいなことできるっていうのは結構納得できるところではあるくない? んで、ある影響を受けたらそれが起動されて運命が書き換えられるって話よ。もちろん不完全な発生にしかならないけどね。まあいわゆる可能態(デュナミス)ってやつか? あんたアリストテレスやプラトンを読んだことは?」
「ないね」
「じゃあいま無知を知ったわけだ」
さすがに頭に来たので君も言い返そう。
「確かに知識こそないかもしれないが、分析と処理と観察とは僕の得意とするところだ。最初のほうの話はだいたいわかっていたし、ようはその、影響っていうのがなんなのかって話だろ。脱線しすぎなんだよ」
「だまれメクラチビゴミムシ」映子が無茶苦茶言い返してきた。「今からその話をすんだよ。あのさあ、そもそも生殖とか愛っていうのは弱者の思想なんだけど、アリストファネスつーおじさんも言ってるように、もともとは男女が実際くっついててボールみたいになってたのが、天体のわけわかんない力のせいで今みたいに引き離されちゃって、それがさびしいからまたくっつこうとするあわれな努力かもしれないんだよね」
「ボール?」と君が聞き返すと、映子はペン先でこめかみをしばらくこつこつとやったあと、このように口を開いた。
「シックスナインやったよな、さっき」
「え、なんだよいきなり」
君の返答など無視して映子はプリントの端に「69」と書き込んでいる。まさに君と観崎映子とがたがいの生殖器に頭部を近づけているような図だ。
「こういうことだよ」
そう言うと、映子はさきほど書いた横にもう一度、しかし今度は縦の縮尺をちぢめたような「6」の数字を書き、次いでその上に重ねるようにして「9」を書き加えた。すると、できあがったのは「θ」のような記号なのだが、丸めて書いているので、外周は真円により近くなっている。ふたつの口唇と肛門が見事に合体して、やすらかに閉じた形になっているのだった。
「なるほど……考えられなくはないね」
けれども気がかりなことはあって、それは円の中央に、赤道のような、縫い目のような分断線が入っているということだ。これでは完全に混じり合っているとはいいがたいし、たとえ両者がどんなに求めあったとしてもこの線が消せないのだとすれば、やはりそれはさびしい。だがこのとき、君の頭の中ではある別種の連想が働いていて、生徒会室で樹里亜が掲げていた用紙の図が浮かんでいた。これは第一の卵割直後のあの姿、すなわち、二細胞期のイモリの胚にも似ているのだ……。
「わかった? 不可能なんだよ、当たり前だけど」と映子がポッキーの袋を開けながら言った。「あたしらの身体ってもう全然別々なわけだし、合体つってもセックスなんて所詮ただのおままごとだもんな。さっきみたいなさ。だから絶対失敗するんだけど……ある意味では成功したように見えるときもあるんだよね、一瞬だけ」
「ああ」君はさきほどの連想のおかげでスムーズに答えることができた。「――つまり、受精卵?」
映子がポッキーを三本同時に食べながら首肯している。――女性性を代表する卵子に男性性を代表する精子が侵入した姿。それはたしかに球体である。そしてなにより、ここにはあの線がない。完全にひとつなのだ。同時に君の想像は飛躍して、おおきくなった自分のおなかをさすっている妊婦のイメージが脳裡に宿った。あれもまさしく愛そのものであろう。
「だけどマジ一瞬だから」と映子が釘を刺すように言う。「しかもなんかこれじゃない感あるよな。だって結局自分らは離れたままなんだし、それを見ることしかできてないんだからさ。アホみたいだ。でもいちおうさ、男と女が配偶してまたボールの形におさまるっていうのは、とりあえず愛の力のなせる業だよね」
映子がさきほど書いた矢印の先に二重丸を描き加え、一度潰した精子の場所から線をひっぱってきて接続させていた。全体を見れば、始原生殖細胞の円から出た二本の線が三日月の形をえがいて閉じられていることになる。そしてその上に君臨する「あたし=神」……。と、思いきや、映子はいきなりその紙を掴んでぐちゃぐちゃに丸め、ゴミ箱に向かってぽいと放り捨ててしまった。
「意味ねーんだよ黴菌」と彼女は上からすべてを否定するように言い、部屋の引き戸のほうを一瞥したのち、ウイスキーコークをぞんざいに飲み干している。
「なんで?」
「なんでって、自分ら見てみなよ、男か女、不良品、不具者だらけの無限ループだろ。だから誰もその変な入れ子構造からは出らんなくって、ただその壁をもっと厚くしちゃうだけで、それで一通り義務を果たしたとか、先祖に感謝とか、好き放題言ってるんだけど、だんだん限界に近づいてるってことに気づいてない。ああオカマは例外ね。あれは
「ちょっと待って」と言いさした君の頭のなかでは、言葉をひとつひとつ清流にさらすような、あの樹里亜の声が再生されている。――地水火風の
「……もしかしてあれか? エンペドクレスの……」
すると映子が手をたたき、「さすが受験生」といって斜に構えたようにほめてくれるのだった。
「おまえもだろ」
「知るか。停学様だぞ、あたしは」
映子は煙草に火を付けて、しばらく黙り込んでから、またおもむろに口を開いた。
「そう、……そうなんだよ、たぶん。まあ『愛』つってもいろいろ種類があんだけど、あたしは程度の差しかないと思ってる。でさ、エンペドクレスの構想した世界の特徴って、循環だったよな。愛の力には憎しみの力が対応してて、
そぞろに心が浮き足立ち、君は映子がなぜこんな話を自分にしてきたかを理解しかけていた。彼女がこんな考えに至ってしまったのには、なにかどうしようもない必然性があったにちがいない。安穏に暮らしているかぎり一生理解されえないことだが、たとえどんなものであれ、得がたいものを得る人というのは、その生き方からして違うのだ。――真偽が重要なのではなかった。胸の疼きが、その証明だ。
「つまり、……エンペドクレス流に考えるなら、受精卵の細胞分裂や分化には、
映子は結論を口にせず、もう話は終ったとばかりにため息を吐き、一瞬だらんとした表情になって、目を伏せる。……君の保持していた妊婦のイメージだが、突然その腹が異常に膨脹したかと思うと、一瞬にして爆発してしまった。その中から羊水とともに飛び散るようにして出てきたのは、手首のような、T2ファージのような形をした、無数の子蜘蛛たちである。それらが互いにぶつかり合いながら地表を黒く覆いつくし、素早い動きで四方八方へ散っていく。……白目を剥いた妊婦の顔がこちらを向いてなにかを叫んでいるようだ。
「……でも、全部取らないとだめだったのかな」
思わず話題を逸らすように言うと、映子は空しく笑ってみせた。
「いーんだよ。そのほうが楽だし、都合も良かった、いろいろとね。まあぶっちゃけ解脱だよ解脱。あたしは輪廻から解き放たれるにふさわしい、選ばれた数珠玉のひとつだったのだ。あっはっは――」
君はまなざしをその眼に向けつつ、そこまで言う彼女が、なぜ自分と擬似的な愛の行為をする気に至ったかを考えた。だがその入口から先へ進むことは容易ではない。なぜならそこには恐るべき人間の、終らないアフラ・マズダとアーリマンの闘争のような、虚空の中でおこなわれる無限に破滅的な意志の葛藤、ないしその征服が、心理の淵として洞穴のように口を開け、そこでも一匹の獣がじっと君のことを見据えているのであるから。……
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