家の中は寝静まっている。というより、誰もいなかった。いまこの家に女の影はひとつもない。父と二人暮らしになるのだが、これも数日前から家にいない。宿直だ出張だと口では言うけれど、育ちすぎた息子の顔を疎んじた父が、またべつの棲み処に寝床をつくっていることを、君はよくよく知っている。むろんそんなことは今の君にとってどうでもいい問題であるし、かえってありがたいとさえ言えよう。辺りは暗く、まだ夜明け前である。それから、ひどい寝汗。眠剤抜きで寝たせいか、例のごとく悪夢を見て、中途覚醒したためだ。やはり眠剤の使用は今後も続けるべきだろう。ただし、携帯電話の厳重管理という条件の下で。

 悪夢の内容はさまざまだが、巨大な蚊やエメラルドゴキブリバチから襲いかかられる夢のほか、観崎映子から殺害される夢や、反対に義母を無力化する夢が特に多い。……義母から殴られる。殴り返す。すると義母は倒れる。その倒された女の像を目にしたとき、君の内部で信じられてきた観念のさびしき崩壊が起こりはじめ、同時に新たな観念がめざめてくる。《肉女》――そう叫びながら衣服を剥ぐ。ところが犯しているうちに相手の身体がばらばらに散っていく。最後には顔だけになる。意味深な笑みをうかべた顔に……。

 こうした事情からも、皮肉なことに、今の君には映子の手をどうしても必要とせざるを得ないのだが、そうなると君は彼女に屈服し、生活の大部分を支配されているということになりうる。だが君としてはそれで一向に構わない。むしろ感謝しているくらいだ。ただし普通の意味での感謝ではない。君には映子に対し、無限の責めを負っている。清算というのは本来ありえないのかもしれない。だからひたすらのみを必要とするのだ。赦しではない。その意味で映子から授かる眠剤というのは、救いと罰とが一つになった希有なものだと考えられる。

 あとから考えてみても、君は悪かったと口にしたり、土下座をこころみたりする客体としての自分を見つけることはできても、主体としての自分を見つけ出すことはできなかった。あたかも謝罪などこの世のどこにも存在しないかのように。ましてや贖罪などとうてい無理な話である。そう、君はあるとき一匹の猫を殺害した。そして映子から大切なものをうばった。これについて、彼女はどうでもいいと口にはしたけれども、ほんとうにそうだろうか。どうでもいいということと、罪を赦すということは決して同じではない。彼女は赦すとは言わなかった。


 ……むかし映子が世話をしていた猫の中で、なぜか君によくなついていた一匹がいたのだ。それは碧眼の、白い毛並みのひときわ愛くるしい猫で、まだ小さく、アスという名で呼ばれていた。一般の野良猫が人間の目を警戒するのに対して、アスは世界に悉く脅威がみちあふれていることをいまだ理解してはおらず、君の足元にすり寄ってきては、きわめて無垢な瞳で顔を見上げてくる、そういうふしぎな子猫であった。

 はじめ君はそのことを快く思わなかった。どうにもやりにくく感じられた。猫というのはすばやく人を翻弄し、欺き、ゆえに信用しがたい、なにか暗い世界の「魔」について知っている存在だと考えていたからだ。ところがこの白猫はといえば、君が追い払っても追い払っても後ろからついてきて、特別なことなどなにひとつしていないというのに、いわば純粋な無償性として君のことを見つめ、その前脚を君のスニーカーにのせてくる。これが無性に君を気味悪がらせ、恐怖さえさせたことは言うまでもない。アスは君から裏切られるかもしれないということをまるで考えていなかったのだ、君が自分自身からとっくに裏切られていたにもかかわらず。

 そこで君はどうしたか? 試すことにしたのだ。君は映子の目の届かないところでアスの尻を軽く蹴ってみた。するとアスは小さく悲鳴を上げながら物陰のほうへ逃げ込んでいく。アスもやはりふつうの猫だったようだ。君は安心し、そして落胆していた。ところが、この子猫はしばらくしてからふいにまた君のところへ戻ってきて、まるで何事もなかったかのように、うしろをついてきてしまったのだ。このときのなんとも忘れがたいあざやかな感覚が、君をひとりの逆説家に変えてしまったにちがいない。君の行為はしだいにエスカレートしていって、アスの身体を抱きかかえてから地面に叩き落としたり、自転車の前輪でその尻尾を轢いたりと、とにかく散々やるようになって、それはついにアスが君に怯え、ほんとうに近寄ってこなくなるまで続けられることになるのだから。だがそうなったらなったで君はさびしくなってしまった。それは君がいつしかアスに心底惚れ込んでいたという証拠だ。君は君自身にとって唯一可能なスキンシップをとっていたに過ぎなかっただろう、けれどもアスのほうはとっくに君を見限ってしまい、すっかり君のことを敵とみなしている、まるで君が虐待したとでも言うかのように。このことについて、君は自分のことを棚に上げてと思い込み、幼い少年の奇矯な論理で、報復する正当な権利が自分にあると考えた。そしてとある休日、小遣いで買った餌と、家にあった段ボールと、あといくつかの工具とを持ってひとりで地下の秘密基地へと赴き、単純な罠でアスをおびき出すことに成功すると、段ボール箱にアスを閉じ込め、逃げ出さないようガムテープで厳重に封をして、そのまま家に持ち帰り、部屋の押し入れに隠してしまったのだった。

 やがてアスの姿が地下にないことに気づいた映子が、アスが見つからない、アスどこへいったの、と心配しはじめて、君に安否を訊ねにくる。当然君は素知らぬふりして、さあ、などとうそぶくのだが、それだけでなく、一緒に捜す真似ごとまでやってのけていた。ただそうはいっても、それなりに罪の意識もある。結局その日から気まずくなって駐車場に行けなくなり、映子とも口をきかなくなってしまった。たとえその結果、アスの身柄が押し入れの中に拘束されつづけることになるのだとしても。……顛末としては、段ボール箱の中でぐったりと横たわったまま動かなくなった、変わり果てたアスの姿を目にすることになったのは、それから数日が経った後だった。ただちにそれがどういう状態であるかが理解される。その反面、君はアスを監禁し、躾け、占有しようとは考えていたけれども、命まで奪おうとは考えていなかったから、すぐには事実を受け止めることができなかったのだった。しかも君が奪った命は、同時に君からもまた奪われていたのであり、その意味で君は二重にも失敗していたのである。ところでそのあと君が第一に考えたのは、罪を告白することではなしに、これをいかに隠滅するかであった。こうして君は、この件についていっさい誰にも話さないことに決め、日暮れごろ、雨の降るなかカッパを着て、アスの亡骸を近場の水路トンネルに捨てに行くことになる。手放された白い塊。それが泥水の中を流れていって、やがて錆びついた柵にぶつかって止まる。君はしばらく立ちつくし、それから背を向け、逃げるようにして去っていく。


 もしこの一件が、観崎映子がいじめの標的になりはじめていったのと前後する形で行われていなかったなら、そこまで記憶にも残らなかったし、事態もそれほど悪くならずに済んだだろう。彼女がいじめに遭うことに理由などなかった。ただ、人のうちで最も純粋かつ最も凶暴であるところの子供の活動力は、これを発散するためのひとつの方向をつねに必要とせずにはいられず、たまたま運悪く――やりやすそう、という理由で――白羽の矢が立てられてしまっていたのである。そしてこれは巧妙な政治的奸計だ。庇おうとすれば一緒になって敵に回され、不本意な噂を吹聴されたり、黒板に風評を書かれたりすることは疑い得ない。映子が口汚く罵られたり、上履を隠されたり、机に落書きされたりといった、一通りのことをされるようになっていくにつれて、君の立場は迷われた。彼女は目に見える手段では助けをもとめてきていない。ただ粛々と洗礼に耐え、登校を続けている。君はもう彼女と親しくはない。あるいはここで手を差しのばしていたら、また親しい関係に戻れたかもしれない。だがこのときすでに君は映子を裏切っている。裏切り者の目には、すべてが罠仕掛のように見えてくる。君は彼女のこともまったく信頼していなかったのだ。

 そこであることを思いつく。もしこれを実行すればただちに次のようなことが達成される。まず血の気の多い「仲間」たちに一過性の快楽を提供してみせることで、自分に向けられた「疑い」を晴らすことができるだろう。それからこっそりと彼らにも自分と同じ「罪」を着せてやることで、心の負担を軽減することができるだろう。最後にその原因を相手の「弱さ」に還元するとともに、「そのような自分」とも手を切ってしまえば完璧だ。反転した罪悪感と、悪名高い功利主義的計算。こういうものに基づいて、とにかく君はこのようなことをやった。クラスメイトの男たちに「」を提案して、改造したエアガンやナイフ等を配布し、彼らに「サバイバルゲームの戦場のような」例の秘密基地の場所を教え、これを襲撃させるということを。


 決行当日は酸鼻を極める。映子はちょうど猫たちに食事を与えようとしているところだった。まさにそのときを狙ったのである。君は大声で告げた、アスはもうこの世にない、なぜなら自分が殺したからだと。そうして指揮を執り、陣形を展開させた。映子が一寸驚きに打たれたあと、身を挺して猫たちをかばおうとする。だが怯えきった猫たちがみんな離れていってしまうと、彼女はただ茫然として、立ち竦むことしかできなくなっていた。そんななかで、あの悲痛な事故が起こってしまう。ある一人が発砲したエアガン。その銃口が向けられていたのは猫ではなく、映子本人だったのだ、思わず、やめろ、と怒鳴ったがもう遅かった。……弾は映子の右目に命中していた。誰もが動きを止め、場が凄々切々となった。そして……急遽駈け寄っていった君に対し、映子は右目を手で押さえながら、おそるべき凄涼さで、こう口にしたのだ、許さない、と。

 いま映子の右目には何も映っていないはずだ。そこにはめられてあるのは、にせものの眼球なのである。




 樹里亜の様子がいろいろと変わりかけていた。教室ではあいかわらず超然かつ楚々としていて、教師から問いかけをされて予定調和的に答えるところなどいつも通りなのだが、休み時間になるとふらりと姿を消してしまう。どうやら保健室や生徒会室でなにかしているみたいで、偶然を装って行けば会うことができるのだが、君に対してはなにやら言動があやしくなって、どうでもいいような相談をしてきたり、今日の私どう? などといったことをきいてきたりする。君としては僥倖なことなので、こういうものにはかならず好意的に返す。すると怒ったり笑ったりするのだった。このようなことがはたして許されるのかわからない。それでもしだいに君の集中力は、旧き習慣の打破ということに振り向けられてゆく。君の片足を深く銜え込んでいた惰性という名の怪物。いまやこれは打ち倒されねばならない。君は少しばかりっていたほうが丁度いいのかもしれない。なぜならあのラリ電をけしかけていたときの君は、理性を失っていたがゆえにどこまで暗愚だったか知れないが、少なくともあのとき、君は強大な超自我を追いやることに成功し、異常なほどの自由を勝ち得ていただろうから。もはやその体でいくしかない。

 君たちは授業時間外の生徒会室で密会を重ねていくようになる。甘い果実が熟していくのを予感しながら。


「ところで会長は、運命みたいなものって信じますか」

「意識の問題ね。決定論と自由意志論のことなら」

 昼休みであり、樹里亜は冷蔵庫で冷やしたヨーグルトを食べていたのだが、前日にユーチューブで徹夜したらしく、終始眠たそうにしていたので、返事も適当なものだった。

「ええ、結論としてはそうです。でも、そう焦らず、こんなたとえ話とかはどうですか。あのですね、会長は物理化学でしたけど、生物には予定運命っていうものがあるんです。イモリっているじゃないですか。イモリの胚って、まだボールのような状態のときから、すでにどの部分がどういう器官に分化していくかが決定されているんですね。だから原基分布図といって、球体状の胚の上にも将来の地図を描き込むこともできるわけなんですが……あの、これって面白くないですか?」

「気持ち悪い」と樹里亜の目が語った。

「……すいません。話を戻しますと、もしもですよ、人間の〝魂〟なんかにも予定運命みたいなものがあって、僕らはたんにそれをなぞっているに過ぎないとしたら、あるいはこの〝地球〟という胚で起こる出来事も、あらかじめ決まっていたとしたら、……会長が耳を塞いでいるのも納得できる気がするわけですよ」

「だって気持ち悪いんだもの」……。

 実はこれもまったくの背理なのだが、こうした会話にこそ君は忍従をもって臨まねばならなかった。しばしば混乱にも陥ってしまう、今まで通り話すべきなのか、それとも「失恋した男」として話すべきなのかと。前者の場合は話が楽だが、後者の場合にはなんらかの演繹法が必要になる。とはいえ、まだ君にはこの混乱をマーブルチョコのように味わうことができていたし、それはともかく、次の日になると樹里亜は図の印刷されたA4用紙をかかげて、このように言ってきた。

「ねえ、私、調べたわよ。気持ち悪かったけれど、我慢して調べてみたのよ。そしたらイモリの予定運命って、原腸胚後期から神経胚前期にかけて決定されるっていうじゃない。つまりそれ以前の段階なら運命も変えられるってわけね。これは私のアイデアとも合致していたわ!」

「アイデア?」

 と君が訊ねると、樹里亜はこころもち得意顔になって、「運命なんてパスポートより簡単に偽造できるってこと」と答えた。

「でも、それって時限つきなんじゃ……」

「かなしいわ……」

 アイコンのような泣きまねをしてみせる樹里亜の顔を眺めていると不意に、彼女のことが好きならばという特殊な当為がめばえてきて、君は樹里亜の目になにかあわれらしく見えるような、感傷的なまなざしを送っていた――それは一箇の脱状況的な現象で、このとき君は一人の行為者であるとともに、一人の観測者となっている――目が合うと、ほんの一瞬見つめあったあと、樹里亜が顔をうつむけ、一息吐いてからまた目を上げたときには、口も開きかけていたのだが、同時にチャイムが鳴ってしまった。無意識っておそろしいわね、などとひとりごちながら背を向けた樹里亜が教室へ戻ろうとするのだが、君はなんだかむしゃくしゃしてしまって、その腕をとって引いている。ふりかえった樹里亜の顔がこわばっているのを見て、申し訳ない気持ちにも襲われるのだけれど、それ以上に襲ってきたのはあの異様な感受だった、自分が自分から離れていって、なにか滑稽で許しがたい、異常な役を演じさせられているような不安。だがそうだろうか、君は「自分」という使い古した靴を履いているかぎり、樹里亜に近づくことができないという泥沼にずっぽりとはまり込んでいたのだから、これを脱ぎ捨てていよいよ樹里亜に近づこうというとき、自分自身を一箇の「他者」とみなさざるを得ないというのは、実のところ理にかなっているのではないか。

「もう敬語とってもいいかな」

 樹里亜がぽかんとした表情になったのち、はなして、と目で言うので、そのようにすると、だまったまま唇に人差し指をもってきて、横目で君の顔を見やり、かと思いきや、突然その指で君の額をぴんとはじいてくるのだった。それはなにか、自分が樹里亜の手先にされてしまったような気分の目覚めで、より率直にいえば、砂糖菓子シャトーブリアンをほおばったかのような、催眠術の操作だった。君たちは授業に五分遅刻するのだが、そのほとばしる足取りが、英雄の凱旋らしき高い喇叭のひびきをともなっていたことは言うまでもない。そしてその日から君たちは、学校から駅までの帰り道をそろい踏むようになった。樹里亜がイエスと答えたためだ。


 ただしこういうときの君には、いわばはじめてクレジットカードを手にした人がよく陥るような、身の回りの取り引きがすべて頭上で起こっているというあの現実離れした感覚がついており、あたかも所持金が無限になったかのように、実質に対してふるまいが過剰になっていたと言わざるを得ず、またのちほど多大な請求がくるかもしれぬという予感のほうは、いまだ曖昧模糊としていた。というのも、身の丈に合わぬ買い物をするときにかぎって、人は金銭感覚を失うものだからである。

 右手にはフェンス、左手には二車線の道路が伸びている長い一本道の上で、君に縫いつけられた影は君のものではないように動いた。君の口から出る言葉には、君自身が驚いた。自身が誘拐犯であり、次の瞬間には捕吏に引かれかねないという覚悟さえ必要になる。まさかあの樹里亜と肩を並べて歩ける日が来ようとは。信じられない。空が落ちてくるのではないか。だが錆びついたトロッコが勝手に動き出すように、行為が自然な現象となっていくといい。君は手をふりながら写真について話した。樹里亜は写真部に所属していて、よくコンクールでも入賞するのだ。話題にされたのは、彼女が去年の秋ごろ撮ったという、彼岸花と黒蝶に焦点を合わせたある一枚のことだった。毒々しい美しさとでもいうべきか、どこか退廃建築的な魅力をそなえていたのである。『虐げてきて』と題されていたのだが、きけばそれは彼女の好きな、寺山修司の短歌からとったのだという。彼女はこう口ずさんでいった。


 愛されていしやと思うまといつく黒蝶ひとつ虐げてきて――


 その声は空間的なうねりを帯びて波のように高まったあと、語末の緊張がほどけると同時にうすく引きのばされて大気に溶けてゆくように感じられた。一瞬で過ぎ去ってしまうこのような音の束が人の耳に入り、なんらかの情景を喚起するというのは、奇蹟のようなことだった。しばらく飛行雲を眺めやりながらその言葉を舌の上で転がしていると、風がふわりと樹里亜のにおいを運んできて、ぱっと振り向けばフェンスの手前で彼女の髪がなびいており、被写体にはならないのかな、とやや赤面したまま訊ねてしまって、君は余計に気まずくなってしまう。けれど彼女はそんなこと考えたこともないというのだ。理由を問えば、写真うつりが悪いから、ということであった。

「写真って結構暴力だから、なにを写すかより、むしろなにを写さないかが問われる気がするの。だからかもしれないけど、実はほとんど憎しみに近い気持ちをこめてシャッターを押してるのよ、私。なのにそういうのが賞とか取っちゃうから変ね」

「好きじゃないの? 写真」

 怪訝に思って訊ねれば、樹里亜は困ったように首をかたむける。

「わからない。そうかもしれない。でもやってる。きらいだからやるのかもね」

「変わっているね」

「あなたもね」ため息をつく樹里亜であった。

 ところで短歌や和歌といえば、そういうものに疎い君でも、教科書かどこかで学んでなぜか印象に残っているものがひとつだけあった。うろ覚えで樹里亜に言ったら笑われて、主語から訂正されたのだが、とにかくそれは万葉集に収められた、次のような一首である。


 君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも――



 よいことだらけではない。明白かつ現在の危機、というわけではないけれど、君の抱えているあの漫然とした(しかし絶え間ない)生活困難、存在困難の問題は消えるどころかますます強まり、背筋を伸ばして座っているとすぐに疲れてしまうので、机に突っ伏して過ごされるような時間が多くなっている。教師が口を開いているのが見えるのに、話された言葉がひとことも聞き取られず、理解できないといった経験も増えたし、バスに乗ろうとしようものなら、足が突然ヘドロにでも沈んでいくかという具合に重くなるのを感じて、立ち止まってしまうのだ。先頭列で立ちつくす君は何人もの乗客に追い抜かされ、何台ものバスに置き去りにされてからようやく乗る決意をかためるのだが、ちょうど梅雨に差しかかるころでもあり、やってくるバスといえば、かならず奴隷輸送船みたくすし詰めの状態なのだ。それでも他の人びとは文句も言わず、半ばあきらめたような、葬式のような足取りで車体に乗り込んでいく。一方の君は自己との聯関を完全になくし去っていて、自分も乗るべきなのか、あるいはそうでないのかが判断できない。しまいには「乗る」という行為自体がなにか悪魔的な実体をともなって目の前に出現し、君のことをせせら笑い出すほどだ。そうなると意志の問題ではなくて、完全に確率論の問題になってくる。そうやって、n回目の試行でとうとうバスには乗れているのだが、授業を受けていてもなにも頭に入ってこない。ふと自分の手許を見れば、なにやら指先が虫の脚みたいに動いている。どうやら君はペン回しをしているらしかった。これも君の意志ではないし、およそ行為ともいえない。むしろ手が勝手にそれをしている。すると君は目の前のペン回しについて責任を負っていない。ただこれを持続させるか中断させるかの選択ならできるだろう。なぜならペンを回しているのは君の手で、君の手は君の意志によってある程度自由に操られるからだ。ところが実際には、持続も中断もほとんどその自覚なく行われている。それは君の意志が何によって動かされるのかが、結局のところ謎だからだ。これを延々と敷衍していくと、自分が次の瞬間に何をするかがまったく決定されていないばかりか、決定することが不可能にすら思われてくるのである。

 君は観崎映子に前金を渡し、薬を替えるか、量を増やすかしてもらうよう頼んだ。それというのも、君に対してあの眠剤はしだいに効き目を失って、寝付きも寝覚めも悪くなり、また中途覚醒することが多くなっていたのである。映子は承諾したが、すこし時間がかかるとも言った。自分で医師にかかろうという考えもなくはなかったが、もはやこの取引はひとつの利権となっていたし、父の顔が思い浮かぶと、医者の腹を肥やす気にはどうしてもなれない君なのだ、周囲には医学部志望の生徒も少なくなかったが、そういう連中に対しても君はつねにいらついている。


 だが別の日には、地下鉄の階段を上っている途中で突如視界が虫の群に覆われ、またしても立ち止まり、思わず背後を振り返っている君がいた。当然虫などいるはずがない。しかしそこにはあったのだ、もっとおぞましいものが。……それは鬱病のような目をしたサラリーマンであり、悄然としてうつむく就活中の女子大生であり、階段の下から押し寄せてくる人波であり、その上下に揺れ動く無数の頭部であり、個々が独立した肉体でありながら、かといってひとつひとつは重要でなく、あたかもボルボックスかなにかのように、全体でひとつの塊のように見えるけれども、そのじつ一人ひとりがどこかに目的地をもっており、それが何かの因果でここにいったん集まって、いまはひとつの階段を上るという意思を同じくさせている、その背後に潜む巨大な魔物の存在であり、そんな流れのなかほどに身を投じている、己自身の姿なのだった。




 観崎映子が停学処分になったのは、そんなある日のことだった。

 これまで再三にも及ぶ生徒指導を受けてきたにもかかわらず、更生のそぶりを見せるどころか、まったくのところ馬耳東風然としてきた彼女なのだ、もう教員たちもみんな呆れ果てて、彼女には関知しない方針を固めたものと思われていただけに、この期に及んで学校側が制裁措置に乗り出したというのは、君としてはむしろ意外ですらあった。発端については多くの噂が飛び交ったが、薬の横流しを含め、いってしまえば彼女の罪状は数えはじめればきりがないので、情報の錯綜は致し方ない。ある生徒は映子に同情し、またある生徒は自業自得だと言って笑い飛ばした。担任の馬場はこの日きわめて厳粛な面持ちでホームルームの教壇に立ち、この時期に生徒の処分を下さなくてはならなかったのは学校としてもたいへん不幸であった、と遺憾の意を表明し、わざとらしいため息をついたあと、観崎さんの身の上を心配している、と付け加えていた。

 呆れと失笑との声が入り交じる教室のなか、馬場はそうすることが義務であるように、担任として申し分のない、次のような文言で話を締めくくる。


「わかっているとは思いますが、みなさんは来年受験なのです。みなさんを見ていると、まだその意識が低いように先生は思います。いいですか、受験は個人だけの問題ではありません、受験は団体戦です。学校のみんなが一丸となってゴールを目指していかなくてはなりません。今日の日もそのためにあるのですよ、昨日よりも今日、今日よりも明日、みなさんは少し賢くなっていないといけない。ですから、クラスのみんなのことを考えて、士気を削ぐようなことはしないように」……。


 君はすぐさま映子に連絡を取っていた。とにかく彼女が自宅謹慎になって登校できなくなるということは、それだけ眠剤を受け取る日が延びるということになりかねないからだ。常用量を超えて飲まれていたこともあってか、すでにそれは底をつきかけており、だからこそ、家まで取りに来いという意味のことを電話口で言われたときにも、道に迷いこそすれ、彼女の棲まう殺伐とした団地地帯へ赴くこと自体にはあまり迷いがなかった。帰り道にて樹里亜にそのことを話すと、意外なことに、彼女も行きたいと言いだしたのだが、イモリを飼っているらしいということを教えると引き下がっていた。どうやら樹里亜は『王女と言葉アリ』という映子の芝居を見たことがあるらしく、ひそかに好意的な評価をしているのだという。それは観崎映子最後の舞台で、終盤に向かうにつれて無声劇に近づいていく内容だったにもかかわらず、あろうことか突然観客に向かって牢獄の中から怒鳴りはじめ、挙句の果てには舞台装置を蹴り倒して帰ってしまった、などというひどい逸話が残されているのだが、そういうものを樹里亜は「ファンタスティック」と評するのである。

「あの子が天才よ」

 樹里亜がそのようなことを口にするので、君としてはこう言い返さずにはおれない。

「そうかな、確かに頭は切れるけど、君ほどじゃない」

「いいえ。私なんか全然」

 左手の道路を自動車が行き過ぎて水たまりを跳ね上がらせていった。曇天の下で、樹里亜は赤い傘を握る手許に目を落としている。

「なんでそんなに自分のことを卑下するの? だって君はなんでも知ってるし、運動以外ならなんでもできるじゃないか。君がいなかったらあの模擬国連の賞もなかったし、それに……」

 樹里亜がちょっと苦笑しながら首を振る。

「卑下というか……そうね、ごめんなさい。でも私の人生って、先が見えちゃっててなんだかおもしろくないの。他人の敷いたレールの上を走ってる。なのにどこにも行けはしない。たぶんこれからもずっと。もし私がテストで零点を取れたら天才かもしれない。でもそんなこと私にはできないから」

「ふうん」

 それからはだまって駅に近づいていたが、君は唐突に、自分がよろこびとは無縁な――むしろ非常に冷徹で、ほとんど残酷な――表情をうかべて存在していることに気づかされた。と同時に、茫漠たる空虚が目前にひらかれている。こういうとき、君はやはり自分自身の代理でしかなかったと言わざるを得ない。そのうつろな目で横の樹里亜を見やってみると、限りなく自由だが、自分のまなざしに形容されるために与えられてもいる。……脱状況的な装置が作動して、傘の柄を握る樹里亜の左手をとっさに上から握っていた。――これが恋するゆえなのか、エゴイスティックなものなのか、あるいはなんらかの辻褄を合わせるためのものなのか、君にはもはや判別がつかない。ただ自覚されているのは、みずからのうちに新たな人格が発生しつつあるということで、樹里亜に近づくという目的の下で採用された形式のひとつに過ぎなかったものが、いつしか巨大化し、転倒し、これに問い合わせるということだけが君の業務になっている。こういうことをいままで君はおそれてきたのだ。他のあらゆる自信と同じように、森本樹里亜と一対一で向き合った際、彼女への純粋な恋心をそのまま保ち続けられるという自信さえ、君はもっていなかった。

 驚いた樹里亜が立ち止まって顔を上げているのだが、彼女は自分からはなにもしないで、ただ尊厳あるまなざしを向け、君が手を引くまで静かに待つだけである。それが君にとっては一等効果が高いのだった。

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