欺瞞
駅前のジュークボックス付近で先に待っていた観崎映子は、まだ制服の腰に桃色のカーディガンを巻きつけたままだった。群衆の中に君の姿を認めると、読んでいた文庫本をささっと鞄にしまい込む。今まで何していたかと訊けば、ゲーセン、との返答。音に合わせてパネルを踏んでいくダンスゲームにはまっているそうである。そんなこんなで、君たちはいま三〇五号室の中だ。真新しいビルの小綺麗なフロアで受付を済ませ、やたらポップな色使いの廊下を抜け、赤々とした部屋に入って彼女が最初にしたことは、中の冷房を限界値まで下げることだった。それから煙草。思わず顔をしかめる君だが、彼女は気にするそぶりもなく、バージニア・エス・デュオなる細長いピンク色の箱から一本を取りだし、ライターで火を付けてから、それを紺のスカートのポッケにしまいつつ、膝を組んではすかいのソファにもたれかかって、馴れた手つきで赤熱する煙草を指の間にはさみ込み、そうしてゆっくりと煙を吐き出していく。こんな行為ひとつの裡にも彼女はおそらくなんらかの型を意識していて、それを忠実に全うすることをある種の義務として課しているふうに見えるが、はたしてそれはどうなのか。だがそのときさらりと送られてきた流し目が、まるで(あんたが考えてることはわかってるよ)とでも言っているかのようにも感じられ、そのなかに樹里亜とはまた別箇の人を寄せつけない鋭さを見出した君は、顰蹙を買う権利がこちらにあることを理解しつつも、これを行使しないことに決めざるを得ない。それに君の価値観としても、他人の生き方に口を挟むという愚を犯すよりは、他人の愚をそのままにしておく偽リベラル主義を気取ることのほうが、趣味には合っていたのである。
映子ははじめ古い歌を何曲か続けて歌った。君は歌わなかった。ずっと黙っていた。すると彼女は「なごり雪」の二番の途中で突如マイクをほっぽり出してしまい、あとには意外と間の抜けたメロディと、灰皿から立ちのぼる紫煙と、如何ともしがたい時間たちとが、薄暗い部屋のなかを流れるだけになってしまった。そして君が演奏を停止させるために手を伸ばしたそのとき、彼女はふいに「あのさあ」と口を開いた。
「昨日のことなんだけど」
「え?」
昨日、という単語に敏感になっていた君はついつい反応してしまう。
「あんたラリってたよね」
と映子はにやにやしながら言った。
「え、何が? いつ?」
「まあ憶えてないか」
「なんのことだか全然わからない」
緩慢なメロディが去り、最後にまた「なごり雪」とタイトルが画面に現れたあと、今度はソファに腰かけた話題のアーティストグループが登場して、新曲のプロモーションを始める。次の曲は入っていない。映子は新しい煙草に火を付けてから君にまた流し目を送った。
「昨日マイスリー飲んでただろ?」
「ああ……うん」それは君が映子から横流ししてもらっている睡眠導入剤の名称だ。「……でも、なんで?」
「なんでじゃねえよ」と映子はいささか冗談めかして言った。「あんな恥ずかしい電話かけてきたくせにさ」
「電話? いや、そんなのかけてないけど」
「かけたんだよ。あんたは憶えてないかもしれないけど。なんなら自分で記録確認してみな」
そこで君は半信半疑になりつつも、ポケットから自分の携帯を取り出してたしかめてみる。……その発信履歴を見た瞬間、君の顔はみるみる真っ青になった。そこには昨夜遅くに君が観崎映子と森本樹里亜に電話をかけていたらしい形跡が確かに残っていたのである。しかも一回ではない。何度も。そのことに君は今になってようやく気づいたのだ。
「なんだこれ……」君は絶望的な咨嗟を洩らした。映子はそれをからかうように笑っている。
「マジで憶えてないのかよ、効き目ばっちしじゃん」
テレビ画面でもそんな君をあざ笑うかのように、かわいらしい衣裳を身にまとった旬のアイドルたちが次々と姿を現しては、手を振ったり、ウインクしたりしながら、やかましい音とともに去っていく。
「眠るための薬じゃなかったのか、僕を騙していたんだな」
「なに逆ギレしてんだよ。あたしのせいにすんなタコ」映子は煙草を消して、グラスの中のコーラに口をつけていた。「ただ言ってなかったのは、あれにはそういうところがあるってことだけ。つってもまあ、フツーに眠ろうとしてるかぎりああなるはずはないんだけどね。だからあんたが全部悪いよ。自分がどんなこと言ってたか教えてやろうか?」
そうだ、今の問題はこれである。樹里亜がそうだったのだから、君は映子にも、なにか大変なことを言ってしまったにちがいないのだ。おそろしい……。唾を飲み込んでいる間にも、映子はきらびやかな装飾の施された携帯を手に持って、なにやら操作しはじめている様子だが、やがて君に回されてきたそれは、録音の再生画面になっている。同時にテレビの電源がぶつりと切られ、にぎわいの途絶えてしまった、驚くばかりの静寂が部屋を包む。そこからひびきだしてくるのは、君自身の、すすり泣くような、妙に耳馴染みのないざらざらした声だけだった。
『……ああ…………僕は……僕は最低な人間だ……情けない……なあ、憶えているか…………あのとき……小学校の……悪かった……ほんとに……猫を殺して……それから…………』
録音はそこで途絶えていた。「キモすぎたから切った」と映子が横から補足している。……対する君は茫然自失となり、冷や汗を血のようにながし、心臓がふたつに割かれたような気分で、スピーカーの中の自分自身と対峙せざるを得なかった。なにが起きているのかわからない。ただこれだけは言える。このことは過去の負い目のひとつだ。現に君の心にはこういうことが手つかずのままわだかまっていたし、機会さえあればどうにかせねばならぬと思って、百通りもの言葉と場面とを空想してきたのである。だがこれはどういうわけか。君の声が、実に聞き苦しい言葉で、これについて謝罪しているようなのだ。こんな記憶は当然君にはない。君は映子に対して謝ってなどいない。謝るならもっとうまくやる。だからこれは君ではない。
……にせものだ、と君は第一に考えた。なにか自分のなかに別の存在が介入して、あるいはなりすまして、悪さをしたとしか思われない。でなければ、代理だ。君は一時的に自己の権能を他に譲りわたして、こんなくそスポークスマンを召喚していたにちがいない。ところがこれもおかしな話である。そもそも代理もにせものも、君のことではなかったか。つまりこれは、代理の代理、にせもののにせものという、二重の混乱なのであろうか。それとも万に一つの可能性だが、眠剤で余計な自我を手放すことによって、かえって〈僕〉に回帰していたのか……。喉の渇きを知覚して無意識的にストローに口をつけようとしている君だが、そのアイスコーヒーはすでに飲み干されているから、グラスの底で濁った氷の音を立てるだけだ。
映子の顔を窺えば、無表情で、あるいは感情を表に出さぬようつとめて、じっと君の目を見ていた。だが君にはその目がなにを言わんとしているかがわかる。認めない、と言っているのだ……心中では激怒しているかもわからない。こういうことは本来もっと早く清算しておくべきことがらであったし、やっと口にされた謝罪の言葉がこのような形をとってしまったのだから、当然だ。そしてこの状況……これはある種の強制的な状況だ。どうしようもない当為。それを感受することで君は立ち上がっている。
「僕のこと恨んでるか」
うん、と彼女は静かに口にした。
「……悪かった」
「謝るなら土下座してみろ」
「え?」
「土下座」
意地悪な笑みを浮かべて映子は君に命令した。冗談なのか本気なのかわからない、君を宙づりにする絶妙なニュアンスで。彼女にはなにかそういうところがある。感情よりも言葉が先立っていて、他人の反応を見てから自分の態度を決定するようなところが。だから次の瞬間には「とか言うとでも思った?」などとあっさり引き上げられる類の意趣返しだろうと先読みしてその言葉を待っているあいだ、君はまだ半身浴のぬるま湯に浸かっているようなものだった。だがやはり映子もそれは百も承知で、またそうである以上、もはやそんな茶番で満足する彼女ではなかった。あるいは、「ナメられている」と直感したために途中で方針を変えたのかもしれない。まさか、とすこし引きつった顔で君は見上げた。靴のままソファを踏みつけて立ち上がる映子の姿を。
「しなよ。そこでいいからさ」
はじめは口の弾みで出ただけかもしれなかったが、二度三度と繰り返し突きつけられることによって、要求は自分自身を裏づけながら、徐々にその錨をおろしてきている。この魔術的な現象が、突発的な状況を後戻りできないものにさせていた。君はじぶんの胸のところまで心理的な水嵩が上がってくるのを感じたが、それは君自身が内面の海に沈みこみつつあったからだ。君が浅薄だったのは、安堵を先取りすることを急ぐあまり、水弁を握る映子の気分をゆるがせにしたことである。君はもっと映子をおそれておくべきだったのだ。そしてもっと慌ててみせるべきだった。避けられない黒板消し。コの字型ソファの上をずんずんぐるりと渡り歩いて君のそばまで寄ってくる映子に向かって、君は苦し紛れに言う。
「しろって言うならしてもいいけど、そんなことしても何にもならないと思うよ」
「いいんだよ。それを決めるのはあたしだし。どうでもいいけど。……したくないの? 土下座」
「まあしたいかしたくないかで言えば、したくないね」
すると彼女はすこしく眉根を寄せて、
「ならこうしよ。ふたつにひとつ」
と言って指を二本立てる。
「何?」
彼女はソファの上から腰をかがめ、テーブルに転がっている空のコーヒーフレッシュを指先でつまみ上げると、口元から八重歯をのぞかせながら、その底面を君に向けて示した。茶色い淵のなか、残った水分がわずかに白くたまっている。
「今からあんたがあたしの前でオナニーして、出したものをこれに入れて、飲む」
「なんだって?」
「聞いたでしょ。はい、どっちにするの」
暗澹たる気持ちに君は包まされた。映子は気づいていないのだろうか、エスカレートする要求が当初の目的から外れていっていることに。いや、自覚的でないはずがない。彼女に自分の人生を実験しているようなところがあることを君はよく知っている。実際、こうして二択を迫るさなかにも彼女は楽しんでいるふうには見えるけれども、それが本心からの出なのか、それともなにか悪役に近いものを演じているだけなのか、本当のところは暗闇のなかだし、そこでは両者の本質的な差異は見えなくなってしまう。あるいはもしかすると、彼女の頭のなかには、最初から冗談と本気の線引きなど存在しないのかもしれなかった。いやそうだとしても、それはやっぱり破滅している。
君の土下座はもはや意味から剥奪された行為に過ぎなかったが、たとえそうだとしても、第二の選択肢を抑圧した記録とともに封印した君は、まさにそのかどによって、罰を受けなくてはならなくなっていた。
靴を脱ぎ、ソファに正座して手をつけば、目線の高さにちょうど映子のまるみを帯びた腰がある。膝上のミニスカート。ロングソックス。それらに挟まれたなまなましいふとももの肉とほとばしる青い血管。声が頭上から降ってくる。あたしがいいって言うまでだかんね。ふしぎなことだ、と君は思った。映子に支配の対象として扱われる反面、不覚にも彼女を性的な対象として見ている自分がいる。しかもこの領域までは決して支配が及ぶことはないのだ。この感覚――主導権はあちらにあるのに優位性はこちらにもある――が、君を屈辱から解放した。しかしもともとはこんなに静かだったのかと驚くばかりのしんとした部屋のなか、赤い合皮製のソファに顔を近づけてその継ぎ目だけをひたすら眺めていると、だんだんすべての感覚が失われていって自分もソファの一部になりかけているように感じられ、生きているということ自体が不安定になってしまいそうだった。
そのとき……と言っても君にはどれほどの時間が経っていたのかわからなかったが、映子の声が聞こえた。ねえあんた、樹里亜のことどう思ってるの? なんだよ、と君は思った。なぜこのタイミングで樹里亜の名が出るのかわからない。頭を上げろとは言われていなかったから、そのままの体勢で君は言った。どうって、何が。だからそれを訊いてんの、バカ。もし両手をついていなかったら頭を抱えていたところだ。どうやら君が自白するまでこの拷問は続けられるらしかった。あまりいい予感はしなかったが、そろそろ腕も疲れてきて頭に血も上っていた君は、慎重にありのままを打ち明ける。樹里亜にあこがれを抱いていること、彼女は高みにいて手が届かない存在であること、しかしできれば距離を縮めたいと思っていること……「好き」という言葉を君は用いらなかった。それは「青春」や「幸福」と同じぐらいに、口に出すのが憚られたからだ。しかしなにを勘違いしたのか、無駄に察しの早い心臓は全力疾走した後のように轟いていて、それが君には頭の中で鳴っているのではないかと思われた。すると映子は失笑混じりに言った。なにそれ。そんな回りくどい言い方じゃないと言えない? そして彼女は鋭く研ぎすまされたとっておきの一言を放った。やりたいんでしょ。樹里亜と。
おまえの内臓はこれだよと言っていきなり臓器を見せつけられたような不快感を君は味わった。咄嗟に口を開きかけたがうまく言葉にならず、かと言って閉じることもできないまま、全身が小刻みに震えはじめるのを感じる。もちろん君の心情はそんな単純なものではない。だが……。
正面に映子が腰を下ろす気配があり、しばらくして頭に手が載せられる。母親のようでありながら、同時にそれを否定するような手のひら。長時間の拘束姿勢のためか、君はこのとき半ば催眠術にかかったような状態になっていた。だからここでようやく許しを得て顔を上げたとき、目の前の状況の変化にひっくり返りそうになりながらも、君はどこか奇妙に納得してしまってもいた。
単刀直入に言って、映子は脱いでいた。カーディガンを脱ぎ捨て、シャツのボタンを下まで外し、ネクタイの垂れ下がる胸元からは、黒の扇情的なブラが見え隠れしている。それでいて恥じる様子もなく、つんと取りすました表情をつくって、組んだ膝の上で手を重ね、斜めから冷たい視線を送ってくる、その対比が異様だった。
「おい」と君は目を背けつつ言った。「人をおちょくるのも大概だぞ」
「なにが?」
「服だよ」
「服がどうかした?」
「何がしたいんだよお前。ギャグか?」
「別に、暑いから脱いだだけだけど。もしかして興奮させちゃった?」
「じ……冗談じゃない」
「あっそ。だったら問題ないよね」
すると彼女は着ているシャツの胸を両手でつかみ、内側から外側へめくり返すように開いて、ピンク色の肩をべろんと露出させた。それは君がまだ紐解いたことのない、おんなという名前の一冊の書物だった。その見返しには異国の地理図が描かれている。痩せた大地のなかに、顔を背けあう二つの丘。……君はそれを見たくはなかった、しかし見ずにはいられなかった。樹里亜、というひとつの理想を聖別したときにのこるもっとも異質なものが、そのまま映子の肉体に転移していたのである。とはいえ、映子はもちろん樹里亜ではありえない。しかしながら、樹里亜は樹里亜であるということによって女性である。いわんや映子をや。つまり二人がなにほどかのものを共有していることは事実であり、その点で映子は君よりも樹里亜に近いところにあるのだった。君はその驚きと、恐怖と、極度の緊張とのなかにむせいだ。
袖を通したまま映子がすり寄ってきて、内腿のあたりに手をおいてくる。これが男を挑発する意思でなくて何になるのか。君はつとめて平静を装おうとしていたが、大きな力の前に、とにかくそうしなければならぬと自動的に考えていた。だからこのいつ崩れ果てるとも知れぬ急場しのぎの防塁は、これを統括すべき理性が不在だった。
「〝あらゆる肉体の美が同一不二であることを看取せぬのは愚の骨頂である〟」
「なんだいそれは」
すると彼女はすこし得意気にふふんと鼻を鳴らしてみせ、
「プラトーン。読んだことないの?」と君に向かって言いつつ、ゴテゴテとしたアクセサリーのついたスクールバッグを漁っている。
両腕を天高く掲げる例の雄々しいポーズが先に思い浮かんだもののそちらのほうではないのは明白で、古代ギリシアの有名な哲学者のことだとはすぐにわかったけれども、いずれにせよ君の先端的ロゴスは完全に萎える。こんな場面でしかも映子の口からプラトーンみたいな名前が出てくるなんておかしな話だ。プラトニック・ラブとはなんだったのか。それよりなにより古典の一節をかるがると諳んじられた時点で映子に教養で負けているので腹が立つ。
「ねえ」とそして彼女は言った。「あたしと遊ばない?」
「僕はそういう男じゃない」
自尊心の残滓が君をしてそう言わしめた。またこれを口にしたことで、君の中に「自分のあるべき姿」という後付けの規範が起こって来て、君に方向性を与えるのと同時に、映子の囁きを拒否するのも造作もないことのように一度は思わせた。
「最初はみんなそう言うんだ」
映子は指先で君のふとももの上を円を描くようになぞりつつ、言った。
「勃起してる」
「してない」君は彼女のシャツの裾からのぞくセイラー柄の青いリストバンドがどうしても気になっていた。
「とか口では言いつつ……さっきさ、あたしの前でオナることちょっと想像したでしょ。ねえ、あたしの前でオナニーすること、想像してたんでしょ」
「やめろよ」
想像は君の愉しみのひとつだから当然した。しかし想像は想像で、真空の中でとっておきたいのが君の性癖でもある。もし実行すれば、とたんに酸化してしまうかもしれないからだ。しかるに想像が現実の中からしか生まれないとしたら、そして想像も現実のうちだとすれば、ここで現実とはいったい何であることになるのだろうか。思考は明後日の方向へと飛翔していく。だがそれとは関係なく今、目下ではシャツを半分脱いで惜しげなく肌を出した映子が、求めるように半開きにした口をまさに寄せてきているのはどうするべきなのか。それはちょうど未払い金の取り立てに来た税吏のような仮借なさで、君のあらゆる保険の失効を告げている。なにか頭にあるオセロのようなものが次々と裏返されていく――そんな感覚だった。そしてついに盤上が黒へと変わり果てたとき、一種の発作のごときものによって、あたかも引きあう磁石のように、また餌に食い付く鯉のように、君はそこへ唇を重ねてしまっていた。君の一度目の失策。それは煙草のにがいにがい味にみたされていた。映子はだまって目を閉じている。君はこれでもかと言うほど見開いていた。狭く薄暗いカラオケの三〇五号室、異常な寒気が君の全身を押し包み、底知れぬ昏い衝動が脳髄をびりびりと刺激している。これはある境界線をまたいでいるときに本能が送り出す特殊な危険信号だ。ふと左手に淡い皮膚の感覚が宿り、これが映子の肩に触れている当のものだと気づいたとき、君はその行為に関してまるで身に覚えがなかったものだから、狼狽のあまり思わず身を引き離してしまった。そして口元を咄嗟にぬぐう。激しい混乱のなかで君が感じていたのは、自己意識との間の途方もない乖離である。
映子はよりいじらしい表情をつくって囁いた。君を眩惑の淵に立たせるという、ひとつの明確な目的の下に。
「……いいよ。あたしの身体、樹里亜のだと思って、好きにしても」
「な、なに言ってんだ」
「樹里亜にかわってあげるって言ってんの」
余計なお世話だと思った。だが率直に言って、ともすれば君自身よりも計算高いかもしれない君のペニスは、この言葉にこそ最も強い反応を示している。
彼女はこれは一箇のシミュレーションだと言った。いわく、君が樹里亜に対して近づきがたく感じるのはただの錯覚に過ぎず、結局は女という生き物について、また「恋愛」について無知であるがゆえに、自分から壁をつくっているだけなのだという。だからこれを取り払うためには、まずは性という「現実」を身体を通して学習する必要があるというのだった。もっとも、なぜそこまでしてそうさせようとするのか君には不明だったし、一目して破綻している上に、映子にとってなんのメリットもないかに見える。そこでとうとう、「なあ……」と、口を出さざるを得なくなる。
「そうやって僕のことも騙して弄ぶのか。どうしてそう、無理して変なことしようとするんだよ。もともとそんなんじゃなかっただろうに……自分が今みんなからなんて呼ばれてるか、知ってるよな」
すると映子は急に真面目な顔になり、
「あたしは誰も騙してなんかない。あたしはただ生活しているだけ。むしろ誰より正直にね。騙すとか騙されるとかいちいち大げさすぎるんだよ。たんに自意識過剰で期待しすぎたやつの言い草じゃん。エゴエゴ。だから勝手に誤解したやつらに何を言われたって、べつにあたしはなんとも思わない。関わっても水掛け論だし」
と思いがけず強い口調で言い張って君をまごつかせる。
「……でもそれもやっぱり嘘なんだろう。なにか自分に嘘をついて、それで全部ごまかそうとしてるだけなんじゃないのか。僕にはそう見えるけど」
「よく言うよ。じゃああんたは自分になにひとつ嘘がないって言えるのか。まあ言えはするだろうね、言うだけなら簡単なんだ。あたしだってこれは本気だと言い張ることもできるし、こんなの考えたらキリないよ。そんなもんでしょ、人間なんてさ。まあぶっちゃけこれはエンギだけどね」
「ほら、やっぱり僕を騙してる」
「でも自分から騙されたがってるやつを仮に騙してやったとして、それが騙したことになるの?」
映子はよく見ればそこまで器量のよい女子ではない。鼻は小さいし、それにくらべて目が大きすぎる。人の目が多かれ少なかれレモン型となるのに比して、彼女のそれはむしろ完全な球体に近かった。また歯並びも悪い。彼女の外見を美しげに変えているのは、そのたくみな化粧の威力であろう。しかし大きな胸のかがやける乳房……これは確実にほんものだった。そして彼女もそれを理解しているからこそ、これをセックスアピールとして最大限活用することを厭わない。幸福かどうかは別にして。
ほら、と彼女は言った。こんなもんだから。女子の身体なんて。樹里亜もこれと同じ。まあ、あたしのほうが大きいけどね。
もしそこで壁の内線からけたたましいコールが鳴り響かなければ、君は彼女に股間のジッパーを下げさせることを許していたところだった。けれど曖昧さを許さない業務的な連絡が、二人に本来の時間と場所とを思い出させた。彼女は舌打ちして雑にシャツを羽織りなおすと受話器を取りに行き、「延長」と吐き捨てるように言って切る。
振り返ったその姿を見て、君はいささか落胆を覚えた。やっぱりそれはどうしようもなく映子だったのだ。客観的な視点が戻って来ると同時に、さきほどまでの快楽が嘘のように感じられた。というよりもそれらが過ぎ去って嘘が赤裸々になり、その幻想を失ったのである。
どうする? と映子が尋ねる。だがその様子は、もはや滑稽なものにしか映らない。君は首を振った。
「やめよう。なんだか空しくなった。こんなことしても何も解決しない」
すると彼女は案外あっさりして、
「あっそ。まあそう言うと思った。じゃあジュース追加。コーラね」と言うのだった。
そっぽを向いてシャツのボタンをつけていくその姿に、一瞬、なんともいえぬ淡い光が浮かんだのはなぜかと考えてみる。でも、キリがない、と言ったのは本当だろうなと君は思う。結局多くのものを棚に上げたり宙づりにしたりしながらでも人は生きていく。それが普通だ。
廊下にあるドリンクサーバーの前でグラスに氷を入れているとき、ふと、冷凍庫に棲むカメレオンの姿が脳裡をよぎる。ふしぎなことだ、いま君がこうしている間にも、あのカメレオンが依然として同じ場所で凍りついているというのは。
「いまあたしイモリ飼ってるんだ」
コーラとアイスコーヒーを両手に持って戻れば、またテレビがついていて、映子がそんなことを言ってきた。煙草を喫みながら、いくぶん快活な調子で。
「イモリだって?」君がソファに座ると同時に、映子はコーラに口をつける。
「猫は飽きたからね」
一瞬沈黙があり、君は言葉に気を遣う。
「でも、なんでイモリ?」
「両生類だから」
もちろん映子がこれで動物愛好家なのは君もよく知っている。だが猫ならともかく、あの黒々とした無骨な生物、あれがこの見るからにギャルで、流行りもの好きそうな彼女の手で飼育されているということを想像するに、なかなかアンバランスでもあり、常識を逸脱しているように思われるけれども、同時に君は強く惹かれた。ただそれがイモリに対する純粋な興味なのか、罪悪感ゆえの迎合なのか、もっと別の感情なのかはわからない。気づけば君は見たいと言っていた。それは別のことをも含意する。当然のように調子に乗るなとあしらわれ、君たちは軽く笑い合ったけれども、すぐに疲れたようになってしまって、互いに目を逸らし合い、別々の方向を見た。携帯とカラオケ機の電子目録とが離れた位置で発光して、ふたりの顔をそれぞれうすぼんやりと照らし出している。
それから君たちはすこしだけ昔話をした。あたしは変わったんだ、ということを映子は強調して話した。彼女にはいじめられていた過去があったのだ。そのすべてを否定した姿として、いまの彼女があるのだろうか。いつのまにか君は訊ねていた、あの夢も変わってしまったかと。思いかえされていたのは、あの駐車場での光景だった。君はよく憶えている、黄やらオレンジやらの不気味な明かりが射している、あの地下の骸のような劇場で、猫たちに身を囲まれながら、やや伏し目がちに彼女が夢を語っていたことも、いつか女優になりたい、と言ったその声が、コンクリートに反響して大きくひろがっていたことも。だが映子は笑ってみせるだけだった。そのうつむいた横顔がどこかものかなしげだったので、それ以上君はなにも訊かなかった。君はいまそのような立場にはない。ただ、もしかしたらそのような立場でもありえたかもしれなかった、ということだけをそぞろに思った。だがもしあのころを繰り返したとしても、君はあのようにやっただろう。あんたは変わらないね、とつぶやかれた一言が妙に胸に残った。
店を出るころには明るい月がのぼっていて、ドライアイスの湯気のような茫々たる雲が白く浮かび上がっている。消えてしまった星たちの明かりは、街頭のあちこちに巣喰うネオンや電灯のなかに移住していた。新設の大学が近くにあるためか、この界隈は日が落ちてからのほうが体感としてはむしろ明るくなるといってもよく、暗いという感覚を忘れたい者たちが、それぞれの欠乏を埋めるためにこのあたりへ寄り集まってくる。映子はどこへ行くのか、気だるそうに手を振ったが最後、ケータイ片手にガムを噛みながら、ふらふらと月光蝶のように明かりの中へ消えていく。夢幻の光に照らされて、その影はありとあらゆる方角に伸びており、夜の街も彼女に向けて開かれていくみたいだった。音がして振りかえれば、発車したばかりのモノレールがグロウワームのように高架の上を抜けてゆくところで、その彼方には夜空を切り取った大穴のような、濃い山々の影が見える。……ふたたび振りかえってみれば、彼女の姿はもうなかった。
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