道化
さて、なにかとんでもないことをしでかしたかもしれない、と君が悟ることになるのは、奇怪な夢から目が覚めたあと、生徒会活動の一環である「挨拶運動」のために朝早く登校し、校門前にて森本樹里亜と顔を合わせたときである。その日はすこぶる天気がよく、自然と心も晴れやかになり、ここのところずっと不調であった君も、珍しくよいことをしたくならないわけでもなかったので、見知らぬ他人や、学校や、街全体や、君の睫毛が日光とたわむれてつくりだす、幻想に挨拶しているところであった。道はひろびろとしており、人工的に植えられた街路樹が果敢に葉をひろげ、小鳥たちのすまいとなり、風をあつめんとする様子がここにも見て取られる。そこに腕章をつけた樹里亜がおずおずとやってきて君に言う。
「ねえ、ちょっといいかしら? 昨日のことなんだけれど……」
「昨日?」
言いにくそうに声をかけてくる樹里亜に対して君は内心びくびくしつつも、じぶんの記憶を手探り次第に洗い出してはみるのだけれど、困ったことに、およそ心当たりとよべそうなものがない。
「あの、なんだかごめんね。私、混乱しちゃってて」
なにやら心細そうに、立ったままじぶんの髪の毛先を捏ねまわしている樹里亜であるが、混乱しているのは君も同じで、なぜ謝られているのか見当さえつかない。
「えっと、なんのことですか」
「とぼけないでよ。真剣な話、でしょう」
「ほんとにわからないんです」
「ねえ、私に言わせる気なの?」
「言ってくれないとわからないので」
「もう……これだもの」
彼女はそこで話をいったん打ち切ると、校門にやってくる生徒に向かって、おはようございます、とまぶしい笑顔で挨拶した。君もそれにつづいていたわけだが、対象生徒は例によって、鬱陶しそうに軽く会釈を返すやいなやとっとと中へ入ってしまう。
「あれから私、いろいろと考えたんだけれど」
と、公私のあわいから、樹里亜がいっそう身を寄せて、周りの気配を窺いつつ、ひそひそと囁いてくるにつけて、いわれようない、ただならぬ予感がいちいち君を身構えさせる。樹里亜自身も非常に緊張して気を遣っているようなのだが、彼女のこんな様子が見られるのはかなり珍しいことで、かつて教室にムカデが出たときの一回しかない。
「やっぱりね、その、あなたのことはやさしくてとってもいい人だなと思っているのだけれど、なんというか、そうね、感想としては、ちょっと、信じられないというか、知らなさすぎたというか、もちろん、私のせいなんだけれど、ただ、私にそういうこと伝えてくれたのって、あなたぐらいだから、それはありがとうって言わなきゃと思って、前向きに考えてみようとも思うのだけれど、でも私としては、そういうことってまだよくわからないものだから、このままじゃいけないのかなという気もするし、かといって、あなたのほうで迷惑をかけてしまうのもやっぱりいやだし、いまもあなたがそう思っているのだとしたら、それはほんとうに申し訳ないなって……」
「え……」
「だから……ごめんなさい」
あたかも未整頓の書類のごときものが目の前にあって、それを梱包するにあたり、適切な紐の長さをつかめないがために、思いきって目測で、ばつん、と切断するときのような性急さで、樹里亜は頭を下げていた。
「ちょっと待ってください、それはいったいどういうことですか」
「ああ、違うの、聞いて――」顔を上げた樹里亜はますます平静さを欠き、哀願するようなその目には涙さえうかべている!「私もうすうす気づいてはいたんだけれど、でもほんとにそうだとは思わなかったから、もうどうしたらいいのか……ねえ、私ってひどい? ひどいわよね、でも悪気はないの。お願いゆるして」
一匹の野良猫が歩いてきて、君たちの足の間をのそのそと通る。白に茶の入った醜い猫だが、なぜだか樹里亜のまわりを一周するように歩いてから、さっと駈けていって茂みの中へ飛び込んだ。樹里亜はそれをぼんやり見送ってから、気持ちを切り替えるように口を開く。
「あと、それとね、言っておきたかったのは、私のほうはあんまり気にしていないし、あなたもそれで気に病むことはないわってこと。……そうだわ、いっそなにもなかったってことにしない? 私それがいいと思うの。そうは思わない?」
「ああ、そうですか……」
やっとの思いでそれだけ声を絞り出すと、君は沈黙した。樹里亜のほうでは話は済んだみたいなのだが、まったく要領を得ず、具体的に君がなにを「伝えた」のかは一向にわからないままだ。しかも彼女の口からそれを聞き出すのはもう無理というか、野暮だと思われる意識があり、君は早々に諦めざるを得ない。ただ、彼女の全身から発せられている一種の健気さは言葉を補って余りあり、ゆえになにかから君が決定的に隔てられてしまったということだけは、はっきりと感じ取られた。これ以上重大なことがなにかあろうか。
茫然としつつ空を仰げば、絹で織られたようになめらかな棚雲が優美な皺やたわみをつくりつつ、青々とした中天に敷かれている。きこえてくるのは秘密のメッセージを伝え合っている小鳥たちのささやき。風の中には初夏の若木と滅びゆくもののにおい。君は身が透けていく思いだった。――おはようございます、と横から声がして立ち直る。
つまりこういうことなのか。君は昨日、樹里亜との関係性にひびを入れかねないような、なにか大変なこと、おそらく君が胸中にずっと秘めていたところのものを(いささか暴力的に?)彼女に対して言ってしまっていたのかもしれない。君はそのことを憶えていないが、樹里亜は憶えている。だが、なぜなのか? そして君が伝えたという何かも、なかったことにされてしまうのだろうか? いや、たとえそうだとしても、とにかくその事実は残ってしまうわけだ。彼女に何を言ったのか、これが問題である。
しかしながら、それを知るのはおそろしい。知らずに済ますのもおそろしいが、知るのはもっとおそろしい。世の中には知らないでいたほうがよい真実というものがある。これもその類のひとつではあるまいか。もし知ったらその内容によっては自責のあまり樹里亜に顔向けできなくなるかもしれない。知らないからこそ君はこうしてぼけっとしてもいられるが、本来ならすでに君の生活の金科玉条は覆されている、ということすらありえるのだ。おそろしい。そもそもこうしている間、樹里亜は君に対してどんなことを思っているだろう? 嫌悪か? 軽蔑か? それとも……。
だが、別の見方もできる。樹里亜の態度を見るかぎり、少なくとも、彼女は君に対して良好な関係を望んでいるようだ。そうでなければ、わざわざこんな話を持ち出してはこない。つまり君はまだ見放されてはいないのであろう。その点でだけは希望をもってもよい。……むしろこれは、彼女なりの愛なのではないか? そうだ、彼女はあれからいろいろと考えたと言っていたが。
(いろいろとはなんだ? いったいなにを考えたんだ? 個人的なことか! 個人的なことなのか!)
君は身体がむずがゆくてたまらなくなった。
そんなことがあったから、君は樹里亜の動向に平時の何倍もの注意力を向けて観察せねばならなかったが、生徒会という大義名分の失効する教室内においては、二人はやはり別々に分かれて行動するさだめなので、もっぱら遠目からということになっていた。
「エンペドクレスの思想は、彼の師であるパルメニデスの教えを発展的に継承する形で生れました。パルメニデスの考えでは、『あるものはある』、つまり永遠不変の〈一〉のみが存在し、物質は生成変化をしない、ということでしたが、エンペドクレスはこれを換骨奪胎し、地水火風の
樹里亜は発言を終えると静かに着席した。
そこまで言わなくてもよろしい、と倫理教師も苦笑いだが、なんなら無駄な教師のかわりなど全部樹里亜がやればよいのだ、と君は勝手に思っている。樹里亜がいつも通りの様子なので君は少しく安堵した。もっとも君と関係ないことだからかもしれないが。
ところで、まわりの孤独をたのしむ、という変わった言い回しが君にはなんとなく引っかかっている。哲学らしからぬ、随分と詩的な言葉づかいをするものである、エンペドクレスは。しかしこの場合、孤独とはいったいなんのことなのか。その中心に存在する、ひとつの愛の
「エンペドクレスは恋愛を知るべきだ」と君はひとりごちる。
同時に君は赤面していた。というのは、口に出して言ってしまったからではない。知りたくもなかったことへの推測がいま立ってしまったのだ。往々にして人は、「こうなりたい」という姿より、「こうなったら終りだ」と強く理性で念ずるところの姿のほうに通暁しているものである。いままで君はなにをしてきたのか。樹里亜に愛を伝えるための百通りもの言葉と場面とを空想してきた。あまつさえ彼女を手篭めにしてしまう妄想にも手を染めてきたのではなかったか。なんと愚かな。いやしかし、君はそのなかにひとつの英雄的生活、未到達の理想を確かに見てきたのであって、そのなかでは君はあらゆる高級さをそなえた男であり、樹里亜はその女なのだ。ただしこんなエゴイズムが許されると思ってはならぬ。もしこれが樹里亜自身に伝わりでもしてみよ、君は終りだ。――そうね、感想としては、ちょっと、信じられないというか、知らなさすぎたというか――君は猛烈に頭を抱え込んでしまった。もはや授業など耳に入らぬ。視線を左に辷らせれば樹里亜がいるが、見られない。いや、見よう。すると運悪く目が合ってしまった。ああ! 今の目の逸らしかたは尋常でなかった。見たか、彼女はいま個人的に目を逸らしたのだ。あまりにも素早く。そして恥じるように。
ここまできてわからぬほど君も痴愚な男ではない。すなわち、君はふられてしまったのだ。……そんな馬鹿な、絶対に認められない、だって告白さえまだしていないのに、どう考えてもおかしいではないか、なぜ記憶がない、あまりにもショックだったために忘却されてしまったのか、それとも……。
そのとき唐突にあの不気味な夢の内容が思い出された。思わず君は歯噛みしている。さてはもしや、あれは君の行く末を象徴的に暗示していたのではなかろうか。
(現実を見ろというのか。カメレオンよ……)
昼休み、傷心の君はベランダに出て、外に向かって手すりに凭りかかり、乾いたパンを味わいもせず齧りながら、遠くに視線をなげかけて、樹里亜の見ていそうな風景をなんとなく追いもとめている。といっても、目新しいものはなにもない、限られた視界だ。――にわかに勢力を増してきた雲がべったりと空に貼りつき、その裏に引っ込んでしまった死にかけの太陽が弱々しく点灯している下では、野球部やサッカー部がグラウンドを割って昼練している貧しき影がぽつりぽつりとできており、さらに視線を奥へと向ければ、丘を切り開いた住宅地がなだらかにつづいているほか、高速道路や、建設途中で止まったままのマンション、その他都市開発の遺物たちがこぞって地平線を埋めつくし、海のかなたより飛んできた黄砂がそれらの上にかぶさって、以上の境界をすべてあやふやに霞ませている。電線の上には何羽かの黒い鳥。やがて飛び立ち、いずこかへ向けて去っていく。見るべきものはどこにもない。ニュータウンと総称されるなかでもとりわけ散文的なこの街は、人びとが寝起きし、外へと出て行くための機能のみに特化しており、君のような「よそもの」に対してはつねに顔を伏しているような、まるでそれ自体が一箇の敷居であるような異質な印象を与えてくる。しかし不意に君はふしぎな感覚にとらわれた。あのとき、あ、と目が合った瞬間の前後に、樹里亜の顔にあらわれてそして消えたのは、この街の表情そのものだったような気がしたのである。疲労とも倦怠とも正確には言いあらわしがたい、しかし限りなくそれらに近い顔。そしてなにかが確実に足りない街。樹里亜のガラスのような瞳もたしかにこれを映していたのだ。彼女もまたこの風景のなかになにかをさがそうとしていたのであろうか。だとすれば、それは君にも見つけることができるだろうか。
ぷんと漂ってくる香水の匂いに、君は微妙な居心地の悪さをおぼえる。人の気配がベランダにあるが、顔を向ける必要はない。君は手すりの上で腕を組んだまま、義務的に口をごもごもとさせてパンを呑み下す。
「よう。昨夜はよく眠れたか?」
と観崎映子は横から君に声をかけてきた。
「いつのまに来ていたんだ」
「あたし? いまさっきだ」
「ふうん」
君はうまくもまずくもないパンの残りを口へと放り込み、ビニールの袋を丸めてポケットに入れた。観崎映子は腕まくりしており、その両手には一対の黒板消しが握られている。どうやら日直だったようだ。
「なんだよ、白けた顔すんなよ」
彼女は不平そうに言った。せっかくあたしが声かけてやってんだから、とでもいうつもりであろうか。
「こんな天気だからな」
君が視線を空に向け、やや投げやり気味にそう言ってみると、彼女も天を一瞥して、へえ、と洩らした。
「似てないね」
「何が?」
映子は挑発的に笑っている。
「中途半端はよくないからね。たとえどんな場合でも」
君はとっさに身構えた。身構えざるを得なかった。なぜなら映子の手にした黒板消しが、その耳の両側にまで持ち上げられたかと思うと、次の瞬間、ふざけた掛け声とともに、しかしきわめて暴力的に、それが君の顔面へ繰り出されてきていたのだから。これに対して君は、なにしろ突然のことだったから、自分に危害を及ぼすであろうそのちょっとした悪戯について、これを実際のものとただちに受け取ることができなかった。君はまだ半ば自分の世界のなかにいて、自分の問題について考え耽っていたために、目の前の現実的な脅威に対しても、肉体を忘れ、どこか思想的に対処しようとしていたのである。面倒くさがらずに右か左、あるいは後ろに身体をどかせばよかったのだが(映子もそれを予想していたはずだ)、君はそうはせず、映子にあえて対峙して、むしろ他人事のようにこう考えることに安んじていた。つまり、これもよくある類の、単発的な刺戟とそれへの反応から成り立つ、あの幼児的なコミュニケーションであろうと。そうであるならば、これに関して君が没交渉だという態度さえ見せれば、映子も馬鹿ではないのだから、きっと途中で切り上げてくれるはずだし、そうしなかった場合には、たんに映子が馬鹿であることが証明されるに過ぎない。ゆえにこれは必勝の賭けなのだ……。かくして君の顔面はいみじくもチョークまみれとなった。いつからこんな思考しかできなくなってしまったのであろうか?
「いやいやいやいや」
映子は若干驚きあきれつつも、君の真っ白な顔を見てさもおかしそうに噴き出している。
「なにがおかしいんだよ」
君のほうは目をつむって咳き込みつつ、憮然としているわけだが。
「だって超真っ白なんだもん自分。鏡見てきな。ヤバいよ。ピエロみたいだから」
「だれのせいだと思ってるんだ」
君は大いに憤慨した。憤慨したが、それ以上なにも言わなかった。とにかく君は勝ったのだ。勝ったのになぜ憤慨する必要がある? 願ったり叶ったりではないか。
しかし実際のところ、みじめなのは君だ。君の顔は現に真っ白だった。しかもそれでたとえばイノセントとかになったのでもなく、なるのはピエロなのである。こうやってあえて暴力を受けることで過去の負い目を帳消しにできた、などと思ってもいけない。結局こんなコミュニケーションの犠牲者気取りが無罪であるはずがないのだから。最後には君も笑い出していた。
狼煙のように舞ったチョークの粉がたちまち風にさらわれ、大気とまざり、散り散りとなって消えていく。日直の仕事を思い出した映子が、ベランダの手すりに身を乗り出し、汚れた黒板消し同士をパンパンとはたきはじめていた。君はその行方をぼんやりと見送っている。以前進路調査があったおりには、彼女は調査票を紙飛行機にしてここから飛ばしていた。その日の空も同じように曇っていた。ふと横顔に目をやると、猫目のようなアイラインや痛々しいピアス穴がすでに彼女の一部としてある。その爪は銀色だ。八重歯だけが変わっていない。君はなんとなく生徒会室のカメレオンのことを考えた。カメレオンも白くなることはあるだろうか。それはどんなときだろう。なぜあそこにいるのは薄い緑色なのか。
そのとき映子が唐突に言い出した。てか、放課後時間ある? と。なにか話があるらしい。
「……今日? 生徒会だけど。なんで?」
「カラオケ行かない? せっかくだし」
なにがせっかくなのか。君はすこし逡巡する。
「うーん……でも遅くなるよ。誰が来るの」遅くなるよ、の部分に君は力をこめる。
「え? 呼びたい人いるなら呼ぶけど」
横目で、妙にすました態度のなかに、どこか挑発的なソースをからませて彼女は言った。君は胃もたれのする料理を差し出された気分になり、この案件をいかにして消滅させるべきかと頭を働かせた。作法を通すならば言外の要求には言外の回答を用いらなければならないが、ここにして君は、その反対に大きすぎて手に余る、むしろ急に手に入れば自分にとって逆に不都合ともなりうるようなアルカリ性の願望をあえてぶつけてみることで、過多となる胃酸を中和しようという倒錯した閃きを得る。
「じ、じゃあさ……」
君は辺り一帯を瞥見してから軽く腰をかがめ、映子の耳に白い顔を寄せる。長いためらいを経て、耳打ちのなかで君は樹里亜の名を出した。
「は? なに?」
「だから……」
「あーもういいもういい、オッケーわかった、そういうことか」
映子は一瞬、禽獣の目つきになって君の頭からつま先までを一瞥すると、ふんと鼻を鳴らして飛ぶように身をひるがえし、ベランダの窓枠に腕をもたせかけるやいなや、教室の中に向かって「樹里亜ー!」と大声で呼んだ。昼休みも終わりかけで、出かけに行った生徒たちも戻りはじめてくるころだ。樹里亜をはじめ、そこにいた皆がめいめいの休息を中断して一斉にこちらを振り向くなか、焦った君は映子の口をふさぎにかかるのに必死だった。
「ちょっと邪魔なんだけど、なに? なにか問題でも?」
「なにじゃないよ、おまえ、僕に嫌がらせでもしたいのか」
「あたしが? なんでそう思うわけ?」
「だってこんな、皆に知られたら……」
「あんたそれでもタマついてんのか」
ベランダに連れ戻された映子はにやにやと笑っていたが、君はさきほどのこともあって、いきなり処刑台に引き立てられた気持ちがしていた。こわごわ教室に目を向けてみると、中央付近、誰かの席を借りた女子数人がそこで政治的なテリトリーをつくっていて、その囲みの中のもっとも匂いやかなところから、樹里亜が怪訝そうにこちらを見て、ほんのわずかに首をかしげている。すかさず映子が手を振ると、口元をゆるませて樹里亜も小さく手を振り返した。次に映子は君のうすよごれた顔面を指差し、やれやれと肩をすくめてみせる。教室内に乾いた笑いが起こり、樹里亜も困ったようにくすりと笑っていた。
「もういい、もう、そういうのいいから」
穴があったら入りたいとはこういうことを言うのだろう、君の過敏な神経はひどく発熱し、口内の水はたちまち涸れ、心臓はあつい火の塊となって、溶岩のような血液を送っている。もし、架空のブルドーザーを操縦することができたなら、迷わず君は自分自身を轢き殺したことであろう。
「まあいいや。樹里亜呼びたかったらあんた、自分で誘ってね」
「ええ……いやそんなの僕には無理だ」
「うるさいピエロ。鼻赤いよ」
「お前…………」
「じゃあそういうことで」
時間と場所を適当に伝えると映子はそそくさとその場を去り、手を洗うためか教室を抜けて廊下のほうへ出て行った。映子が去ったあとは、それと入れ替わるようにして、「お前なんだよその顔」「何話してたんだ?」「イチャイチャしてんじゃねーよ」「だから気をつけろって言っただろ」などと囃し立てながら、数人の男子生徒どもがたちまちベランダにやって来るのだが。
「非処女と喋ると性病が移るぞ」
忠告を装って、一人がそんなふうに君に言い、その周りでは仲間たちがにたにたと半笑いを浮かべていた。どうやら彼らの目には、君の姿は養分として映るらしい。
非処女、ビッチ、歩く性病、等々。映子は彼らからそんなふうに呼び表わされている。というのも、彼女は高校以来、洋服のように彼氏を替えまくるなどといった風評が立つぐらいな生活を送ってきたものだから、こういう一部センチメンタルな男子の間からは、近づくと不幸になる要注意人物と目されているのであるが、それだけ彼女が畏怖されているという面もまた否めない。同様に、森本樹里亜も宇宙人だとか覇王だとか好き放題言われていたりする。こういう場合にかぎって、過度の警戒はほとんど崇拝の裏返しであり、隠蔽されたまま共有されていくところの、欲望の自己韜晦に過ぎない。むろんこうした傾向は君のなかにもある。いや、あった。だからこそ耐えられないのだ。ビッチというわかりやすい敵を設定し、それに対する正義の連帯感に酔いしれ、かつ裏では性自体を特権化し、それを消費する行為は、一定の快楽をもたらしはするだろう。だが、実はこうしたレッテル貼りこそが頽落の象徴であるという以前に、そもそも連帯など不可能だということに、彼らは早く気づくべきなのだ。要するにひどい同族嫌悪である。君は最初こそ「別に」と言い放って彼らを一蹴してはみたものの、次の瞬間にはもう雰囲気に負けて、早速へらへらと愛想笑いを作りはじめている自分に気づく。しかも顔が面白い。
「あーあ、俺も青春がしてえ」と一人がグラウンドに遠い目を向けてつぶやいた。「俺さ、今の生活、なんか足んねーって思ってたんだよな。やっぱそれは青春だよ。今やるべきことって言ったら、青春。こう、なんか思いっきり時間を無駄にして遊ぶとかね。そういうのがないと」
するとそれに乗じるようにして次々と発言が起こる。
「青春つってもさあ……もうおれら毎日塾じゃんかよ、そんなものがどこにあるっていうんだよ」
「青春は目的のない目的だと思わないか、なにかをひたすら追いかけていくっていうかさ」
「ふん、青春ねえ。そんなものより、おれはもっと具体的なものが欲しいね。たとえばそう、六億円とか」
「夢がなさすぎる」「あるだろバカ」「お前は何もわかってない」……。
彼らの言説がつくりだす空間からはみ出した余白部分に身を置いており、ゆえにどんな人間でもなかった君は、去ろうと思った。だがそのとき、まさに口を開こうとしている男の顔が目に入る。美術部の佐藤だ。
「じゃあぼくの考えを言おう。青春ってやつは一箇の代名詞だ。つまり時と場合、誰がどんな文脈で口にするかによって、その指す内容も全然違うものに変わってくる。それは人それぞれだろう。もともとまぼろしみたいなものだからね。でも基本的には共有されて、真似されていく。そこでだ、ぼくはきみたちにこう訊ねたいね、自分がなんで『リア充』になれないのか考えたことがあるか、と」
「どういうことだよ」「意味わかんねーよ」「鏡見て言え」
すると、佐藤はいきなり君のほうを向いて、
「つまり、
自分に話題が振られていることに気づき、ああ、と曖昧に笑ってみせる君だが、このとき唐突に、またすべてをリセットしてしまいたいという、あのどうしようもない欲求に駆られてしまった。魂が、上から掃除機かなにかでひゅっと吸い取られてしまったような気がしたのである。もっとも、君はそれを取り戻そうなどとはもはや思わない。かわりに思いを馳せるのは、べつの生活のこと。悔しいことに、それはやっぱり
そんな現実に即して肯定的に捉え直してみよう。思えば樹里亜の態度には妙なところがなかったか。いろいろと考えてみたり、個人的に目を逸らしてみたりと……。これはかなり都合よく解釈すればだが、君ひとりを個人として、つまり男性として見るようになったということではあるまいか。さらにもっと都合よく論を進めれば、実のところ彼女にもその気はあるということではなかろうか? ――私にそういうこと伝えてくれたのって、あなたぐらいだから、それはありがとうって言わなきゃと思って、前向きに考えてみようとも思うのだけれど――よろしい。こういうことが恋においては一等重要なのである。君もそうだったからよくわかるが、恋というものは錯誤や誤謬抜きには決して語られない。この世でもっとも美しい循環論法、それが恋だ。だれかのことを意識しているか否かが問われるとき、すでにそのだれかへの特別な意識が前提とされてしまっている。すると人間の脳は圧迫され、思考は停止させられ、さらに悪いことには、自分の神話体系まで勝手につくりだされていく……こうなってくるといよいよ自覚せずにはいられない、自分が恋という名のメビウスの輪に落ちてしまっていることを。君の観察眼が正しければ、樹里亜は奥手なのだ。きっと彼女にも彼女のプライドや自意識があって、君の無自覚なる無礼については混乱と憤りとを感じているにちがいないが、その反面で君のことを意識するという、最初の段階に立っている(といい)。当然プライドや自意識は君にだってあるのだけれども、悲しいことだが、いまや鍍金塗装が剥げ落ちてしまった状態にも等しい。だがそうなると、この内部が完全に露になったとき、自分がどうなっていくかについて、純粋な興味がありはしまいか。樹里亜との関係上に入ってしまったひび割れは、実は卵の殻にも見立てられるものだったかもしれないのだ。
佐藤の腹立たしい顔つきを見て思う、自分はこの男と根本的に異なるところがあるだろうかと。あるのならば、それを証明してみせねばなるまい。不言実行。これがテーゼだ。もし万が一にも君が
その日の生徒会のおわりに、君は勇気を奮い立たせて樹里亜をカラオケに誘ってみた。返答は、今日は用事があるけれど、また今度、ということであった。
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