第7話 砂漠の花
「こんな噂を知っているか?」
どの酒場にも、噂好きの饒舌家はいて、まことしやかに身振り大きく声を荒げるものだ。
乾いた土地唯一の憩いの場とされるこの場所でも、例外ではない。
「ある一人の女が、一つの国をたった一夜で滅ぼしたんだとよ!」
「バカ言え! そんな鬼みてぇな女が、どこに存在するってぇんだよ!」
「嘘だってんなら、その国の生き残りに話を聞いてみるんだな! ……なあ、旦那もそう思うだろ?」
不意に投げられた酔っ払いの戯れに、隻眼の男は表情を変えずに席を立つ。ゆったりとした動作に、そして翻ったマントの下から覗いた小型のピストルに、思わず声を掛けた酔っ払いは息を呑む。が、すぐにジョッキを手に取れば、大きく息を吐き出した。
「なんでぇ…… 無愛想な奴だぜ……」
「お、おい」
盃を交わす相手は、その男の口を塞ぐと、酒場を去りゆく隻眼の男に必死で頭を下げる。口の端から麦酒をこぼしながら、酔っ払いは眉を顰めて抗議に腕を振るった。寡黙な男の姿はもう、ない。
「何しやがんだッ!」
「バカかお前は! あの隻眼にリボルバー…… ありゃこの一帯をまとめるファミリーの頭だろうがッ!」
「……ってぇと、砂漠の花って呼ばれてる……」
ゴクリ。酒場の空気が一瞬にして凍りつく。自らの肩を抱きしめ震える男の背を叩き、相手はやれやれと頭を振った。
「……命があって何よりだな…… 話によれば、あの首領はかなりの冷血漢らしい…… 今日は、調子が良かったんだな……」
胸を撫で下ろし、また店主にジョッキを仰ぐ。調子がいいのは自分たちだろうと呆れながら、静かに見守っていた高齢の店主はふと口を開いた。
「お客さん、さっき話していた国の話ですがね。聞いたところによると、あそこの生き残りってのが、例のお方だそうですよ」
「ん? さっきの……?」
「ええ。あの国の人間は名前が変わっていましてね。……皆、花の名前を持つとか」
「……そりゃあ、いけねえなあ」
花の命は短い。ゆえに、自らの子どもにその名をつけることは禁じ手である、とこの国では言われている。
「ですから、滅んだのやもしれませんねえ。彼女は、そういう花を持っていましたから」
「ん……? 親父さん、アンタ、なぁんか詳しいな……?」
ジョッキ越しに店主の眼鏡を反射する。皺の寄った瞼をとじて、恭しく笑う彼に、男はやはり訝しげに見つめ続けた。
「なに、年寄りは噂話と小言が好きなものなんですよ。はい、お勘定」
「げ。こんなに飲んだかァ? おい、お前多めに出せよ」
「お前が酔いまくってこうなったんだろうが!」
酔っ払いの取っ組み合いに、店主は苦笑いを絶やさない。そうして先の隻眼が出ていった戸を見つめた。
カラカラと揺れるスイングドアのその先で、タンブルウィードが走り抜けていった。隻眼の花もまた、あの回転草と同じように颯爽と姿を消したに違いない。
嗚呼、もうそんな時期か──
水は限られた量しか手に入れることができない。もう幾日も前に、下級の構成員たちに指示して剥奪させたこの水筒も、時期に空となるだろう。
砂埃に視界を奪われながら、男はその隻眼をそっと左手で覆った。砂嵐の風に紛れて、吹き抜ける風の笛が聞こえる。真っ直ぐにそちらへ砂を踏み歩けば、遥か先、岩壁に覆われた崩れかけの柱が見えた。
「誰も、ここへは来ていないな」
斜面に足をくぐらせ、そのまま柱の根元へと滑り降りれば、何本も積み重なるそれにはひしひしと蔦が絡まっていた。まるで小さな城のような立体だ。その合間へ体を滑り込ませると、まさか先を越されるとは、と肩を落とす。
「相変わらず、神出鬼没ですね」
目の前の男はいつものように皺を寄せて笑う。真っ黒な何十年もののロングコートは、あまりに砂漠に不似合いだ。
「そうじゃあないと、生きていけませんでしたから」
「……お察しします」
「よしてくださいよ」
並んで柱に手をかざす。力を込めてそれをわずかに動かせば、日陰でほんのわずかに湿った地面に、小さな花が覗いた。
「店はどうしたんです」
「なに、今頃乱闘騒ぎですよ」
「ああ、さっきの酔っぱらいどもですか」
水筒の、残りわずかな水をそこに浸す。艶やかな濃いピンク色の花弁がとんと跳ね、彼らを見上げた。
老人はそこへ腰を下ろすと、愛おしそうに花弁を撫でる。隻眼の男もそれを真似て隣に膝をつけば、老人に向かって拳銃を差し出した。
「……準備が、できたと?」
「はい」
銃口を素手で掴み、老人はそれを小さな花の前に寝かせた。黒い鉄の塊に、ピンクが寄り添う。
「既にオーク、エキノプスの連中には声を掛けています。いつでも、ボスの命のままに」
ボス、その言葉は老人に向けられた。彼はそれに眉を顰めて、首を横に振るう。ゆったりと眼鏡を外し、右目に手が添えられた。そのまま指に力を込めれば、瞼を覆う皮膚がめきめきと悲鳴を上げ、人工皮膚が剥がれ落ちる。
現れた縫い痕に男は頭を下げ、老人はその場を覆っていた柱に拳を打ちつけた。
ハラハラと、柱に見立てられていた紙が、彼の人工皮膚のようにこそげ落ちていく。幾重にも巻き付けられた防護紙。それに巻きついていた蔦は行き場をなくし、小さな花の上へと落下していく。敷き詰められた紙と黒い蔦。陰を失った砂漠の中で、老人の緑がやけに輝いた。
「私はボスじゃあない、私はただの、カクタスです」
五十年前に滅んだ小さな国。花々が生い茂る美しい国。
一人の女によって、王が討たれ、後継者も討たれ、国は窮地に瀕し、祖国を愛するファミリーたちだけでは最たる美の国を奪わんとする外敵の手は祓えなかった。
それでも彼らは血を絶やすことはなく、たった五十年、しかして長い五十年の年月を、息を潜めて生き抜いた。
花が脆いと、誰が決めただろうか。
花は愛の象徴である。
最愛の希望が最愛のために、砂漠の花は命を繋ぐ。
「私は、あの人の生きた世界を、守ります」
枯れない愛はここにあり。それが彼に遺された、唯一の希望なのだから。
スノウドロップ 高城 真言 @kR_at
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