第6話 赤の街

 風が強まった。外から漏れる木々のざわめき。アトリエを揺らす、花の薫り。キシキシと戸が靡き、空っぽの種が転がり込んだ。

 少年の足元にぶつかったそれは、彼の靴に踏み潰される。まるで虫を潰すかのように、冷たい瞳で足を振るえば、少年はいつもの笑みで。こちらを向く冷たい銃口に笑えば、女に首を傾げた。

「いつから気付いてたの?」

 白々しい。女は握る拳に力を込めた。その鋭い視線に、少年の前を二つの盾が並ぶ。

 妹を殺した女、ストレリチア。そして、少年とカルミアに情報をもたらし続けていた男らカクタス。少年と違い、口角を動かさない男を睨む。

「情報屋もそうよね。あんたたち、最初から仲が悪すぎたから」

 男は何も答えない。背に掲げたパルプ紙に手を伸ばし、女を静かに見据えていた。憎悪と嫌悪が、こちらに降り注ぐ。今までも、そうか、と女は瞳を伏せた。男が彼女を逐一見つめていたのは、この大切な少年のためを思って。カチャリ、静かな音が耳を突く。

「あんたがそのケースの中で握る拳銃。それも父さんが黒服に渡していたものでしょ」

「よくわかったね」

「私、耳は良いのよ」

 いつか少年が零した言葉を真似て、女は口元を緩める。暗い、何も見えないあの通路で、彼女の手を引く小さな手のひらは、とても頼もしかったというのに。

「君の耳と、僕の目…… か。今回の仕事で不思議だったことが、ようやく解決したよ」

 少年は言って、シザーケースから手を引き抜く。握られていたリボルバーはやはり、ストレリチアと、そしてカルミアが握るそれと同じ型だった。

「今までカルミアの開花能力は何なのか、ずっと不思議だったんだ」

「あんたも、親殺しだったのね」

 引き金に力を込める。すぐさま、少年を守る女が二つの銃口を彼女に突き付けた。思わず笑い出しそうになる口を抑えて、少年は瞳を細める。

「僕は生まれながらの親殺しだから」

「? どういう――」

 銃弾が放たれた。アトリエの窓ガラスが震える。小さな穴が床に印を残し、傍らの書物がパラパラとめくれ上がった。栞代わりに挟まれた、カルミアのいない家族写真が落下する。少年が握るそれからは煙が立ち上っていた。

「さて、カルミア。今までの話を聞いて、君はどうしたい? まだリチアを殺したい? それとも、君を騙していた、僕を殺したい?」

 リチア、その女のことか。二つの盾の後ろで、少年はくつくつと笑う。不思議と苛立ちは沸き上がらない。ただ、唖然とした溜息が、彼女の口を動かした。

「騙すも何も、あんたは隠そうなんて思ってもみなかったじゃない」

 服装以外はね、と付け加える。以前の衣裳は随分と子どもらしかった。その言動や行動と、似つかわしくないほどに。だからこそ、余計に妹を思い出したのだ。愛らしかった妹を。ころころと笑いながら、時折見せる憂いや怒りに、何度も心を掻き毟られた。

 小さく頭を振って、左で突き付ける銃をそのままに、腰の剣を抜き取る。その動き一つ一つを睨み付けていた二つの盾が、揃って身体を強ばらせた。女、リチアの銃弾が足元に落ちる。

「情報屋に、その女に、みんなあんたが大切なのね。黒服のボスさん」

「そんなことまでわかるんだ…… さすがは、僕のバディ」

「なったつもりはないわよ」

 今度こそ、少年は大きな笑い声を上げた。盾を押し退け、女へと歩む。こちらを向く鉄に鉄を重ねながら、その歩みは落ち着きを払い、剣を左手で掴んだ。女によって黒い布を巻かれた左手だ。

「カルミアの思っている通りだよ。君が黒服と呼ぶ、僕たちの組織は、公安が手を出せない『殺し』のスペシャリスト。公安からの依頼をこなすことで、その協定を確固たるものとしてきた、マフィア・ブーゲンビリア。これが僕たちの称号だ」

「ブーゲンビリア…… 父さんたちも、そこに属していたの」

「どっちのお父さん?」

 笑う振動に手のひらが切り付けられる。少年の赤い雫を見て、カクタスは身を乗り出すが、やはり少年に制された。

「ビティスが属していたのは、僕の父の代だよ。名前も違う。ヤナギは僕たちの協力者だったけどね」

 ヤナギはカルミアが父であると思い込んでいた、妹と、リチアの父の名。そのしなやかな名前は、まさに父らしいとカルミアは好きだった。

「カクタスには、その取引を担ってもらってたんだよ。だから、コイツは君たちの妹殺しには関わってない」

 ちらりと男に目をやれば、ぐっと唇を噛み締め、床を見詰めていた。何がそこまで悔しいか、女は問い詰めてやりたかった。この男を少年が庇うのは、今に始まったことではない。

「僕は君のことを知っていた。君たちの妹が、悪魔だってこともね」

 妹。やはりどうして、未だに心が痛む。例え悪魔であっても、妹は。

「もちろん、フリージアの最期のことも」

「……」

 嗚呼やはり、このガキは。思えば思うほど、少年の笑顔に胸が痛み、握る拳銃が震える。銃口を重ねる彼にも、これは伝わっているだろう。

「フリージアの最期の場に、僕もいたんだ。君が勘違いして投獄された後に、ね。だってリチアに妹殺しを命じたのは、僕だから。あの悪魔、死に際に何て言ったと思う?」

 やめろ、聞きたくない。それでも彼女は、少年の口を塞ぐことができない。

「わたしじゃなくて、お姉ちゃんを殺しなさいよ」

 少年の声の裏で、最愛の妹の声が聴こえた気がした。

「スノードロップの花言葉は、死を願う。そのまま過ぎて、笑っちゃうよね」

 その声で、その顔で、妹を愚弄するな! そんなこと、私はわかっている!

 剣を振り上げれば、少年の手のひらを更に刻み、鮮血が迸る。布が切れ、甲に添えられた白い花がヒラヒラと、行き場を無くして舞い落ちた。それに眉を顰めながらも、少年は喉を鳴らす。

「カルミア…… 僕のこの話、信じる?信じない?」

 歪んだ笑みに、女は剣と銃を突き付けた。少年は鼻で息を吐き出すと、いつの間に目の前を佇んでいたのか、二つの盾の目を盗み、扉の外へと駆け出した。それを追う女を見て、盾たちは双銃を放ち、紙の壁を作る。扉を覆う大きな紙を脚で踏み倒し、女は二人の顔を拳で殴り払った。

 木々が揺れる。一、二、三人か。女の行動に手を叩きながら、少年は瞳を細めた。同時に笑顔が消える。

「二人は下がってて。絶対に、こっちに来ないでね」

「しかし……!」

「命令、だよ」

 アトリエに残された二つの盾は、唇を噛んで扉を強く握り締める。護るべき主が、あまりにも遠い。届かぬ手を、伸ばしたい手のひらを必死に壁へと張り付かせる。動かなくなった二人に安堵の息を漏らし、少年は傷痕の残る左手を上に掲げた。木々の合間から現れた三人の黒服に、女は眉を顰める。しかし、彼らはそこを動くことはなく、二人を囲うように三点で立ち止まった。嗚呼、そう。少年へと再び向けられた銃口に、彼もまた大きな笑みを浮かべる。

「信じてくれて嬉しいよ! やっぱり僕は、カルミアのこと好きだなあ!」

「言ってなさい。すぐに塞いでやるから」

 トリガーが軋む。花の薫りが煩い。ざわめく木々は、暮れゆく空を覆い隠していた。一瞬、強い風が吹いたかと思えば、辺りを暗闇が襲った。それを合図に、女は走り出す。耳を頼りに少年に駆け寄れば、右手の剣を振りかぶった。少年の瞳が煌めき、刃を寸前で避ける。

「遅いよ、カルミア」

 すぐさま小さな脚が腹に入り、木の葉と共に宙を舞った。舌打ちと共に唾を吐き、今度は銃口を掲げる。彼の動きと銃弾のどちらが早いか。少年は鼻で笑った。

「僕を殺そうとしても、無駄だよ。僕はそういう能力を持ってるから」

「減らず口が」

「嘘じゃないよ」

 少年の瞳が彼女を捉えて光る。女がトリガーに力を込めるが、彼はその瞳を伏せて首を横に振った。真正面から向かい来る彼に刃を差し出せば、少年は驚きに目を見開く。銃は囮、振りか。ハッとしてから脚を止め、同時に唇を白く滲ませた。

「……ね? 僕は君に嘘を吐かない」

 剣を赤黒い液体が伝う。確かな感触に目を凝らすと、少年ではない黒い服。ふと見れば、三点のうち一点がそこから消えていた。なるほど連中は、このガキの盾になるために呼ばれたのか。そう思ったが、月明かりに一瞬照らされた顔を見て、女は舌打ちを落とす。

「よっぽど愛されてるのね」

 言ってやっても、彼は無理矢理笑うだけで調子が狂う。残り四つの盾を、少年は望んでいないとでもいうのか。

 剣を引き抜き、盾として消えた男を木々へと蹴り飛ばす。守りのいなくなった彼へ右腕を振り落とすが、今度はひらりと躱された。小さな躰、身軽な動き。その視界は、動きの一つ一つを捉えるというのか。

 嗚呼、めんどくさい。それでも彼を逃すわけにはいかない。それを彼女は、彼は、望んでいる。

 距離を取ってからトリガーを引けば、少年は目を見開き、また一つの盾が失われた。脚で払い、肘を腹に突き刺す。唾液が飛び、少年がバランスを崩したところでまた一発。

 やはり盾が現れた。おかしい。

 この至近距離で、避けられることはおろか、間に人が入るなど。下唇を噛み締めれば、少年の拳が顎を突いた。チカチカと視界に火花が散り、唇から血が流れ出す。八重歯を見せて笑う少年は続けて膝を女の脇へと入れ込み、そのまま彼女の首を左手で握り締めた。

 二つの脚が縺れ、木の葉の上へと覆い被さる。ガサリ。

 耳のすぐ傍で騒ぐ尖った葉が煩い。見下ろす少年は、口を動かしているが、耳を覆う雑音のせいで聞こえやしない。

――さようなら。

 少年の瞳から雫が零れた。首を包む小さな手のひらが震えている。冷たい拳銃が、彼女の額に被さり、ギシリとトリガーの軋み音が聴こえた。何故、そんな顔をする。私は、お前を。

「……っ」

 少年の躊躇いが一瞬。

「……あんた、は……」

 黒服のボスだろう。そんな隙を見せるな。躊躇うな。

 私は、躊躇いなんて――

「しない!」

 女の左脚が少年の身体を浮かせる。突如襲った振動に慌ててトリガーを引くが、それが彼女を捉えることは叶わず。先に身体を起き上がらせた女がトリガーを握る。乾いた音、空気を割く、終わりを告げる、軽やかな音。黒が緑を濡らす。薄暗い月の下では、美しい紅すらも、漆黒に染まるのだ。

「ッ、もっと離れてろって言っただろッ!」

 少年の怒号に、女はハッとして銃口の先を見た。少年は軌道から外れ、黄色の髪が宙を舞っていた。黒のドレスコートが風に揺れ、木の葉の上を踊る。何故、あの女が。この距離で。曇の街の男ほどの脚が無ければ、動けるはずがない。アトリエを振り返れば、残された男が扉の前で呆然と膝を着いていた。

「ダリア様……申し、訳……」

「っ……」

 殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて仕方が無かった女。

 しかし違う、こんな、流れ弾で殺すつもりなんてなかった。こんな、意図せぬ形で殺すだなんて。

「最初は…… 姉を、守るため…… でも、わたしは、あなたを……」

「喋らなくていいから……ッ」

 震える声で、女は少年の頬を撫でる。赤黒い手のひらが、彼の顔を濡らしていった。赤い化粧が、線を描く。木の葉の絨毯に落ちたその手を握り、少年は女の瞳を伏せさせた。ただ静かに。冷たい夜風だけが流れていった。

「何なの、どういう、ことなの」

「これがダリアさんの開花能力ですよ」

 くしゃり。葉が悲鳴を上げる。パルプ紙が息絶えた女を包み込み、男はそれをゆっくりと抱き上げた。唖然とするカルミアを睨むその瞳は、眼鏡の下で凍るように冷たい。

「は……? だって、こいつは視力じゃ」

「それもそうですが」

 カサリカサリと地面に沈む。真っ白な紙に、赤が滲んでいた。

「信頼によって補強される生命力。これがダリアさんのもう一つの開花能力。ダリアさんに殺意が向けられ、命の危機に瀕する時、ダリアさんを慕う『最も近しい人間』が盾となる」

 嗚呼、と女は吐息を一つ。だから情報屋を遠ざけたのか。あの時必死になったのも、あの後冷たくあしらったのも。

「……愛されてるのは、どっちよ」

 小さく呟けば、遠くからの眼光が煩い。木の陰に眠らせた女を見詰め、少年は動かなかった。それを見て、男は彼女以外の屍も彼の視界から遠ざける。五つの盾は、一つとなった。しかしその盾を少年が使うことは無い。

「二つも能力があるってどういうことなの」

「どういうことだと思う?」

 膝を覆う緑を払いながら、彼の声は震えていた。

「僕はね、こんな能力いらないんだよ。これじゃあ、本当に化け物だもの。でも仕方ないよね、僕たちは、親殺しなんだから……ッ!」

 こちらを振り向いた少年は笑みと涙とを満面に浮かべていた。握る拳銃はカタカタと震え、彼女に縋るかのように頼りない。そんな少年に、女は目を伏せれば、拳銃を握る拳を地面に向けた。

 嗚呼、耳が痛い。これは、そうだ。

「あんた…… 死にたいの?」

 彼女の言葉に、木に寄り添う男が瞳を強ばらせる。それに気付かず、少年は腹を抱えて笑い声を上げた。

「ふふ、そうだね。死にたい。死にたいよ。昔からずっと! お母さんの命と引換に産まれた時から、ずっと!」

 母親の命と。どういうことだ。怪訝に眉を顰めるが、それに答えようとする人間はいない。呆気に少年を見詰めれば、彼は小さな笑みを浮かべたまま首を横に倒させた。

「フリージアに狙われたのが、僕だったら良かったのにね」

 やめろ。違う。どうしてあんたにそんなことを。

 少年の笑みが歪み、黄色の少女が霞む。妹を殺したのはあの女で、あの女に殺させたのはこの少年で、あの女を殺したのは私で。だったら――

「だったら」

 女は少年へと走り出した。細身の片刃を閃かせ、彼の心臓を睨み付ける。

「こうすればいいでしょ」

 右腕を振り上げ、刃先を夜空へ光らせれば、少年は顔色を青に変えて背後を振りかぶった。

「カクタスッ! 離れてッ! もっと……ッ、もっと、遠くへッ!」

 そんなことを叫んでも、殺意は少年の身体を蝕み、彼を愛する部下は目の前にやって来る。それに拳を握り、女を振り向けば、彼女の瞳と視線が交わった。

「大丈夫よ」

 女の瞳が細められる。柔らかな表情に少年は身体を動かせなかった。月明かりに、刃が輝く。

「私が盾だもの」

「え……」

 強く重い感覚。化物に痛覚などない。腹部を伝う滑りけと、小さな躰を包み込む白く細い腕に目を瞬かせ、少年はゆっくりと顔を上げた。

「カルミア……?」

 女の顔があまりに近く、状況が把握できない少年に、優しい笑みが向けられる。

 彼の後頭部に鉄の入口を宛がって、女は彼に最後の花を飾り付けた。


「お母さん、ここはどこ?」

 少女は切りそろえられた赤を揺らし、繋がる手の先を見詰める。辺りは乾いた空気が流れ、戸の前に飾られたススキがさわさわと囁いていた。

「私がお世話になってる人のところよ」

「なんだか、真っ黒だよ」

「みんな黒が好きなのよ」

 黒い扉に黒い看板。少女が母の背で怯えるのは、この重々しい空気のせいだろうか。それを割くように、母親は橙の髪をかきあげて、戸に凭れる男に笑いかけた。

「ハギさん、ダリアくんは?」

「まだ、どうしても…… ね」

「そう……」

 ダリア、その名に、光景を見守っていた女の眉が動く。傍らで佇む少年は、微動打にせず、静かにただ見詰めていた。

「……まっかだ」

 戸から離れた窓の中で、あどけない少年は鼻をくっ付けて息を零す。金の髪がカーテンに揺れて隠れた。あれが、ダリアか。

 黒いカーテンが花びらに変わっていく。はらはらと少女たちをも溶かし、黒に白が彩られた室内へと移行する。

 暖炉の前で、手のひらを擦り合わせる男は、ちらりともう一方の男へ視線をくべた。そちらの男は、先のハギという男だ。

「ハギ様、また老け込まれたのでは?」

「はは…… よしてくれ、ビティス。私はたった三十だよ」

「ダツラ様の死が、やはり堪えますか」

「やめてくれ。ダリアが聞いたら、ますます塞ぎ込んでしまう」

「彼もそろそろ受け入れるべきですよ」

「無茶を言うな」

 ハギの妻、そして少年の名前。もしやと隣に目をやれば、彼は口元を緩ませて彼女を見上げた。

「お母さんは、僕を産んだと同時に死んだんだ。お母さんの身体にとって、僕はただの腫瘍だったんだよ」

 つまり、それは。ばつが悪い。女は視線を逸らして、楽しそうに語らう男たちに目を戻す。

「……仕方の無いことでしょ」

「それでも、僕は親殺しなんだ。お母さんの命を奪ったんだから。その証拠に、この頃にはもう、この能力があった」

 神様は残酷だよね。小さな声が、確かに彼女の耳に届いた。と、同時に黒と白の部屋の扉が開く。小さな金色が、ひょこりと顔を覗かせた。

「おとーさん」

「おお、ダリア! 起きてこられたか」

「あのあかいひとは、だれ」

「赤い人……? ああ、もしかして、ガーベラの子どものことか。何て名だったかな、おい、ビティス」

 ビティスと呼ばれた男は、葉巻を咥え、少年を見てニヤリと悪戯めいた笑みを浮かべる。

「んー? カルミアのことか? 美人だろ〜? 俺の子なんだぜ〜」

 ハッとして女は男の顔を見詰めた。記憶が何処かで交差する。カチリカチリと耳が鳴り、彼を直視できない。

「……かるみあ……びじん……」

「ダリアをからかうなよ」

「俺は子煩悩なんですぅ〜!」

 豪快に少年の頭を撫でる男に溜息。こんな光景がマフィアだとは。俄に信じ難いが、それよりも、と女は三度、隣に息を吐く。

「こんなに小さい頃に、会ってたの」

「僕が見ただけだよ」

「覚えてない……」

「当たり前だよ。君は親殺し直後に、非道い錯乱状態に陥ったんだから」

 それが、彼女の記憶を掻き毟っているのか。視界の端で男が足をばたつかせて笑う。

「あれが、私の本当の父親……」

 白の絨毯が花びらに溶けていった。彼女が殺したと思い込んでいた父親とは、全く違った人柄の男。彼の豪快な笑い声が、耳をついて離れない。少年はぎこち無く笑うと、変化していく景色を眺めた。

「ビティスは、良い人だったよ。すごく適当だったけど」

 一面の白に赤が散る。下向きの白い花畑で、男は無数の風穴から血を流していた。

「ビティス…… なぜ……」

 倒れている男は、カルミアの実の父。彼を包む花は、妹に貰ったものと同じだ。彼に触れるマフィアのボスは、黒衣を血の池に浸しながら、顔を顰めた。

「……」

「ビティスを殺したのは、僕より三つだけ年上の、小さな子ども。まさかビティスがそんな子どもに殺られるわけがない、って、お父さんは受け入れられなかったんだ」

「それが…… フリージア」

 傍らで若い男に手を引かれる少年。無表情にそれを眺めれば、足元の池に視線を落とした。

「ビティス…… あか、だ」

 花弁が吹雪く。少年は黒い壁に赤いチョークを走らせていた。真横に一筋、そこから上へ三つ四つ。地平線を昇る鮮血を、ぼうっと描く。

「あか…… あか…… ぼくは…… なんで、あかじゃないんだろう」

 そのまま小さなチェストを間探れば、銀色のナイフを取り出してまた壁に一筋。そうしてから今度は一刺し。ザクザクと壁を削って、それに添わせる掌も共に傷付けた。何度も象り、そこから流れる血液を舐める。指を切り、腕を斬り、首を伐り、その度にナイフの色を確かめていた。

「なに、してるの」

「死のうとした」

「は……」

「何回も、してたよ」

 ゆっくりと刃を指でなぞり、指先の小さな赤を胸元に押し当てる。

「あれが、目印」

 くるくる。刃が回る。目印へじわりじわりと迫らせ、腕を振り上げた。

「ダリアッ!」

 叫び声に、少年は刃を手放す。しかしそれは確かに肉を裂き、開き、埋め込まれた。白の絨毯が赤に染まる。まるでビティスと同じ。

「!」

「これが僕の能力。そして、二回目の親殺し」

「あんた……」

「僕はただの親殺しじゃない。両親殺し。マフィアじゃなくても、地獄に落ちるだろうね」

 父親は、滴る血をそのままに、息子を抱き締め、何度も何度も背中を撫でた。

「おと、さん……なんで」

 少年に力無く微笑み、父親は少年を強く抱きしめあやすことを止めることはない。

「ダリア…… 自分に、失望、するな。お前はその瞳で、世界を…… 真実を、視る…… んだ…… そうすれば、きっと…… 諦めるな、見失う、な…… 私も、母さんも、お前の味方…… 信じ、て」

 それは最期の、遺言だった。その腕も身体も、支えを無くして赤に染まった床へと倒れ込む。騒ぎを聞きつけ、扉を押し開けた男は、その惨状に言葉を失う。少年は放心し、父から抜け落ちたナイフを再び拾い上げた。

「なん、で…… なんで、ぼくはしねないの! どうして、どうしておとうさんがしぬのッ! どうしてぼくじゃないのッ!」

「ダリアさん」

「どうして、どうしてなのッ!」

 ナイフが宙を割く。壁を削り、少年の腕を抉り、彼に腕を伸ばす男をも斬りつけた。眼鏡が弾かれ、それでも少年を包み込もうとする。ナイフはそんな男を諸共せず、少年の叫び声と共にその猛威を加速した。瞬間、鮮血が少年を襲う。

「カク、タス……?」

 男の右目が赤い。赤。赤。溢れ出るそれを右手で抑え、男は少年に笑いかけた。

「ダメですよ、ダリアさん…… せっかく、ハギさんが守ってくださったんですから」

 嗚呼、止まらない。男の右手に小さな手を重ね、少年は頬を血と涙とで濡らす。男の笑顔に胸が痛み、しゃくり声が部屋に響いた。彼をあやす男の腕の温もりはとうにわからない。しかし少年は、男の胸で拳を握ると何度も何度も嗚咽を上げた。

「あんたがどうして、あんなにあの男を守るのか、わかった」

「やめてよ、そんなんじゃない。僕は…… カクタスの目を、奪ったんだから」

 花弁が踊る先で、今の少年と同じ衣裳に身を包んだ幼い彼が先の男と二人きりで暗闇を歩いている。オダマキの装備屋で、少年は拳銃を、男にはあのパルプ紙を背負わせ、苦笑する店主に金塊を投げつけた。

「お父さんが死んで、僕はたったの五歳でブーゲンビリアを立ち上げたんだ。先代のメンバーは、誰もいなくなった。みんな、君の妹に殺されたんだ」

 店から出れば、少年は一人で路地を歩き出す。茶色のタイルの道を、男の制止を払い、ただ一点を見詰めて。細く入り組んだ路地を迷いなく進み、曲がり角の先で彼は足を止めた。赤い池が広がる。

「これ……」

 池の中心で横たわる女の姿に、カルミアは息を呑んだ。嗚呼、ここは。

「ガーベラの死体を、最初に見付けたのは僕だ」

「なんで」

 捕えなかったの。女の遺体の脇には、小型のリボルバー。それのすぐ傍で、少女は膝を抱えていた。

「おねえさん、いたいの?」

「だれ……」

「まっかっかだ。けが、してるの?」

 赤い髪に包まれた白い腕に、同じ赤が彩られている。握り締めた掌は、黒く澱んでいた。陽の届かない路地では、赤は黒に見える。傍らの亡骸を見つめ、カルミアは嗚呼と息を吐き出した。

「そうだ…… 母さんは、私に、聞いてって…… 私を抱きしめて、『あなたの父さんたちは、優しい人だから、あの人の言葉を、ちゃんと聞いてあげてね』って…… 私が、殺し、たのに」

 親殺し、それは名ばかりに、親の子を想う力の具現化なのだろう。もしくは、その言葉が呪いとなるのか。

 きっとこの少年の母親は、自らの命と引き換えに、彼の生を願ったのだろう。しかし、子はそれに気づくことなどない。今も苦しげな表情で、自らの過去を見つめ続けているのだ。

 赤い水溜まりの中、少年の呼び掛けにようやく顔を上げた少女は、以前見たよりも大人びていて、その整った顔をぐしゃぐしゃに濡らしていた。

「ないてるの?」

 少女は泣き腫らした瞳を閉じることすら忘れ、呆然と少年を見詰める。焦点の合わない少女の髪を撫で、彼は静かに微笑みを作った。

「きれいないろだね」

 赤い髪は、彼の憧れ。ふわりとそれから手を離せば、彼女は目を丸くした。足音が近付く。少年は彼女に背を向け、瞳に力を込めた。二人。嗚呼、彼らか。そのまま彼女に視線を移せば、未だこちらに目を見開いたままの惚けた姿に笑みを落とす。

「カルミア。きっと、ぼくがたすけてあげるからね」

「どうして」

 口約束に花が舞う。揺らりと霞む視界の中で、少年は少女を振り向き瞳を細めた。

「ぼくは、きみのことがすきだから」

 記憶が途切れる。

 真っ黒な空間で、女と少年は静かに見つめ合っていた。

「あれは、やっぱり、あんた」

「覚えてたの?」

「夢で、視た」

「恥ずかしいなぁ」

 頬を掻く少年は本当に恥ずかしそうで、彼女は思わずと笑う。女の髪に、白い花はもう存在しない。一片の欠けた不格好な花は、少年の金色を飾り、暗闇で強く輝いている。それに触れて、彼はゆっくりと瞳を閉じた。

「君に会えてよかったよ。君に殺されてよかった。僕は、君の赤が大好きだった」

「ああ、そう……」

 無関心を装うのは彼女の癖だ。幾度はぐらかされても、少年は彼女の言葉が温かかった。黒に白が滲む。とうとうお別れだね、などと呟けば、女は少年と同じように瞳を伏せた。

「ああでも、カルミアのミネストローネ…… もう一回食べたかったな」

 そういえばそんな話をしていたな、と山小屋がチラつく。二人が幻覚を共有する食卓の光景はあまりに和やかで、自分たちには似合わない。鼻で笑ってやれば、少年は唇を尖らせた。

「……私、得意料理はポトフなのよ」

 ハッとして少年は瞼を開く。ノイズの走る女の姿に腕を伸ばし、しかしその手を握った。

「じゃあ、今度はそれが食べたいな」

 女の口が弧を描く。足元が白に呑まれ、身体が浮遊する感覚。最期の瞬間は、呆気のないものだ。侵食される高揚感に胸を抑え、少年の頬を涙が伝った。

「ありがとう」

 この言葉は、君に届いていただろうか。

 光り輝く女の口角は、わずかに上がったようにも見えた。


 ほとばしる血飛沫を浴びて、男は静かに膝をついた。主の願いは、わかっていた。しかしどうしても、心が痛い。

「お二人は、また一緒に何かを視ているのですか」

 二人を繋ぐ片刃の剣。女の腰から少年の胸にかけてを串刺し、二つの赤が地を濡らす。それを引き抜けば、また溢れ出る鮮血に眼鏡を落とした。

「どうして、私じゃないのです」

 縫い付けられた右目から雫が滲む。寂れた山奥の木々は、月夜に静寂を醸し出していた。

 彼には特別なものなど何も視えない、聴こえない。当たり前の光景しか、彼は知らない。

「どうして──ッ」

 動かない主を抱き締め、男は慟哭を叫ぶ。さながらオアシスを失った、孤独な流浪人。掴んでも掴んでも、指の隙間から抜け落ちる。主なき今、彼を愛する者も、場所も、言葉も無いというのに、少年の願いが彼を縛り付ける。

 嗚呼、私は。

 天高く見下す憎たらしい月明かりを睨み付け、男は一人、立ち上がった。

「赤なんて、嫌いです」

 ひるがえる外套の風に揺られ、少年の髪飾りが花を散らす。

 男の希望は消え去った。あまりに脆く、不安定な希望。

 大いなる希望の前に、幼い願いは消え去った。ただ儚く、頼りなく。彼が行き着く先はもう一つしかない。


 スノードロップ、あなたの死を願う。カルミアは野心、ダリアは移り気。三つの花が交わったことで、生まれてはならない継ぎ接ぎな幻想が出来上がってしまったのだ。

 次に咲く花は、どうか優美でありますように。

 アイリスの希望を求め、男はひたすらに涙を拭った。

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