第5話 花の街

 爽やかな甘い薫りが街頭を漂う。色とりどりの花々が飾るのは、同じく彩り豊かな細長い壁に覆われた家々だ。家屋は隙間なく連なり、人が行き交うタイルの道もまた、鮮やかな人工石で眩さが際立っている。

 この街にいて、彼女が生活を送っていたのは中心地の華やかさからかけ離れた緑一色の山の中だった。市街地を歩いたことはある。家族のために、食事の用意や、出稼ぎなど、彼女にできることは全てやっていた。タイルを踏み締め、流れる街並みを見渡しながら、大きく息を吸い込んだ。

 帰ってきたのだ。忌々しい記憶の街へ。

 行き交う人々は、晴天の街とはまた違った活気に満ち溢れ、笑い声も穏やかだ。しかしそんな声の主たちも、カルミアを見てぎょっと顔を顰める。嗚呼、あの噂はここまで届いているのか。

「カルミア、この街の教会は行ったことある?」

「さあ。前を通ったくらいはあるかもね」

 妹と。この道も、その場所も。どこを見ても、妹の面影が感じられて、女は視線を巡らせることをやめた。

「すっごい綺麗だよね! 初めて見たときはびっくりしたよ」

「そんなに?」

 大きく腕を広げて、驚きを全身で表現する少年に、無理矢理笑みを漏らす。ここに来て、気が気でないでいるのだ。もちろん、焦燥もある。しかし、この興奮を抑えるためにも、彼女は大袈裟にも余裕を装っていたいのだ。

「天気によって色が変わる教会なんて、他の街の人が聞いたら驚くよ?」

「ああ…… 水晶で出来てるんだっけ」

「うん。まるで水に覆われてるみたいだよ」

 少年が瞳を輝かせる。その視線の先に捉えられた建物を見て、彼女も目を細めた。石畳が連なる先、公道の行き着く先にそれはあった。半透明に美しいくすみが効いた、淡いブルーに輝く建物。そのブルーは空の色が反射しているのだ。

 空だけではない。建物に伸びる虹色のタイルもまた、その足元へと色を移し、そこにもう一つの小さな街並みが出来上がっているかのようだ。今までのどの街よりも、荘厳に艶やかに、大きく思えるのは、ここが王都だからだろうか。

 大聖堂へと続く扉もまた壮大で、人が悠に十人は通れるだろう。その扉をくぐり抜けてから、彼女は他の街とは違う光景に、小さく驚いた。参拝者が、多い。

「そろそろ定例ミサの時間なんですよ」

 扉の傍らに、見慣れた男。相変わらず大きなパルプ紙を背負った男は、数日ぶりの再会に、手を閃かせた。頭の緑が、聖堂の壁に映り込む。そこへ歩めば、彼女たちももう一人ずつ同じように集まっていた。

 そのまま壁の中で流れゆく、人の波に目を沿わせる。人々は、国王の不在に気付いていないのか。亡き王と同じ、呑気なものだ。まるで当たり前のことのようで、信者たちはその手に様々な果物を握り締め、教会従事者である真っ白なローブを羽織った男の元へと連なっていた。あれは司祭だ。彼が祈りを捧げるのは、例の如くイリスの壁画。半透明な壁面において、そこだけはくっきりと、その色を濃く描かれている。

「で、情報は? あの黒服の女は、どこにいるの」

「やはり女性でしたか」

 祈りを終えた司祭は、信者たちへと向き直ると、祭壇へ大きく腕を振り上げた。そこに置かれた紫の花。細い花瓶の中で、所狭しと咲き誇っている。鋭い緑が、花弁の下で外へ逃れようと、上へ上へと背を伸ばしていた。

「やはり、ってことは、掴んだんだね?」

「ええ、もちろん。ただ、いくつかお嬢さんにお聞きしておきたいこともあります」

 紫の花は、イリスの化身。手を交差して、花弁を抱き締めるように包み込めば、今度は懐から赤い果実を取り出した。多様な信仰でも、禁断と呼ばれるその果実は、その紅をてらてらとクリスタルに反射させている。それを小さなナイフで一突き。アイリスの花の頭上へと掲げれば、溢れ出る果汁を降り注がせた。

「何」

「彼女のことを、ご存知ではないのですか?」

「妹を殺した」

「それ、以外です」

 紫を伝い、緑を伝い、淡い泡がガラス瓶へと吸い込まれていく。そうしてから司祭が花瓶の隣に、ナイフごと果実を横たわらせると、見守っていた信者がゆっくりと立ち上がり、各々の果物を掲げ、列を成して花弁に果汁を染み込ませた。

「……あの可哀想なガキの記憶を見たとき、初めて女の顔を見た。……母に、似てると思った」

「お母さんに?」

「母さんが死んだのはもう、七年も前のことだし、はっきりと覚えてなんていないけど。なんとなく、そう思ったの」

「ふうん」

 無色透明だったガラス瓶の水は、様々な果汁によって白く濁る。とうとう最後の一人となった。その手の中の、紅色を二つに割いて、中の身を絞り出す。ボタボタと粒状の赤黒い種が、僅かな果肉を纏いながら花弁を揺らした。白濁に、赤が滲む。

「それだけですか?」

「それだけよ」

「そうですか」

 全ての果実を受け止めたアイリスは、げんなりと下を向き、彼女を覆う緑も花瓶にもたれ掛かっていた。司祭はリンゴからナイフを抜くと、それを花瓶の中へと落とし込み、花を手に取り天窓へ上るように高く掲げた。信者の祈りが水晶の窓を抜けて、空へと昇っていく。

「彼女の名前はストレリチア。お嬢さんの家で、お待ちですよ」

 最後に司祭が花瓶を大きく振りかぶり、半透明な床へと叩き付けた。実に奇妙な祈祷式だった。


 女は一人、暗い路地を歩んでいた。

 憎たらしい相棒も、寂しがりな情報屋も、ここにはいない。二人は公安へ報告に行くと言った。そうしてから、彼女の目的を見届けるらしい。公安委員会が腰を据える、公安局もこの街にある。国王不在の王城の傍らにそれはあるのだ。

 少年は彼女も誘ったが、女にそんなもの興味はない。自然と、足が勇んだ。

「あの女が」

 妹を。妹との日々を消し去った。

 直接の記憶はもう随分と遠くに感じる。父のアトリエを去っていく後ろ姿に、手を伸ばしても届かなかった。暗い山道で、月明かりを背景に立ち去る黒服の背中は、あまりに遠かった。あの女は、父に金を渡し、妹を買い取ったのだ、殺すために。思えば、あの少年の記憶の中でも、女は心を乱さずに粛々とした態度で彼に語り掛けていた。その姿勢こそ、何にも動じない心の表れなのだろう。

 妹を殺めた時も、きっと、そうだったに違いない。耳が痛む。

 そっと抑えれば、髪飾りが手に触れた。一片を失った不格好な花。妹からの贈り物も、こんなに汚れてしまった。

 しかし、もう、すぐだ。

「フリージア、お前のために」

 呟く言葉は何度目だろうか。妹を想うと、胸が熱くなる。焦燥感を拳で押さえつけ、見知らぬ路地へと差し掛かった。こんな場所を歩いているのは、あの噂のせいだ。

 死を運ぶ花、スノードロップ。

 珍奇な異称が付けられてしまったものだ。人目を避け、家々の合間を縫うように歩くが、目印は隙間から覗く小高い山の影だけ。過去の生活で、こんな場所は通ったことがない。陽に見捨てられた、薄暗く、どことなく空気の重い、茶色のタイルだなんて。

「!」

 女の足が止まった。茶色のタイル。細く長く、暗い路地。

 嗚呼、と声が漏れた。

 思わず足がすくみ、ゆっくりと膝を付く。知らない、はずだった。記憶になんてない。そう思い込んでいる。市街地を結ぶ公道の喧騒が遠くで霞み、ジリジリと耳が焼けるようだった。

「知らない…… 私は、知らない……」

 耳を押さえつけ、頭を振っても、焼け付く痛みは収まらない。妹の顔が脳裏を過ぎる。

「お姉ちゃんに、似合うと思うの」

 差し出されたスノードロップ。妹は笑っていた。

 女の腕を引いて無理矢理座らせ、髪に結われる。

 これはいつの記憶だ。背景は、紅。

「でも、かわいそう」

 俯く妹の手の中で、黒い瞳が彼女を見つめる。どくりと心臓が脈打った。土に埋めたと笑う少女の泥汚れは、紅だった気もする。

「小動物みたい」

 父を見て笑った少女。その瞳は笑っていただろうか。妹の笑顔が、記憶の中で歪に象られていく。黄色の髪が、くるりと円を描いて宙を舞った。柔らかなお揃いのスカートが風に閃く。釣り上がった口角が、彼女を射止め、手を伸ばされた。

「お姉ちゃん」

 フリージアは優しくて、真っ直ぐで。その手に握られた小型のリボルバーから、女は目が離せなかった。

「お姉ちゃんに、似合うと思うの」

 差し出されたスノードロップ。何度も繰り返し紡ぐ彼女の言葉に、女は瞳を震わせる。

 嗚呼、この花は。

 最愛の妹が最期にくれたもので。

 それはつまり、彼女が殺される直前で。

 彼女が姉にそれを贈ったのは、つまり。

 父さん――私は――!

「カルミア!」

 弾かれたように、女は顔を上げた。暗い路地では顔が見えない。しかし、微かに輝いた金色に、勢いよく腕を伸ばした。

「うわっ!」

 思わずよろけた少年は、首に縋り付く彼女の身体を支え、何度も瞬きを落とす。そうしてから女の様子に眉を下げると、優しく背中を叩いてやった。規則正しいリズムに、女は我に返ったようで、すぐさま腕を解放して、彼を見上げた。

「……泣いてるの?」

 言われ、慌てて目尻を擦りあげる。そのざまに笑う少年を睨みつけてやれば、彼の服装がいつもと違うことに気が付いた。

「何、その格好」

 可愛らしいヘアバンドは、シックな一本に落ち着き、その小さな身体を包む真っ黒な燕尾ベストが、少年を少年でないかのように演出している。腰に据えていたポシェットも、革のシザーケースへと変わり、まるで無駄のない、要人警護職のようだ。

「カルミアの最後の戦いを見届けるからね、おめかししちゃった」

 戯ける言葉に安堵を覚える。それを小馬鹿に笑ってやるのは、失態を覗かれた仕返しだ。見透かしたように、少年は何度も彼女を覗き込む。その後ろから聞こえてくる足音も、そんな巫山戯た男だ。

「ちょっとダリアさん! 急に走り出したら私、迷ってしまいますって! この路地入り組んでますし! 暗いですし! なんかジメジメしてますし!」

「情報屋なんだから、それくらい調べてから来なよね」

「あー! だから私、カクタス……ってあれ? そこは情報屋で良いのか」

「バカなこと言ってないで、行くわよ」

 何度も聞き飽きたやり取りも、暗がりに吸い込まれていく。耳の痛みは、いつの間にか消え去っていた。立ち上がれば、少年と視線が交わる。

 いよいよだね、そんな声が聴こえた気がした。

 ホルダーに触れ、息を整える。例え自らの記憶が何であろうとも、彼女が目指すものは変わりやしない。いつものように、男は情けない声を上げ、少年は笑い、女は溜息を吐き出した。それを合図に、三人はまた微妙な距離で歩き出す。

 最終目的地、山の中、カルミアの記憶の中へ。


 鬱蒼と茂る木々は、まるであの鮮やかな中心地と同じ街とは思えない。

 女の高いヒールが、柔らかい土に食い込む。陽射しを遮るように垂れ下がった緑は、その葉に丸い種を実らせていた。不格好な木のみだ。

 あと少し。あと少しで我が家へ帰り着く。

 彼女が妹と、そして父と、三人で生きていた穏やかな家へ。この木々のアーチは、妹との思い出そのものだ。食材の不足を補うために、この野山を駆け回ったこともあった。母の命日に、母の名がつく愛らしい花を探しに回ったこともあった。家族が愛する、木のみのパイを焼くために、実りを収穫に回ったこともあった。草木の一つ一つ、土の穴の一つ一つが、彼女の記憶と繋がる。この山は、彼女にとっての庭なのだ。

 そうして歩いていれば、丸い切株が彼女たちを出迎えた。それに刺さる斧は錆びれ、ギシギシと風に揺れている。男が興味深くそれに手を掛けるが、まるで風化した鉄屑は、静かに切り株の上へと崩れていった。女はその横で足を止める。嗚呼、ここだ。

「山小屋みたい」

「間違いじゃない」

 木々を組まれた、茶色のコテージ。そこが彼女の住まいで、奥には小さな小屋が添えられている。あれが、父のアトリエだ。少年は彼女の横をすり抜けると、コテージの扉に手を掛けた。木枠の窓から望む室内は、がらんどうとしており、まるで生活感がない。

「ちょっと」

「あ、キッチン! 大きいね」

「まあ…… そう、ね」

 中央のアイランドキッチンだけが、その存在を大きく放ち、不躾に入室する少年を出迎えた。それに添えられたカウンターチェアへ駆け寄ると、少年は、外からこちらを見守る女を振り向く。動揺を隠せない女の顔に、笑いがこみ上げた。

「また何か作ってよ」

「ミネストローネ? 全部終わったらね」

「約束だよ」

 女は応えず、コテージを横目に奥へと進む。室内で一人、少年は彼女を見詰めていた。未だ切株の傍らで、男は女を一瞥する。

「どちらへ?」

「アトリエの方よ」

 黒服の女が待つとしたら、そう。あの血塗れの工房。

「父が、死んだ場所」

 情報屋は何も言わない。おそらく間違いないのだろう。

 静かに戦ぐ木の葉のアーチをくぐり抜け、小さな工房へ歩み寄ると、僅かに耳鳴りがした。

 いる。待ち望んでいた、あの女が。

 歩調が早まる。嗚呼、やっと。

 左脚のホルダーに手を添え、じっくりと懐かしい工房を睨み付けた。傍らに咲く白い花は、あの時からあっただろうか。木の葉を踏む、小さな足音が彼女の後ろで止まる。振り返らない女の袖を掴み、少年は瞳を細めた。

「カルミア」

「あんたたちは何もしなくていい。何も言わなくていい。私は、この日を待っていたんだから」

「うん」

 まるで喪にふくすかのよう。男二人は何も言わず、その場で動かず、ただ息だけをして、女を見守っていた。これは彼女の戦いなのだから。

 アトリエの扉は重かった。長らく使われていないからか、元から立て付けが悪かったのかは、彼女に覚えはない。ただ綺麗に片付けられた室内に、女は眉を顰めた。

「お久しぶりですね、カルミア=リリー」

 父の作業台に腰掛ける女。広い鍔の帽子が影を落とす。その姿に、拳銃に握る力が強められた。嗚呼、コイツが。叫びたくなる衝動を抑え、息荒く瞳を光らせる。対する黒服は、引き摺るような黒衣を捲り、ゆったりと立ち上がると、彼女が持つリボルバーとそっくりなそれを目の前に突き付けた。細められた瞳がやけに穏やかで、憤りが加速する。その顔で、その表情で、フリージアを殺したのか。

「何からお話しましょうか」

「聞きたいことなんてない」

「そうでしょうか。ならば、何故すぐにわたしを撃ち抜かないのですか?」

 女の言葉に、拳が震える。

「……焦らすのが好きなのよ」

「素敵なご趣味ですね」

 声までもが震えそうだった。

「わたしを、殺したいですか?」

 その言葉に、カルミアは銃口を女へ突き付けた。

「お前が、妹を殺した」

「そうです」

「お前が、私たち家族を壊した」

「そうでしょうか」

「妹は、私の宝物だった!」

 対峙する女は口元を緩ませる。叫ぶ女にじわりと歩み寄り、自分の額に銃口を充てがわせた。

「それは、本当ですか?」

「本当よ」

「ならば、フリージアにとってあなたは?」

 女が紡ぐその名に、鼓動が迫る。

「気安く呼ぶな」

「失礼。妹の名は、つい気を抜いてしまいますね」

「は……」

 女が柔らかく微笑んだ。はっとして、カルミアはその鍔を拳で薙ぎ払う。黒い帽子の下から現れた黄色に、言葉を飲み込んだ。

「カルミア=リリー。あなたも気付いているでしょう。妹は、悪魔だったのです」

「お前は……誰なの……」

「ストレリチア=リリー。それがわたしの名です」

「リ、リー……?」

 リリーはカルミアと、その妹とを繋ぐ称号。父と母から渡された、愛の証。それを名乗る女は、母にそっくりな穏やかで凛々しい顔で、妹と同じ黄色の髪で。目の前の女は、その顔を彼女に近付けると、赤い髪を指に絡め取った。

「一つ、昔話を致しましょう」

 指から髪がはらりと落ちる。小窓へと歩む女の足音が、床を軋ませ、呆然と立ち尽くす彼女に伝わった。

「わたしの母は、気高くも優しい、忍耐強い女性でした」

 嗚呼、そうだ。

 動けぬままに、カルミアは心の中で頷く。彼女の母も強く、そして優しかった。じんわりと、母親の顔が鮮明に思い出されていく。

「そんな母を、二人の男が愛していたのです。一人は、口下手で繊細で、穏やかな男。器用な指先で作る小物が、母の心を射止めていました。もう一人は、気が強く、豪快で図々しい男。朗らかに吐き出す煙が、母は好きでした」

 前者は、ガンスミスか。無口な父の後ろ姿が、記憶を流れていく。父は臆病で、繊細で、優しくて。それが彼女の父で。

「母はどちらも選べなかった。全く正反対の二人は、それぞれの愛情を訴え続けていたからです。しかし、気の強い男はそれを待つことができませんでした。母を求め、愛し、そして程なくしてあなたを身篭ったのです」

「待って」

「繊細な男も、それに負けじと母を求めました。そしてあなたと時期を隔てることなく、わたしが」

「待ってよ、だって、私の父は……!」

 どくりどくりと心臓の音が五月蝿い。それを掻き消すかのように、女を振り返り胸倉を掴みあげるが、相手は静かな笑みを張り付かせたまま、彼女を見つめる。

「ええ。ですから、ここで亡くなったのは、あなたの父親ではないのです」

「……私は、父を殺して、親殺しに……」

「話を続けます」

 やんわりと手のひらが払われた。女は小窓から戸棚の前へと移動すると、そこから小さな拳銃を取り出した。その手に持つ物と、全く同じものだ。

「あなたの父、ビティスは優れた構成員でした。あなたが黒服と呼ぶ、我々の前進組織の、です。先代ボスの右腕として、公安の暗躍に務めていたのです。しかし、程なくして生まれた赤子同然の幼い子どもに、その命を奪われます」

「まさか」

「そう。それが、フリージアです。あの子は、母を奪う男も、その子どもも許せなかったのです」

 その子どもとは、すなわち。いや、違う。

 私は、私は違う!

「父親を失ったあなたは、母の手に引かれ、わたしたちの元へとやって来ました。妹の次のターゲットはあなたでした」

「……」

「しかし、あなたはあまりに優しかった。愛らしかった。悪魔はそれに漬け込んで、あなたの優しさを利用したのです」

 女の言葉が耳に痛い。優しい妹の声が、自分を呼ぶ声が、聴こえてくるような気がした。

「七年前、母が死にました。そのことを、あなたは覚えていますか?」

 やめて。思い出させないで。

 せっかく忘れていたのに!

「フリージアは言ったのです。お母さんが、わたしを虐める、と」

 とうとうカルミアはトリガーを引く。嫌だ嫌だと頭を振る様は、赤子のようにか弱い。焦点も定まらない。女はそんな彼女のヤワな弾を軽々と避けると、自身もその銃を二丁とも彼女へと向け、同じようにして弾丸を放った。

「優しいあなたの行動は、とても単純なものでした。駆け付けた父とわたしは、錯乱するあなたを匿い、組織を誤魔化すため、わたしはそこへ所属、父はその腕を売り込んだのです」

 女の二つの軌跡が、カルミアの足を腕を抉る。痛みなど、感じるわけもなく、ただただ赤い血流が白い肌を伝った。それでも彼女は片手で耳を押さえて、銃を握る拳で女に振りかぶった。やはり避けられる。

「しかしそれもまた、フリージアの気に障ったようでした。あの子にとって、あなたは大切な玩具で、あなたが父に守られることすら、許せない。安全なところなどには置かず、純粋に苦しめたかったのでしょう。とうとう自分で父を殺め、その光景をあなたに見せ付けたのですから」

「黙れェエッ!!」

 腕を振るい、トリガーを引き、銃弾が女の頬を掠め、アトリエの天井に弾けた。戸棚に腕がぶつかり、崩れ落ちる。散乱した工具に、更に頭へ血が上った。

「わたしはようやく、妹を始末することができました。組織の人間として、報復という正当な理由で」

 父が使っていた机が、鉄の欠片が、彼女の記憶が、ゆっくりと蝕まれていく。この部屋で父と話していた。父と笑っていた。父を殺した。違う、彼女じゃない。父を殺したのは――

「すまない、カルミア」

 彼女の頭を優しく撫でる父は、確かに彼女の父親だったというのに。

「お姉ちゃんに、似合うと思うの」

 彼女の後ろをついて歩く、柔らかな笑顔の少女は、確かに彼女の妹だったというのに。

「あなたには、辛い思いをさせてしまったと思っています」

 目の前で二つの銃口を向ける女は、あまりに母に似ていた。一つ一つが無理矢理絡まり合い、点と点が結ばれる。

 妹の嫉妬、彼女の勘違い、父の孤独。嗚呼、そうか。自然と声が掠れた。

 血の気の失せた頬を涙が伝う。震える唇を噛み締めながら、カルミアは静かにその腕をだらけさせた。

「……それじゃあ、私をここへ連れてきたのも、報復か何か? 母さんも、そっちの人間だったの? あんたたちの組織は、一体何なの」

 親殺しを始末する、そんな組織を彼女は知らない。自分がそうとされるまで、そんな人間が暗躍していることすら知らなかった。口を付いて溢れる切迫感に、背後で開く扉を睨み付ける。

「答えなさいよ、ダリア」

 驚いた少年の表情が、憎たらしい笑みに変わる。

「……気付いてたの?」

 クスクスと笑いながら、自らに歩み寄る「元」相棒へ銃を突き付けた。

 嗚呼どうして、この日を願っていたというのに。

 嗚呼どうして、知りたくもないことを聞かされて、それでも困惑の中に怒りが消えない。沸沸と湧き上がる悲壮感に、女は重い息を吐き出した。

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