第4話 夜の街
揺れる。揺れる。視界が揺れる。
ぼんやりとした意識の中で、頭が痛む。嗚呼、暗い、怖い。
薄暗いアンダーグラウンド。
光の届かない通路の真ん中で、彼女は震える肩を抱き締めて動けなかった。ここはどこ。顔だけを無理矢理に捻り動かせば、暗い路地が細く長く続いていた。こんなところ、私は知らない。足元は茶色いタイル。影のせいか、真っ黒だ。
「おねえさん、いたいの?」
不意に落ちてきた声に顔を上げる。だれ。顔は見えない。黄色。フリージア。違う。金色だ。
「まっかっかだ。けが、してるの?」
そっと腕を包み込まれた。自分の腕に視線を落とせば、赤く染まったそれに、思わず悲鳴を上げそうになる。嗚呼、耳が痛い。
「……ないてるの?」
ねえ、だれ。だれなの。私はこんな記憶知らない。
「きれいないろだね」
腕に髪が落ちた。真っ赤な、彼女の髪。それに触れる誰かの手が温かい気がして、胸が締め付けられそうだった。
あなたは、だれなの。
ガタガタと振動の止まない扉の前で、少年は唇を噛み締めていた。室内にある使える物といえば、少年の気に入っている、あの椅子より他にない。しっかりと施錠が出来ていることを確認してから、ずりずりとそれを引き摺った。
「もう! これこそ事前情報ちょうだいよ……ッ」
溜息と愚痴とを一度に吐き出し、そのまま腰を落とす。寝台には、白い足が伸びていた。頼みの綱である彼女は、気を失ったまま目覚めようとしない。荒れ狂う人々の声が、締め切った部屋の中まで届いていた。
晴天の街を愛する王は死んだ。彼自身の息子の手によって。きっと彼女も気付いていたかもしれない。あの男は、あまりにも冷静に少年と話をすることができた。その時に彼は僅かに焦りを感じたのだ。もしや公安は、ただただ国王の存在を煙たいがために始末しようと依頼してきたのではないのか、と。しかし確かに男は尊属殺と口にしたのだ。間違いはない。しかし、と脳裏に憶測が飛び交う。
「はー…… カルミア、早く起きてよ……」
洋燈の灯りが目に痛い。疲れているなあ。
目頭を押さえて、天井を見上げた。一、二、三、染みが三つ。そんなことをしていても時が過ぎるだけ。重い腰を上げて、彼女の眠る寝台へと歩んだ。
「……」
眉を顰め、苦痛の表情をそのままに眠る女。綺麗な顔が台無しだよ、と笑ってやれば、眉間の皺がより一層刻まれた気がした。
あの場で彼女と共に拾い上げた拳銃は、バードックの手によって既に五発の弾を失われている。残りは一つ。あの声は異常だ。彼の叫び声を受けて集まった兵らは、まるで正気のものではなかった。鎧の下、顔すらも伺えなかったが、操り人形のように統一されきった動きは、兵団の教えのものではない。バードックの声に、動かされている。そして今、この建物を揺らす街人も全て。そうとしか思えなかった。
ともすれば、あの声を浴びて自分が感じた不快感も説明がつく。おそらくカルミアは、それを鋭敏に感じ取ったのだ。
「……接近戦は、不利だな」
至近距離であの声を喰らえば、彼女とて正気ではいられまい。剣を封じたとして、扱える武器は拳銃、しかも一回勝負。思わず頭を抱えた。ここにあの情報屋がいれば、何か妙案を得ただろうか、いや、きっと彼はすぐにあの少年の思うがままになる。ロッキングチェアを失った絨毯に寝転がり、小さな手のひらを掲げて見た。
「……僕が囮に? リスクが高いなぁ……」
自分の小さな身体で成せることは限られている。しかし、やるしかない。瞼を伏せて思考を巡らせた。月明かり、音、僕の目。
ああそうか、こんな簡単なことに気が付かなかったなんて!
「っ……?」
「あ」
「ここは…… 宿屋……?」
頭を抑え、起き上がろうとする女に駆け寄り、少年はいつものように笑みを浮かべた。彼女が起きれば、話は早い。
「バードックの声にやられたんだよ」
「声……?」
「聞こえるでしょ? 街の人の唸り声。みんな、あの子に操られてる」
「……」
にわかには信じ難いといった表情。
「カルミアも、あの声に気分が悪くなったんでしょ? 君を運ぶの、大変だったんだからね」
言ってやれば、今度は驚きに目を見開き、少年をじっと見つめた。まさかこの細腕で、自分よりも大きな女を。しかし自らの手に重ねられた小さな掌を見て、女はふっと瞼を伏せた。
「……ここ、怪我してる」
「え? ああ、気が付かなかった」
擦り切れた手の甲。おそらく突き出した拳が、あの鎧の先端に抉られたのだろう。
「私を置いて行けば、もっと簡単に逃げられたでしょ」
「そうはいかないよ。カルミアは僕のバディだもん」
「……」
「それに、最初に言ったじゃない」
珍しくしおらしい。女を見つめ、憎たらしく笑みを浮かべてやった。
「君のことが好きだから」
虚をつかれた女は、瞬きをすると、小さく口元を緩ませる。そうしてから髪飾りに手を触れれば、一片、花弁をもぎ取った。
「やっぱり、マセガキね」
「カルミア?」
「何でもない花でも、塗り薬の足しにはなるでしょ」
「でも」
躊躇う少年の手を掴み、傷口に花弁を押し当てる。そのシルクのように滑らかな花は、少年の手の甲を白く彩り、まるで小さな絆創膏だ。その上から適当な布を被せると、自身の髪すら抜き取って結付けた。呆然とする少年に微かに笑い、女はその手を優しく撫でる。
「あと、私は妹より年下を、恋愛対象にはしないから」
出来上がった応急処置を高く掲げ、少年はほうと息を吐き出した。全てが彼女からの贈り物のようで、何だか心がくすぐったい。
「……それは、残念」
彼女がしてくれたように、自分でもそれを撫で上げると、痛みなど何も感じなかった。
街を蔓延る正気を失った人々を眺め、女は剣を握り締める。
カルミアたちを近寄らせまいと、住人たちは教会への道を壁のように塞ぎ切っていた。しかしそのおかげで、新たなターゲットがどこにいるかはすぐに検討がつく。単純で、臆病で、可哀想なターゲット。
女は窓から飛び降りると、目の前に群がる狂信者たちを睨み付けた。
「こんなんでも、善良な市民だよ。殺すの?」
遅れて着地した少年がくすりと笑う。それに軽く目をくべてから、女は鼻を鳴らした。剣を返し、その峰で自分に手を伸ばす男を薙ぎ払う。
「無駄なことはしない。一気に駆け抜ける」
「そう言うと思った」
「遅れないでよ、ダリア」
不意に呼ばれた名に、少年は虚を突かれ瞳を瞬かせた。あのカルミアが。思わず唇が持ち上がる。
「置いて行かないでね」
戯れ言を鼻で笑い、肘を突き出すと、そのまま走り出した。後ろを見ずとも、少年の軽い足音が耳に入る。
この少年が告げた作戦は、こうだ。ターゲットの気を引き、その隙に、今は待機させている愛銃で撃ち抜くという、酷く単純なもの。しかし、機会は一度きり。そこに行き着くまで、容易に集中を欠くことはしなくていい。忙しなく伸び狂う人々の手を峰で剥ぎ、一直線に白い塔を目指す。
闇夜に浮かぶ大きな月を背景に、教会は忌々しくこちらを眺めていた。
「ああ! やっと遊びに来てくれたんだね!」
血塗れのドレスを脱ぎ捨てた少年は、分厚いムートンの肩掛けを大きく翻す。月明かりが照射する天窓の下で、くるりくるりと舞い踊った。
「さあ! 歌おう! 踊ろう! 遊ぼう! さあッ!」
歪な歌声が鳴り響く。キリキリと音を立て、聖堂を埋め尽くす兵隊が手と手を取った。建物を震わす不快な音色に、女は耳を抑えて苦痛を訴える。彼女の相棒は、眉を顰めてその光景を眺めていた。
どこか、どこかに鍵はある。この状況に幕を下ろす鍵が。
女の脇で、狂乱を睨み付けながらも、その中心を視野から逃すことは無い。
「踊らないの? なら、無理矢理踊らせてあげようか!」
背中に月の光を浴び、少年は大きく両腕を振り上げる。カチャリカチャリと鎧が蠢いた。
「カルミアッ!」
少年の声に女はハッと後ろへ飛ぶ。鎧から振り下ろされた斧が、彼女が立ち尽くしていた場所に突き刺さっていた。唇を噛み締め、剣を握る。再び振り下ろされた戦斧を受け止めれば、ビリビリと腕が響いた。
「はははッ! 踊れ踊れェッ!!」
「うるさい…… ガキがッ!」
剣を横へと一振り、鎧を薙ぎ払う。カタカタと擦れ合い、兵隊はその列を乱して中心へと転げて行った。それを足踏み、少年は首を傾げる。
「なんで? お姉さんはこの歌が気に食わないの? じゃあどんな歌が好き?」
嗚呼、もう。
「お姉ちゃんはどんな歌が好き? わたしはね――」
妹と年の近い少年。カタカタと笑う狂気の少年。記憶の中の少女も、優しい声で歌っていたか。
「呪いの唄よ」
唾を吐き出し、女は鎧を蹴飛ばした。派手な音に肩を跳ねさせてから、月下の少年は口元を大きく歪ませる。
「イイ趣味してるね」
歪な口がゆっくりと開かれた。少年の声がビリビリと辺りを伝い、倒れた鎧はまた立ち上がる。戦斧に長槍、それらの全てが彼女を向いた。
「特別に聴かせてあげるよ! 呪いの唄は、滅びの唄だッ!」
キリキリカタリと音が舞う。鎧の擦れる音と、刃の交わる音が、まるで旋律を帯びるかのように激しく絡まる。
躍らされて、堪るか。
女は地を蹴って鎧の肩を飛び歩く。槍が足とスカートを切るが、それに構うほど生娘ではない。視界の隅で、歌う少年はくるりくるりと優雅に舞いを見せていた。動きに沿って流れる不揃いな桃色が、月の光に輝く。しかしそれも一時で、はためく布に少年は気が付かなかった。
「相変わらず、ひとり遊びが得意だね」
「!」
歌が止む。脚を止め、少年は後ろを振り返ったが刹那、視界が黒に覆われた。
「うあぁああああッ!! 見えない!! 見えないよぉ!! 嫌だッ!! やめ、やめて…… 暗い、暗いところは、嫌だァア……ッ!!」
歪な音楽が鳴り止んだ。音を失った兵らは統率を失くしてパタリパタリとその脚を倒していく。女は小さく笑みを浮かべた。好機だ。
「わかってるよ、バードック。すぐに明かりをつけるからね」
「は、アァ…… か、さま…… と、う……ッ」
少年を覆う、黒い布。ダリアの手のひらに巻かれていた、彼女からの贈り物だ。それを勢いよく引き剥がせば、少年は相棒に声を張り上げた。
「今だよ、カルミアッ!」
銃を抜く時間はいらない。叫び声と同時にトリガーを引く。もう、躊躇いなどなかった。
崩れる鎧の肩の上で、女は耳に襲う激痛に顔を歪ませた。
灯りのない、暗い部屋。全ての窓に隙間なく木板が嵌め込まれ、熱気が漂う。
音だけで感じる光景は、何度となく幼い少年の身体を蝕んでいた。荒い息遣い、滴る雫。噎せ返るような香りに、肩を抱く母親を見上げても、女は笑顔を見せるだけ。
いつまで、この時間は続くのだろう。いつまで、いつまで。
とうとう、少年の番だった。
「……あの部屋」
「ああ、抜け道から続いてた、倉庫だね」
少年の走馬灯を眺め、二人は顔を顰めた。少年から離れ、女が跨るのはあの国王ではない。あの男がそのまま老けたような顔付き、父、前王だ。つまりは、少年の祖父。
「これは、知ったら殺したくなるでしょうね」
「うん」
祖父は少年に手を招いた。これから行われることに、ダリアは思わず視線を外す。呼ばれた少年は、震えながら衣服を剥ぎ取った。
花が舞う――。
太陽の下で、少年は走り続けていた。汗と涙が風邪に舞う。彼から放たれる異質な臭いに、すれ違う人は顔を歪ませた。
「もう…… いやだ、いやなんだ……ッ」
口を動かしても、その声は風となって消える。苦しさに足を止め、咳を吐き出せば、強く腕を引き上げられた。祖父だ。少年の瞳が強張り、涙を流すことを諦める。穏やかな笑みを浮かべた男は、少年の腕を掴んだまま、居城へと踵を返すと、公道を歩む人々へ手を振った。
「狂ってる」
「……バードックに同情するね」
さんさんと降り注ぐ太陽を少年は睨み付ける。太陽なんて、嫌いだ。少年の声が聞こえた気がした。二人を出迎え、母が子を抱き締める。父はいない。焼き付くような陽射しが、三人を照らしていた。
「国王はどこにいるの」
「引き篭もり」
「ああ……」
花が舞い、少年は暗い部屋で膝を抱えている。戸が開き、母に呼ばれた。行きたくない、行きたくない。念じても、母はそれを感じ取りやしない。
「パパがなんだか、お話があるんですって」
手を引きながら、母は言う。興味無さげに、ただ静かに。久しぶりに会う父を思い、少年も瞳を伏せた。首の痣が痒い。毟っても毟っても、その痒みは治まらなかった。
「あなた、バードックを連れてきましたよ」
分厚い扉に、女は声を張り上げる。ガタガタと、戸の向こうが派手に騒いだ。ぎこちなく扉が開かれた瞬間、女の手が強く引かれる。繋がれたままの少年の手も、同時に部屋の中へと引き入れられた。
「ああ……ッ!」
室内の惨状に、女は短く悲鳴を上げる。少年も、ひゅっと息を呑み込んだ。赤い部屋。陽射しの赤よりもっと、黒く深い紅だ。扉に机に寝台に、飛び散った紅の中央で、父は母を組み敷いて、醜い笑みを浮かべた。握られた果物ナイフは、艶やかな紅。その傍らには、肉塊と化した祖父。女は男の腕を振りほどこうと必死に踠く。
「何を! あなた! どうして!」
「どうして? お前が先に罪を犯したのではないか」
静かに放つ父の声が懐かしく、少年はその場に佇み、なす術なく見守っていた。
嗚呼、父が、この忌まわしい人々を消してくれる。思わず笑みが零れそうだった。
「私はお前という女を娶ったことを後悔しない。私はこの父を、正当な理由で殺すことができたのだから」
「何を…… 何を……」
「愛していたよ、バイオレット」
「やめて…… やめて、あな――」
ナイフが真っ直ぐに振り下ろされる。ほとばしる紅い飛沫は男の顔を濡らし、天蓋から揺れるベールをも黒く染めた。
今度こそ、少年は満面の笑みを浮かべる。ゆっくりと立ち上がり、ナイフを投げ捨てる父に駆け寄り、何度も何度も涙を拭った。振り返った男は少年の頭を撫で、頬を撫で、小さな躰を強く抱き締める。
安堵と共に、少年は肩を上下させた。そんないたいけな笑顔を見て、男は柔らかく笑みを作って少年の頬に口付ける。くすぐったそうに男の顔を手のひらで押し返す少年に、父は。
「これからは、お前がバイオレットだ」
少年の笑顔が消え去った。
少年が王子であり、王妃となった瞬間だった。
「ここから、あのガキの女装が始まるってわけね」
「国王はやっぱり親殺しだったね」
「これは何年前?」
「確か、前王の崩御は、五年前だね」
五年もの間、国王は親殺しの罪を隠し、市民の前を歩いていたのだ。
華やかなドレスで着飾った王子は、彼女たちが初めて出会った王妃そのものだった。瞳にはもう色がない。父に強く抱き締められながら、少年は心を失ったのだ。花弁が舞う。
「バードック、おいで」
父に促され、王子は王妃の姿で寝台に登った。父は幸せそうに息子の顔を撫で上げる。嗚呼、いつまで。少年の声が空間に響いた。寝台で父の腕を枕とする王妃は、虚ろに目を開いたまま、動かない。隣で眠る父が、いつ自分の肌に触れてくるのか、恐ろしくて適わなかった。
「……で? 結局あんたは犯されたの?」
「カルミア」
後ろでうっすらと笑みを張り付かせる桃色の少年。相棒の制止を払って詰め寄れば、ゆったりとした動作で首を傾げた。それに女は眉を顰め、重く息を吐き出す。惚けたところで見ていればわかる。あの男は、我が子を愛でていただけなのだ。それに、この少年自身が気付くことはない。
「なんであんたは、父親を殺したの」
「気持ち悪かったから」
「この男は、あんたに手を出してない」
「今は、ね」
「……」
王子はムートンを床に落とし、寝台に眠る二人へと歩んだ。寝息を立てる父と、頑なに目を閉じようとしない彼自身。父の喉元へと腕を伸ばした。それは触れることなく透け、花弁へと変わる。
「ボクは、独りになりたかったんだ」
花弁が辺りを包み込み、金属のぶつかる騒音がけたたましく響き渡った。屋敷の中を、鎧の兵が埋め尽くす。公安に似た近衛兵も入り交じり、新たなる国王の往来に、熱気が充満していた。白と赤のローブを身にまとい、国王は純白のマントを翻す。彼に連なる鎧の隊列は、大きな階段を降っていった。上階から見下ろす王妃は、誰もが見えなくなるとそこに腰を落とす。静かな屋敷に彼の吐息がこだました。
「お父様を、殺してほしいと。そう言ったのですね」
聴こえた声は王子のものでは無い。コツコツと響くヒールの主に、カルミアは目を見開いた。黒衣に身を包み、王妃へ歩み寄る女。鍔の広い帽子の下で、甘い香りが、仄かに感じられた。
「新国王陛下を殺す理由が、わたしたちにはありません」
「……」
「親殺しですか。その証拠は? 残っていますか?」
「……」
「そうですね。ではまた、調べに寄越します」
王子の声は聴こえない。パクパクと口が動いても、ただ空気が震えるだけだ。しかし女は王妃を見て頷くと、ハイハットから覗く髪を揺らした。その首筋に、カルミアは剣を振り下ろす。
今、やらなくては、今!
「カルミア!」
勢いのあまり床に叩き付けられた女を抱き起こし、少年は嗚呼と声を絞り出した。これが、彼女の探していた。二人をすり抜けていく女に、復讐の女は歯を剥き出し、息を荒らげる。
「行くなッ!」
女の足が止まった。こちらを振り返った女の顔に、息が止まる。
「あなたが過ちを犯さぬことを、お祈り申し上げます」
開け放たれた扉から漏れる陽の光を浴びて、淡い黄色が眩しい。赤紫に鬱血した痣は、まるで蔦が絡まる花のよう。今度こそ去っていった女の後ろ姿を睨み付けながら、カルミアは地面を強く殴り付けた。
花吹雪が視界を覆う。
次に目にした光景はもう、つい先ほどのことだった。国王の隣で、虚ろな目の王妃は、戸の開く音に耳を動かす。ベールの向こうから現れた女に、嗚呼やっとか、と声が漏れた。
「私は…… あの女の差金ってわけ……」
膝をついたまま、女は拳を握り締める。黒服の女が言い放った「過ち」は、目の前で起きてしまった。それは暗示だったのか。記憶の中のカルミアから銃を素早く奪い、父を射殺するドレスの少年は、その後ろで見守る彼自身と、本当に同じ思いで撃ち続けているのか。父が倒れるその瞬間を見て、王子は僅かに眉を動かした。
「お姉さんたちが来てくれたから、ボクは独りになれた。感謝してるよ」
「……」
「でも、独りになっても、いくら笑っても、胸が苦しいんだ。何でだろう?」
「君が後悔しているからじゃない」
カルミアを立ち上がらせ、少年は自身が拳を突き出す様を眺めていた。鎧の棘が、少年の拳を抉る。嗚呼、あのときか、と手の甲に触れた。黒い布は、再びそこに巻き付けられていた。
「そんなの、してない」
少年と王子の視線が交わる。すぐに伏せられた王子の瞳を追い掛けて、少年は自分より少しだけ背の高い少年を見上げた。
「バイオレット」
「!」
「花言葉は、小さな幸せ」
二人の声に、カルミアはそちらに視線を移す。あの女の暗示はもしかして。凛々しくも王子を睨み付ける少年は、その拳を彼に突き付けた。
「君と二人で、王様は幸せになろうとしたんだよ。気付かなかったわけじゃないよね。君は思い込みから、惨くも孤独に縋ろうとしたんだよ、…… 可哀想なバードック」
瞬きを一つ、二つ、三つ。そうしてから、王子は僅かに足を後ろへずらした。
違う、そんなことが聞きたいんじゃない、だって父様は、ボクは。
ぐらりと視界が揺らめいて、息が詰まりそうだった。足が縺れ、そのまま重力に従おうとした時、柔らかな女の手によってそれを阻まれた。
「……父親と二人きりの生活は、苦痛だった?」
「……あたりまえだよ」
「母親と祖父がいたときと、どっちが苦痛?」
「……」
「あんたはもう麻痺してる。わからないのよ、そんなこと。わかるわけがない」
少年の瞳に涙が浮かんだ。薄れていく視界を頼りに、自分を見つめる女へと、その腕を伸ばす。もう言葉は出なかった。
「過去のことなんて、囚われているうちが花なのよ」
声にならない哀咽は、少年の瞳を伏せさせる。
バードックは悲しい花。
本物の王妃の愛を受けることはなく、父の愛を受け入れることはなかった。少年のこめかみに、弾の尽きた拳銃を突き付ける。少年は微かに頬を持ち上げた。
薄汚れたボクを、殺してくれてありがとう。
トリガーを引く振りを見せてから、女は静かに瞼を落とした。
静まり返る教会を見上げて、カルミアは重い息を吐き出した。まさかこんなところで、彼女が探し求めていた黒服をその目に焼き付けることになるとは。しかしどうして、確かな感触を掴んだ気がしていた。
隣で腕を組む少年は、道端に倒れ込む街人たちを眺め、彼女のように息を吐き出している。国王も、王妃も、王子もこの世から去ったのだ。これらの人々が目覚めたとき、国の混乱が始まるだろう。しかし、彼女には、そんなことは関係ない。
「ねえ」
少年ははたと彼女を見上げた。言わんとすることがわかったのか、ああと声を零すと、静かに歩き始める。
「君が探す黒服の姿は、僕も確認できたし、情報屋を探さないとね」
「……あんた」
「王都で、待ち合わせしてるんだ」
「……」
黒い空に浮かぶ月が、その姿を雲に隠した。暗闇の中で、女は少年の後へと続く。王都、花の街。
「……あんたの戴冠式じゃないでしょうね」
「……あれ、バレてた?」
少年のわざとらしい笑みに、溜息が漏れる。王子の記憶にも登場した、暗く汚れたあの部屋。そこで見つけた写真に、確かに写っていたのだ。王と王妃と、そして幼い少年が二人。
桃色の少年と、金色の少年。
金色は、目の前の憎たらしい少年だ。親子にしては、あまりに似ていない。となると、甥という言葉がしっくりくるのだ。それに。
「あの国王は私たちを見て、何故ここにいる、そう言ったでしょ」
「ああ」
「誰だ、じゃないのは不自然」
「確かにね」
少年が親しげにバードックへと語り掛けていたのと頷けた。そんな旧知の間柄を、彼女が消し去ったのだ。それに対し、くすくすと笑いを落とす少年は、やはり清掃屋に違いない。
「昔にちょっと話したことがあるだけ。僕は国王なんて興味無いし、自分でもわかってるよ。こんな子どもに何ができる?」
女は何も答えない。少年とて、彼女が何も言えないことなどわかっていた。真夜中の風が彼女の髪を、破れたスカートを揺らす。少年は腰のポシェットに手を掛けた。手の甲が、何故だか疼く。
「ともかく、僕の仕事はこれでおしまい! あとは君の願いを叶えるだけだよ。舞台は、花の街。君の故郷だ」
何でも知っているんだな、と女は僅かに鼻を鳴らした。少年の隣に並び、街灯のない道を見渡す。教会から離れてしまえば、倒れる人影はどこにもなかった。朝目覚めて、あの聖堂に眠る遺体を見たとき、彼らは何を思うだろう。
「ああ、そうだ」
少年はふと、カルミアを見上げた。ようやく顔を覗かせた月明かりに、彼女の髪が煌めく。
「カルミア、ありがとうね」
「……何? 仕事への労いか何か?」
「それもあるけど。一応、身内だから」
「ああ……」
そっと髪飾りに触れる。少年の甲に眠る一片。それを失った、不格好な花だけが、彼女の髪を飾っていた。
「バードックへの、手向けの花。きっと地獄で、ちゃんと笑ってるよ」
「足しに、なればいいけどね」
白い花が桃色の髪を飾る。幼く美しい亡骸は、手を組ませてイリスの前に眠らせた。誰も彼のことを知らなかったのだろうか、それとも知らぬ振りをしていたのだろうか。
少年の小さなワガママは、この国を踊らせる。
孤独を謳う、小さな花は、暗い地中からやっと顔を出したというのに、その背伸びはあまりにも滑稽で、悲しみだけが尾を引いた。
可哀想なバードック。
少年の呟きをはっきりと聞き取って、女は左足の拳銃を強く握り締めた。このまま、自分のために進むより他に道はない。
待っていて、フリージア。
掠れた声が、夜空に吸い込まれていった。
最期の舞台は、花の街。
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