第3話 晴の街
澄み渡る青空。
雨、曇という億劫な天候の元歩んできた彼らにとって、これほど清々しい気候はない。ぐっと両腕を天に突き上げながら、少年は街の門を勢いよく潜り抜けた。
「いっちばーん!」
「……何してるの」
じとりと溜息混じりに吐いてやると、少年はおかしそうに彼女を振り向く。それにまた息を吐き出せば、その隣で少年と同じように腕を振り上げ、男が走り出した。
「にばーん!」
「……」
「……」
「いやぁ、やはりこうも晴れやかですと、心が踊り出しますねぇ〜!」
曇天の街でああも傷だらけとなっていたというのに。男は意気揚々と腕を振り乱していた。好物をたらふく腹に流し込み、すっかり回復を遂げた男の姿に、二人は深く息を吐き出し、ゆっくりと街を見渡した。
街路樹は青々と繁り、ガヤガヤと人の波も忙しない。カクタスが言い放ったと同じように、この街の人間たちも日々心を踊らせているのか、路肩に集まる女たちは朗らかに豪快な笑いを振り撒いていた。
強い日差しが目に痛い。今まで訪れた街とは違い、露店も多く、新鮮な食材が所狭しと並べられていた。それに影を落とすのは、家屋を繋ぐアーケード。これが彼らの唯一の避暑地なのだろう。一行もそれに倣い、頼りない日陰を歩む。
「情報屋ー! 今度のターゲットは厄介なんだからさ、早く情報収集に行ってきてよー!」
「……厄介?」
手近な露店で果物を一つ摘み、カルミアは同じように試食を口に運ぶ少年をちらりと見た。
「わ、これすごく甘い!」
頬に丸い果実を含んだまま、ダリアはきゃっきゃと店主に詰め寄る。何やら交渉を始めたと思いきや、店主はカルミアをちらりと見やり、頭を搔いて少年に手提げを押し当てた。籠いっぱいに敷き詰められた、赤くたわわに太った双子の果物を手に、至極ご満悦なようで、女の元へと戻る。
「ねぇ、ちょっと」
「え? ああ。今回のターゲットはね、きっと今までみたいに順当には行かないと思うよ。なんたって――」
少年の声は街の歓声に掻き消された。突如、ラッパの音色が高らかに響き渡り、先までダリアと話していた店主も、慌てて店先へと躍り出ると、大きく腕を振り上げた。街全体に熱気が帯びる。
「……なんなの」
猛る人々に押され、不満に眉を顰めると、くすくすと笑みを零す少年と目が合った。つい今しがた手に入れた果実をまた口に運び、そのヘタで人波の先を指差す。
「この街にはね、王様がいるんだよ」
人の垣根から覗く横一列の兵隊。公安によく似た制服に身を包む彼らは、紛れもない国王の近衛隊だ。
「はぁ? なんでこんなところにいるの。王都はここじゃないでしょ」
「王様は、太陽が好きなんだって」
日差しが強い。キラリと鋭い光が彼らの元へ真っ直ぐに煌めいた。目を潜めてそちらを見れば、金色に輝く髪と、それに存在を大きく放つ、黄金の冠が目に止まる。白いマントが翻り、集まった民衆に片手を上げた。
「あれが、国王……」
台座に取り付けられた腰掛けに手を置き、国王が存在を放つ舞台は、六方を屈強な兵が担いでいる。その周りにはカチャリカチャリと鳴らす鎧の兵団。上下に揺られながら、国王は満足気に太陽の下、街を見渡す。彼が手をやるこれまた重厚な腰掛けには、白いドレスに身を包み、まるで人形のように動かず前だけを見つめる人間が座っていた。
顔は見えないが、若い。確か国王の奥方は随分と歳の差があるという噂を、カルミアは耳にしたことがあった。名前はバイオレット。あれは、王妃か。
「随分とお気楽な王様ね」
「うん、だから余計に厄介なんだ」
「……まさか」
「そう」
廂の下へと逃げ込み、ダリアは女に微笑む。人混みに声が掻き消えそうだった。
「彼が今回のターゲットさ」
宿屋の窓が震える。未だ歓声は鳴り止まず、広場で高らかに声を張り上げる国王の演説に、街人たちは夢中だった。
「我が愛しの民たちよ! 此度もまた、色とりどりの豊作を、天より降り注ぎし神の陽に感謝を捧げようではないか!」
アホらしい。蒸し暑さに窓を開放しながら吐き出し、女は広場に目を向けた。街の中心に、花壇で覆われた日時計が佇んでいる。それと向かい合うように、国王を乗せた台座は腰を下ろし、人集りの中で金色が光った。宿屋は日時計の目と鼻の先。鬱陶しい程に白熱した人々を眺め、カルミアは息を吐き出す。
「あの男が、親殺し…… ね」
「世襲の為だと思うけどね。それでもご法度だよ」
「公安が手を出せないのも無理はないわね」
公安と近衛隊は親戚のようなもの。つまりは、国王の監視下に、公安もまた存在しているのだ。そして彼は、その名の通り、国の最重要人物である。彼を捕らえることは即ち、国を葬り去ることになるのだ。
「……世継ぎは決まってるの」
「ふふ」
「なに」
「なんでも? 世継ぎね、一応王様には子どもが一人いたはずなんだけど、前王殺害の際に一緒に行方不明になったみたい。自分で殺したんじゃないかな? だから、王都…… 花の街にいる、彼の甥が次期王候補に上がってるみたいだよ」
花の街。懐かしい響きだ、とカルミアは思う。彼女が親殺しとなるまで、家族三人で過ごしていた四季折々の街。それこそが花の街なのだから。
「そ。なら、殺しても問題ないってわけね」
「じゃないとこんな依頼出さないよ」
一応は、彼らもこの国の人間であることに変わりはない。ぷつり、と小さな音が耳を付く。先程屋台で手に入れた双子を摘みながら、ダリアはまたロッキングチェアを漕いでいた。
「一番厄介なのは、彼の立場じゃない。彼に対する、民衆の信頼さ。聞こえるでしょ? この歓声」
ワアッと拍手が巻き起こる。国王の演説は佳境を迎えていた。風船が舞い上がり、破裂する。色とりどりの紙吹雪が、歓声と共に彼を包み込んでいた。これを、カルミアが赤一色に染め上げるのだ。
「……寝首を斯くしかないわね」
「まるで暗殺だね。ふふ、そうしよう」
民衆の目に触れてはならない。自分のためにも、彼らのためにも。窓枠から身体を離し、カルミアはダリアの横をすり抜ける。
「どこ行くの?」
「観光」
「やめた方がいいよ?」
「なんでよ」
バタバタと部屋の外が騒いだ。転倒する音と共に扉が開き、眼鏡が室内に転がり込む。
「何してるの」
眼鏡に問いかければ、その持ち主は慌ててそれを拾い上げ、情けない顔で女を睨み付けた。
「私はコレじゃないです! こっち!」
「……わかってるから、何してるの」
「ああ! 大変なんですよ、お嬢さん! あなたの事が噂になってます!」
「……」
肩を揺らし、女の髪に視線を止める。ばっとそちらを指差すと、大きく息を吸い込んだ。思わず、カルミアは両手で耳を塞ぐ。
「スノードロップ! 死を運ぶ女が、やって来たと!」
「うるっさい!」
耐えかねて、ダリアは男を小突いた。そして溜息を一つ。
「ね? だからやめた方がいいんだよ」
「……あ、そう」
あの時の店主だ。少年の笑みを見て、カルミアは確信する。どこから噂が立ったのかも、容易に見当はついた。傲慢なナルシサスを討ち取った、曇天の街。あれは曇りがちな空のせいで時間が不明瞭だったが、昼の出来事だった。誰かに目撃されていてもおかしくはない。若しくは。
「じゃあ、夜に起こして」
ロッキングチェアの隣で膨らむ柔らかな寝台。そちらに身体を預け、カルミアは少年を見る。
「了解。情報屋が何もしないように、見張ってるね」
「よろしく」
「私そんなに信用ないですか!」
うつらうつらとする意識の中で、少年と男の口喧嘩がまたと聞こえた。嗚呼この二人は、本当に仲が悪いな。
父は穏やかで、几帳面で、臆病な男だった。いつも自分のアトリエに篭もり、食事の時間は彼女が呼び出しに行っていた。そのたびに、扉が開くたびに、父は肩を跳ねさせるのだ。
全く仕方が無い父だ、とそのときは笑っていた。妹も、そんな父親を「小動物みたい」と言って微笑んでいたから。
あの鉄の塊が、妹の命を奪ったと知るまでは。
だから何度も、母の死について問いかけ続けていたのだ。
「病気だったんだよ」
その日は、不治の病を患っていて、もう永くはないと気付いたから、家族の前から姿を消したのだと言った。
「事故だったんだ」
別の日は、出先で落石に呑み込まれたのだと言った。
「殺されたんだ」
また別の日は、黒い悪魔に鎌で切り刻まれたのだと言った。
一貫性の無い父の言葉に、彼女は不安が募り、その頃には妹も俯いて父と目を合わせなくなっていた。それから暫くしてから、妹は姿を消したのだ。父親が、狂っていると女は思った。
「父さん」
父のアトリエは好きだった。父が仕事に没頭し、真剣な顔で器用に鉄を削っている姿が好きだった。父はその器用な手先で、不器用に自分たちの頭を撫でてくれたから。
だからこそ、信じられなかった。あの日食事を告げに訪れたアトリエで、颯爽と立ち去る黒服の姿を涙ながらに見送る父の姿を見た時は。
花の香りがした。どこかで嗅いだことのあるような、甘い香りが。
何度も何度も、父は札束を抱き締め、その後ろ姿に涙を流し続けていた。まさか、まさかと頭に血が上った。
「すまない、フリージア……」
その言葉が決定的だった。気づいた時には父親の胸倉を掴み上げていた。
「ああ…… フリージア…… 私を…」
父の言葉は耳に入らなかった。何度も殴って口を塞いだ。散乱した机に無造作に置かれた拳銃を掴み、震える手で父の腹を撃ち抜いた。噴き出した血がこちらに舞い、ようやく冷静になっても、燃え盛る怒りの炎はどうしても抑えられなかった。
「母さんもいない…… フリージアも…… 父さんが…… あんたが狂ったからッ!!」
激昂が弾に吸い取られていく感覚だった。鋭い銃声音が泣き止んだとき、見知らぬ男たちに囲まれていたが、そこに父に札束を渡した黒服はいなかった。だから探さなければならない。早く、花弁の痣を――
本当にそれは君の記憶なの?
「――てない。だから、このまま君は」
「しかし――!」
「おっと、お目覚めかな?」
少年の笑顔が視界を覆う。手のひらで軽く胸を押してやれば、すぐに背後に揺れるロッキングチェアへと戻っていった。壁にもたれたままの男が眼鏡をかけ直すのが見える。
「随分と早いお目覚めですね。決行にはまだ時間があるのでは?」
「すごい汗だね。嫌な夢でも見た?」
「……誰かさんのおかげでね」
上体を起こし、窓の外へと視界を動かす。青い空は茜色に染まり、夕刻を告げていた。定位置へと移動すれば、日時計が南西に伸びている。夕暮れの風が心地好い。
「そうそう、今情報屋と話してたんだけど。カルミア、妹さんを殺した黒服の特徴って、何か覚えてる?」
「え?」
「今回のターゲットで目標は達成されるし、君の願いを叶えないとね」
首を傾げるカクタスを制し、ダリアは椅子から身を乗り出すと女を見つめて足をパタパタと跳ねさせた。女の目が光る。ようやく、しかし唐突に、その時が訪れようとしている。
「……首筋に花弁の痣がある。それだけよ」
「首に、痣…… なるほどね……」
「ダ、ダリアさん?」
少年の瞳が鋭く細められた。しかしそれも一瞬で、背凭れに体重を預け、バラバラにされた書物を捲り始める。途端に興味を無くしたのか、欠伸までも零した。
「ってことだから、情報屋。情報収集よろしくね〜」
「え、ええ? ですから私は――」
「ああもう! 早く行かないなら別の情報屋に頼むから!」
「……」
気圧され、男は言葉を噤む。そそくさと身支度を整えれば、名残惜しそうにしてから部屋を飛び出していった。気怠げに二人を眺めていたカルミアだったが、少年の溜息を合図に、その手から資料を一枚抜き取った。
「随分と、避けるのね」
「……カルミアも覚えてるでしょ、曇天の街でのこと。情報屋は足でまといになる」
「ふうん」
窓の外では、街頭に光が灯り始める。備え付けの洋燈に火をくべ、少年は彼女の隣に背を預けた。
「現王ダンデリオン・ホリホック=ピオニア。父親を殺した親殺し。開花能力は、……曖昧なんだけど、統率力だって。前王ローレルが健在だったときは、対人恐怖症とかで引きこもりがちだったみたいだよ」
カルミアが握る資料に、それらは全て記載されている。それに目を通しつつも、やはり扉の先が気掛かりだった。少年はいつものようにターゲットの情報を口遊む。その情報は、あの面倒にも寂しがりな男のものだ。自分自身を有能であると口にしていたがしかし、あれだけの手掛かりで、彼女の探し物を見つけることができるのか。見つめていても、ドアノブが回ることは無い。そうしていれば、頬を膨らませた少年が、彼女の視界を覆った。
「聞いてる?」
「聞いてる」
少年の瞳から視線を紙へと落とす。呆れ声が、鼻をくすぐった。
「……まあいいよ。情報屋によると、国王が居住しているのは、教会と連なる塀の中にある屋敷だって。正面は四六時中衛兵が見張ってるから、抜け道を使うみたいだよ」
「抜け道…… まさか教会じゃないでしょうね」
「もちろん、教会さ」
またもや教会。親殺しは本当に教会が好きなようだ。若しくはあの希望の女神に、吸い寄せられているのか。どちらにせよ、死者を弔うには最適の場所だ。
鐘の音が鳴り響く。空が、幻想の終わりを告げるかのように黒く染まっていった。
二人きりでの行動は、もう随分と久しい気がしていた。
前を歩く少年は、地図を頼りに、忙しなく首を回している。人の姿はない。この街の人間は、太陽を愛するが故に、彼が消え去った闇夜には興味が無いのだ。固く閉ざされた家々を縫い歩く中、少年はカルミアを振り返る。怪訝そうに眉を顰めてやれば、へへ、と笑ってまた前を向いた。こうも無邪気な子どもが、とカルミアは思う。
心中は複雑だった。自らが国の王を、仕留めんとしていること。そしてその先にしか興味が無いと言い放っていること。本当は穏やかではない。無数の空の微弱な光を見上げてから、その光のように弱々しく息を吐き出した。
「……大丈夫、私は、フリージアのために」
「何か言った?」
「……歩くのが遅いって言った」
「……意地悪だな〜」
コロコロと笑う少年は目を細める。わざと歩調を緩めれば、女の隣に並んだ。
「これが終わったら、カルミアと僕のバディもおしまいだね」
「いつの間に相棒になってたの」
「僕の仕事を君が手伝って、君の願いを僕が手伝う。立派なバディじゃない?」
「あんたが勝手にやってるんでしょ」
「ふふ、まぁ、そうだけどね」
声を潜めてしまうのは街が寝静まっているからか。少年の旋毛を眺めていると、顔を上げた彼と視線が交差した。
「それが嫌なら、今回もちゃちゃっと終わらせよう」
視線に誘導される。正面に顔を動かせば、闇夜に真白く浮き上がったいつもの建物。色こそ違えど、やはり形はどの街でも同じだ。高く天に伸びる塔が、厭に存在を放っていた。
しかしここはただの通り道。警戒しつつも扉を開けば、あまりの静けさに肩を落とした。まさか相手も、こちらがやってくると先手は打っていないか。入口の両脇から伸びる細いスロープへ、分かれて昇る。丸く光を差すように空けられた窓穴から、大きな屋敷が伺えた。衛兵は三人。黄金の槍が見つけてくれと言わんばかりに存在を大きくしている。あれにこちらが見つかれば厄介だ。姿勢を屈めて登り切れば、先に次の扉の前で待機していた少年が口に手を当て、肩を震わせていた。呑気なものだ。
「カルミア」
震えの収まった少年が、扉の先、窓のない通路の中央を指差す。線状に月明かりが漏れていた。
「……」
そこへ足を踏み入れ、四方を見回す。はた、と目が止まった先は、壁の一点。僅かにタイルがずれ、風の通りが感じられた。それを外せば、細い梯子が地面の下へと続いていた。月明かりを吸い込む暗い穴は、ひたりひたりと奇妙な音を立てて深く潜り込んでいる。壁を隔てた先に佇む衛兵に気付かれぬよう、音も無く降り立ち、すぐさま穴蔵へと足を滑らせた。
「……ふう」
息を吐く音すら暗闇に消える。月明かりはもう宛にはならないな、と目を凝らしても、一足先すら視界に捉えられなかった。壁に手を這わせようと伸ばしたが、なかなかそこにすら辿り着けず、何度も手を扇ぐ。それを、小さな手に力強く掴まれた。
「こっちだよ」
少年の金の髪が煌めいた気がした。ずいと引かれ、女はその勢いのままに身を任せる。迷うことなく進む少年は、まるで明るい道を歩いているかのようで、女は呆然とその見えない手を見つめていた。
「……ああ、カルミアは見えないんだよね。まあ、安心してよ」
声を潜め、少年は笑う。
「僕、目はイイんだよね」
この少年が清掃屋たる所以はここだろうか、女はふうんと鼻を鳴らす。まるで今まで、本当に清掃屋として生きているのか疑うほどに、この少年は女の殺しを見ているだけだったのだ。突然こうもリードを握られると調子が狂う。
「さて、出口だよ。情報屋によれば、この通路は屋敷の倉庫に続いてる」
少年に促され、細い鉄を掴まされた。両手でまさぐると、それが梯子であることがわかる。ヒョイと風が切り、カツカツと軽い音が小さく響いた。少年が登っているのだ。ギシリ、重い音と共に、明かりが漏れる。
「わぁ、月が綺麗だね」
腰に手を当て、窓の外を見上げる少年。重い床扉を落としてから、女は辺りを見回した。
散乱した衣類や宝物。薄汚れた窓の下には、分厚い木板が立て掛けられている。崩れそうな程に、腐りかけだ。足の踏み場もないとはこのことで、あまりに綺麗とは言えない室内に愕然とした。ここは管理する者すら不在なのか。男ならまだしも、あの王妃は何をしているのだと、憤慨に軽く衣服を蹴飛ばした。
と、足先に角張ったものが触れる。拾い上げてみれば、しっかりとした作りの写真立てで、そこに写っていたものに目を見張った。少年は、知っているのだろうか。ちらりと視線をくべてから、振り向いた少年の笑顔に、思わずそれを背に隠した。
「……寝室はどこ」
「二階だね」
「早く行くわよ。案内して」
知ろうが知らまいが、どうでもいい。自分に言い聞かせ、女はそれを衣服の山の上に投げ捨てた。
屋敷内部は奇妙なほどに静まり返っていた。
壁に飾られた絵画の女と幾度となく目が合い、まるで監視されているかのような錯覚に陥る。暗い廊下に響く、自分たちの足音だけが、これを現実のものとしていた。そうまでに、気配がない。屋敷内に衛兵も置かず、国王は随分と呑気なものだ。
目の前に現れた重厚な扉の向こうで、そのターゲットは寝息を立てているのだ。そっとそれを開放すると、風に靡く薄い布が寝台の脇で彼女たちを出迎えるかのようにはためいていた。
ターゲットの足が見えた。左脚から拳銃を抜き、静かにそちらへと歩む。天蓋の布を掴み、銃口を国王に突き付けた。
「ッ!」
背筋が凍る感覚。トリガーから指を外し、息を呑んだ。
薄暗い室内に浮かび上がる二つの瞳が、彼女を見つめていたのだ。
人形のように動かないそれから離れるよう、一歩二歩後退すると、人形はゆっくりと寝台から立ち上がり、隣で眠る国王を跨いで、彼女の手を掴みあげた。
「カルミア……!」
思わずと、ダリアが悲鳴を上げる。間を割って、女を掴む人形を蹴り飛ばすと、彼女の前に立ち塞がってそれを睨み付けた。
「王妃……」
まるで感情のない瞳は、半透明なベールの下で動くことがない。国王に寄りかかるように倒れた後も、王妃はただ静かに暗殺者二人から目を逸らそうとはしなかった。横たわる足が動く。
「何だ……?」
国王の声が地鳴りのように響いた。暗殺失敗だ。動き出すターゲットを睨み付けながら、カルミアは再びトリガーに指を添える。それを視野に捉え、国王は上掛けを剥ぎ取ると、王妃の前に立ち上がった。
「何故ここにいる!」
「国王様、あなたの首を貰いに来たよ」
傍らの少年はくつくつと喉を鳴らす。男の声が耳に響き、嗚呼、面倒だ。国王の顔が、みるみる青く染まっていった。それでも、王妃は虚ろな瞳を揺るがせることはない。
「……尊属殺の罪、か。いいだろう、しかし私が首を採ったところで、この国の安寧はどうなる?」
「甥、がいるでしょ」
ちらりと視線をずらせば、天蓋が揺れる。カルミアの言葉に、国王は軽い笑いを零した。
「ふん…… そんな子どもに何が出来る」
「じゃあこの国はおしまいかもね? それでも、これが僕たちの仕事だから」
ダリアの演説に、カルミアは顔を顰める。仕事、そんなことはどうでもいい。彼女はただ、頼まれ事をこなし、その見返りに縋ることしか残されていないのだから。
「……私はこの国を愛している。土地を、国民を。人々はそんな私を慕い、私はそれに応える。何が不満だ」
「さあ? 公安の考えることなんてわからないよ」
二人の対話を耳にしながら、どうしようもない違和感が、女を襲っていた。トリガーを引くタイミングが掴めない。目の前の国王は、動揺しつつもあまりに自然で、こんな「普通」の男を、彼女は今から手に掛けようというのか。
「公安の犬、か。なるほど、理解が叶った。これまでのことも、そうか」
「……何を言っているの」
「女、お前が巷を賑わせている、死の花だな。なるほどそうか、うん」
「……何なのよ」
違和感と不愉快と。尚も唸り、窓に視線を移した国王は、半歩後ろで座る王妃を柔らかく撫でた。ベールの下で、桃色の髪が揺れる。やはり王妃は動かない。室内を照らしていた月明かりが、雲に隠れた。
「国民は、お前たちに任せよう」
「遺言ってことだね。カルミア」
呼ばれて、ハッと女はトリガーに力を込めた。
こうもあっさりで、本当に良いのか。これが最期なのか。今日初めて出会った自国の主。何事も無く生きていくことのできた以前までの日常を作り出していた男。
嗚呼、イリスよ。柄にも無く、女は瞳を伏せた。トリガーが軋む。
「カルミア!」
躊躇いも一瞬で、すぐにそれは乾いた銃声の音色に叩き起こされた。再び目を開き、自身の掌を見て驚く。拳銃が、ない。
「……やられたね」
床に腰を落とした少年が、息を吐き出した。少年を足蹴に、女の目の前に立ち塞がるのは半透明のベールで。心臓を射抜かれた国王は、憐れにも目を見開いたまま、血を吐いた。
「バ……な、ぜ……?」
国王が手を伸ばす先は、血塗れの白いドレス。無表情に見下す王妃の目は冷ややかで、伸び来る男の手に、更に銃弾を浴びせる。何度も、何度も。空を割く音が、響き渡った。
「は……」
とうとう事切れた王を前に、王妃はポトリと拳銃を手放す。そのまま亡骸に歩み寄り、そっと頬に手を触れた。
「ははははははははははははははははははは!!」
「!」
若い、声変わりに掠れる、少年の声。
「死んだ! 死んだ! やっと死んだ! 嗚呼、やっと! そうか! 死んだか!」
王妃の姿をした何かが、高笑いと共に、国王を殴り飛ばした。赤く染まったドレスを破き、大股を開くと、その脚に王の頭を挟んでのたうち回る。
「あんたは…… やっぱり」
先の倉庫で見た写真が脳裏をチラついた。国王と、濃い紫の髪を持つ女、奥方のバイオレットと、その間に収まる桃色の髪の子ども。目の前の王妃は、彼らの子だ。
「バードック・ホリホック。行方知れずだなんて、真っ赤な嘘か」
腰の埃を叩き、ダリアは目の前で発狂する少年を睨み付けた。
「おかしいと思ったんだよね。本当の親殺しは、こっちだ」
「チッ」
嗚呼、やはり。違和感はこれだった。床に打ち捨てられた拳銃を拾い、女は少年に銃口を向ける。笑い声が、叫び声が、耳に痛い。
「君たちはボクに機会をくれた! ボクがこの下劣な男を殺す機会を! ずっと待っていたんだよ! 嗚呼、今日はなんて良い日なんだ! 最高のもてなしをしなくてはならないね!」
無造作に父の亡骸を投げ捨て、少年は二人に歩み寄る。手拍子を二つ落として、窓の外へ口笛を吹いた。
「さあッ! 宴の始まりだアッ!」
少年の声が空気を震わせ、屋敷中に轟く。あまりの豪音に、カルミアは耳を抑えた。脳を直接掴まれ、揺さぶられる感覚。気持ちが悪い。あまりの苦痛に、力が奪われていく。次の瞬間には、その場へ崩れ落ちた。
「カルミア!」
ダリアがすぐさま駆け寄るが、彼もまた目を顰め、その表情を苦痛に歪ませている。バタバタと、甲冑の音が押し寄せてきた。
「お客様だよ! さあお前たち! 最上級の舞いを見せておくれ!」
狂い舞う少年は、ヒラヒラと月明かりが降り注ぐテラスへ躍り出ると、その場でくるりと回転する。それに合わせて、部屋へと押し寄せた近衛隊はカチャカチャと槍を遊ばせ、女たちを囲みこんだ。
「ちょっと、カルミア! しっかりして!」
少年の声が遠く感じた。酷く目眩がする。自分が揺れているのか、世界が揺れているのかすらわからなかった。嗚呼、耳が、頭が、軋む。
「……ッ」
ぐらり、女の身体が大きく揺れた。足が地を離れる。少年は小さな身体で女を抱き上げると、その瞳を大きく見開き、甲冑の隙間を拳で突いた。
鎧の騎士が、隊列を乱す。その隙に、少年は頭からそこへ飛び込むと、扉の外へと走り出した。このおかしな空間から、早く離れなければ、自分までも狂ってしまう。甲冑から伸びる腕は、部屋の外で動きを止めた。
「……帰るの? ふうん、でもお祭りはこれからだよね」
狂気の少年の歌が響く。カラカタカタ、カタリ。さて次は、どんな歌を唄おうか。鎧の肩車に乗り、月光を浴びて舞い踊る紅顔の美少年は、艶やかな笑みを浮かべて空を仰ぐ。
夜は始まったばかりだ。
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