第2話 曇の街

 厚い雲の合間から零れる陽の光は弱々しく、街路樹は伸び悩んでざわざわと騒ぎ立てていた。人々はまだらに、そして足早に家屋へと駆け込む。

 カルミアたちも、同じようにして宿屋に飛び入ると、ダリアが手配していたらしい大部屋で身体中の埃を叩き落とした。

 嵐が街を襲っているのだ。雨の街から辿り着いたばかりだというのに、激しく吹き荒れる暴風に、彼らは重い溜息を吐き出した。

「ツイてないなぁ」

 頭に乗った木の葉を指で摘み、備え付けのダストボックスに放り投げる。すぐさまロッキングチェアーに座り込み、がっくりと肩を落とす様は、まるで子どものそれではない。それほど、ここへ来る道中の天候にうんざりしているのだ。

「……で、あんたはいつまで一緒にいるの」

 髪を振り乱し、窓辺に腰を落とすと、カルミアは大きな紙を広げる男を睨み付けた。

「おや、お邪魔ですか?」

 情報屋のカクタス。紙の皺を伸ばしていた手先で、眼鏡を掛け直すと、ゆったりとした動作でカルミアに歩み寄る。肩に手を掛けようとしたところで、彼女の手によって厳しく払われた。

「邪魔も何も、情報収集はできてるわけ?」

「そちらはご心配なく。私、見ての通り有能なんです」

「……あ、そう」

 それならばもう興味はない。窓辺は彼女の定位置。荒れ狂う街並みを眺めながら、息を吐き出す。窓に湯気が付着することはなく、雪が降り注いでいた雨の街よりは暖かい街なのだろうことを確認する。以前の宿と同じく、ロッキングチェアーの前には暖炉が取り付けられているが、それももう長いこと使われていないようだった。

 ギシギシと椅子を遊ばせながら、ダリアは面白くないと言いたげにカクタスをじとりと見つめた。

「勝手に僕たちの部屋に来てるけどさ、宿代ちゃんと払ってよ?」

「……情報の対価ということでいかがです?」

「ってことは、もう次のターゲットの情報入ってるんだ?」

「もちろん」

 皺の伸ばされた紙が、大きなダイニングテーブルの上に拡げられる。わざとらしく勿体ぶるようにカクタスは「ええと」などと言いながら、指で紙をなぞると、咳払いをこれまた大袈裟に零した。

「ダリアさんはもうご存知でしょうが、次なるターゲットの名前はナルシサス。父親を殺した、親殺しの男です。開花能力は脚。彼の蹴りは凄まじく、肋をやられた公安が多数あります。マリーの腕のように肥大化はしていませんが、まるで鉛のようだとの聴聞を得ています。また、脚力の増幅に伴い、スピードもやたらめったら速いですね。私なんかじゃ絶対追いつけない。人類最速なんじゃあないですかね? あ、化物か」

 スラスラと述べ終え、紙を手早く丸めると、誇らしげに二人を見回す。冷たい視線が二つ、カクタスの冷や汗を誘った。

「……相変わらず長い」

「はぁ…… まぁいいけど、スピードで勝負されちゃあ、こっちに勝ち目はないよね」

 剥き出しの左足に添えられた拳銃に視線が集まる。それを抜き構えると、動く対象を捉えるように左右へと動かした。しかし、すぐに降ろし首を横に振る。

「ゴキブリを撃つのは至難の業ね」

「突破口はないの?」

 ちらりと男を見れば、壁に掛けられた鏡で執拗に髪を整えていた。二人の視線に気付き、頭を傾げると、憎たらしい笑みを浮かべる。

「これ以上の情報をお望みで? うーん、今夜は花豚のステーキが食べたいですねぇ。あ、知ってます? 花豚って高級ブランドポークです。この街の特産品のようですよ」

「……」

 遠回しの追加料金。現金な男に眉を下げながら、雇い主は重い息を吐き出した。


 曇りの街に嵐がやって来るなんて。

 すれ違う街人が口々に吐き出している。年中厚い雲に覆われてはいるが、雨こそ降らず、落ち着いた気候に包まれているのだ。そんな街を襲う連日の暴風。買い物袋に詰められた缶の食材と、飛ばされそうになる子どもを大事そうに抱え、屈強な母親は風を避けるがために細路地を走る。三人の中で最も小さなダリアもまた、あの子どものように風を懸命に堪え、何食わぬ顔で歩く二人に続いた。こんな悪天候の中出歩くことになったのも、カクタスが握る突破口のためだ。

「私たちはどこに向かわされてるの」

「まあまあ、行けばわかりますよ」

 終始この調子で、カルミアは苛立ちが募っていた。髪飾りが飛ばされそうだ。そちらを手で押さえれば、今度は前掛けのように無防備なスカートがひらひらとめくれ上がり、その都度カクタスが片目でチラチラとこちらに視線をくべてきた。一瞥してやれば、ビクリと肩を跳ねさせて真っ直ぐに前を向き直る。その後ろでは、やはりダリアが身体を揺さぶられていた。

「風強すぎ。最悪なんだけど……」

「飛ばされないでくださいね〜」

「転ばないでよ。手でも繋ぐ?」

「…… 急に子ども扱いやめてよ…」

 言いながらも、少年の手が風に羽ばたくカルミアの袖に伸びる。その弱々しい掌に視線を落としてから、目を細めた。

 そういえば、妹とも。

 あの日は確か、母の命日だったか。


「お姉ちゃん、待って!」

 季節の変わり目を告げる、激しい風が吹いた。同時に色とりどりの落葉が辺りを包み込む。木々が頭を垂れる山道で、女は眉を下げて後ろを振り返った。

「転ばないでよ?」

 自分の後を忙しなく追い掛ける少女はあどけなく、見ていて危なっかしい。女が伸ばす手をしっかりと握ってから、少女は山リスのように頬を膨らませた。

「そんなにそそっかしくないですー!」

「どうだか?」

「もう!」

 女はカルミアだ。今の彼女とは違い、スカートの下に肌の露出を抑えるためのサポーターを巻き、一つに束ねた赤い長髪が活発な女性を思わせている。一方の少女は、ふんわりとした彼女とお揃いのワンピースを身にまとい、切りそろえられた黄色のボブヘアーがよく似合う。彼女がそう、カルミアが愛してやまないたった一人の妹、フリージアだ。

「お母さんのお花、見つかるかな……」

「大丈夫よ。母さんも、私たちに会いたがってるでしょうし」

 山の中での探し物。彼女達の母親が亡くなって、今日で三年。寂しさは、家族三人で耐え忍んできた。母という女性が、そういう人だったから。そんな母を偲び、称えるため、二人は母の名前の花を探す。父の工房の脇に添えられた、母の墓標に今年も飾るのだ。

「あ、お姉ちゃん、あの子……」

「……リス?」

「大変!」

 視線の先で、よろよろと這いつくばる小動物。草に絡まり、思うように身動きが取れないようで、弱々しく腕でもがいていた。フリージアは慌てて駆け寄ると、リスを手ですくい上げ、優しく撫であげた。

「……」

「フリージア?」

「死んじゃった……」

 伏せた顔は見えない。しかし、震える肩からその手を覗き込めば、ピクリとも動かないリスの真っ黒な瞳と目が合った。

「弱ってたのよ……」

「うん…… でも、かわいそう」

「そうね……」

 震える肩を抱き、ポンポンと撫でてやれば、少女はカルミアを向いて情けなく微笑んだ。

「わたし、この子のこと埋めてくるね」

「私も手伝うわよ」

「ううん、わたしがやりたいの」

 言って、少女は走り出す。呆気に取られながらも、気丈な優しい妹の姿に、カルミアは肩を落とした。そうしてから視線を落とせば、明るい橙の大輪に目が止まった。あっと声を上げ、それに手を添えると、思わず笑みが零れる。

「こんなところにあったのに…… 気付かないほど、あのリスが心配だったのね。母さんも、呆れてるかしら。……ううん」

 きっと笑ってるわね、と愛おしそうに半一重に咲き誇る一輪を摘み取ると、泥まみれで駆け寄る少女に大きく手を振った。

 あんなに優しい子はいない。

 あんなに、真っ直ぐで優しい子は。

 それなのに。


 ハッとして、カルミアは思わず腕を払った。その弾みで、ダリアが尻餅をつく。突然のことに目を白黒させてから、少年は彼女を見上げて唇を尖らせた。

「ちょっと〜! 気が変わったの? それとも冗談だったとか?」

「え? ああ…… そんなところ」

「ひどいなぁ〜!」

 思考に落ちていたなどと、言えるはずもない。風に煽られながらも、なんとか立ち上がる少年に、どことなく申し訳なさを覚えながら、カルミアは視線を泳がせた。

「うんうん、お嬢さんのそういうところ、私かなり惹かれますねぇ〜!」

 カクタスの軽口を視線で諌め、溜息を一つ。早くターゲットの元へ行かなければ。そして一刻も早く、花弁の痣を持つ、黒服に辿り着かなければ。そうでないと、いつまでも心が落ち着かない。歩調を早めようと身を乗り出すと、目の前にカクタスが躍り出た。

「はい、ストーップ! 皆さん、ここですよ〜」

 両腕を広げ、高らかに宣言する様は滑稽で、二人は眉を顰めると、彼が指し示す建物を見上げた。

「装備屋?」

 紫色の看板。艶やかなオダマキの花のエンブレムが、鈍く輝いていた。扉の小窓から覗く内装は、多種多様な武器が陳列しており、巨大な首切り包丁のようなものまで伺える。物珍しげに眺める二人の反応に、満足の笑みを浮かべると、カクタスは張り切って扉を押し開けた。

「そうですとも! この界隈では評判の良い店でしてね、私のこのパルプ紙さえ、この店で扱われている特注品なのですよ! 聞いて見て触って驚き! 何と、千切れたり破れたりすることのない特殊繊維が施されている代物です! さぁさぁ! 良いものを選んでしまいましょう!」

「……新調しろってこと?」

「それが突破口?」

「え? 何か問題でも?」

 白い目で息を吐き出す少年と女を眺め、男はゆっくりと頭を倒す。ちらりと目を見合わせ、二人はカクタスを押し退けて店内に上がり込んだ。

「装備を変えるくらいなら、情報でも何でもないでしょ。これで追加料金なんて、詐欺も甚だしいわね」

「ここは情報屋の奢りでよろしくね〜」

「だから私カクタス…… って、え? 奢り? 私が支払うんです?」

 窓の外から眺めていた店内はやはり武器や装飾品で埋め尽くされており、まるで飾り気のない質素な空間をゴツゴツと無機質なものへと演出している。

 何度目かのやり取りを見届けてから、カルミアは近くの剣に手を掛けた。刃渡り二足半ほどの滑らかな曲線を描く片刃の剣は、他の剣のように十字鍔が派手に装飾されたものではなく、シンプルなグリップが無造作に巻かれただけの、かなり粗暴な品だった。しかし、カルミアの左手にいやに馴染み、軽く振ってみれば、その軽やかさにふうんと鼻を鳴らす。

「わかりました! わーかーりーまーしーた! 払いますって! その代わり、花豚二枚ですからね!」

「一枚を半分に切ったら二枚だね。はい、決定」

「ちょっと! それは横暴ですよ! ……!」

 左手に力を込めて振るう。狙うは、うるさい男の首。ダリアの頭上から横に切るように剣を滑らせれば、カクタスは慌てて背中を仰け反らせた。間一髪のところで、前髪が少し散っただけに済む。

 カルミアが舌打ちを落とす中、後ろ向きにアーチを描いたまま、激しく脈打つ心臓を片手でそっと抑えた。

「……い、一枚で、お腹いっぱいです」


 風は余計に激しさを増していた。新たな武器を腰に預け、カルミアは先頭を歩む。剣の心得などない。しかし、化物として開花してからの自分の力を見て、カルミアはいかなる武器でも扱えるような気がしていた。愛用の拳銃であっても、元はガンスミスであった父の見様見真似だ。

「練習しておかなくていいの?」

「さっきので充分」

「本気でしたもんね……」

「さっさと行くわよ」

 赤黒い石に覆われた建物。とても神聖なそれとは思えないが、ここもまた、雨の街にあったものと同じ、イリスの教会だ。またしてもここにターゲットがいる。親殺しの化物は、女神に救いを願うのだろうか。そんなことをダリアが面白おかしく言うもので、カルミアもそう思えてしまう。赤い旗が閃く三角屋根を見上げれば、そこに慎ましげに添えられた小窓がキラリと輝いた。

「何です?」

 カクタスがガラス窓と同じく眼鏡を光らせた時だった。金切り声と共に窓ガラスが割れ、カルミアたちの足元に散らばる。

 何事かと教会の扉を蹴破れば、若い女がこちらに向かって飛んできた。否、飛ばされてきたのだ。女の顔面は晴れ上がり、こめかみから横に一筋、髪が抜け落ちていた。歪んだ鼻からは血が垂れ流れている。ゲホゲホと血を吐き出す女を抱き起こすと、女は震える声を絞り出した。

「わたしは…… ただ、あんたが…… 気にな、って」

 目は凹んでいる。肩を抱くカルミアをその相手と勘違いをしているのか、顔に手を伸ばすと、そのまま地面に落とした。

「……死んだね」

「あいつが、ナルシサス」

 カツカツと、軽い木のヒール音が響く。イリスの壁画に背を向け、男は息絶えた女の元へと歩む。彼女を床に寝かせると、カルミアはつい先程手に入れた片刃の剣をゆっくりと腰から抜いた。

「俺が気になる? その気持ちはよぉくわかる。だがお前は、俺の待ち人ではない。わかるだろう? 俺に相応しいのは、ただ一人」

 首を鳴らしてから、男は長い髪をかきあげた。整った白い顔が、その白い髪と共に赤黒い教会の中で異彩を放つ。

「……おや、また俺に愛を媚びる女が?」

「冗談」

「今まで見た女の中で一番の上玉だな。だが、デイジーには及ばない」

 溜息を吐き出す男は、懐から小さなコンパクトを取り出すと、自分の顔を映した。それを見て、また溜息。

「嗚呼…… デイジー…… 俺はもう夢を叶えたよ、デイジー……」

 愛おしそうに、哀しそうに、男は自分の顔を撫でる。その光景に嫌気が刺し、カルミアは剣で床を叩いた。

「デイジーって」

「彼の母親の名です」

 遅れて入ってきたカクタスは、そう言ってから、カルミアの足元に眠る女の遺体を見てうっと顔を顰める。その手には、小さな丸い髪飾りが握られていた。

「何それ?」

「先ほどのガラスの破片に紛れていました。バレッタ、ですね」

 小さな赤いバレッタ。僅かに血が付着している。先程事切れた女の持ち物だろうか。カクタスが目の前に掲げると、それを見た男の目の色が変わった。

「……それに…… それに触れるな!!」

「へ? な、なんですか?」

 思わず男を向いたカクタスだが、その視線の先に声の主はいない。怪訝に眉を顰めるも一瞬、カクタスは教会に陳列する長椅子に勢いよく吹き飛ばされた。

「カクタスッ!」

 ダリアが叫ぶ。飛ばされた彼の元へ駆け寄れば、ヒビの入れられた眼鏡の下に、血が被さっていた。思わず少年が男の肩を揺らすと、カクタスは呻き声と共に血を拭う。致命傷ではないらしい。しかし、その多量に付着した赤を見て絶句した。

 全くもって、あのナルシズムの男の動きが見えなかったのだ。ぐらつく頭を抑え、また小さく呻くカクタスを支えながら、ダリアは手早く男の背に抱えられた用紙を抜き取り、彼の回りを包み込むように円柱にして立てた。そのまま、カルミアを見て吼える。

「早く掃除しよう! コイツ、危険だよッ!」

「……そう、ね」

 カクタスから奪い取ったバレッタに、愛おしそうに頬擦りを止めない男。舌打ちを落としてから、カルミアは男に向かって駆け出した。振りかざされた剣をさらりと避けながら、男の瞳が彼女を捉える。

「熱烈だな。だが、俺とデイジーの時間を邪魔する悪い子にはお仕置きが必要だ」

「どんな仕置きをしてくれるってのよ」

「最高に最恐なお仕置きさ」

「わけがわからない」

 擦り傷一つつけることすら叶わない。男の俊敏な動きに翻弄されながらも、カルミアは剣を振るい続けた。男の脚が剣と交わる度に、まるで金属と擦れ合うかのような嫌な音が響く。

 ああ、うるさい。この男の原動力は何か、冷静に観察しなくともわかる。

 右手に握り締められたバレッタ。

 気持ち悪いほど愛おしそうに母の名を呟く男は、この激しい攻防の中でもそれを手放そうとはしないのだ。笑みを浮かべる男はあまりに余裕で、冷静過ぎて反吐が出る。

「……面倒」

 零しつつも、やらねばならない。彼女の原動力の為。刃を男の脚に滑らせると、そのまま上へと切り上げた。

「どこを、……ッ!」

 男の瞳が動揺に揺れる。剣先によって弾かれたそれを目で追ってから、男の長い髪が逆立った。

「貴様…… よくも、よくもデイジーを……ッ!!」

 激しい怒り。彼の立つ地面は、それに呼応するように脈打ち、ビシとヒビが入った。バレッタが落下するカランとした音が響く。呆然と眺めていたダリアだが、カルミアのしようとすることがわかると、すぐさまそれを拾い上げ、彼女に投げ渡した。

「これがそんなに大事? なら捕まえてみなさいよ」

 カルミアが駆ける。男は母の名を叫び、瞬足で彼女に蹴りを見舞わせた。

「カルミアッ!」

 聖堂の壁に身体が喰い込む。あまりの衝撃に血を吐き出すが、痛みなど感じやしない。カルミアは口元を緩めるとバレッタを見せ付けた。

「奪えてないけど?」

「貴様ぁ……ッ!!」

 男の速さに、彼女とて喰らいつけるわけではない。しかし、冷静さを失った男の短調な動きに、彼女には勝機が見えていた。男の姿が視界から消える。目で追うことは叶わない。ならば、と、カルミアはその瞳を閉じ、耳を澄ませた。

「……」

 密閉された室内を、無理矢理に風が切る。カタカタと窓ガラスが悲鳴をあげる。ダリアはじっと、固唾を飲んでそれを見守っていた。風が女の頬を撫でる。男の白い髪が、ダリアの視界を掠めた。

「カルミア!今だ!」

 女が瞳を開く。同時に腕を前に突き出し、目の前に現れた男の胸を貫いた。

 耳が、痛い。


 車椅子に体重を乗せ、ぼうっと窓を眺める男。曇った空の下、少年たちがボールを蹴って遊んでいた。それをしばらく見学してから、戸を叩く音にふいと目を逸らす。

「……お勉強は進んでる?」

 男の顔とよく似た女。赤いバレッタが縮れた髪を彩っている。困ったように笑みを浮かべると、男の頭を撫でた。

「そんな顔をしないで? 美しい顔が台無しだわ」

 髪を梳く細い指が心地好く、そっと見上げればその笑顔と視線が交差する。照れ臭さに目を逸らして、やはり外を見ると、少年たちよりも遥かに自分は恵まれていると、恍惚に頬を染めた。

「またこれ」

「今度はナルシサスの走馬灯? ってことは、あの車椅子の人はナルシサスってことだよね」

「そうなんじゃない」

 弱々しく笑う車椅子の男。セピア色の空間で、本当に先程の男と同じ人物なのかを疑う。容姿は彼そのものだが、その表情と、そして何よりあの車椅子。鋼鉄の如く強靭な脚を振るう男の姿とは、到底思えなかった。

「そういえばマリーは、左腕を自傷してたよね」

 弱っている箇所が開花を遂げるのか。首を傾げる二人の前を、花弁が舞い踊った。

「お前はッ! 何度言ったらわかるんだッ!」

 怒声が響く。暗い室内で、男と、先程の女が揉めていた。激昴が飛び交い、女も女とて男に牙を剥く。机に置かれた紙すら破り捨てる。とうとう男が女の頬を叩いたとき、廊下に通ずる扉の隙間で肩が跳ねた。ナルシサスだ。女の髪留めが床に落ちる光景に目を見張り、ぐっと車椅子の手摺を握り締めた。

「あの女が、デイジーね」

「じゃああの男は、ナルシサスの父親だ」

「夫婦の仲は最悪ってところか」

「何を言い争ってたんだろ」

 舞い上がる花を手で払う素振りを見せながら、カルミアは次なる光景を目で追う。

 最初の部屋で、車椅子に揺られる男の足元で、女はぐったりと身を寄せていた。男の動かぬ脚を撫でては、涙を流す。赤く腫れた頬に伝うそれを指で絡め、ナルシサスは力無く笑みを向けた。

「母さんは、悪くないよ」

「違う、違うのよ、ナルシサス」

 大きく開かれた窓の外から風が吹き抜ける。男の勉強道具である分厚い書物がパラパラと弄ばれた。歩み寄って、覗いてみれば、小難しい医学書のようで、人体の図解がページいっぱいに描かれていた。端々に、赤いインクが滲んでいる。

「母さん、俺、叶えたい夢があるんだ」

「お医者さん? それとも技師かしら? あなたの夢は私が叶えてあげるわ、愛しいナルシサス」

 啜り泣きが笑顔に変わるのを見届けて、男は母の髪からバレッタを外した。ハラハラと髪が下へと流れる。

「ううん、俺は自分で叶えたいんだ。大成されるその日まで、このバレッタを預かっていてもいいかな。きっと返すから」

 そっと微笑む彼の表情を見ることなく、母は静かに俯いて頷いた。ゆっくりとそちらに顔を近付け、息子は母の髪に口付けを落とす。花が舞った。

「随分と干渉する母親ね」

「それが親なんじゃないの?」

「互いに依存してちゃ、上手く行くわけがないのよ」

 夜に響く夫婦の怒号。再び訪れたそれを見て、カルミアは息を吐き出した。こんなもの、当人でなくとも嫌気がさす。

 夫婦の間でまたも割かれた一枚の紙は、誰のためのものか。カルミアはそれに視線を落とす。扉の外に投げ捨てられた小道具は、隙間から覗く息子の手に握られた。花吹雪が舞う。

「ナルシサス、今後のお前の話だが」

 重々しく父である男が口を開いた。場所は屋外。たった二人で街路樹を縫って歩く。男の手で、ナルシサスは車椅子をどこかに向かわされているのだ。そこに母の姿はない。

「……母さんは?」

「……母さんのことはいい。これが最善なんだ」

 父の肩に掛けられた大きな荷物。ああそうか、この男は母を捨てたのか。こっそりと隠し持っていたバレッタを強く握り締めた。これから自分は、母のいない世界で、母を蔑ろにするこの男と生きていくのか。耐え切れなかった。

「ナルシサス?」

 息子の異変に、男が顔を覗き込んだとき、ナルシサスは行動に出た。左右の腕で男の首を絡めとると、そのまま車椅子ごと地面に横転する。意表を突かれ、男は踠きながらも息子の身体を支えようと腕を閃かせた。しかしナルシサスは更に首を締め上げ、手のひらの中を見せ付ける。

「母さんは、いつだって正しく、美しい」

「ナルシ、サス……?」

 彼の手に収まる赤いバレッタ。金具を外すと、そのまま男の首筋に降下させた。赤い飛沫が舞い上がる。白い髪に、ポタリと雫が伝った。

「……」

 あまりに一瞬のことで、男の腕は息子の太股に添えられたまま、動くことがなかった。その腕を脚で払い、父を殺めた子は車椅子に頼りながらも立ち上がる。そのまま脚を振りあげれば、父親の頭蓋を踏み砕いた。恍惚に顔を綻ばせると、前屈みに腹を抱えた。

「は、はは…… はは…… これで、これで母さんは…… デイジーは…… 解放される…… やはりデイジーが、正しい……」

 父の懐から覗く白い紙に、赤が伝う。ゆっくりと脚を前に持ち上げると、父の遺骸をそのままに、男は歩き出した。白い長髪が風に靡く。

 握り締めたバレッタはそのままに、懐から手鏡を取り出した。前夜、部屋の外に転がっていた、これも母の物だ。鏡に映る、母とそっくりな自分の顔を見つめ、頬を撫でた。後ろで呆然と見つめる、彼女の存在には気づかずに。

「……あんたは母親を愛していたの? それとも自分を愛していたの?」

「……」

 男は何も答えない。発狂し、亡き父に駆け寄る母親と、それを気にもとめず歩き出す自分とを眺め、ただ目を見張り、立ち尽くしていた。

「本当に、何も見えていなかったのね。そんなに自分が大事?」

「お父さんとお母さんが、何で言い争っていたか、知らなかったわけじゃないでしょ?」

 原型も不確かな夫に、女は涙を存分に振り乱しながら、懐から紙を取り出し、去りゆく息子に叫び続けていた。握り締めた紙は、あの夜引き裂かれたものだ。歪に接着剤でツギハギにされたそれには、彼女のサインが施されていた。

「特別学校への入学手続き。父親はあんたの頭脳と、ハンディキャップを活かして、あんたの将来を明るいものへとしようとしていた」

「逆にお母さんは、君を自分から離れさせるなんて嫌だ、って言ってたんだよね。でも、やっと納得した。これが君のためになるからって」

「うる、さい……」

「あんたはどっちが先に、あんたのために行動していたと思う?」

「君は自分が母親の傍にいたいから、母親の傍で可哀想な子を演じていたいから、母親のせいにして、駄々を捏ねたんでしょ?」

「うるさい!!」

「本当は、こんなにも高慢なのにね」

 自分自身を見つめていた男は、カルミアに脚を振り上げる。しかしそれが彼女を貫くことは無く、男はその場に崩れ落ちた。脚が、動かないのだ。

「父さんは、俺から母さんを奪った!! 母さんは俺を愛していた!! だから俺は!! 母さんと二人で生きるために!!」

「じゃああれは何なの?」

 背後に親指を向ける。亡き夫の横で、女はひしゃげた車椅子を持ち上げ、何度も石畳に殴り付けていた。女の細腕によって無様にも悲鳴を上げ、破壊される車椅子。尖った骨組みを握り締めると、女は、旦那の傷と同じ場所にそれを突き刺した。血飛沫が、舞い上がる。

「あ、あ…… あ……」

 女の瞳には涙が浮かんでいた。彼女の溺愛が、子を付け上がらせたのだ。ゆっくりと父親に寄り添うように倒れゆく母親を見て、男は髪を掻き毟った。

「デイ、ジ…… かあ、さん…… ああ…… あああああッ!!」

 バレッタが落ちる。大粒の涙がそれを追い掛けて弾け消えた。彼らの背後では、公安が忙しなく駆け巡っていた。夫婦の遺体をシーツにくるめ、拳銃を抜き出して先を歩く男を追う。先頭を切って走り出した果敢な公安を蹴り飛ばし、男はその顔を歪に象っていた。

「待ち人は来ないわけね」

「君は自惚れたんだ。ご両親への尊厳を忘れて、ね」

 カルミアは拳銃を握る。蹲る男のこめかみに狙いを付けると、この悲劇を消し去るように、銃声が鳴り響いた。


 嵐が去った。あれはきっと、あの男の傲慢さに嫌気が差したイリスの気まぐれだったのだろう。返り血を洗い流す雨はない。

 曇った空を見つめ、三人は重苦しい息を吐き出した。

「へぇ、またそんな幻覚を?」

「なんで情報屋だけ見ないのか、未だに不思議だよね〜」

 未だに身体を大きな紙で包み込んだ男は、割れた眼鏡を放り投げながら、そんなものは見たくないと首を振る。

「もう身体はいいの」

「おや、心配してくださるんです? お嬢さんのその飴と鞭、堪りませんねぇ〜」

「……あんた、よくこの紙が防護紙だってわかったわね」

 男の戯れには飽き飽きだ。隣でぐっと背中を伸ばす少年に視線を配れば、彼は小さく笑みを浮かべた。

「僕も清掃屋として知識はあるつもり。破れることのない特殊繊維って、神樹の樹皮でしょ? すっごく固くて加工も難しいんだけど、イイ防具には使われることが多いって、常識だよ」

「ふぅん……」

 商売柄と言われてしまえば、彼女の知る由はない。教会の廂から外に歩み、首を鳴らした。

 これで、二人の清掃が済んだ。あと一人、それでようやく、彼女の目的へ進むことが出来る。

 背後で何やら囁く二人の声を聞きながら、カルミアは口元を緩ませた。

 傲慢な嵐は走り去った。

 曇天の空が、どことなく心地が良い。母の悲鳴と父の愛とを知らずに、悲劇を悲劇だと豪語したスイセンは、無残にも花弁を土と変えた。自分の行いを悔いるがいい。手向けの花は必要ない。扉の隙間から覗く、朽ちた花は誰の愛も受けられないだろう。

「ねえ、気になったんだけど、カルミアってお父さんを殺した直後の記憶、あるんだよね?」

「あるけど、それが何」

 ここに咲く少年は、大袈裟に首を傾げ、不可思議な問いを投げ掛ける。女が足を止めず、不機嫌な声でそれに応えれば、少年は慌てて後を追って女の正面に立ち塞がった。

「マリーもナルシサスも、直後は錯乱してて覚えてなかったでしょ? 親殺しの開花の…… 副作用みたいなものかな。カルミアにはそれが無かったんだ、と思って」

「……何が言いたいの」

 ふいと横をすり抜けてやれば、少年はそっと口で弧を描く。

「それは本当に君の記憶なの?」

 ヒヤリとした、凍てつく視線が一瞬。少年の言葉の意味に頭が冷やされる感覚。そっと髪飾りに手を触れて、足を止める。石畳の隙間から背を伸ばす深い紫の花に、僅かに心がゾッとした。

「なーんてね。ま、この二人だけが覚えてなかったのかもしれないよね」

「そうですそうです。そんなことより、そろそろ腹ごなしとしましょうよぉ〜」

「あー…… 花豚のお店、予算足りるかな……」

 腰のポーチから、二つ開きの財布を取り出し、少年は女の後ろで大きく息を吐き出す。経費で賄えるのか、などと愚痴も聞こえた。

「……材料だけ買えばいいでしょ」

「材料って…… カルミア、もしかして料理できるの?」

「当たり前でしょ」

「あ、そっか」

 彼女は片親、それも父親だけだったのだ。きっと家族の食事は彼女が、とダリアは大きな笑みを浮かべた。

「じゃあ僕、ミネストローネ食べたい!」

「花豚のステーキ特盛でお願いします!」

「……それはそのガキに言いなさい」

 三つの影が、弱々しい陽の光を受けて長く伸びる。付かず離れず、微妙な距離を保つそれを辿るようにポツポツと赤い雫が縁どった。それが白い花の名を国中に轟かせることになるのも知らずに。


 次なる街は、晴天の街。

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