第1話 雨の街

赤い洋燈に火を灯したマッチ棒を吹き消すと、カルミアはパチパチと厭に煩い暖炉──の前、ロッキングチェアで読書に没頭する少年──を見て溜息を吐き出した。

 彼女をあの監獄から連れ出した不可思議なこの少年は、清掃屋の末席にいるらしい。彼女よりも一回り近く年下の少年だが、手に職をつける子どもはこの時代に珍しくない。仕事を手伝えと言われ、まだその内容は明かされていない。しかし、その仕事を達成した暁には彼女の願いを一つ叶えると約束したのだ。彼女の願いはただ一つ、妹を殺した黒服のもとへたどり着くことだ。

「おい、ガキ。そろそろ仕事を教えてくれてもいいでしょ」

 荒々しい口調でカルミアが問う。そんなことを気にも留めずして、分厚い書物から視線を外さずに、少年は首を横に振った。

「まだ連絡がないんだもの。したくてもできないんだよ」

「清掃屋でしょ、そこらへんにいくらでもやれる場所はあるじゃない」

「あれれ」

 戯けながら、少年は書物をぱたりと閉じる。そのまま転げるようにしてロッキングチェアから降りた。その顔は、おかしさを耐え切れないように頬を膨らませ、目尻にシワが寄っている。

「カルミア、冗談だよね? 清掃屋ってのは、隠語だよ?」

「……そういうこと」

 はたと気付き、カルミアは少年に背を向けると、窓際の椅子、洋燈の隣に腰を下ろした。清掃、即ち死体処理だ。それは確かに、少年の言うように依頼などの連絡がなければ動けはしない。

「でもね、簡単な掃除じゃないからね? だからこそ君に声を掛けたんだから」

 暗く日が落ち切り、窓には水滴が浮かんでいる。雨が降ったのだろう。外気は部屋の中でも冷たい風を感じさせる。少年は、カルミアが外に視線を移している間に、彼女の傍らの壁に体重を掛けていた。

「後始末としての掃除じゃなくて、根っからの掃除。ターゲットは三人。君と同じ、親殺しだよ」

 にこりと微笑んだ少年に、カルミアは冷たい視線を向けると、それも一瞬で、すぐに外へと身体を向ける。尚もおかしそうに、少年はカルミアを見ながら口で弧を描いた。

「この時代、親殺しなんて珍しくないでしょ? けどね、彼らは違うよ。君と同じで、親殺しをしてからの身体能力の上昇が著しいんだ。何でだと思う?」

「知るか」

「言うと思った。彼らは特別なんだよ。恨み方とか、境遇とか、そういった条件が奇跡の確率で合致したんだ。普通の人間ならば到底敵わない。だから君が行く」

 勝手な話だ、とカルミアは視線は外のままに溜息を吐き出す。白い息が、部屋の温もりに消えていった。

「第一、それがどうして私なの」

「僕が、君のことが好きだから」

 あどけなくも憎たらしい笑みがこちらを向けられる。女はそれを一瞥すると、窓ガラスを白く曇らせた。

「なーんて、信じた?」

「マセガキ」

 彼女と同じように息を吐き出すと、少年はロッキングチェアまで戻り、その椅子に置いた分厚い書物を手に取る。わざとらしく、ばら撒くようにして書物からちぎり取ったページをテーブルへ並べると、カルミアを手で招いた。

「第一のターゲットは女。名前はマリー。母親を殺した親殺し。能力については、今情報屋に調べさせてるんだけど、時間がかかってるみたい」

「母親を…… なんで殺したの」

「そういうの気にするんだ?」

「……別に」

「ふふ。まあいいや。それは本人に聞くしかないね。まあ、聞ければ、の話だけど」

 意味深な少年の言葉にまた、外に目を戻す。雨はいつの間にか雪に変わっていた。彼女の真っ赤な髪に映える白い花とよく似ている。その花に触れながら、カルミアは少年を向いた。

「なら、さっさと行くわよ。こんな場所で油を売ってる暇は私にはない」

「せっかちだなあ…… まあいいよ、行こう。マリーはこの街にいる」

 雨の街。カルミアの髪を飾る、下向きの白い花。二つの色が、この土地を赤く染め上げることになる。


 冷えきった薄暗い街を白い雪が包み込んでいた。

 この街は雨の街。雪に変わることは珍しい。辺りの街灯は心細く点滅し、重い雲の合間から零れる月明かりだけが、彼らを導いていた。人はいない。絶好の掃除日和だ、と白い息を吐き出してから、少年は長い袖で肩に積もる雪を払った。

「うっわ、結構降ってきてるね…… そんな格好で寒くないの?」

 肩に胸、腹までも剥き出しの黒衣が白雪に濡れる。雪のせいか、やけに耳に響く少年の金切り声を受けて、カルミアはふっと息を吐き出すと、天高く降り注ぐ淡雪を吐息で溶かした。

「別に。感じないから」

「あー、そっか。親殺しは感覚が欠落するんだっけ」

 無邪気に笑う少年にカルミアは眉を顰める。戯ける少年の言葉は嘘ではない。

 親殺しは化け物だ。いくらか前に、教会従事者が高らかに述べていた気がする。事実、当事者となってそれは明らかになったのだ。先までの暖炉で温められた部屋も、この白い雪に覆われた見るからに寒さげな空間も、さして違いは感じない。感じられない。露出した肌を軽く抓るが、それすら何の刺激を得られなかった。これが、化け物の所以なのだと納得し、カルミアは少年を置いて歩き出した。

 はらはらと降る白が、カルミアの赤毛に吸い込まれていく。その髪を飾るもう一つの白を見上げながら、少年はまた小さく笑みを浮かべて彼女の背中を追った。

「カルミアのその花、スノードロップだよね?」

「ああ。よくわかったね」

「花には詳しいんだよ、僕」

 ころころと笑いながら、少年は雪道を走る。くるりと回転すると、大きく腕を広げた。

「僕の名前、ダリアって言うんだ。ダリアも花さ。花言葉は華憐、優雅! 僕にぴったりだよね〜」

「はっ、どこが」

「カルミアも花の名前だね。花言葉はー……」

「いい、興味ない」

「え〜」

 少年、ダリアが口を尖らせる。髪飾りに触れながら、カルミアは目を細めた。

「これはフリージアが…… 妹が、最後にくれたものだ」

「妹さん殺されたんだっけ」

「ああ。黒服にね」

「黒服のところへ行って、妹を殺した黒服を殺すのがカルミアの願いってわけか」

「そう」

 父を殺したあの日、彼女が追い求める人物は存在しなかった。全身に黒を纏い、宵闇を音もなく去っていった黒服。覚えているのは、首筋に見えた花弁の痣だけだ。この少年が願いを叶える、などということを彼女は信じているわけではない。しかし、あの監獄でダリアは公安らに大事に守られ、囚人であるカルミアの元へとやってきたのだ。伝がないわけではないだろう。記憶の中で、あどけない少女が白い花を抱えていた。

「お姉ちゃんに、似合うと思うの」

 赤い髪に添えられた、白い花たちがざわめく。まず一歩、とカルミアは目の前に見えてきた教会を見上げた。

「ここにターゲットがいるのね」

「あ〜、もう着いちゃったのか。情報屋まだかな〜」

「行けばわかるでしょ」

 教会の扉はうっすらと口を開けていた。光が漏れている。人がいるのだ。微かに何かを祈る声が聞こえる。カルミアがその扉に手を伸ばしたときだった。

「ダリアさんはどちらで?」

 扉の脇に背を預け、こちらを横目で見る男。長い前髪に隠れそうな眼鏡が、カルミアのことを下から上へと眺める。

「僕だけど?」

 ダリアが手を上に掲げてそちらへ駆け寄ると、男はあからさまに嫌な顔を浮かべ、一歩距離を置いた。

「へ? このガキ? このガキが清掃屋?」

「ちょっと、なにそれ、腹立つんだけど」

「いやいや、こんな綺麗なお嬢さんが清掃屋ってのもそれはそれでビックリですけど、こっちのガキはないでしょ〜いや〜ないわ〜」

「ねえ、カルミア。こいつから掃除しようよ」

 ダリアが頬を膨らませる。溜息を吐いて、カルミアは少年の隣に並んだ。

「あんたが情報屋ってわけね?」

「ああ、そういうことか。ちょっと遅くない?」

「こっちにもいろいろあるんですよ、ガキ」

「……やっぱ殺そうよ」

「で、情報は」

 カルミアに促され、男は背に抱えていた大きな紙を一枚取り出すと地面に広げて見せた。

「くそ、雪が邪魔だな」

「マリーの能力は?」

「腕力。すなわちパワーがケタ違いってやつですね」

「となると、真っ向からだとやられちゃうね。カルミア、武器は?」

「牢に入れられてたんだ、あるわけないでしょ」

「あ〜、そっか。情報屋、なんかないの?」

「私、カクタスって名前です。武器ならそこらで情報交換に使った拳銃がありますよ」

 情報屋の男──カクタスは懐から小振りな銃を取り出す。その銃を見て、カルミアは目を見開いた。あのとき、父を殺したときに使ったものと同じ型だ。

「それ。それが欲しい」

「タダであげるのはねぇ〜」

「遅れてきたんだからオマケしてよね」

「はあ〜…… まあ、いいでしょう。その代わり、ちゃんと任務遂行してくださいよ」

 手渡された銃は、トリガーガードのない小型のリボルバー。それを握りしめ、カルミアは口で弧を描いた。この仕事を推し進めれば、彼女が狙う黒服のもとへ近付ける。こみ上げてくる笑いを抑え込み、彼女は目の前の戸を押し開けた。


「お姉ちゃん!」

 白い花を手に、彼女は笑っていた。

 父のアトリエの前で、満面の笑みが愛おしくて、彼女は少女を見つめたまま動けなかった。

 白が赤に染まる。女は妹の最期を見てはいない。記憶の中の少女の笑みが、みるみる塗りつぶされていく。やめろ、叫びたくても、喉が焼けるようで。ドロドロと走る流血の騒音が耳を覆っていた。

 真っ白なアトリエに似た箱の中で、父は頼りなく頭を垂れていた。震える男の姿に、怒りが込み上げる。頭が痛い。

 真っ黒な装束の誰かが、妹を引き摺る。首筋の痣は、巻きつき絡まる蔦のよう。それを飾る花弁に、女は銃口を掲げた。

 引け、トリガーを。

 ノイズが耳を割る。

 黒服の足音が、妹が彼女を叫ぶ声が、父の震える言葉が、怒涛に加速していく。

 うるさい、うるさい、私は進む。

 フリージア、お前のために。


 ゆらゆらと細い炎が上に立ち上っていた。教会内部を照らす灯りはそれ一つ。中央に鎮座する蝋燭は、妖しげに揺らめいてカルミアを出迎えた。

 それの足元で、女は佇んでいる。大きく描かれた女神イリスの壁画を眺め、何やら呟いているのだ。黒ずんだ指先が、炎に照らされ、てらてらと嫌な光を放っていた。

 女の名はマリー。二十そこそこだろうか。母の首を、その掌で握り潰した女。駆け付けた公安によると、泣き叫び続けていたという。

「お姉さんがマリー?」

 物怖じせず、ダリアが進み出る。静かな呪文がピタリと止み、ゆっくりとこちらを振り向いた女の目元は未だ腫れ、そして頬には血と涙でどろどろに固まった髪が張り付いていた。醜く引き攣った顔に、カルミアは思わず顔を顰める。

「だぁれ?」

 舌がうまく回らないのか、くぐもった声で女は首を傾げた。その様子にダリアは笑みを張り付けたまま、両腕を広げて見せる。

「僕はダリア。お姉さんを掃除に来たんだ」

「そうじ……? あたし、おそうじなんてたのんでないわ」

 頭の悪そうな女だ。カルミアは眉間に皺を寄せると、女を強く睨みつけた。その様子に首を傾げ、女はゆったりとした動作で左腕を持ち上げると、カルミアに赤黒い指先を向けた。

「おねえさん、すごくこわいかお。あたしのママみたい」

 ママ。自分で発したその単語に、女の目が吊り上がる。

「ママ……? そう、ママがあなたたちをよんだのね…… あのおんなが…… 彼を盗んだ薄汚い女狐が……!」

 蝋燭の炎がけたたましく揺れる。女の激昴に共鳴するかのように、大きく膨らみ、辺りを赤く包み込むと、教会の壁にこべりついた黒い斑点を映し出した。

「ここで母親を殺したんだね」

 冷静にダリアがカルミアへ耳打ちする。女から発せられる激しい熱を両腕で防ぎながら、カルミアは大きく舌打ちを落とした。瞼が食いこみ、瞳がはち切れんばかりに見開かれた女の焦点は、上下左右へと震える。振り上げられた拳は膨れ上がり、空気を蝕むかのようにゴクゴクと血管を鳴らした。

「あんたたちにだってェ! 彼は渡さないんだからァア!!」

 拳が振り下ろされる。教会そのものが震え、台座から蝋燭が転がり落ちた。炎は石の床を焼き、壁画の女神が足場を失う。亀裂が登り、嫌な音を立てる赤黒い石煙。振動を堪え、カルミアは耳を抑えながら、先程手に入れた拳銃を強く握り締めた。

「話をしようってのは、無駄ってわけね」

「そういうこと」

 瓦礫の波に巻き込まれないよう、ダリアは入口まで戻ると、そこから覗き込むようにこちらを眺めていた情報屋に掴みかかった。

「ちょっと、情報屋。こんな馬鹿力、どう掃除するのさ?」

「だから私、カクタスですって。マリーは左の腕そのものが親殺しの能力によって異常発達をしています。私らはそれを、開花なんて呼んでるんですが、まあ、それはそれとして。ともかく、あの恐ろしい攻撃の際には全神経がそこに注力されるんですよ。ですから――」

「長い。要は、あの腕に巻き込まれないように、攻撃直後を狙えってことでしょ」

「……仰る通り」

 シリンダーの弾を確認してから、カルミアは女の動きを目で追う。頭を振り乱し、腕を大袈裟に振るう女は、まるで人間には見えない。やはり化け物か。恐らく床に叩き付けた腕の痛みすらわからないのだろう。同じ化け物でも、こちらは耳が軋むというのに。尚も叫び狂乱する女に、とうとう拳銃を向けた。

「さっきから」

 女の放つ岩石を飛び越え、脈打つ大腕を目指す。砂煙のせいで視界が不明瞭だが、彼女の耳を貫く音が、ターゲットはここだと告げている。波のように迫り来る石流に顔や手足を殴られながら、カルミアは女の背後へ降り立った。

「うるさいのよ」

 後頭部へ銃口を突き付け、唾を吐き出す。ハッとマリーが振り返るが、カルミアは上空へ舞い上がると、女のその大きな左の腕に舞い降りる。

「あんたが! 彼を! 奪おうとするからァ!」

「奪ってない。知りもしない」

 嗚呼、耳が痛い。頭を振ってマリーを睨み付けると、女は肩をビクリと跳ねさせ、腕を振り上げた。その衝撃に乗り、カルミアはまた宙へと踊るが、直後、銃口から煙が上がった。

「いやあああああああァッ!!」

 女の巨腕に小さな風穴が一つ。その小さな傷に驚き、女は頭と腕を振り乱した。痛みはない。それでも、非常なまでに無表情で放たれた弾丸に恐れを抱いたのだ。やはりそんなものか、とカルミアは床に足を着く。今度は、と女の無防備な足に狙いを定めた。

「カルミアー?」

 煙に消えた彼女の動向に、ダリアが入り口から声を上げる。カルミアは考えていた。自分と同じ化け物は、人間と同じ何かが残っているのだろうか、と。撃ち抜かれた足からは、赤い血が垂れていた。血流は同じ。しかし、女は腕を撃ち抜かれた時ほど動揺を見せなかった。視界に入らなければ、傷を得ていることにすら気付かない。きっと自分も、気付かぬ傷を抱えている。

「もう、わかった」

 息を吐き出し、銃口を目の前まで引き上げた。あと三発。

「だって彼は! 彼はあたしにッ! 愛してるってェエ!」

 彼だの、ママだの、女の叫びがそのたびに鼓膜を揺らす。何が女に激情を与えたのか、尋ねたところで答えないだろうというのに、この女は煩わしくそれを叫び続ける。右手で耳を塞ぎ、片手のトリガーがギリギリと叫んだ。

「!」

 銃声が煙を割る。ガラガラと崩れる情景を避けるようにして、ダリアは目を見開いた。赤い髪が、埃の合間にチラつく。瞬間、カルミアは耳を抑えてその場に崩れ落ちた。


「あたしのこと、愛してるって…… 言ったのに……」

 女の視線の先で、二人の男女が仲睦まじく。男は鼻につくようなハイハットを胸元に当て、女の手を取った。その女は、二人を見つめる女にどことなく似つき、目尻に皺を寄せて朗らかな、まるで少女のような笑みを浮かべる。見つめる女は左手首を摩った。

「あれは、マリー?」

 独りぼっちの女に視線をくべ、ダリアが呟く。その隣で、カルミアは腕を組み換え顔を仰いだ。

「なんなの、これ」

「……マリーの、記憶……?」

「走馬灯みたいなもの?」

 セピア色に惚けた雨が降り注ぐ街に、ふわりと花弁が舞う。いつの間に室内へ移動したのか、花弁が流れる先を目で追えば、マリーは机に伏して細い刃を握り締めていた。

「かれは…… あたしを、あいしてる…… だから、きっと……」

 呟きながら、白い肌に赤い線が幾重にも刻み付けられる。何度も、何度も。涙が皮膚に染みることも忘れ、女は流し続けた。赤い雫が床に滴る。

「別の女に、彼氏が取られたってこと?」

「……それだけじゃ、ないんじゃない」

 カルミアが女の近くへと歩む。刻まれた左の拳が握り締めているのは、先の女とマリーと、そして二人の肩を抱く初老の男との写真。幸せに微笑む三人を囲うガラスに雨が降り注いだ。女の肩に触れようとしたがそこへまた、花弁が舞う。

「あの男は気が付かなかったのよ」

「何に?」

「両方」

「?」

 二人の視線の先では、楽しそうに隣合って語らう恋人たち。石畳を歩きながら、マリーとその男は視線を交えてはふわりと笑い、そして指を絡めた。

「ねえ、あたし、あなたとずっと一緒にいたい」

「俺もだよ、マリー」

 甘い言葉を囁き合う中、マリーは自分の左手首をちらりと見やる。生々しく刻まれた赤い糸は、その存在を強く放ち、じっとこちらを見つめているようだった。肩に力が込められる。頭を左右に振ることでそれを払うと、マリーは男に体重を寄せた。

「……ねえ、最近、どこか出掛けた?」

「俺はマリーと一緒じゃないと、仕事以外何の楽しみもない詰まらない男さ」

 左腕が痛む。不思議そうに首を傾げる男に笑みを投げ、マリーはさっと離れると目の前の石階段を駆け上がった。

「今度、教会を見に行きましょう! あたしとあなたと、二人っきりで!」

「突然どうしたんだい? ああ、わかったよ」

「明日の夜、イリスの教会に。約束よ」

「ああ、約束」

 階段の上で、マリーは小指を差し出す。男もそれを見上げながら同じようにして腕を伸ばした。段違いの二人の指先が交わることはなく、そのまま花弁が隙間を吹雪く。まるで二人を割くように、この時間に終わりを告げるように。

 花吹雪が終わる頃には、協会の前に辿り着いていた。カルミアたちが、この記憶の持ち主と出会った教会。ここが、イリスの教会。きっちりと閉じられた扉に手を掛けようとしたそのとき、後ろから息を切らし、女が顔色青く駆け寄ってきた。マリーの彼と共にいた、あの女だ。が、カルミアたちに触れることはなく、女の手が彼女を透ける。重い扉を開け放ち、女は教会の梁に手を掛けるマリーを見上げた。

「マリー! あなた… 何を……!」

「ママ……」

 ママ。その言葉に、やはりマリーは目を釣り上げる。二人を眺めていたダリアは、ようやく合点が行ったのか、溜息を吐き出した。

「なんで、ママがくるのよぉ…… なんで、かれじゃないの…… なんで……」

 女神イリスの頭の上。そこから入口に延びる細い梁に、頼りなく麻紐が掛けられていた。その紐の端は、マリーの肩へと伸びている。震える肩を抱き締め、マリーは女を見下ろして立ち上がると、唾を吐き出した。右手には、ナイフが握り締められている。月明かりに照らされたそれを見て、女は息を呑んだ。

「なんなの…… その、傷は……!」

 左腕の赤い線。女の視線に、マリーははっとして腕を隠すと、ぐっと掌を握り締めた。ナイフが煌めく。

「ちがう…… ママじゃない…… あたしがみつけてほしいのは…… ママじゃ…… ない!!」

 叫び、左腕にナイフを突き立てた。同時に、女の、マリーの母親の悲鳴が響き渡る。梁を伝って滴る赤に、カルミアも顔を顰めた。

「マリー! やめて! そんなことはやめて、降りてきて! そんなことをしたら、イフェイオンさんだって、悲しむでしょう…!」

「!」

 嗚呼、ママは、そう。

 腕をだらけさせ、マリーは瞳を伏せた。自然と目尻に涙が溜まる。この女は知っていたのだ。女が逢引していた男が、娘の彼であることも、何もかも。ふらりと足元がふらついた。狭い足場でふらつけば、彼女の身体は重力に従う。ぐらりと揺れ、梁から落下しようとする娘の姿に、母は走り出した。

「マリーッ!」

 必死に細い腕を伸ばし、娘をその腕に抱き留める。母親はすすり泣き、ただただ娘の髪を撫でた。重力に軋む腕など構わず、ひたすらに。青く鬱血した腕で強く抱き締める母に反して、マリーは冷ややかだった。左腕のナイフが痛む。それすらもどうでもよく、顔の横で揺れる髪を毟りとってやりたかった。

「ああ、マリー…… どうして、どうしてこんなことを……」

「どうして…… ですって……?」

 全てはあんたのせいで、あたしは、かれは、あんたは。

 息が苦しさがこちらへ伝染する。ここに来る前、彼女は刺したままのそのナイフで、家の写真を全て叩き割った。そうしないと、きっとこの女は何度でも最愛の彼の元へ行くだろうと思ったから。そうしないと、きっとこの女は彼女の痛みにも、怒りにも、悲しみにも、気付かないと思ったから。そうだというのに、ここまで来て何故と問う。それがまた、許せなかった。

「娘のために必死になる。良いお母さんじゃん、ね?」

「……どうかしら」

 マリーの左腕が震える。ナイフがずるりと床に落とされた。

「あんたの…… あんたのせいでしょ…… かれをうばって…… パパをうらぎって…… ぜんぶ、ぜんぶ…… ぜんぶ、あんたのッ!!」

 母親を突き飛ばし、その上に馬乗りに伸し掛る。赤く血で染まる左腕で女の首を握り締め、右の指で髪を絡め取った。

「マ、リー……? な、にを……」

「あんたが壊したのよォッ! あんたがッ! あんたがァアッ!!」

 自分とは違う淡い色の髪、自分とそっくりな顔に浮かんだ皺を見て、マリーは笑みを浮かべる。この女がいなくなれば、彼は自分から離れなくなるだろう。この女と暮らした記憶がなくなれば、この胸の苦しみも晴れるだろう。溢れ出る笑いを抑えられず、マリーはイリスを見上げた。穏やかに瞳を閉じた壁画は、アイリスの花を抱いている。途端に、激昴の波が引き、頬を涙が伝った。

「マ…… リー…… あな、たに…… な、みだは……に、合わない…… ママと…… パパ…… の…… 勇気の…… 証…… だ、から……」

「……もう、うるさい…… しゃべらないでよ…… もう、なにも…… なにも、ききたくない……ッ!」

 泣きじゃくり、マリーはその拳に力を込める。左手に重ねられた母の手は弱々しく、ゆっくりと彼女の手の甲を撫でた。

「ああ…… マ、リー…… ママ、と…… パパ…… の……」

 この期に及んで、この女は、まだ。許せなかった。イリスの壁画にヒビが入る。

「あぁあああああッ!!」

 ごくりと左腕の血管が鳴った。掌に伝わるぐにゃりとした感覚と共に、女の手が床に落ちる。右手で絡めた髪をぶら下げ、マリーはゆっくりと立ち上がると、天高く薄ぼけた月を見上げた。

「これで、いいの。かれも、パパも、これで」

 イリスが見守る教会で、彼女はその手を赤く染め上げ立ち竦む。頬には涙が伝い、全身が震えた。左腕に刻まれたナイフの傷がゆっくりと塞がる。ぽとり、ぽとり。赤と白の雫が床に弾けて消えた。

「あの女は、あたしの幸せを全部壊したのよ」

 カルミアの背後でマリーが呟く。彼女もまた、自分の走馬灯を眺めていたのだ。歪に肥大した左腕はそのままに、朽ち果てた母親を虚ろに見つめていた。拳銃を握り締め、カルミアは振り返ると、女の額に銃口を充てがう。

「そうね。あんたの妬みは、痛いほど伝わってきた」

「妬み? バカ言わないでよ。これは怒り」

「違う」

 花が舞う。彼女達の背後で、走馬灯のマリーは奇声を上げ、涙を撒き散らした。その左腕は、目の前の女と同じく膨張している。

「あんたは母親に嫉妬したのよ。父親も、彼氏も、両方取られたんだから」

 シリンダーが回る。残り二発の弾は、この妄想の頭に撃ち込んでやる。カルミアの視線の先で、マリーはぎょっと顔を強ばらせた。その方向はカルミアではない。ダリアがあっと声を上げた。

「あの人、マリーの彼氏だよね?」

 血塗れの教会に駆け込む男。母親の頭を引き摺り、狂乱する恋人を見て悲鳴を上げた。

「イフェイオン……?」

 男は尻餅を落とすもしかし、彼女がマリーであると気付くと、恐る恐るそちらに歩み寄った。カルミアたちと共に見守るマリーは、動揺を隠せず、彼の動きを目で追っていた。

「どうして、彼が……」

 狂乱する女は男の存在に気付くことなく、左腕を無造作に振り回した。彼女の名を叫び、男は歩調を早め、駆け寄る。しかし。

「あ、ああ…… ああああッ!!」

 女の左腕は彼を捉えた。ごくり、血管が蠢く。

「やめ…… て、やめて! やめてよぉおおお!!」

 マリーは走った。自分の腕が彼を飲み込む。伸ばした腕が彼に触れることはなく、血飛沫が彼女を透けて地面に舞散った。がくりと膝を落とし、女は呆然と目の前で発狂する自分を眺めた。

「……最低な男なら、後で殺そうと思ってたけど」

「その手間が省けちゃったね」

 バタバタと忙しなく男達が駆け入る。公安と、黒服だ。カルミアたちを通り抜け、左腕の化物を囲い込むと、揃って拳銃を構えた。

「……」

 公安は五人、黒服は二人。どちらの黒服も、カルミアの探す人物ではない。ふいと顔を背け、カルミアはマリーの元へ歩いた。

「あの男、ちゃんとあんたのところに来たわね」

「……」

「あんたの母親は、本当にあの男と出来てたの?」

「……わかんない」

「母親、最期にパパがどうのって言ってたわね」

「……」

 赤い床にしゃがみ込んだまま、女は虚ろな瞳でイリスを見上げていた。すぐ側では、女の左腕に薙ぎ払われる公安と黒服。身体を透けていく男達を鬱陶しそうに一瞥し、カルミアは再度、マリーの後頭部に銃口を突き付けた。

「パパは……」

 ぽつり。マリーは身動きをせずに口だけをゆるりと動かした。

「あたしが、ちいさいころ、びょうきでしんだの」

「……」

「ママは、ひとりで、あたしをそだててくれた」

 じわりと瞳に涙が浮かぶ。

「あたし、パパがしんだのは、ママのせいだって、ずっと、おもってて」

 いつの間にか、左腕は元の傷だらけでか弱い腕に戻っていた。

「かれは、そんなあたしを、いつも、なぐさめて…… くれてぇ……」

 視線が床に落ちる。赤い雫を掬おうとするかのように、触れぬ石畳を撫でた。

「キミは、マリーなんだからって…… あたし、その、いみ、わかんなくって……」

「寂しさに耐える」

 黒服らの動きに目をやりながら、ダリアがにっこりと微笑む。

「マリーゴールド。君の名前の、花言葉だよ。お父さんは自分が長くないことを知ってて、お母さんもそれを知ってたから、二人の愛の結晶である君にそんな名前を付けたんじゃないかな」

 マリーを振り向いた笑顔は優しげで、睫毛に絡まっていた雫がぽとりぽとりと床に弾けた。

「うっ…あ………ッママぁ……」

 花弁が舞い上がる。辺り一帯を包み込み、幻惑のマリーも、そしてそれを取り囲む公安たちも、見えなくなった。カルミアは瞼を伏せると、花吹雪の中でトリガーに力を込めた。

「唯一の肉親を殺した。大切な、愛すべき人を。私たちは、似たような境遇ね」

 脳裏を優しい父の顔がチラつく。それと同時に、最愛の妹の死を思い返し、髪飾りが揺れた。スノードロップの花が、一片、マリーの足元に落ちる。

「後悔に取り憑かれる必要なんてない。あんたはもう、眠りなさい」

 引金が引かれる。鋭い発砲音と共に、床に落ちた白い花弁が赤く染まった。


 朝日が弱々しく、暗い雲を照らしていた。辺りに降り注ぐ激しい雨は、血を洗い流すのに最適だった。

「雪は雪で邪魔ですけど、雨も鬱陶しいですよねぇ」

 教会入口の庇の下で空を見上げ、カクタスは唇を尖らせる。その横で、二人はぐったりと階段に腰を掛けていた。

「頭痛い……」

「僕も……」

「だらしないですねぇ。そんなことで、この先大丈夫なんですか?」

 やれやれと頭を振り、眉を下げる男に、ダリアは眉を顰め、カルミアは拳銃を握り締めた。

「うるさいよ、情報屋。君はアレを見てないから平気なんだろうけどさ〜」

「だから私、カクタスですって!」

「はあ…… どうでもいい」

 この先。まだこの掃除は続く。重い身体を持ち上げ、カルミアは立ち上がると雨の中を歩き出した。

「次のターゲットはどこ」

「あれ、お嬢さん、髪飾りが」

「ああ……」

 三輪あった髪飾りが、二輪に減っている。妹の形見にそっと触れ、カルミアは僅かに口角を上げた。

「手向けの花よ」


 荒れ果てた青白い教会で、女神イリスに見守られながら眠るキンセンカ。

 その手に添えられた白い花は赤く染まり、惨劇を物語る。雨音が激しく、破られた天井から降り注ぎ、女の瞼を濡らした。

 さようなら、愛しい人。ごめんなさい、愛しい人。

 愛の困惑、嫉妬の氷が溶け出して、雨の街は元に戻った。降り注ぐ騒音に対して、静かな街を背景に、ダリアとカクタスもカルミアの後を追い掛けた。


 次なる舞台は、曇天の街。

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