妄想的嗜虐思考B
「思い出してきたぞ。前にもお前はこうやって俺の頭を弄ったな?」
◆
術者は冷たい床の上で目覚めた。きょろきょろと見回し、膝をついて立ち上がる。頭上ではランプがじりじりと不安げに光っている。
「ここはどこだ? ウィルは……? いや、頭が痛いな……」
置いてあったブランデーを手に取ると、術者はそれを煽った。手の甲で口を拭い、窓にかかっていたカーテンを払う。外は灰色の猛吹雪だった。彼はカーテンをまた元のように締め直すと、服についた埃を払って、部屋を出た。
しんと静まった廊下で、靴底だけがかつかつと音を立てる。
「いやに静かだ。どうなっている?」
かつ、と靴を鳴らし、術者は足を止めた。壁にかけられているのはミルクパズルの額縁だ。しかし、中に封ぜられているのは乳色のパズルではない。廊下の壁で存在を主張する大きな額縁には、一面白のパズルの代わりに、青い、顔のぼけた肖像画が飾ってあった。肖像画の中の男は、その目と同色の小さな花を携えている。小さな青い花弁を繋ぐ黄色の輪、空色のフォーゲット・ミー・ノット。そこに描かれた彼こそが、美しい青い眼を持つ彼の弟だった。
「ああ。なるほど。ここは俺の夢の中だ」
彼はガラスのカバーの上を指でなぞり、濁った眼を細めた。
◆
「ってことはまずいな……どこかにウィルがいる筈だ…… なにかされる前に見つけないといけない」
◆
「いないな…… そんなはずは……」
二階の扉を開き、術者は眉をひそめた。部屋の中には誰もいない。風でガタガタと窓枠が鳴る。術者は隙間風に揺れるカーテンを閉めるため、窓に近づいた。ふと覗き込んだ窓ガラスには、自分の影の代わりに自分によく似た、見覚えのない顔の男が映っていた。
「……お前は誰だ? その目、ウィルじゃないな」
映り込んだ影へ問いかけると、影は鷹揚に笑い返してきた。
「その通り、俺はお前だ。サーが世話になったな」
「サーって誰だ」
「ああそうか、知らないのか…………お前がウィルと呼んでいたあいつだ」
「けったいな呼び方をするんだな……それで『お前』は誰だ?」
術者が値踏みをするように睨むと、影は金の目を瞬いた。睫毛に縁どられた瞼が降りるたび、瞳の発する薄い光を遮断する。
「俺の名前が知りたいと、そう、言うんだな? 俺に名前があると思うか? わかるだろう?」
名前による掌握に失敗したことを指摘され、術者は顔をしかめ、舌打ちをした。
「……何でもいい。呼び名を寄越せ」
肩をすくめ、男はへらりと笑った。
「プレザーベティブ」
「プレザーベティブ? 保存?」
「わからないか? 俺はお前だ。それとも覚えていないのか?」
暗いガラス窓に映った金の目が光る。
「俺はお前で、お前は俺。プレザベーティブはお前にかけられた呪いだ。サー・メンテナンサを維持し、『ウィリアム』を復活させるためのな。まあ、もっともそれはサーが機能不全をおこした今となってはどうだっていいことかもしれないが」
◆
「復活? 呪い……?」
「まさか本当に覚えていないのか? ウィリアムに脳を掻き回されたんだろう?」
「ああ、そうだ、あいつに脳を掻き回されて、俺はあいつを弟だと思い込むようになった、弟の仇のあいつを……いや、そもそもそれが間違いだ、元々俺に弟は」
プレーブは首を振り、話を遮った。
「そっちじゃない。そのあとだ。お前がサーを捕まえて、痛めつけて、そのあとだ」
そこで、ふと思い出したようにプレーブは言った。
「そういえば、サーに痛覚遮断が出来ないよう、回路をあらかじめ切っておいただろう。趣味が悪いな、人間め。おかげでサーの記憶と遺産は俺のものだ。これは今の『サー』にとっては苦痛の一部だからな」
「だったらなんだというんだ? 俺がウィルに何をしようがお前には何の関係もないんじゃないか?」
目を瞬かせ、プレーブはなおも続けた。
「お前が消えれば、解放されたサーへ遺産を返して俺は消滅するはずだったんだ。苦痛を教え込まれなければ、サーがまともなら、そうなるはずだったんだ。サーはお前をもう一度作り変えた。その時、記憶や魔術回路をお前に押し付けたんだろう」
もうわかるだろう、とプレーブは言った。
「そうしてできたのが俺だ。俺を作った遠因はお前だ。コンソール・ソーサラー?」
◆
窓に映る影だったはずの男は、今やはっきりと見えていた。コンソール・ソーサラー、糸繰りの魔術師は不快感をあらわにした。
「訳が分からないことばかり言うんじゃない。俺が? お前を?」
「わからないか? まあいい。全てを説明するには時間が足りない。それにどうせその前に俺もお前も死ぬ」
術者はプレーブを睨んだ。プレーブは意に介さない。
「重ねて言うが、名前を尋ねても無駄だ。ウィリアムの時の様にはいかないぞ? 俺に名前はない。文字通り、俺はあいつの半分だ。俺には参照元がない。俺は『ウィリアム』の半分、術者の肉体や近くにいた人間の精神をハックされて作られた人格の集積に過ぎない。俺は誰でもなく、どこにもいない」
矢継ぎ早に言い、言葉を切ったプレーブは口の端を釣り上げて笑った。
「いや? この半分はもしかしたらお前が『ウィリアム』から奪ったのかもしれないな? まあそれもどうだっていいことだ? お前は結局こうしてずっと眠っていたわけなんだからな? 殺すことも死ぬことも、殺させることもできず?」
愉快そうに目が細められる。嘲るような視線を受け、術者は歯噛みをした。
「参照元がないと言ったが、憑代はこの体だ。しかし、体が惜しいとは微塵も思わない。人間め、サーを殺すためなら死んでもいいって思ってるな? まあ、思ってなかったらこんな計画は普通立てないよな。そういう必死さは悪くないとは思うがこの場合はただただ迷惑だ」
知らず見つめていた金の目が冷たく光る。人ならざる本物の金の目、悪魔の目が。
「そういうわけだ。残念だったな。俺を掌握することは不可能だ。さて、俺にはまだ仕事が残っているんでね。引っ込んでいてもらおうか」
◆
術者は窓枠を掴んだ。
「待て、俺はあいつを殺さなきゃならない」
「知っている。だからわざわざあんなことをして、もとの体に戻れないようにしたんだろう? お前が死んだらあいつはそのまま砂塵と消える。手を下さなくてもサーは死ぬ。成程よく考えたものだ?」
プレーブは目を閉じ、ゆっくり開いた。
「それで? 放っておいてもサーは死ぬ。自然死を待つしかできないお前にこれ以上何ができる? 洗脳のせいで直接手を下すことが出来ないんだろう?」
「それでも俺は、俺をこんな風にしたあいつらを、あの悪魔どもを一人でも多く道連れにしなければならない。わかるだろう。もはや元に戻ることもできなくなってしまった俺にできるのはそれだけだ」
「サーにやらせればいい」
「……なんだって?」
「お前の意思を継がせればいい。どうせ今だって精神体に狙われている。放っておけば長くは生きられない。ただ、知ってのとおり、あの手合いは生き延びるためならなんだってする。それは俺よりお前の方がよく知っているんじゃないか? あいつは生きるためなら同族殺しだってやるだろう」
「それは、そうかもしれないが」
「どうする? ここで俺に体を明け渡せば手伝ってやらなくもないぞ? このまま何の確約もなく死ぬのは嫌だろう?」
術者は屈辱的に顔を歪め、歯軋りをして、それから、頷いた。
「決定だな」
プレーブは術者の目をじっと覗き込んだ。金の目が光り、瞳のアンバーを塗りつぶす。光を湛えた瞳は、本物の金へと染まった。
◆
プレーブは目を覚ました。瞬間、頭が割れるように痛み、プレーブは呻いた。額を抑えた手の平に、ぱりぱりと薄い膜が割れ剥がれるな感触があった。膝をついて立ち上がり、洗面台に立つと額には乾いた血の跡が残っていた。
「何があったんだ……?」
プレーブは額を消毒し、血に固まった髪を洗った。
◆
「サー、元気にしていたか?」
不自然な笑みが崩れ、驚いたように目が見開かれる。
「元気なわけがない、ひどい目にあった……!」
「はは、そうか。元気そうだな。それで、具体的に何をされたんだ?」
プレーブは手袋の調子を確かめながら聞いた。それを聞いたサーは、肩をびくりと震わせ、両腕で身を掻き抱いた。
「えっ……いや、き、聞かないでくれ……」
「そうか? ああ、そういえば俺の額に何をしたんだ?」
サーは急に顔を青ざめさせた。
「ひ、な、何もしていない……、おれは、なにも……」
ネクタイを押さえるようにして、ふらふらと首を振りながら後ずさっていく。それには流石のプレーブもぎょっとした。
「待て、サー。どこへ行く」
「たす、助けてくれ、プレーブ……」
「俺はここだ、サー! サー、しっかりしろ。落ち着け」
壁を背に、サーは怯えたような表情をプレーブへ向けた。目に涙を溜め、縮こまって震えている。プレーブが肩に手を伸ばすと身体が跳ねた。
「…………」
上目づかいにプレーブを見上げるサーは不規則に息を吐く。髪の隙間から、瞳孔が収縮するのが見えた。あからさまな様子のおかしさにどう声をかけたものかと考えあぐねていると、サーは白目を剥き、ついには意識を手放した。
◆
プレーブは倒れたサーをベッドに運んだ。運ぶ途中で、床に転がっていた表面の曇ったナイフを蹴飛ばした。彼はサーを横たえると、床を滑ったナイフを拾ってサイドボードへ乗せた。彼はサーの靴紐をほどき、足から靴を抜き取った。くしゃくしゃになったネクタイを外し、シャツの喉元を緩める。ボタンを三つ外したところで、プレーブは手を止めた。
「…………」
首元にはうっすらと赤い痕が付いていた。プレーブは無言でボタンを外し、シャツを脱がせた。綿のアンダーシャツを脱がせると、脇腹や腕、肩は青紫の斑が飛んでいた。縁は黄や緑、薄桃色に変わっている。
「……あいつ、サーのことを弟とか言ってなかったか?」
プレーブは傷口を消毒し、ガーゼと包帯を巻いた。骨は折れていないようだった。プレーブは少し考えて、ベルトに手を伸ばす。そこでサーがベルトをしていないことに気が付いた。ズボンを脱がせると、足にも痕が残っていた。靴下に覆われた足先には爪が一枚足りず、腿には強かに打ちすえた痕がある。
「………………」
プレーブは粛々と包帯を巻き続けた。ぱちん、とハサミで最後の包帯を切り、そこで、プレーブは手元のハサミが美しい銀に光っていることに気が付いた。サイドボードの上のナイフは鈍色だ。プレーブは胸を押さえた。そこに、ナイフはなかった。
◆
「わあああああ!」
叫びながらサーはプレーブへガラスの砂糖壺を投げつけた。プレーブは飛んできた円筒形のそれを左の手の平で受けた。
「危ないからやめろ、一体なんなんだ」
「いや、すまない、なんでもない……なんでもないんだ……許してくれ……」
「それは…………」
プレーブは何かを言おうとして、言葉を探した。結局、何も言わず、息を吐いた。
「…………なんでもいいが、砂糖壺はやめてくれ。この重量のもので殴られたら流石に死ぬ」
◆
「うえっ」
鼻を押え蹲ったサーは咳き込み、血を吐いた。糸を引く唾液には赤い色が混じる。
「……大丈夫か……?」
プレーブの問いにサーは首を横に振った。
◆◆◆
サーはガラスの灰皿を投げつけて叩き割った。きらきらと光る透明な塊は二つに割れ、薄く灰が付いた表面は煙るような色をしていた。
「サー、別に灰皿の一つや二つを割られたところで俺は一向に構わないが、どうしても今すぐ俺に死んでもらいたいっていうんじゃないんだったら、もう少し投げる方向を考えてくれないか。いくら俺が何でもできると言ったって、流石に即死はどうにもならない」
「おれによらないでくれ」
顔を手の甲で拭い、震える声でサーは言った。
「怖いんだ。プレーブ、無理を言っているのは自分でもわかっている。でも恐ろしくてたまらないんだ。頼むから俺に近寄らないでくれ」
プレーブは呆れたように首を傾げた。
「本当に無理を言うんだな……どうすれば怖くない? サー? どうすれば、俺はお前の脅威ではなくなる? 考えてみろ、それがわかるのは現状お前しかいない」
サーは考え、小さな声でつっかえつっかえ言った。
「て、手を……」
「手?」
◆
「……俺がいない間、本当に何があったんだ?」
プレーブは後ろ手に拘束され、ぐるぐる巻きにされていた。
「い、言いたくない……プレーブだって聞かないって言っただろ……」
「言ったな。確かに言った。それで、俺はこの状態で生活すればいいのか? 理由もわからないまま?」
投げやりにプレーブが問えば、流石に気が咎めたのかサーはぼそぼそと言った。
「ひ、ひどい目にあったんだ……」
そのまま、サーは口をつぐんだ。その言葉を聞いて、プレーブは合点が言ったように、ああ、と言った。
「拘束を解いたんだな。そしてそれを後悔している」
「……その通りだ」
そうか、と頷いたプレーブは少し考えて、そういえば、と付け加えた。
「拘束した人間の扱いは教えていなかったな。世話は意外と大変だ。縛られている当人は文字通り何もできないからな」
結び目を確認していたサーはそれを聞いてぎょっと身を竦ませた。
「ああ、怯えなくていい。今のは人間の場合の話だ。俺はお前と一緒で地面に足をつけなくても移動できるし、なんだったらこの拘束を解くことだってできなくはない。というか、今の話でその反応をしたってことは、かなり早い段階で解いたな……?」
「う…………」
サーは俯き、口を閉ざした。
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