重力落下はさかしまに

「もう嫌だ! 耐えられない!」

メンテナンサはプレーブの前に膝をつき、叫んだ。受肉によって辱められ変容した彼の魂は慰めを求め、プレーブはそれに応えた。肉の体のもたらす『痛み』は隙間なく、確実にメンテナンサを蝕んでゆく。罪は消えず、時計の針は戻らない。



『プレザーベティブ』。彼をそう呼ぶものはこの世に誰一人としていない。彼は自分のことを俺と呼ぶし、彼のことを名前で呼ぶべき人間は彼のことをプレーブと呼ぶからだ。肉の檻に閉じ込められた哀れなるサー・メンテナンサを解放し、仮初めの生命に始末をつける。それが彼の使命、生まれた理由。そのはずだった。メンテナンサのひび割れた精神は肉の檻からの解放を拒んだ。そうして『プレーブ』は生きながらえた。

彼は全ての元凶たる呪われた体を抱え、今日も面倒な半身と同じ屋根の下、いつ来るとも知れない終わりの日を待ち続けている。



「機嫌はどうだ? サー?」

「や、いやだ、刃先をこっちにむけるな」

メンテナンサは声を荒げた。プレーブの手には先の鋭い調髪用のハサミがあった。

「そう言うな。その髪だっていつまでもそのままじゃ邪魔だろう? 通りすがりの人間に火をつけられたらどうする気だ?」

サーは顔を真っ青にして、肩につくほどに伸びたくしゃくしゃの青い髪を抑えた。プレーブが近づくごとに、手に力がこもり、震えが大きくなる。

「くっ来るな! 放っておいてくれっ!」

半狂乱のサーはプレーブの手を払った。指先に超自然の斥力が発生し、バランスを崩した彼は床へ尻餅をついた。プレーブはサーを助けず、弾かれたハサミを追った。

弧を描き自由落下を始めたそれは落下地点へと伸ばされたプレーブの手へと吸い込まれるように落ち、そのまま手の平を貫通した。目の当たりにしたメンテナンサの喉がひゅっと鳴る。

湯のような血がぼたぼたと、白い手首を伝って床へ零れた。プレーブは無表情のまま、ハサミの突き刺さった左手と垂れる血液、サーの顔を見比べ、右の手で拭いあげるようにして血と傷をメンテナンサの目から隠した。

「今のは見なかったことにしてくれるか?」

指の隙間が濡れるのを感じて、プレーブは指の股を締めた。隙間に溜まっていた血は押し出されて白い手の甲へとだらりと一筋の線を描いた。

「……失敬」

「ひ……」

メンテナンサは自分のしたことを理解し、怯えた。

「ご、ごめんなさ……」

へたり込んだまま、サーは床に手をつき、ガタガタと震えた。垂れ続けている赤いものが、床に跳ね散り印を残す。見ないように、目を逸らすようにと努め、また、失敗する。光を鋭く反射する半透明の赤い飛沫がまた一粒、プレーブの履くキャメルの靴先を汚した。



「気にするな、俺は痛くない」

人間ではありえない本物の金の目と、陽光に反応しない同色の髪。プレーブは痛みを本当の意味で理解しない。目を開いたままぽろぽろと涙をこぼすサーを眺め、プレーブは困ったように眉をあげた。

「……埒が明かないな。腹を出せ。ボタンは留めたまま服の裾をまくるだけでいい」

メンテナンサは戸惑いながらもおずおずとそれに従う。プレーブは床へ膝をつき、べっとりと血のついた手で腹に触れた。サーはぎょっとしたが、逃げようとはもうしなかった。プレーブが動くたび、埃っぽい室内にむっとする血の臭いが差し込む。サーはぬるつくそれが冷えていく感触に底知れぬ恐怖と少しばかりの気持ち悪さを覚えた。空気に触れて凝り始めた血液が、白い肌へ赤黒の魔方陣を展開する。プレーブは顔をあげ、金の瞳でメンテナンサの青い眼をじっと見た。

「……しばらく眠っていろ。起きるまでには終わらせる」

そう言って、プレーブは親指の腹でへそのふちをなぞり、最後の線を引いた。引き伸ばされた血液は少しずつ乾き、腹の皮膚をひきつらせる。その不快感にかぶさるように、熱っぽい波が意識を闇へと引きずり込んで、メンテナンサは目を閉じた。



目が覚めると、長かった髪は元のように肩までの長さに揃えられていた。居間へ降りると、ソファの傍でTVを見ていたプレーブが振り向いた。琥珀色の足つきグラスを、指先に引っ掛けるようにして弄んでいる。

「遅いお目覚めだな、サー? 見るか?」

プレーブから差し出された杯を受け取って、メンテナンサはソファへと座る。はっきりした色使いの画面の中でシルクハットをかぶった桃色のゾウはタップダンスを踊る。

「……?」

メンテナンサは首を捻り、杯の中身をぐっと空けた。緑に濁った甘い汁の形容しがたい香りと味は、熱を伴い喉を落ちていった。空のグラスを持った手へと指が絡み、メンテナンサの肩にプレーブの腕が回された。髪に隠れていた耳を、湿った息が掠めていった。

「冬の夜は長い。楽しい話をしようじゃないか。叫ぶ声が好きだろう?」

プレーブは上機嫌で言い、リモコンのボタンをぐにぐにと指先で転がした。チャンネルが変わり、画面には苦悶する数人の男女が映し出される。泣き、呻き、喉を鳴らす。映し出された恐怖の表現は否応なしにメンテナンサの感情を揺する。メンテナンサは目を伏せる。耐えがたい苦痛を感じ、回されていたプレーブの腕を退けてその場を立ち去ろうとした。

「あれ……」

彼は思うように動かない自分の膝を見た。俯いたことでぐねりと視界が歪み、目の奥がゆっくりと回転する。ぐい、と背中から引き戻されて、メンテナンサはソファの背へ倒れ込む。顔をあげるとプレーブと目が合った。笑顔の形にゆがめられた、温度の変わらない金の目が。

「どこへ行く気だ? 俺と話をするのは嫌か?」

甘えて見せるようにプレーブは問いかけ、肩に回した手でメンテナンサの顎をくすぐった。メンテナンサの青白い顔は紅をさしたように赤く、呼吸は気怠く深い。赤らんだ潤む瞳は、力なく揺れた。

目の前の画面では逃げ惑う人間たちが映されている。一人転び、捕えられる。メンテナンサは緩慢な動作で目を瞑り、耳を塞いだ。

「見ないのか?」

メンテナンサは答えず、手に力を込めた。この続きは知っている、見なくてもわかる。数人分の悲鳴が飛び交う中、メンテナンサはそれらを務めて意識しないようにした。また悲鳴。塞がれた耳の横でプレーブが何か言ったが、メンテナンサは無視をした。

最後の一人が殺され、ひときわ大きく悲鳴が上がり、映像が砂嵐になって、遅れてやってきた最後の断末魔が鳴り響いてから、ようやくメンテナンサは耳を塞いでいた手を降ろした。手は小刻みに震えていた。

「…………」

これは記憶だ。メンテナンサがいつかに殺した、人間たちの哀れな末路だ。

「楽しかったんだろう? 何を拒む?」

問いかけるプレーブへ緩慢に首を振り、メンテナンサは目を閉じたまま声も上げずに涙を流した。



「あ……」

メンテナンサはベッドの中で目を開けた。布団をはねのけ、起き上がる。

「ようやく目が覚めたか。もう夜だ、いい加減起きろ」

プレーブから差し出されたグラスを、メンテナンサは床へ叩きつけた。半透明のグラスは派手な音を立て、砕け散った。琥珀色の液体が床へ広がる。

「……どうした? ……何があった? 気でも触れたか?」

プレーブは頬に残る涙の痕に気が付いた。

「……泣いているのか?」

メンテナンサは答えなかった。プレーブは黙ったまま、黒い皮手袋を嵌めた手で頬を撫でた。



「プレーブ! 誰かがおれを見ている! 誰かがおれを監視している! やつらはおれを玩具にしてガラクタみたいに捨てる気だ! それが明日か明後日かはわからない、それでもおれにはわかるんだ! プレーブ!」

サーは気が触れたように叫んだ。プレーブはあからさまに様子のおかしいメンテナンサを一瞥すると、ページを捲る手を止めず、問い返した。

「何故だ? なぜそんなことが言える? 実際に見てきたことでもないだろう? ……お前、きちんと眠っているのか? 睡眠不足は妄想と不調を招く……」

「知っている! 何故って……わかるはずだ。おれが、おれが今までやってきたことだからだ!」

プレーブは手を止め、メンテナンサを見た。苦い顔に燃えるような瞳を携えたメンテナンサを。瞳に燃えるのは怒りか恐れか。

「何をされると思っているんだ? 何を怖がっているんだ? 腸管を引きずり出して管の順番を変えて詰め戻したり、腹に他人の頭を埋め込んだりされるって? それとも……」

「……っ、やめ……うぇ……」

メンテナンサは体を折って、胃の底から湧き上がる不快感に耐えた。プレーブは捲っていたページにペンを挟んで本を閉じた。

「大丈夫か?」

「……へっ、平気だ……」

メンテナンサは歯を食いしばってどうにか呼吸を落ち着けた。

「どう、どうしたらいい。寝ているうちに脊椎を潰されて死ぬかもしれない。おれは、おれは殺されるのだけは嫌だ……」

「この家には結界が貼ってある。……ああでも安心はできないよな。精神体除けの結界を張っていた家に火を放って中の人間を蒸し焼きにしたのはサーだったもんな? 覚えているか? いないだろうな」

「おぼ、覚えて、ない……」

浅い呼吸を繰り返し、椅子の上で足を抱くメンテナンサは、落ち着かない様子で周りをきょろきょろと眺め回していた。彼が体を揺するたび、椅子が軋む。

「恥じることはない。すり抜けていって何も残らない、精神体なんてそんなもんだ。残ったら、変わっちまう。今のお前みたいに。そうだろう? サー?」

何かを言おうとして口を開いたメンテナンサの舌先は、いくつかの穴が開いて真っ赤になっていた。プレーブは眉を顰め、呆れたように息を吐いた。

「……手を握っていてやるからベッドへ行け。今すぐだ」



「何がそんなに怖い? 何をそんなに恐れている?」

「聞くな、聞いてくれるな、プレーブ」



「地面が揺れている」

「気のせいだ」

「揺れている」

プレーブは指で机をこつこつと叩き、瓶の横のグラスを指した。

「揺れてない。水面を見ろ、揺れているように見えるか? サー?」

「揺れている! 嫌だ……怖い……誰かが人為的に起こした天変地異でおれは死ぬんだ、プレーブ……!」

うろうろと言ったり来たりを繰り返していたメンテナンサは急に動きを止め、声を潜めた。

「ざらついた笑い声が聞こえてくるみたいだ……慌てる姿を見て笑っているに違いない……おれはいったいどうしたらいい……地面が、地面が揺れている……」

「だから、揺れてないと言っているだろう? サー・メンテナンサ!」

足先を見つめ、この世の終わりのような顔をして首を振るサーへ、プレーブはグラスの中身を浴びせかけた。氷混じりの透明な水がサーの頭へ当たって弾ける。ずっ、と鼻をすすり、メンテナンサは咳き込んだ。

「うぇ、げほ、げほっ。冷たい! 何するんだ!」

肩や髪へ水が染み、じわりじわりと色が変わっていく。メンテナンサが手の甲で顔を拭うと、肩から氷が転がり落ちた。

「目は覚めたか、サー。追加で眠気覚ましが必要か?」

「えっ……やっ、やだ、やめてくれ。なにをするつもりだ……」

サーは両腕で頭を抱え、後ずさった。濡れた髪は鮮やかな青から暗いグレイへ変わり、毛先からは雫が垂れている。プレーブはグラスを机に戻し、サーの唇を親指で押した。

「やっ、な、なに……? い、いひゃい!」

プレーブは怯えるサーの顎に指をかけ口を開かせた。舌を指でぶにぶにと押し広げると、サーは痛みを訴えた。針で突いたような傷は舌先だけでなく側面まで広がっていた。

「眠気覚ましは結構だが舌を噛むのはよせ。舌先がなくなるぞ」

サーはびくりと体を硬直させる。プレーブはそれだけ言うとサーの口から手を離した。指との間に銀の糸が引き、重力に従って切れた。



「おれはいったいどうしたらいい。どうするのが最適解だ? もう嫌だ、もう嫌なんだ……」



メンテナンサは人目をはばかるようにしてプレーブの元を訪れた。

「プレーブ、聞いてくれ。おれは多分もう元には戻れない」

「ああ、お前はそういうんだろうな。概ね同意見だが、それで? 話はそれだけじゃないんだろ?」

メンテナンサは頷いた。いつかの狂乱は過ぎ去り、なにかを諦めたような穏やかな表情でメンテナンサは言った。

「死ぬよりひどい目に合うくらいならいっそ死にたいんだ、プレーブ。もう疲れたんだ、知らない誰かに害されるよりは、きみの手で一思いにやってほしい」

「悪くない答えだな。俺が魔法を任意に使えることを見越しての計画なわけだ。結構、結構。だが、残念だな。その計画はご破算だ、サー」

「なっ、なんでっ……」

メンテナンサは目に見えて狼狽えた。プレーブは表情を変えない。

「……やりたくないんじゃない。できないんだ。俺の由来を知っているだろう、サー・メンテナンサ」

プレーブは金色の目を瞬いた。飾り物の燭台が燃え盛り、強い光でプレーブの頬を照らした。燃え尽きた蝋燭はスイッチを切ったように立ち消え、辺りは元の闇へと戻る。

「俺は『害する』やり方しか知らない。お前と同じようにな」

「……」

「髪を切ったときのことを覚えているか? あの術式は昔お前が考案し、人間に施したものだ。どんな夢を見たのかは知らないが……なんにせよろくでもないものだったはずだ。おかげでカップが二つ無駄になった。ああ、怒るなよ。どんな夢を見たにせよ、あれが俺にできる最低出力だ」



「…………最悪だ」

メンテナンサは低く言った。

「このまま、怯えて暮らさなくちゃいけないのか? おれは? 死ぬまで?」

「考えるな。気が触れるぞ」

「精神体に戻ったところで待つのは破滅だ。さりとて人間として生きるのも耐えられそうにない。おれはいったいどうすればいい。こんな、こんな体でどうやって生きていけばいい?」

「……そういやあの術者はいったいなんでお前を捕まえたんだろうな?」

「こっちが聞きたい! おれをこんな風にした……絶対に、絶対に殺してやる……」

熱に浮かされたようにメンテナンサは呟いた。言った後で、自分の言ったことが現状何を指すのかを理解して青ざめた。プレーブは首を傾げ、腕を広げた。

「殺すか? いいぞ?」

「いっ、嫌だ……」

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