ブルーの瞳と銀世界
しんと静まっていた部屋には、這いずるような音が響いている。
「なっ、なに……? 何の音……?」
ステッキを抱えたメンテナンサは部屋の中で息を詰め縮こまっていた。なにか重い物が移動するような、不審な音が続いている。重い音は叩きつけるような音を最後に暫し止む。部屋を不穏な静寂が支配する。これが目が覚めた時からずっと続いている。
「や……んだ、のかな」
ずるずると重たい音は止む。もう聞こえては来なかった。サーは耳を澄まし、息を殊更に潜める。何も聞こえない。自分の、押し殺した息遣いだけが鼓膜を揺らす。廊下を、かつかつと聞き覚えのある靴音が近づいてくる。靴音は部屋の前で止まった。扉が開く。
「サー、起きているか」
ガラン、と金属音が響く。
「ど、どうかした……?」
メンテナンサは震えを押し殺し、努めてにこやかに返事をした。へにょりと眉を下げ、機嫌をうかがうように口元を笑みの形に歪める。おかしな様子を見て取って、プレーブは眉をひそめた。
「…………どうした? ああ、これか?」
片手に持っていたシャベルを壁に立てかけ、プレーブは肩をすくめた。
「スノーマンの腕だ。気にするな」
「えっなに? なんだって……?」
きょろきょろと見回しながらサーは聞き返した。ずるずると何かが這うような音が響き、サーは縮みあがる。プレーブは合点がいったように、ああ、と言った。
「この音か。雪だ。積もった雪が解けて屋根を滑っているんだ。除雪に失敗しただけだから気にしなくていい……ああ、そうだ」
降ろしていたシャベルを手に取り、プレーブは扉を開けた。
「お前も来るか? 外は良い天気だ」
◆
「ああああああ」
屋外へ出たメンテナンサは目を覆い、悲鳴を上げた。あとから出てきたプレーブは一面の雪景色とメンテナンサを交互に見た。さんさんと照りつける太陽光は足元の雪で反射して、薄暗い室内に慣れた青い目を上下の両側から焼く。
「どうした? ああ、その、なんだ…………サングラス用意したほうが良かったか?」
◆
「なんできみは平気なんだ?」
色つきのグラスをかけたメンテナンサは、プレーブへ低い声で言った。シャベルで雪を掘り返しては積んでいくプレーブは、ちょっとばかり手を止めて、サーの方へ振り返った。白銀の地面へシャベルを突き刺し、鷹揚に手を広げる。ケーブル編みの洒落たマフラーが胸元を飾っていた。
「目の色が違うからじゃないか?」
眇められた金の目は陽光を反射し、太陽と同じ輝きを放っている。
「……ところでプレーブ、さっきからなにをしているんだ?」
「ん? 雪像を作っているんだ。目はどうする? 今の気温だったら本物を入れてもいいな? おっと、今のは失言だ……」
顎に手をあて、目を瞬いたプレーブへ、サーは苦虫をかみつぶしたような顔で歯軋りを送った。
「……失言だと思える判断力があるなら言わないでくれるか?」
「すまないな。次から気を付けることにするよ」
「頼むぞ……」
◆
静かな日だった。ざく、ざく、と規則的な音がする他はなんの音もしない。ときおりシャベルの取っ手が回るカランという音がするだけだ。辺りは雪化粧で真白だ。真綿のような雪が音を吸収して、木々に囲まれたこの場所へ結界を貼っているかのようだった。日差しは暖かく、ポカポカとした冬らしからぬ陽気は眠気を誘う。サーは頬杖をつき、舟をこぎ始めた。
銀の結晶がきらきらと煌めく、穏やかな午後だった。
ざく、と音が止まる。さくりさくりと雪を踏む音がして、誰かが歩み寄ってくるのだと知れた。暖かな微睡の中、目を開いてこの心地よさを手放すのが惜しい。そう思った。瞼の上下は分かちがたく寄り添っている。足音はますます近づき、目の前の気配はこちらへ手を伸ばす。
刹那、顔に冷たいものが叩きつけられた。サーは飛び起きた。
「何、なに、なんだ!? 冷たい!」
咳き込みながら顔を上げると、少し離れたところにプレーブがシャベルを構えて立っていた。足元の雪を掬って投げたのだろう、靴の近くの地面には小さな穴が出来ていた。
「起きていろ! 野外で寝るんじゃない!」
「そうかもしれないが、起こすにしても、もう少しやりようがあるだろ!」
叫び返すと、視界の端で、ざく、と地面へシャベルを突き刺すのが見えた。サーは顔にかかった雪を払った。体温で溶けた雪が冷え、頬をひきつらせる。サーは袖で顔を拭った。口の中は埃と銀の味がした。足元に目を落とすと、足跡が付いていた。
「……プレーブ、さっきおれに話しかけようとしてなかったか?」
「俺がか? 何も言ったつもりはないが……何か言ったように聞こえたか?」
「そうか……なんでもない、おれの気のせいだ」
サーは首を振った。強い風がざぁっと吹き、足跡は吹き消されて見えなくなった。
◆
シャベルを持ち直したプレーブは固めた雪を掘ってメンテナンサにそっくりの雪像を作った。星空の下、等身大のメンテナンサの前にしゃがみこみ、プレーブは少し考えてから台座に『ser』と刻んだ。立ち上がり、ためつすがめつ雪像を見回す。
「引き写したみたいだな。よく似ている」
「プレーブ……もう夜だ……そろそろ家に入らないか?」
雪山に腰かけたメンテナンサは吐息で手を温めた。指先はかじかみ、鼻先と同じように赤くなっている。日が暮れ、気温は下がる一方だ。
「ああ、そうだな」
プレーブは頷き、自分のマフラーを解き、サーの雪像にかけて結んだ。プレーブの金の目が月光を受けてわずかに光る。
「これでいい」
◆
「生きているか?」
「変なことを聞かないでくれ……生きている……」
「そうだよな。まだ温かいもんな。熱いくらいだ」
震える声で答えたサーへプレーブは肩をすくめて見せ、ベッドの端へ腰を下ろした。手には小さな体温計。ボタンを押すと、ピ、と電子音がする。液晶が生きていることを確認して、プレーブは寝転がるサーの歯の間へ体温計を突っ込んだ。
「痛っ……やめろ、なんだ、なにを、これはなんだ……苦い……」
力なく言い、サーは口の中のものを出そうとした。プラスチックの本体が歯に当たり、カチカチと音を立てる。
「吐き出すな、危ないものじゃない、噛むな! 体温計だ! 水銀中毒で死にたいのか」
「すっ!? ……いや、待て、どこに水銀が使われているんだ? この機械の?」
プレーブは一瞬動きを止めた。
「……ああ、そうか、機械式か……」
「プレーブ? どういうことだ……」
「訂正だ。このタイプには水銀は使われていない。五分でいいから黙って静かにしていろ」
サーの手から体温計を抜き取り、プレーブは再び歯の隙間から舌の裏へとセンサー部分を潜り込ませた。
◆
「熱だ。風邪をひいたな」
◆
「人間の体はなんでこんなに脆いんだ……死にたくない……おれにはまだやらなきゃいけないことが」
メンテナンサは呻いた。プレーブは枕元から手を伸ばし、汗でぬれて額に貼りついた髪を払った。
「何をしようとしてるのかは知らないが安心しろ。風邪は治る病気だ。命を落とすことはそうない」
「本当か? 嘘じゃないだろうな……」
サーは震える。プレーブはぬれた布巾で顔を拭った。
「嘘をついてどうなる。俺には何の得にもならない」
「ううう……」
「それなりのものを食べて大人しくしてりゃ治る。アイスクリームでも食うか?」
「要らない……」
◆
「桃のゼリーがあるが食うか? 食うよな? 食え、サーの分だ」
プレーブは二つ持っていたゼリーの片方をサーに手渡した。
「ありがとう」
「ああ」
◆
けばけばしい紅白マーブル模様のケーキは、皿の上で華やかな糖蜜の匂いを放っている。
「プレーブ、これは何だ?」
「快気祝いだ。こういう時に人間は砂糖のたっぷり入ったケーキを食う。ケーキって知っているか? ざっくりいうと植物由来の粉を水で溶いて焼き固めたものだ。人間の脳が快楽を感じるもので構成されている」
アイシングで固められたペパーミントキャンディー色のケーキをメンテナンサはまじまじと見た。眉をひそめ、懐疑的な目を向ける。
「……食べると、楽しい気分になるのか?」
「そういう傾向があるっていうだけだ。当然、人にもよるし、俺はならない。いや、因果関係が逆だな。楽しいことがあったときに気分を盛り上げるために食うんだ。おそらく。植物って言っても大したものは入っていない。せいぜい麦と砂糖だ。蜂蜜は植物由来って言っていいのか? まあ、いいだろう。楓の樹液も入っている」
細いナイフでさくさくと切り分け、紅白マーブル模様のスポンジケーキをサーブする。気泡が均質に入ったスポンジの断面も鮮やかなマーブル模様で、間に挟まれた白いクリームからは果物の赤が覗いて水玉模様を形成していた。
フォークを手渡し、プレーブはナイフを炙り直した。熱された刃が、再びケーキの間に吸い込まれていく。
「サー、食べないのか」
「あ、うん、食べる……この赤いのは何だ?」
クリームの間の赤い実をつつき、サーは尋ねた。
「サクランボ、果物だ。知っているか? 黒い幹に淡いピンクの花が咲く、夏に……夏だったか? 記憶が曖昧だが、まあとにかく花が散った後に赤い実が付く。それがこれだ。原産地からシロップ漬けの缶詰になって運ばれてくる」
さくりさくりと小気味よくケーキが切り分けられていく。プレーブは切ったケーキを先ほどと同じように皿に載せた。
「そ、そうなんだ」
「興味ないか?」
顔を上げたプレーブは笑った。
「う、どう、どうだろう……」
サーはケーキを小さく崩し、口へ運んだ。
◆
「サー。外を見に行くんだが、ついてきてくれるか? 前に雪像を作っただろう? あれの様子を見に行く」
「……おれが行く必要はあるのか?」
サーは表情を曇らせた。プレーブは手を差し伸べ、サーを立ち上がらせた。
「行けばわかる」
「うっ……なんだこれ……」
家の外では頭を半分失った雪像が目と口から血を流して膝を折っていた。自分と同じ姿かたちをしたものの哀れな惨状に、サーは目を見開いた。
「安心しろ。食紅だ」
「そ、そういうことじゃない……」
◆
「おかしいと思わないか? 精神体の奴らだって暇じゃない。時間的なことを言うならもてあましているはずだが、この際そんなことはどうだっていい。問題なのは、なぜこの家に集中してやってくるのかという話だ」
白い空に薄くかかっていた雲が灰色に変わる。プレーブはさくさくと雪の中を歩き回った。
「術者の手帳に書いてあったよ。この家自体が罠だ。結界があるから人間の体を持たないものは中に入れない。他人に取りついて中に入ってきたところを捕まえるって寸法だ。まんまと引っかかったな? サー?」
「知らない……おれにそれを言ってどうなるっていうんだ……」
プレーブは少し驚いたように眉を吊り上げた。
「覚えていないのか? そうだな、俺も全てを知ってるわけではない。話を戻そう」
金の目が瞬き、雪のように冷たく光を反射した。冬の冷たい風が金の髪をさらう。
「……それで、術者が罠を張っていたわけだ。罠には餌が必要だ。この家自体に集まるように細工がしてあるんだ。さておきこの像には肉と水とさっき言った食紅が混ぜてあったわけだが……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……その話ここでなくちゃだめか?」
言われて初めてプレーブはちらちらと舞う雪に気が付いた。
「……ああ、寒いよな。家に入ろう」
◆
「それで、あの雪像は何だったんだ」
「囮だ。近頃は静かだっただろう。ただ、やっぱり付け焼き刃では限度がある。冬中は持たなかった」
「付け焼き刃?」
「ああいうのは俺の専門じゃない。術者の書いた術式を、この体経由で展開したんだが、出力が思うように安定しない」
プレーブは手の平を見つめ、指の曲げ伸ばしをした。
「……どうかしたのか」
「いや……何でもない」
◆◆◆
その日、プレーブは椅子を担いで現れた。
「調子はどうだ? サー?」
「え、いや、どう、どうだろう」
金の目が不安定にちかちかと瞬く。彼はどっかりと椅子を降ろした。
「まあ、なんでもいい。時間がない。これを見ろ。縄だ。俺を縛れ」
「へ……」
「俺の体は借り物だ。それは知ってのとおりだが、そろそろ返却期限が迫っているらしい」
縄を投げ渡したプレーブの目は金に明滅する。寿命の迫った蛍光灯のように、不安定に揺れる。サーは縄の束から顔を上げた。
「おれにどうしろっていうんだ……?」
プレーブは肘掛け椅子に座った。
「笠木と胴を、肘掛けに両腕を、脚に足を固定してくれ。ああ、壊死しない程度に手加減してくれ。肉が腐っていくところなんか見たくないだろう。俺も別に見たくはない」
「固定してどうするんだ? 俺はどうすればいい……」
「そうだな、さしあたっては術者を生かしておくんだな。まだしばらくはその体で生きているつもりなんだろう? 俺がお前にしたように、術者を生かしておけばいい。そのあとどうするかはお前が決めろ」
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