サー・メンテナンサ

佳原雪

サー・メンテナンサ

『メンテナンサ』は当然本名ではない。彼は人間だ。肉の体に閉じ込められた無力な精神体の末路だ。彼は怒りに身を焦がし、それと同時に絶望していた。己をこんな目に合わせた人間を探し出し、復讐を成す。それが彼の目的だ。そして、つまり、彼はその日まで生き延びねばならぬ。慣れぬ肉の身体を抱えて。

今日も瞳の博愛とは程遠い顔つきでメンテナンサは鏡を眺めている。

「サー」

「死にたい……死ねない、死んじゃいけない。あああ、でも死にたい!!」

「サー」

「いやだいやだ。痛いのも苦しいのももう嫌だ」

「サー・メンテナンサ。人間を殺すんだろう? そうして元へ戻るんだ。そうすれば痛いのも苦しいのももう無関係だ」

「……そうだな、プレーブ」

「さあ、わかったら起きて飯を食え……なに、嫌だ? 食うんだ。良いな?」


メンテナンサは人ではない。否、人間ではなかった。他者に触れること叶わぬ精神体だった彼は、とある人間の不可解な秘術のもたらす強制的な受肉によって、肉の檻から出られなくなってしまった。

肉体を持たず、その身に受ける情報を調整・選択できた彼にとって、肉の体の『痛み』によるアラートは耐えがたい苦痛だった。術者を殺さぬことには身体を乗り換えることもできない。痛みを遮断できなくなった彼が自死を考え、自傷を繰り返すようになるまで長い時間はかからなかった。



メンテナンサは首に縄の痕をつけて冷たいフローリングへ、まるで嘘のばれた女の子のように座っている。おびえるような視線の先にはプレーブが立っている。琥珀ではない本当の金色の目、金の髪。右の手には鈍く光るナイフが一本。

「ひっ、いやだ、やめて。痛いのはいやだ」

尻もちをついたままメンテナンサはプレーブや彼の持つナイフから逃げようとした。プレーブは見下げるように冷たい目を向ける。メンテナンサは体を縮こませた。

「首に巻かれてるそれを取るだけだ。ずっと巻いたままってわけにもいかないだろう」

「えっあっ、そう、そうか。いっ、いや、じ、自分でとれる。いや、いやだ! 刃をこっちに向けないでくれ!」

「怖いか?」

感情のない目で見つめられ、メンテナンサの臓腑は冷えていった。

「こっ、怖いさ! 血がいっぱい出て、そ、それで、死ぬまでに、す、すごく苦しむんだ。怖くないわけないだろ」

「すごく苦しむ? すごく苦しむ方法で、さっき死のうとしてたのに? それとも、そんなことはしらなかったか? お前は絞殺には興味がなかったもんな」

「う、うるさい! 関係ないだろ!」

「はっはっは。そうだな、関係ない。どんな方法で死のうが、死は死だ。ナイフをやろう。俺には任せられないんだろ? 俺は今からナイフを床に置いて、そこの椅子に座って見ている。俺がお前を害そうと企んだところで、そうそう手出しはできない距離だ。わかるな?」

「あ、ああ」

「首にぶら下がってるそれを外しな。どっちにしろ人間一人支えきれなかった不良品だ、惜しくはないだろう。欲しければまた買えばいい。交換、使い捨てなんて昔は平気でしてたじゃないか。そうだろ?」

「……」

「くれぐれも、変な気を起こすなよ? サー」

「うるさい、わかってる……」

メンテナンサはそろそろと指を伸ばし、ナイフに触れた。柄を握ると想像したよりも重い。顔をあげると、椅子の上のプレーブは『早くやれ』と目で示した。ナイフに目線を戻し、ぎゅっと握る。ぶるぶる震える手で、首元に持っていって、刃を内側からロープにあてた。力をかけるとみじみじと繊維の切れる音がする。息を止め、刃先がそれないよう神経をとがらせながら切る。

ぶつりと刃が通り、床に落ちたナイフがガキンと音を立てる。メンテナンサは肩で息をしながら、プレーブに助けを求めるように視線をよこした。見開いた目には涙をためて、今にも零れ落ちそうだ。

「よくやった」

プレーブは腕を広げ、メンテナンサへ近づいた。メンテナンサは目を閉じることもせず、腕の中に倒れこんだ。

「こ、怖かった」

身体はぶるぶると震えていた。

「そうか。寝ろ。寝かしつけてやる」

仰ぎ見るメンテナンサの頬をプレーブは両掌で掴み上げた。異様に冷たい肌は、彼が精神体であったころを想起させる。プレーブは顔から手を放すと、メンテナンサを抱きかかえてベッドへと運んだ。ぐずるメンテナンサが眠りに落ちるまでの二時間の間、プレーブは彼の手をずっと握っていた。



「サー、地面を歩け。飛ぶな。人間に見つかったら棒で叩かれるぞ」

地面から数センチ浮いたまま移動するメンテナンサの身体をプレーブは引き留めた。

「地面は凹凸があるからいやだ。アスファルトの上を歩くとか絶対正気じゃない」

プレーブはサーを抱きかかえた。柔らかな足の裏は擦れて真っ赤になっていた。

「……靴を履け。靴下もだ。転ぶっていうんだったら歩く練習をしろ」

降ろしたメンテナンサの前に跪き、プレーブはメンテナンサの指の長い足に傷薬を塗りこんでやった。


数日後、紐をほどいたままの靴が床に放り出されているのを見て、プレーブは眉根を寄せた。

「サー・メンテナンサ、靴を履けと何度言ったらわかるんだ」

「靴、くつ……? 足、痛い……」

膝に頭をうずめて、メンテナンサは泣きそうな声で言った。プレーブは目を動かし、組んでいた腕をほどいた。

「見せてみろ」

膝を開き、アキレス腱からかかとへ手を添わせるように指を差し込んで、プレーブはナイロンの靴下を抜き取った。骨ばった白い足には水ぶくれができていた。

「……サイズが合ってないんだ。ワンサイズ上を履け。お前の足にこれは小さすぎる」



「ぷ」

「ぷれ、ぷれぶざー」

「プレザーベティブ」

「ぷ、ぷれぶ……べ……」

「プレザーベティブ」

「…………」

「泣くなよ。もう何でも好きなように呼んだらいい」


「…………プレーブ」

「いい名前だ。これからはそう呼べ。サー。サー・メンテナンサ」



「いっ、いたい! いたいいたい!」

「あ? なんだ?」

プレーブは肉きり斧を手に振り返った。片手には原形をとどめたままの肉の塊を持っている。

「やめて! 見せないで!」

「ああ、これか? 安心しろ、俺は痛くない」

ズドン、とプレーブは斧を振り下ろした。メンテナンサは手で顔をさっと覆った。

「み、見てるこっちが痛い! やめて、隠して!」

「繊細になったな、お前……昔は大好きだったじゃないか。人間解体ビデオ。これは羊だが」

「やっ、やめてくれ! 今は今だ!」

「肉体に引きずられたか? 見たくないなら部屋にいてくれ。終わったら声をかける。ああ、変な気を起こすなよ、苦しむのはお前だ」

「わっ、わかってる!」


「ぎゃー! なにしたのその手!」

「なにってレバーとビーツ切っただけだ。あ? なんだ? これもだめか?」

「なに!? なにしたの……!?」

プレーブはメンテナンサの頭を掴み、眼前に手を持ってきた。

「よく見ろ! 染料だ。血じゃない」

「び、びっくりした……」

メンテナンサは落ち着かない様子で瞳孔の開いた目をきょろきょろさせた。

「落ち着いて考えてみろ。人間の血はこんな色じゃない。明度も再度ももっと低くて、赤黒い……」

メンテナンサは頭を抱え、プレーブの言葉を遮るように叫んだ。

「やめろ! 想像させるな!」



「寒い……死ぬ……」

「そうだな。寒さは死に直結するからあながち間違いでもない。いいか。上着を着ろ。下着も着ろ。人間が目に見えるところしか服を着ていないと思ったら大間違いだ。いや待て、何枚着てる? とりあえず全部脱げ」

「なっ」

「いいから。脱いでみろ」

「破廉恥だ……信じられない……」

メンテナンサは羞恥に震えながら服を脱いだ。プレーブは床に落とされた布地の総量を見て激怒した。

「下着を着ろ! なんで靴下しかはいてないんだ!?」

自分の着ていたカーディガンをメンテナンサの肩にかけ、プレーブは下着を一揃い持ってきた。青い縦じまのトランクス、丸首のシャツ、それとウールのカーディガンをもう一枚。

「いいか、まず、これを着ろ」

プレーブの差し出したシャツをまじまじと眺め、メンテナンサは手に取った。

「き、きみは着てるの? これを? 表には見えないのに?」

「そうだ。その辺を歩いている人間も十中八九着ている」

「何のために!?」

狼狽えるメンテナンサへ、プレーブは青筋を立てて怒鳴り返した。

「防寒だ! 無論ほかにも理由はあるが、さっき自分で寒いって言ったのを忘れたか?」

「た、確かに、すごく寒い。あ、あのさ、実例を見せてくれないか。初めて見るものだから、その、着方がわからない」

「しょうがねえな。特別だ」

プレーブはばさりとシャツを脱いで見せた。メンテナンサよりいくらか体格のいい肉体が、光にさらされ、ひときわ輝いた。

「お、おれの体と違う……なんで……」

「そういうもんだ。おい、あんまりべたべた触るな。早く服を着ろ」

「あ、あったかい……」

「人間の体は生きている限り発熱するようにできている。その熱をいかに外へ逃がさずとどめておけるかが寒くならない秘訣だ。おい、やめろ。服を脱いだままでくっつくんじゃない。ただでさえ冷たいのに……やめろというのがわからんか! サー・メンテナンサ! いいから早く服を着ろ!」

「あっ、ご、ごめん……」

プレーブの腹に頬を押し付けていたメンテナンサは、びくっと身を引き、今度こそ服を着た。



ベッドの中に入って、メンテナンサはプレーブの手を握っていた。

「プレーブは温かいな」

「お前が冷たいんだ。食事を嫌がってちゃんと食わないからだ」

「今夜は寒い」

「何が言いたい?」

「おれと今夜寝てくれ。プレーブの体温が恋しいんだ」

「なるほどな」

プレーブはうんうんと頷き、靴の紐を解くと布団の中へ入った。

「脱いだほうがいいか?」

「頼む」


「あたたかい……」

「よかったな。それで? 俺と寝た理由ってそれだけか?」

ベッドサイドに転がる靴を眺め、プレーブは聞いた。

「他に、なにか理由が必要なのか?」

「……人間として生きていくつもりならもう少し社会勉強をしたほうがいい。もう寝ろ。夜は冷える。ゆっくり眠れ、朝が来るまではいてやるよ」



メンテナンサは目を開く。柔らかな光が差し込んで、黄金よりも淡い髪の上で朝日がはじける。プレーブはやはり温かかった。ふとそこで違和感に気づく。琥珀ではない本当の金の目を持つプレーブは、同じく博愛の瞳と同色の髪を持つ自分と同じ由来の生き物だ。つまり、彼は人間ではない。

「なんで、どうして暖かいんだ? プレーブはおれと同じなんだろ?」

「そうだ。なんだ、ようやく目が覚めてきたか? それじゃ俺が誰だかわかるな?」

「同じ……? プレーブ……プレーブは、おれ?」

「そうだ。もう一つ思い出すことがあるな? 体温は人間の肉体にしかない。俺もお前も情報体の冷たい靄だ。お前の体は自前だが、この体はだれのだった? 思い出せるか?」

「人間……」

「そうだ。そして、俺とお前の間で人間って言ったら一人しかいないな?」

「! おれをこの体にした……!」

「そうだ。それで、お前の目的は何だった?」

「術者を殺して、元の体に戻ること……」

「よくできました。ようやく答えにたどり着いたな。百点満点の答えだ。さあ殺せ」

にこりと笑って、プレーブは腕を広げた。


◆◆◆


「いやだ!」

「なぜだ?」

「き、君を殺せない」

「正気か? 俺はもともといないんだ。お前の脳みそが痛みから逃れるために作り出した一種の幻覚だよ、俺は。プレザベーションって何か知ってるか? 維持だ。俺はお前を保つためにここにいる。お前が元に戻れば俺はお役御免だ。依代を失った俺はそのまま宇宙のチリになる」

「い、いやだ。おれはもう、誰も殺せない。知ってるだろ、もうだめなんだ。血を見るのも、傷ができるのも、おれにはもう他人事じゃない。何人死のうがどんな苦しもうが……」

メンテナンサは胸を掴み、吐き気を堪えるように息を詰めた。

「大丈夫か?」

「平気だ……そ、そう。苦しめば苦しむほど面白かった頃にはもう戻れないんだ。おれは痛みを知ってしまった」

「そうか? 俺が代わりに死ぬのはどうだ? 他人のセンセーショナルな自殺は面白いだろ? 見るの好きだったもんな?」

メンテナンサの顔がざっと青くなる。彼はひきつり、裏返った声で叫んだ。

「やっ、だめだ! 嫌だって言ってるだろ!? いなくならないでくれよ、そんな、おれは、プレーブがいなくなったら、おれはどうやって生きていけばいい!」

「じゃあどうするんだ? 俺とこのまま人間として暮らすか? 気が触れるほど辛いのに?」

「もう何もかもが手遅れなんだ。精神体は情報の汚染に弱い。人間の体に閉じ込められて、痛みを知覚した時点でおれはもう戻れない。元の体に戻って、身を裂く痛みを感じたらどうなる? わかってしまったおれはそのまま裂かれて死ぬだろう。わかるだろ!? そんな状態のままおれに永遠に生きろっていうのか? いつ、死ぬよりひどい目に合って死ぬのかわからずに怯える毎日を過ごせっていうのか?」

プレーブはメンテナンサをじっと見た。

「選べ。俺を殺して生きていくのか? それとも、俺と死ぬか? 一緒に?」

「……痛いのは嫌だ。死ぬのも生きるのも、こうなったら痛いことの連続でしかない」

「で、どうしたいんだ?」

目を眇め、プレーブが問う。

「……しばらくの猶予をくれ、諦めがつくまででいい、待っていてくれ」

「あきらめ? それは何にだ? 俺がいなくなるってことにか? それとも、痛みと生は不可分のものであるっていうことにか? 人生は永遠じゃないんだぞ。タイムリミットが必ず来る。それまでに決められるのか? ああ、永遠には嫌気がさしてきたんだったか?」

メンテナンサは質問には答えず、力なく首を振った。

「そんなことはどうだっていい。君がここにいて、おれを励ましてくれ」

「はあ!? 正気か?」

「最後の最後まで決められなかったら、おれ一人で死ぬまでだ。死ねばもう何も感じなくなるんだろ、それまではどうにかしておれをなだめてくれ」

プレーブは首を振り、メンテナンサに背を向けた。

「……もうしらん、好きにしろ。俺を殺したくなったらいつでも言え」

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