燃える炎は目覚めの福音
どれくらい眠っていた? 家はどうなった? 研究は? 家族は? 目を見開き、術者は跳ね起きた。今はいつで、ここはどこだ。答える者はない。足元に目をやれば、青い髪の男がベッドに頭をもたせかけ眠っている。眠っているのか? 彼はベッドの端に乗る頭を靴を履いたままのつま先で転がした。青い頭は無抵抗にごろりと床へ転がり落ちた。顔はクレヨンで塗りつぶしたようにぐしゃぐしゃの靄がかかり、その表情は見えない。
術者はため息をつき、サイドボードに乗っていたアルコールに手を伸ばす。瓶をひったくり、蓋を開けて指に数滴落とし舐める。苦みに顔をしかめて彼はそれをそのまま頭から被った。頭を振れば髪からは辛い雫が滴る。揮発するエタノールが辺りに漂い、特有のツンとした臭気を放った。
眠る男が起きる気配はない。永遠に目覚めることはないだろう。あれはもう死体だ。塗りつぶされた顔は錯覚で、モザイクの下にはきっともう顔なんてないのだろう。術者が腕を振ると死体は超自然の炎に焼かれ消滅した。赤黒い焦げ跡だけが僅かに形をのこし、誰もいない部屋に影を作った。彼はぎょっとして目を見開く。
「……最悪の寝覚めだ」
術者は呟き、部屋を出た。
◆
「一体何があったんだ?」
階下へ降りてきた術者は居間を見るなりそう言った。部屋の中ではまるで嵐の中、漁をする漁船の様相を成していた。当然、床に転がるそれらは魚ではない。転がっているのはすべて人間の身体だ。それも術者によく似た背格好と顔の。それが血だまりの中にごろごろと積み重なっている。術者はめんどくさそうに眉をしかめた。
「ああ、原因究明の前に片付けないとな……出来るか? 身体を奪われた今の俺に? まあいい、とりあえずやってみるか」
冬でよかった、と呟いて術者は目を瞑り、組み合わせた爪の先から不可視の糸を引き出した。ずるりと引き出された糸は伝播し感応し、操り手の知覚を広げる。炎が燃え広がるように五感が冴えわたる。彼は目を瞬いた。
「ほら起きろ、いつまでも寝ているな」
ず、と指が手繰られれば、折り重なっていた傀儡はのろのろと起き上がる。動く、と術者は思った。腕はまだ鈍っていない。
術者は首の外れた一体を手繰り寄せ、その胸に呪文を書いた。肩から鎖骨を通ってもう一方の肩へ。秘密の解体コード。さらさらとなぞる指がピリオドを打てば、肉体は瓦解し砂へ変わる。術者はそれを手で掬って、ぱらぱらとまた床へ零した。床を煤けさせる白っぽい砂を掃くようにして腕を振る。ぱっと燃えた青い焔が、舐めとるようにそれらを消し去った。術者は目を瞬き、弾けるようにてのひらを見た。新しい一体を呼び寄せ、頬を丸めた指で叩いてから顔面をさっと払う。指先に研磨剤を触るような感触。空気の対流に触れられる。流動する大気の流れを知覚できる。形を掴んで捻じれば、指先がカリ、と何かを引っ掻いた。刹那、顔面があった場所から炎が上がる。術者と同じ顔をしたそれは、彼の目の前で見る間に煤へと変わり無残にも崩れ落ちた。
「……なあ。なんでだろうな。炎は俺の専門じゃない」
舞い散る煤が流れたあとの虚空に向かってコンソール・ソーサラーは言った。答える者はない。彼はおもむろに糸を引き、繋がっているもののことごとくに火を着けた。部屋の中は冷たい炎に焼かれた。零れた血はガソリンのように燃え、全ては分子レベルで分解され跡形もなく消えた。
「……何が起こっているんだろうな?」
ぽつりとこぼされ残響する、問いともいえぬその問いに答える者は誰もいない。
◆
「そもそも俺はなにをしていたんだ? 俺はなにを見て何を忘れた? この家の中で一体何があった? 俺は……誰を探している?」
術者は屋敷の中を歩き回った。途中、一室の扉がガタガタと鳴るのを見つけた。鍵のかかっていないはずの扉は随分と重い。彼はそれを蹴り開けた。瞬間、ごう、と風が吹き込む。風圧。窓辺ではばさばさとカーテンがはためく。鍵の外れた窓から雪が吹き込んで床に吹き溜まりを作っていた。彼は周りを見回し、自分以外に誰もいないことを確認してから窓を閉めた。風の音が締め出され、部屋の中は静かになった。
壁面をなでる風の音と自分の吐息、電灯の発する微かな音だけが耳に届く。否、もう一つ。微かに鼓膜を揺らすのは誰かの吐息に他ならない。部屋の中に誰かが居る、術者は辺りを見回した。部屋の中、不自然な焦げ跡のあるクロゼットに近づく。人が入れる大きさのものはこれしかない。手をかけて一気に開けた。中には数着の着替え。彼は拳を固めた。くぐもった呼吸音はその奥から聞こえてきている。時折すすり泣きのようなうめきが混じり、術者ははっとする。この声には聞き覚えがあった。認識するが早いか眼球のあたりがぬるく暖まるのを感じ、術者は自分の酒瓶を真っ先に探さなかったことを悔やんだ。脳裏に散る青い花弁は思考へ覆いをかけ、それらを雪のように閉じ込める。彼は手を開き、吊るされたハンガーへ手をかけた。
「……『ウィル』」
吊り下げられたズボンやシャツ、ジャケットやコートをひとまとめに脇へ押しやる。衣類の膜が取りさられた奥には、青い髪の男が一人、身を縮めて蹲っていた。差し込む光に身を震わせ、顔を上げる。血の気をなくした頬と青い眼が術者を捉える。
「ひ、や、いやだ、おれに、おれにさわるな。だれだ、だれなんだおまえ」
「兄の顔を忘れたか? 俺だよ、コンソール・ソーサラー……いや、子にソーサラーと名付ける親がいるものか。俺は、俺の名前は……待て、名前? 俺は、誰だ……? 待ってくれ、頭が……痛い……」
術者は床に蹲った。呆気にとられたメンテナンサはクロゼットの中からおそるおそる這い出てきた。手を胸元で握りこみ、目は逸らさないままゆるゆると立ち上がる。
「う」
メンテナンサは噎せた。近づいた男から血の臭いはしない。看過できないほど鼻をつくのはむしろアルコールだ。咳き込みながらメンテナンサは直感する。この男は本物だ。
「ああ、ウィル、平気か?」
どろりと濁った眼が向けられ、メンテナンサはさっと目を逸らした。
「へ、へいき、だ。その…… いや、なんでもない……」
◆
ぎいぎいと鳴るレコードのバイオリンを聞いているのかいないのか、術者は香水瓶の細工に爪を立ててガリガリと削っていた。メンテナンサはいつものように俯いて机の天板を見ていた。
「退屈か? ……俺と踊るか?」
「えっ、えっと……」
「冗談だ、真に受けなくていい」
◆
「なあ、お前、人間に火を着けたことはあるか?」
ペンを弄りながらつまらなそうに言う術者の質問に、メンテナンサは掴んでいたカップを取り落す。零れた水が卓上に広がり、術者はのまれそうになった手帳を取り上げた。
「危ないな。……ああ、そうだ」
ふと気が付いて、術者は何も持っていない左手の指を水に浸し、天板の乾いている部分に線を引いた。とん、と指がひとつ打つ。天板に薄く張っていた水が泡立ち、見る間に蒸発した。室内が蒸気で満たされ、白く煙る。
「な……」
もうもうと上がる蒸気が晴れると、あとには咳き込むメンテナンサと白く濁った机が残った。
「失敗したな。塗装が真白だ」
「何をするんだ……」
「今のは俺が悪かった。見ての通り俺はこういうことが出来る」
メンテナンサはさっと青ざめた。
「だから、なんだっていうんだ……? 胃液を蒸発させて粘膜を焼いたり、おれを蒸し焼きに出来るって言いたいのか?」
術者は呆れたようにため息をついた。
「俺に手を出すだけじゃ飽きたらずそんなことしてたのかお前」
「えっ…… わからない……」
「そんなことはどうだっていい。聞きたいことはわかった。そうか、これお前の力か……プレザーベティブだな、いや、ウィリアムか。全く、人に厄介なもの押し付けやがって」
◆◆◆
「自分がいつ死ぬのか知りたくないか?」
「は! 結構だ。今日じゃないって知ってるんでね」
肩をすくめ、嘲るように術者は言った。
「用事はそれだけか?」
「わからないぞ。他に聞きたいことはないのか? なんだって教えてやる。花屋の娘の本当の歳、アスファルトの下の死体の数。俺にわからないことはない」
術者は手を振って男を黙らせた。
「俺の知りたいのは『精神体に取りつかれた人間の末路』だ。人の身で知るには過ぎた願いだ、ぜひとも知りたいね。まともにやってちゃ叶うころには俺の魂は浄土だろう」
「お前、取りつかれているのか? 普通ならとっくに死んでるところだろう。お前、本当は人間じゃないのか? いつからだ?」
「いつからだろうな? 少なくとも今より前なのは確かだ」
男は術者の手を取り、そこに不可視の何かを読み取ったようだった。男は火がついたように笑い出した。
「……相手があのウィリアムか! よくよく大変なものを相手取ったな?」
「全くだ! 俺は人間でいられなくなった!」
互いに顔を見合わせ、にやりと笑う。
「折角だから思い知っていかないか? 俺がどんな思いをしたかを。お前らみたいなのは好きだろう、そういうの。おれからのちょっとしたサービスというやつだ」
術者は首に手をかけ、シャツの上から鎖骨をなぞった。術者が呪文を唱えると、内臓が溶け炎が上がった。術者は火の粉が上がる口を人差し指で押さえ、黙らせた。
「気分はどうだ? いや、いい、そのまま黙っていろ。別に聞きたくなんかない」
◆
死角から伸ばされた白い指が糸を伝い、頭蓋を透かして入ってくる。
◆
術者は廊下に立っていた。目の前の壁にはミュオソティスを抱える肖像画がそびえたつ。油絵の背景を青い花が埋め、胸の上にも額にも花弁が描かれている。目は閉じられ、青い髪には同様に青い花冠がかかっている。
埋葬する前の棺のようだ、と思ったのはそう間違いでもないのだろう。術者は周りを見渡した。
「……油断したな。しかしまたここか……早く戻らないと……」
廊下を進み、扉を開ける。先には廊下が続いている。扉を開ける。扉を開ける。扉を開ける。廊下は続いている。足を止めて、部屋へ入る。開けた先には廊下が続いている。
「なんだ……どうなっている?」
ばたん、と背後で扉が閉じた。廊下を進み、新しい扉を開けようとした術者は廊下の先にある窓に人影を見た。地響きが鳴り、硬いものを圧搾するようなバキバキと言う音が地面を伝う。足元を揺らす振動、けたたましい破壊音、全ては窓の向こうから聞こえてきていた。窓に映っていた影はぐにゃりと歪み、暗いうずは掻き混ぜられるように窓を満たした。
振動は唐突に止んだ。耳を澄まして聞こえてくる床を叩く音は靴だろうか。気が付くと影は霧散し窓はまた元のように白っぽく向こうを透かしている。ドアノブがガチャリと回された。扉が押し開けられる。
「おや」
扉の隙間から現れたのは見慣れた顔をした金の目の男だった。
「…………プレザーベティブ」
「また会ったな。元気にしていたか?」
この男だ、と思った。術者の直観はプレザーベティブこそが影の主であると告げる。
「ここで何をしている?」
「なんだろうな? 別に何もしちゃいないぜ」
今にも口笛でも吹きそうな顔で言ってのけ、すぐ真顔に戻る。プレーブは唇を舐めた。
「しかし迷路みたいだな。こうも複雑だと眩暈がしてくる。そうだろ? そうでもないか? どっちだろうな」
「……お前がやったんじゃないのか」
プレーブは肩をすくめた。
「心外だな。俺にそんな権限はない。ここはお前の中だろう。俺がどうこうできる領分じゃない」
「どういうことだ……?」
「どういうことだろうな? なんだって良いが、そろそろ時間だ。外の抜け殻を燃やすなり水に沈めるなりして始末をつけておくんだな」
「待て、プレザーベティブ! 話が」
◆
「話が」
左の手でつかんでいたものを見て、術者は顔をしかめた。
「……時間切れか」
額をつつき、術者は手の中のものを砂へ変えた。弛緩した苦悶の表情は視界から消え去り、白っぽい埃が床に薄く積もった。
「全く、誰が片付けると思っているんだ。問題ごとを山積みにしやがって」
サー・メンテナンサ 佳原雪 @setsu_yosihara
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