妄想的嗜虐思考A
「プレーブ……生きているか?」
「少し眠っていただけだ」
閉じていた目が静かに開かれ、瞼の隙間から金の光が漏れる。
「心配するな。別に死ぬわけじゃない」
◆
サーは大きな音で目を覚ました。ステッキを手に部屋の様子を見に来ると、そこには床へ椅子ごと倒れたプレーブの姿があった。金の髪は乱れ、床に散っていた。サーは慌てて縄を解き、くたりと弛緩した体を引きずるようにベッドへ運んだ。
滑らかな肌にこもった僅かな熱、薄く開いた口から漏れる湿った息。彼の生命を能動的に証明しているのは、今やそんな僅かなしるしだけだった。
◆
衣擦れの音で、サーは顔を上げた。ベッドの中でプレーブが身動ぎした。
「……目が覚めたか? おれがわかるか?」
サーが顔を覗き込むと、薄く開いたアンバーの瞳が見返した。続く返事を聞いてサーは絶句する。
「ウィル……」
口をはくはくと動かし、『サー・メンテナンサ』は言うべきことを探す。アンバーの瞳は光らない。楽しげな暗い光彩はサーをじっと見ている。
「……お前は、誰だ?」
◆
「ご挨拶だな。俺を忘れたか?」
寝ていた体を起こし、彼は言った。金の髪の隙間から覗く目は今までの輝きを失っている。サーは口をつぐんだ。
「俺のことを忘れたのか、と聞いたんだ」
術者が伸ばした指で額を差すとサーの体が、びん、と硬直した。サーは縄をほどいたことを悔やんだ。術者は、はた、と気が付いたようにサーの白い顔を見た。術者は見つめる。白い顔に揃った、一対の目を。
「透き通るような青……綺麗な目だ。顔をもっとよく見せてくれないか……ああ、きれいだ。本物の……青い眼だ」
つう、と頬をなぞり、彼は息のかかる距離からサーの青い目を覗きこむ。アンバーの目は、濁っている。考える暇は与えられなかった。術者は畳みかけるように言いつのる。
「さあ、何はともあれ食事にするか。昨日は何も食べなかったんだろう? お前に死なれると困るんでね」
◆
食卓へと皿が並び、フォークを手に取った術者は上機嫌に言った。
「親愛なるお兄様が作ったクリームシチューだ。好きなだけ食べるがいいだろう」
スプーンを握り、口へ運ぶサーはひきつらせた笑みを浮かべる。ニンジンだらけの赤いクラムチャウダーの中では貝が砂を噛んでいて、タマゴサンドには酢漬けのキュウリと輪切りのマッシュルームが挟まっている。
「美味いか?」
にこにこと嬉しそうに術者は問う。サーは努めて楽しそうな表情を浮かべた。浮かべることを、強要された。笑みの貼りついた顔の隅で、頬がひくりと引き攣る。
「そうか!」
オレンジ色のスープを掻き混ぜ、術者はそれを口へ入れた。むぐむぐと咀嚼する。
「それは良かった!」
「なんで……」
「ん?」
「なんで、おれにこんな……?」
「ああ、嫌だなあ! 大事な家族を二度も失うわけにはいかないだろう?」
「家族……?」
サーは当惑し、曖昧な笑みを浮かべた。
◆
「お前は、一体誰だ……? おれのなんなんだ?」
「あきれたやつだな。本当に忘れてしまったのか。昨日の今日だろう」
「昨日の今日……」
「ん? 何か間違っていたか? まあいい。昨日でも一昨日でもさして変わらない。それで、忘れたのか? 俺を?」
サーは身を硬くした。
「忘れたもなにも、おれはお前のことなんか知らない……」
「心外だ! 俺はお前の事はよく知っている。無論俺はお前の兄なんかじゃない。ああ、その顔は俺が誰か知りたがっているな? 名前が知りたいか?」
術者は肩を揺らして嘲るように笑った。
「魔術師がそんな簡単に名前を教えるわけがないだろ。いわんや悪魔に、だ。そうだろう? ウィリアム坊や?」
さっと顔を赤らめたサーは、俯き、唇を噛んだ。
◆
「なぜお前の名前を知っているかって? わかりきったことだろう、ウィリアム」
◆
「踊れ踊れ。楽しげに!」
ぱんぱんと手の平を打ち鳴らし、愉快でたまらないというように術者は笑った。無音だった室内には優美な音楽が流れている。靴底と床が打ち鳴らされ、手を叩く音と合わさって規則的な音が響く。
「これはっ、どういう、つもりだ……」
手足の自由が効かないまま、サーは息を切らして踊らされ続ける。見えない手で掴まれ、ぐいぐいと引っ張られるような感覚。何らかの術中にあることは明白だった。
「どうもこうもない。楽しいことをするのが人生というものだろう。求めろ。歌と踊りは享楽の証だ。ああ、こういう時はガラスの上でやるんだったか? ん、それは鏡か……?」
術者の独り言を聞いたサーは、目を上げ、怯えたような顔をした。視線に気が付くと、術者は軽薄に笑った。
「お前に拒否権はないよ。ウィル」
ぞっとするような冷たい笑みが、場を支配する。術者はサーへゆっくりと近づくと、頬を撫でた。
「次は俺と踊るか?」
◆
「なんでこんなことをするんだ……?」
「俺はね、お前のことを憎んでいるよ。そうだ……憎んでいるんだよ」
床に座り込んだサーの顔へ額を突き付けて、術者は言った。アンバーに囲まれた暗い瞳孔は真円に開いていた。
「可愛い可愛い俺の弟! 俺にはお前にそっくりな弟がいた! 憎らしいほどお前とよく似ている。その弟をお前は………………いや、俺に弟はいないんだったな」
腕を組んでしゃがみこんだ術者は真顔のまま肩を揺すり、声をあげて笑った。
「俺に弟はいない! そんなものは妄想だ。ああ、あいつは目が青かった! そう……ちょうどその色だ。髪と同じ、透き通った青…………」
目を指差し、術者はそこで、同色の髪へと目をやった。
「…………お前、髪伸びたか……?」
立ち上がり、じろじろとサーを眺めまわしていた術者は、何とはなしに窓の外を覗いて素っ頓狂な声を上げた。
「待て、なんで雪が降っているんだ。まだそんな時期じゃないだろう……いや」
ぐりんと首が回り、アンバーの瞳に空いた暗い瞳孔がサーを捉えた。術者は、かつかつと靴を踏み鳴らし、距離を詰める。白い手が怒りを伴って迷いなく伸びてくる。サーは逃げようと考え、結局それは叶わなかった。
「ウィル、俺に何をした……? 俺の目に触ったのか? 俺が……あれだけ言って聞かせたのに? また、お前は、俺に?」
髪を掴んで顔を寄せた術者に、怯えるサーは、目を見開いたまま、否定した。
「な、何の話だ……おれは、なにも、して、いない……」
「……なにも? …………散々俺の頭を掻き回しておいて、何も、していないだって?」
怒りに燃える瞳は、激情とは裏腹に怜悧な色へその表情を変えた。
◆
「おれが、いったい、なにを……したっていうんだ?」
「お前が何をしたか、聞きたきゃ聞かせてやる。今でも克明に覚えている」
術者は髪を撫でつけ、目を細めることなくサーへ微笑みかけた。
「思い出話をしようじゃないか」
◆
術者はポケットに手を突っ込んで話し出した。靴底と床がかつかつと忙しなく鳴る。
「俺には青い眼の弟がいたんだ。双子のな。そう、そういうことになっている。……青い眼? そんなわけないだろう。一卵性双生児で目の色が違うなんてありえない」
あり得ない、と術者は呟いた。サーは目を伏せたまま黙っていた。暗い琥珀の目が、夜の闇を湛えた冷たい目が、温い情愛の色に濁っていく様が恐ろしかった。
「お前は弟にそっくりだ。顔も。肌の色も。親愛の情を感じるね。ああ、全くだ! その目! その髪! 見れば見るほどよく出来ている! そっくりだよ、顔も思い出せない、『俺の弟』に!」
鼻先に顔をつきつけ、叫ぶ。ぎょっとしたサーは身を引こうとして、手首をがっちりと掴まれた。
「俺に弟はいない。今も、昔もだ! どういうことかわかるか? これがどういうことを示しているのか、わかるだろう? ウィル!」
術者が、息を吐いて、ぎ、と目を細めた。
「忘れもしない。あの時、お前がおれの頭に手を突っ込んで掻き回したんだ! それから俺はずっとこんなだ! 弟のことがあるから俺はお前を殺すこともできない」
はあっと息を吐き、術者は熱の篭った目で捲し立てた。
「幻覚だよ、お前が、俺に見せた幻覚が、俺の脳にこびりついて離れない! 俺がお前に親愛の情を抱くように、お前が俺をつくりかえた! お前が、俺を、そうしたんだ! そんなに俺が恐ろしいか? 触れても死なず、地を這って逃げ延びようとした俺が脅威になると踏んだのか? どうなんだ?」
術者は襟首を掴み、力任せに引き上げた。サーの下顎に手の甲が当たり、がちっ、と歯が鳴った。
「俺の苦しみがわかるか? わかるわけがないよな、お前は俺とは違うものな!」
喉が締まり、サーは胸を掻いた。腕の先で涎を垂らし白目を剥くサーに気が付くと、術者は掴んでいた右手を放した。
術者は己の両手を見た。両手から目を上げると、サーへどろりと濁った目を向けた。サーはびくりと肩を震わせた。
「……怪我はないか?」
「い、いや……特には……」
「そうか、なら良い」
問いかけにサーが答えると、術者は再び、両手に目を落とした。
◆
「ん、何だこの手袋……」
術者は己の左手を覆う、つけた覚えのない手袋に気が付いた。一瞬遅れ、サーが反応する。
「っ、外すな……!」
「うん? 何かまずいものでもあるのか? この手袋の下に?」
術者は何気なく手袋を外した。途端に、視界の端がぐにゅりと飴細工のように歪む。認知に食い込み、強烈にかき乱す不可視のなにか。彼は驚き、無意識に手を握りこんだ。歪む視界とは裏腹に、肉の感触は正常だった。
「……うぇ……なんだ? なんかしたな? 一体、俺の体に何をした……?」
「やめろ、見せるな……しまってくれ!」
「左手だけなんでこんな風になってる? 悪魔め、いったい何をした? うえ、おええ」
「あああああ……何もしていない、おれは被害者だ……プレーブ……助けてくれ……」
顔を背け、青ざめたまま目を瞑った彼は、のた打ち回るサーを放置して、感触だけを頼りに手袋を元のように付け直した。
「プレーブ……?」
ぐわんぐわんと揺れる頭を押さえ、彼は黒い左手をじっと見つめた。視界はゆらゆらと三次元的に揺れている。いつまでも抜けない眩暈の感触に業を煮やし、彼はブランデーの瓶を取りに行った。
「……減ってる?」
戸棚の中のブランデーは半分程度になっていた。首を捻り、彼は蓋を回した。一向に開く気配の無いスクリューキャップを難儀して開け、瓶に口をつける。口を離し、一息ついた彼はひとつの結論に至っていた。
「ウィル? 本当に今は冬なのか?」
術者はあまやかな声で、しかし、静かに言った。サーは狼狽えた。
「え、えっと……?」
「冬か、と訊いたんだ。どうなんだ? 今は冬か? 違うのか?」
多少苛立ったように術者は低く囁いた。サーは控えめに肯定した。
「そ、そうだ。あ……あっている」
「そうか……」
術者は窓を開け、窓枠に積もった雪を掬い取った。そしてそのままそれを、目の前にいるサーへぶつけた。固められることなく投げられた雪玉は、顔に当たりびしゃりと弾けた。
「やっ、つ、冷たい! なっ、なにするんだ……!」
「…………どうやら本当らしいな……」
赤くなった指先を見て、彼は誰に言うでもなく呟いた。
「ああ、つまり俺は……眠っていたんだな。今の今まで」
◆
「……パズルが組みあがっている? ウィル、パズルなんかできたのか? っていうかこの短期間でよく組んだな。いや、短期間ではないのか……」
「組んだのはおれじゃない……」
「……お前じゃないならいったい誰だ。俺は組んでないぞ」
「それは…………」
「……まあ、誰でもいい。俺は組んでない。組んでないよな? そのはずだ」
◆
「……あれ? 俺の手帳に書き込みがしてある。なんだこれ」
椅子に座ったまま、術者はぱらぱらとページを捲った。文面を指でなぞり、首を捻る。ペンで書かれた文字は、見慣れない形をしていた。
「……統一言語じゃないのか? ウィル、読めるか?」
サーは無視をした。術者はサーのネクタイに手を伸ばし、掴んで下に引いた。
「読めるかって聞いたんだ」
「やっ、読めるわけないだろ……」
◆
術者は笑う。サー・メンテナンサは人間だ。ウィリアムと呼ばれた悪魔はもういない。
◆◆◆
静かな夜だった。同じ部屋の中、人間は寝息の一つも立てず眠っている。眠っているのだろうか? ベッドの中のサーは落ち着きなく足の先で布団の中の冷たいところを探った。布団の中は蒸すように熱い。足の裏から出る汗が不快感を増幅させ、いやに冷えた脳をますます眠りから遠ざける。サーは足をシーツに擦り付けた。べたべたした感触は消えず、汗でシーツが滑る不快感だけが増していく。彼はそっと起き上がって布団をはねた。冷たい空気と彼の体を隔てていた壁が取りさられ、肩からさっと熱が抜ける。
布団の隙間から足を抜き去り、彼はそっと、ベッドから降りた。
足を忍ばせ、同じ部屋の、隣のベッドへとそっと近づく。音を立てずに覗き込むと、寝床の主は目を閉じ、眠っているように見えた。サーは仕込み杖の鞘を抜き去り、ベッドにのぼり、跨った。
曇った銀の刃が薄明かりにきらりと光る。サーは柄を握り直す。二人分の体重を受け、ぎし、とベッドが軋んだ。
音もなく目が開いた。光ることのない琥珀の目がサーを見ていた。ありふれたブラウンが。ただ黙って、じっと、こちらを。暗い瞳は逸らされることなく、自分を見つめている。サーは羞恥に震えた。
「やめろ……、やめろ、そんな目で見るな、おれを、おれのことを、そんなさげすむような目で見るんじゃない!」
衝動的に刃を突き立て、更に体重をかけた。薄いシャツ地に刃が食い込む。がち、と音がして、刃先は何かに阻まれた。刃は滑り、シャツを裂く。
「ひっ……」
サーは鞘を放り出し、飛び退いた。ベッドの中でそれを見ていた男は自分の胸に手をあてた。
「…………」
彼は破れたシャツの隙間から刃の薄いナイフを取り出した。
「残念だよ。折角の機会だった。折角の機会だったというのに、なんなんだこれは」
失望したように術者は体を起こした。
「お前がおれを殺せば全て終わったというのに」
「やめろ! こっちへ来るな……」
◆
「来るな」
「夜は静かにするもんだ。わかるだろう」
「いやだ、来るな」
しゃがんだ術者はサーの前髪を掴み、目の合う位置まで引き上げて顔をつきつけた。
「ウィリアム。俺の言うことが聞けないのか。弱みを見せあってひとつ屋根の下で暮らした仲じゃないか。その俺が、静かにしろと言っているんだ」
「おれをっ、その名で呼ぶんじゃない!」
術者は、おや、と眉を上げた。
「怒ったか? でも今のお前に何ができる? 俺の用意した体で、俺の作るものを食べて、俺の屋敷の中にいるお前に?」
壁を背に立ち上がったサーの手に手を這わせ、術者はぬるりと指を絡め取った。
「なあ……どうなんだ?」
両手を封じられ、逃げ場はない。指がぎりぎりと締め上げられ、骨が軋みを発した。眼前に顔が迫る。暗いブラウンの目、ありふれた人間の目が。
「ああああ!」
サーは歯を食いしばって術者を突き放し、頭を振りかぶって額へ突っ込んだ。身体がどうしようもない浮遊感に包まれる。続く、がちん、と鈍い音。火花のような閃光が散って、意識は四散した。
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