琥珀の瞳の生殺与奪

舌の上で転がる木目の芳香は曇った視界を晴らす。喉を焼く冷たいものは落ち着く心へ本当のことを教えてくれる。



術者というのは通称だ。彼は糸繰りの魔術師、コンソールソーサラー。当然本名ではない。しかし誰もが彼をその名で呼ぶ。彼は生まれた時につけられた自分の名前を覚えていない。度重なる脳洗浄と身を焼く埋め火のような怒り、激しい復讐の日々が彼をそうさせた。本当にそうだっただろうか? ともかく、現在彼を定義するのはコンソールソーサラーの名のみ。彼はその名の通り、糸繰りの魔術師であり、術者であるのだ。

この話の裏を返すならばつまり、彼はそれ以外ではありえないということでもある。彼に家族はいない。彼の名を呼ぶ者はいない。彼を知り、彼に関わり、魔術師でないひとりの人間として扱う者はこの世にもう誰一人としていない。



彼は昔、将来有望とうたわれた優秀な見習い魔術師だった。才気あふれる彼は若く聡明だった。数年前、大いなる悪魔の起こした嵐のような暴虐を生き延びたことからもそのことは伺える。他の人間がどうなったのか、その場にいた者たちがどんな顛末を迎えたのか、その全容を彼は知らない。消し飛ばされた人間の大半は存在の証明と言えるものを残すこと叶わなく、最初からいなかったのと殆ど同じような状態にされている。それは文字通りの暴虐だった。蹂躙だった。命を繋ぎ足跡を残す、彼らの生への冒涜であった。あまりにもひどく無残な災厄ともよべるそれを彼は無傷で生き延びた。それは彼の実力によるものだったかもしれないし、あるいは運命のお目こぼし、でなければ幸運の女神の気紛れなウインク、もしかしたらその全てであったかもしれない。


しかしそのことが彼のそれからに影を落とした。


彼の力をどう思ったか、元凶たる精神体、彼の言うところの『悪魔』は彼の脳へ都合の良いイメージを植え付けた。そのイメージが元来どんなものであったのか彼には知る由もない。彼がそのことによって得たのは、『悪魔に家族を殺された』という偽の記憶。いびつにねじ込まれた記憶は、彼の脳に存在しない弟を造りだした。悪魔によく似た青い髪の弟。兄さん、と彼を呼ぶ声は彼の心に郷愁を誘い、彼に『奪われた』ことを意識させる。愛しい弟は死ぬ。彼の夢の中で何度でも。



術者は抗った。抗い、対抗手段をいくつも講じ、正気と狂気を行き来した。空っぽだった術者の心の祭壇にはいつしか顔も思い出せない弟が祀られた。そのうちに彼は悪魔に通じる全てをこれまで以上に憎むようになった。常人には抗うこと叶わない脅威、超常存在の起こす災厄と真っ向からやりあうべく彼はいくつもの手を打った。復讐心にくべる薪はあの憎き悪魔の置き土産のおかげで尽きることはない。虚無から引き出される無尽蔵の怒りは聡明で理知的だった彼を修羅へと変えた。変えてしまった。

未来を、過去を、現在までもを。奪われ続ける彼は止まらない。欠落はそれそのものが形を持ち、埋まることのない穴は彼を苛み続ける。精神を蝕む呪いによってもはや手段を選んでいられなくなった彼は、悪魔を捕縛し殺すために街を離れ、緑深い森の奥で研究と実践を続けた。幾重にも罠を張り、彼はあるときついに己を害した張本人を捕まえた。

果たされた復讐。それが新たな地獄の始まりだと誰が予想しただろうか。ともあれ術者は再び『奪われた』。捕縛し、一度は御した悪魔だったはずだ。それでも彼は奪われた。体を、正気を、彼が彼自身に課した使命を。生きる意味を。



再び与えられた欠落は彼自身の形をしていた。

掻き乱され、暫しの眠りから目覚めた”彼”は端正な顔を歪める。目を冷たい金色(ゴールド)に光らせて。


◆◆


「お前の事なんか大っ嫌いだ。知っているとは思うが」

術者は目の前の悪魔を手にした酒瓶で殴った。

「……ッ」

悪魔は歯を食いしばる。金の目をぎらつかせ、脂汗を流した。

「痛いか? 痛いだろうな。お前たちは傷を作ることはしても、それが治るまで付き合うことがどういうことだか知らないものな。弾けるように痛みが通り過ぎていって、それで終わりだ。簡単なものだ」

つ、と汗に混じって血が垂れる。術者は瓶の封を開け、血のにじむ頭にそれを注ぎかけた。

「俺が憎いか? お前が俺に抱く憎悪なんてものは微々たるものに過ぎない。だってお前、俺が誰かもわかってないだろう。それともわかっているのかもな? お前にとって俺は特別だ。ああそうだ、特別だ! 全くもって光栄なことだな? 人の身には余るくらいに? そうだろ?」

術者は言い募り、顔を歪めた。口を閉じた彼は鼻を鳴らす。嘲り、侮辱するように。

「俺はお前を知っているぞ、ウィリアム。はは、精神体が名前を把握されるということがどういうことだか当事者たるお前ならわかるだろう? 俺はお前を知っている。知られることがどういう意味を持つのか、理解できないわけじゃないだろう。看過できない深度で知られたんだ。そうする俺の執着がわかるか。果ての無い怒りが? とにかく俺はお前が憎くて憎くてたまらない」

冷たい目で吐き捨て、術者は瓶を舐めた。舌を焼くアルコールが彼の怒りを胸の内の深いところへ沈めていった。はた、と見つめあう金の目は濁り苦痛に歪んでいるようだった。

「……わかってくれたか?」


◆◆


「目が回る……」

プレーブから制御権を取り戻した術者は濁った眼を瞬き、眉間を抑えて呻いた。長い夢は終わり、ここはいまだ覚めない悪夢の中だ。彼の髪は収穫を前に色付いた麦の色、その目は落ち着いたブラウンだ。机に手をつき、ため息を吐く。額に当てた手を外した彼ははっと目を瞬く。机の上には何もない。

「いや待て……俺はなにを探していたんだ?」

顔を上げた彼に歩み寄った青い髪の男はソーサラーへ笑いかけた。ウィル、術者(ソーサラー)の弟だ。

「大丈夫だよ。焦らなくたって、放っておいたらきっとそのうち見つかるよ」

探し物を見失って狼狽える術者へ、手を背で組んだままのウィルは労わるように微笑んでみせる。ソーサラーはぼんやりとした相槌を打ってから、困ったような表情で肯定の言葉とも取れるそれを曖昧に、ひどく曖昧に否定した。

「……いや、でも、今すぐ必要なものだったはずなんだ」

「でも見つからないんでしょう? だったら仕方ないよ。疲れてるんでしょう? 少し休んでからまた探したらいいよ。ね、兄さん」

「そうか……そう、そうかもな……」

ソーサラーは納得しかけ目を伏せた。頭がぼうっとする。なぜだかひどく疲れていた。理由は思い出せない。何を探していたのかも。机の縁からウィルに目が移る。黒いズボン。薄青のシャツ。肩は竦められ、両ひじから先が背中に回されている。目を瞬く。彼は後ろへ回された腕の不自然さに目をとめた。

「いや……待て、ウィル、お前……なにか隠してないか? その手に持っているのは何だ?」

「ん、なんでもないよ、兄さん」

質問というにはいささか乱暴に発されたそれに、弟はやんわりと首を振った。開示の拒否。後ろ暗いことがあると言っているようなものだった。

「嘘を吐くな、ウィル……!」

ぱっと顔をあげ、隠されたそれをあらためようと術者は弟の手を掴んだ。



「あの、え、えっと……」

目を開けた術者の目に飛び込んできたのは血色の悪い白い顔と混乱を宿す青い目だった。知らず握った手は、ぎり、と鳴る。メンテナンサは怯え、唇を震わせた。

「い、痛い……から……その、あの……」

「痛い……?」

なにがだ、と問おうとして、術者は自分が彼の手首を掴んでいることに気が付いた。強く、それこそ肌の色が変わるほどに。

「……ああ、すまない」

術者は恐る恐る手を離した。白い腕は既に赤く変色している。指先に目をやれば、青ざめた黄色から元の赤へと変わるメンテナンサの手に握られているのはウイスキーの瓶だった。術者はそれをじっと見る。視線に気が付きメンテナンサは惑う。

「あ、そ、そうだ。これ、その……い、言われた通り持ってきた、おれが、なにか」

なにかしたのか、なにか……機嫌を損ねるようなことをしてしまったのか、と問いかけたサーの声は躊躇いによって掻き消える。事実関係がどうあれ非を認識されてしまえば彼に待つのは折檻だ。

「なあ」

「ひ、な、なんだ……?」

びくりと身を硬くし、サーは術者を刺激しないようにそっと聞いた。

「俺は今、何をしていた?」

「え…… ええと、今って……」

質問の意味をはかりかねたサーが問い返せば、術者は不機嫌そうに歪めたままの顔で、額を抑えた。

「今っていうのは、俺がお前の手首を掴む前だ。頭痛に気を取られていて……それで記憶がないんだ。別段怒っているわけじゃないから怖がる必要はない。わかる範囲でいい、答えてくれ」

メンテナンサは目を瞬かせた。

「ず、『頭痛がするから頓服を探してくれ』って頼まれて……戻ってきたときに、眠っているようだったから起こそうとしたら、その……急に立ち上がって」

「俺が、お前の手を掴んだ。合ってるか? んん……」

「あ、ああ。……だ、大丈夫なのか?」

術者は頭を押さえたまま蹲った。浅い呼吸は乱れ、途切れ、ときに詰められる。

「……う……いや、平気だ。ああいや、瓶をこっちへ。それがあれば何とか……なる。……は。はは、脳天に瓶を寄越してくれるなよ……」

苦痛に顔を歪めたまま、術者は笑おうとした。息を求めるような力ない吐息に合わせて肩が揺すられ、左右非対称の顔はまさしく歪められたと言うに相応しかった。苦悶の表情と発せられた言葉にメンテナンサの動きが一瞬だけ止まり、意図を理解した彼はぞっとした表情で体を震わせた。背を反らすように伸ばし、顔を背け後ずさる。メンテナンサに喚び起こされたイメージは熟れた果実のように潰れた術者の頭だ。彩るのは割れたガラスの大きな破片。恐る恐る差し出した瓶が手を離れるや否や、彼は目の前の恐ろしい旋毛から自分の青ざめた顔を隠した。



瓶の中身を舐める。それは甘い。瓶の中身を舐める。それは苦い。


◆◆


青い髪の悪魔は目を月の色へ光らせる。不自由な人間の体。一人に一つ与えられた精神と不可分の肉体。悪魔は不可分のそれへ割り込みをかけ、肉体を勝手気ままに乗り移る。術者は用意したとっておきの体へ幾重にも鍵をかけ、目に見えこそすれ掴みどころのない精神体を封じ込めた。どこか郷愁を誘う青い髪の悪魔は、丸い瞳を月の色へ光らせる。

こんな日がいつか来ることを彼はわかっていたのだろうか。わかっていて、あんな呪いをかけたのか。術者には知る由もなく、今となっては確かめようもない。術者は悪魔を殺さない。彼に押し込められた楔、彼の弟がそうさせる。彼の中に巣くう『善なるもの』のイメージは悪魔とよく似た姿をしていた。


それは毒のように記憶を蝕み、精神は次第に浸食される。術者は正気を失った。脳を深く冒された彼は時を待たず、金の目の悪魔と弟に区別をつけられなくなった。


◆◆◆


「お前……」

術者はメンテナンサをじっと見た。アンバーの瞳は理知的で、それが透き通る様は本物の琥珀を想起させた。

「な、なに……」

「大人しくなったな。一体どういう心境の変化だ? ちょっとそのまま口を開けて笑ってみろ、ウィルにそっくりだ……」

術者はメンテナンサの頬を持ち上げた。彼は困惑しつつも、へら、と笑いかけた。見つめていたアンバーの瞳が見開かれ、虹彩は濁った色を印象付ける。

「……ッ!」

急な変化を見て取ったサーは、すんでのところで術者の繰り出した平手を躱した。指先が掠めていった頬をぱっと抑える。頬はちりちりと焦げ付くように痛んだ。

「なっ、なにをするんだ……!」

術者は目を瞬き、怒りと恐れに歪むメンテナンサの顔と自分の手の平を交互に見た。その目にはもう先ほどまでの陰りはない。

「ああ……いや、悪い、引き写したようでぞっとしたんだ。弟を含め、この顔の男にはえらく酷い目に合わされてきた……ああ、それは今もか……」

彼は目と同じ色の瓶を手にし、注いで、舐めた。部屋の中に、胡桃のような匂いがふわりと香った。

「…………一体おれが誰に見えているんだ……?」

青い顔に嫌悪と恐怖を貼り付けてメンテナンサが問えば、術者の心は少し安らいだようだった。

「そうしてれば誰にも見えないな、サー・ウィリアム。ああ、全くもって悪くない」

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