第3話 赤い花片

 男と私が隣り合わせで座ったのは偶然だった。

 ある地方都市に出張で出掛け、仕事の後、盛り場にある一軒の飲み屋に足を向けた。最終電車まではまだしばらく時間がある。独り身の私は帰りを急ぐ理由がなく、こうして仕事で帰りが遅くなったときは、外で夕食を済ませるのが常だった。

 庶民的な小さな店は常連客でそこそこ賑わっていた。カウンターに座り、おひたしを箸で突いていると、後ろから声を掛けられた。

「よこ、空いてますか?」

 見ると、そこには冴えない中年の男の姿があった。色の褪せたポロシャツを着、薄くなった額にはうっすらと脂汗が浮いている。軽く頷くと、男は隣の止まり木に登り、腰を落ち着けた。

 最初のうちは男も私も、それぞれに目の前の料理に箸を進め、静かに飲んでいた。だが互いに酔いが回り、旅先という気易さも手伝い、いつの間にか男と私は言葉を交わすようになっていた。

 男が赤らめた顔に頬杖を付いた時、私は初めてその手の様子が尋常でないことに気付いた。

 左手には、小指が無かったのだ。

 瞬時に私の表情が固くなったことを察すると、男は大仰な笑顔を作って見せた。

「あれ、気付いちゃった」

 どれだけ大人しそうに見えても、小指が無い、となれば裏社会との繋がりを連想する。だが男は少し照れた様子で、頭を掻いた。

「お兄さん、俺がやばい奴だって思ったんだろ?違うんだよ、これはね、生まれつき」

 その言葉を聞き、私は少し胸をなで下ろした。

「よく勘違いされるんだよ、場所が場所だからね。でも本当に生まれつきでさ」

 私が謝罪すると、男は芝居がかった風に目の前で手をひらひらさせた。

「いいのいいの、気にしないで。いつもの事だしさ、話せば皆、すぐに納得してくれるから」

 私は店主に酒と刺身を追加で注文した。詫びのつもりで、新しく来た皿を男に勧める。

「いや、本当に、そんなに気を使ってくれなくていいんだけど…」

 男ははまちの刺身を一切れ口に運んだ。そしてガラスのコップになみなみと注がれた酒を一口啜ると、焦点の定まらない目でこちらを見てきた。

「じゃあお兄さんには一つ、お礼代わりに変わった話でも聞かせてやろうかな」

 男は酔いが回った呂律の回らない口調で、ぽつりぽつりと小さな声で話し始めた。

「この指ね、無いのは生まれつきなんだけど、ちゃんと理由があるの。あっちで、くれてやった奴がいるのさ。あっちってどっち、って…指が無いの、生まれつきだって言ったでしょ。もちろん生まれる前の事に決まってるよ」

 私の怪訝な表情を見て、男は鼻で笑った。

「こいつ変だ、って思っただろ?まあ、そうだよな、俺も自分以外の奴が突然そう言い出したら、頭がおかしいんじゃないかって、思うもんな。でも何だ、前世の記憶ってえの?そいつが物心付いたころからずうっとあって、忘れようにも忘れられないんだ。嫌なもんだよ、まだ世の中の事が何にも分かってないガキが、今際いまわきわの、おっかない景色を覚えてるってさ…」


 俺はさ、今はこうして普通のおじさんやってるけど、前世は女だったんだよね。若くて可愛い、娘っこだったの。はは、ちょっと気味が悪いでしょ?

 貧乏人の家でね、沢山の弟や妹がいて、食うのすらカツカツの状態。多分昭和の初め頃なんだろうな、その頃はまだ本当の貧乏人ってのがいた時代だった。うちもそう、毎日のおかずを海辺の岩場まで取りに行かされてたもんね。

 俺が住んでたのは貧しい漁村で、父親はそこの漁師だった。気の荒い、飲む打つ買うの三拍子揃った荒くれ者で、ちょっとでも金が入ったらすぐ賭場に行っちゃう、ろくでなしだ。

 母親も俺もよく殴られてさ、親父が酒呑んで暴れると、よく弟や妹を連れて海辺で夜を明かしをしたもんさ。暖かい所だったから夜通し居ても、まあ何とか平気だったんだよね。

 夜、兄弟で身を寄せ合って海を見てると、波が月明かりにチラチラ揺れて、どれだけ見てても見飽きなかった。家では罵声が飛び交っていて、そんなこと言ってる場合じゃないのにね。

 でもどうしてだかその景色はよく覚えてるんだ。目を瞑ると、真っ暗の中ゆらゆら揺らめく光が今でも見える。あれが記憶の中で一番綺麗な景色だったから、覚えてるのかもしれないね。

 ろくでなしだったけど、親父が生きているうちはまだ良かったんだ、漁師は日銭が入ってくるから。それが時化でやられて、あっけなく御陀仏しちまいやがった。借金もあって、お袋は沢山の子供を抱えて、にっちもさっちも行かなくなっちゃったんだよ。

 こういうとこの娘が、昔はどうなったか知ってる?

 売られたんだよ。

 見た目の良い聡い娘なら、小さいうちから手塩にかけて太夫に仕立て上げるもんなんだろうけど、俺はもう年もいってたし、それほどの玉じゃなかったんだね。単なる女郎として売られたのさ。

 苦界とはよく言ったもんで、春をひさぐってのは本当につらかった。一日に何人もの男に股開いて、媚び売ってね。

 でも人間、どんなことにも慣れちゃうんだよ。周囲は同じように売られてきた娘ばかりだし、食うには困らないし。それ以外生きる道もなくて、お先は真っ暗だって分かってたけど、最後は野垂れ死にでも今生きてりゃいいか、って気になってたもんね。


 そんな稼業にもすっかり慣れて数年が経った頃、一人の若い男が客としてやって来た。

 何ていうか、辛気くさい奴でね、見た目はそう悪くないんだが、ろくに口もききやしない。もちろん客なんだから、やることはやったよ。でも事に及んでる間中、声も出さないでじっとこっちを見てるんだよね。

 これはちょっと珍しいことだった。お兄さんもよくよく思い出してごらん、あの最中、黙って女の顔なんてじぃっと見続けたりしないだろ?しかもこっちは商売女で、大して美人でもないんだからさ。

 何か気味が悪くて、いつもだったら贔屓にしてもらうために猫なで声の一つも出すんだけど、もうさっさと帰ってくれって気分になっちゃって。男は相変わらずむっつりしてるし、結局ほとんど話さないうちにその時は終わったんだよね。

 ところがそれからというもの、そいつは頻繁に通ってくるようになった。さすがに回数が嵩むと少しずつでも話すようになって、そいつが斉藤って名前だってこと、機械工場で働いていること、出は漁師町で三男坊だったから働きに出てきたこと、なんてのが次第に分かってきてね。

 だからって情が涌くかっていうと、そんな単純なことでもないんだな。相変わらず愛想はないし、無口だし、何考えてるんだか分かんないから今ひとつ馴染めなくってね。

 それでもまあ、いい客だったよ。乱暴はしないし、そこそこ通ってくれるし。こっちも疲れてるからさ、喋んないなんてむしろ好都合で、奴が来た時はぼうっとして煙草ふかしたりして、呑気にやってたよね。

 ところがある日、突然思いがけない事が起こった。

 師走も近い頃だったな。外はみぞれが降っていて、湿気た空気が体の芯まで冷やすような寒い日だった。

 斉藤が真っ白な山茶花さざんかの花束を抱えてやってきた。工場の片隅に咲いていたやつで、綺麗だったから切ってきた、と言うんだ。

 白い紙に包まれた花は大振りで、白い花びらが八重に何枚も重なっていて、確かに少し見ないほど見事な山茶花だった。

 馴染みの女郎にちょっとした贈り物を持ってきて歓心を買おうとする輩は、結構多いんだよ。礼を言って枕元に置き、俺はいつものように支度にかかろうとしたんだ。そうしたら、帯を解こうとする手を取られた。驚いて振り返ると、奴が神妙な顔で、こっちを見てるんだよね。

「招集令状が来た」

 大陸の方で戦争が始まって、ぽつぽつ若い男達が兵隊に駆り出されるようになった頃だった。

「明後日には故郷くにに帰らなくてはいけない」

 そういう時は一度故郷に帰って、親兄弟に挨拶して、そこから出征するもんだったんだよね。

 俺はおめでとうございます、って言ったよ。だって、そう言って送り出すのが普通のことだったから。

「もう会えなくなる」

 兵隊に取られりゃ女房だって会えなくなるのに、馴染みの女郎なんてこれっきりになるのは当然だろ。

 こいつ、何が言いたいんだって思ったね。口に出しちゃいけないけど、本音では戦争なんて誰も行きたくないさ。それをグダグダ理由を付けて、ごねてやがると聞き流していたら

 左手をぐい、と握って引き寄せ

「お前の気持ちを見せてくれ」

 暗い目をして、そんなことを言い出したんだ。

 その目を見て、ようやくこれはやばいってことに気付いた。

 俺から見れば客の一人だったけど、いつの間にか奴は俺に入れ上げていたんだ。ところが口下手だし感情も表に出さないしで、すれっからしの俺は全くその気持ちに気付いてなかった。

 腹の底から冷たいものが登ってきて、悲鳴を挙げそうになった。ところが奴の手が口元を覆って、頭を畳の上にぐいぐい押しつけてくる。

 手拭いで猿ぐつわを噛まされ、背後から体の上に乗られて、必死に足掻いたけど、女の力じゃどうにもならなかった。左手を掴まれ、指を開いて床に押さえつけられた。

 斉藤の右手に光る物が見えた。

 あっ、と思ったが、その時には冷たい刃が手の端に当たっていた。

 ざくり、という音と共に、俺の左小指は匕首あいくちで切り落とされたんだ。

 痛いはずなのに、感覚が麻痺してて何が何だか分からなくなってた。ただ血がどくどく流れ続けてね。怖くて悲鳴を挙げたいんだけど、猿ぐつわを噛まされたままだから、それもできない。

 斉藤は山茶花を包んであった紙を解くと、それに血だらけの小指を包み、畳の上に転がっている俺には一瞥もくれないで、窓から外に出て行った。

 投げ出された山茶花は床に散り、白い花びらが点々と血溜まりに浮かんだ。白く薄い花片が次第に沈み赤く染まっていく様を見ながら、俺は奴が本当に欲しかったものを思い知った。

 奴が欲しがったのは、俺の小指だったんだ。

 女郎が男に操を立てて小指を落とすってのは江戸の昔からある風習だけど、この時分にはそんな古めかしいことをする女なんていなかった。見た目も悪いし、後々不自由だしね。

 俺の気持ちが無いってことは、奴も気付いていたはずなんだ。金で時間と体を買って、それ以上はどうにもならない関係だって。

 それなのに、奴は何が欲しかったんだろう。切り落とした小指なんて、死体の一部みたいなもんじゃないか。惚れた女を力尽くで傷つけてまで、ありもしない愛の証でも手に入れようとしたんだろうか。

 その後、斉藤がどうなったかは、分からない。様子がおかしいってんで女将が部屋に様子を見に来て大騒ぎになって、医者やら警察やらが慌ただしく出入りしていた、ってとこまでは覚えている。

 傷口から悪い黴菌ばいきんが入ったらしくて、三日三晩苦しんだ挙げ句、俺は呆気なく逝っちゃった。生き延びてもろくな人生じゃなかったと思うけど、でもこんなことで一生を終えるのは、さすがに悔いが残ったね。

 死にたくない、死にたくないって思いながら、意識がすうっと遠のいていったのを覚えているよ。


 私の惚けた顔を見て、男は苦笑いを浮かべた。

「どうだい、変な話だっただろう?」

 何と返答すればいいのか分からず、私は口籠もった。

「いかれた親父の作り話と思ってもらってもいいんだけどさ…でもこの話には、続きがあるんだ」

 私は男の顔をもう一度改めて見直した。

「ろくな死に方しなかったけど、もう一回、俺はこうしてこの世に生まれることができた。指を切り落とされた記憶なんて、おっかないもん背負ってたけどさ、前に比べりゃまともな家に生まれて、普通に可愛がられて大きくなって」

 男はコップに残された最後の一呑みの酒をあおった。

「工業高校出て、就職して結婚して…平凡だけど、何の不満もなかったよ。何しろ前がひどすぎたからな。やがて女房が身籠もった。うれしかったね、ついに俺も人の親かって」

 だが突然、男の表情が陰った。

「生まれてくる日を指折り数えながら、日に日に大きくなる女房の腹に話し掛けた。この頃が一番楽しかったよ。そして十月十日経って、無事元気な男の子が生まれた。俺が赤ん坊の顔を見に分娩室に入ると、看護師さんが産湯で洗った後の赤ん坊を連れて来てくれてね、赤くて、くしゃくしゃで、変な顔だったなあ。で、看護師さんが、よろしくね、って俺の人差し指を左手で握らせたんだよね。そしたら…」

 男は一度、言葉を句切った。

「並んだ指は、1本多かった。小指の端に、もう一本小さな指がくっついている。俺が唖然としてると、横に医者が来て、指が一本多い多指症だと言うんだ。いずれ手術が必要とか言ってるんだけど、でもそんな説明は半分も耳に入ってこなかったよ。頭の中でガンガン大きな音が鳴り続けていた。一目で分かった、この指は俺の切り落とされた指だって」

 両手で顔を覆い、男は俯いた。

「俺はもう一度、赤ん坊の顔を見た。じゃあ、こいつは?俺の指を持って生まれてきたこの赤ん坊は?俺は怖くなって、その場から駆けだした。後ろから看護師の呼び止める声がしたけど、構わず病院の廊下を走り続けた。俺の指を持っている奴は、一人しかいない。切り落とした奴さ。俺は心底ぞっとした。無理矢理切り落とした指を今生まで持ち続けて、俺の息子として生まれてくるなんて、一体どういう事なんだ。どこまで追いかけて来る気なんだって…」

 言葉が途切れた。私自身も呆然としていたが、続きを聞かずにはいられなかった。

「その後どうしたかって?…逃げたんだよ。女房と生まれたばかりの赤ん坊を置いて逃げ出した。俺は根性無しでね、怖くて怖くて、とても一緒には暮らせないと思ったのさ。離婚届だけ置いて故郷を捨てた。その後、女房と息子がどうなったのか、全く知らない。あれから一度も連絡してないからな。せがれは今年で30才になるはずだ。そろそろ結婚して、孫の一人も生まれているかもしれない」

 私は改めて男の顔を見直した、髪の薄くなった、どこにでもいるようなくたびれた中年男の姿がそこにあった。彼の魂が転生を遂げてもなお、一人の人間の激しい執着を負っているとはとても信じがたい。

 私は男の後ろに、かつての姿を思い描こうとした。すると、影のようにうっすらと、女の姿を見たように感じた。

 物憂げな、弾力の無い白い肌をした、少し崩れた女の横顔

 もちろんそれは幻影に過ぎない。目の前に居るのは先刻と変わらぬ、だらしなく酔った中年の男の姿だ。

 私は勘定を持ち、店を後にした。男は卑下た笑顔で礼を言ってきた。

 私は腕時計で時刻を確認し、駅への道を急いだ。

 

 それから後、私には奇妙な癖がついた。

 30才前後の男の姿を目にすると、左手の小指の端を探ってしまうのだ。そして手術の跡が残っていないか、素早く確認する。

 多指症の多くが幼少期に手術で余分な指を切り落とす、ということを調べて知った。おそらくあの男の、すでに成人しているはずの息子の手には、最早傷跡を残すのみになっていることだろう。

 もちろん、傷跡を持つ男には会っていない。今後も見つけることは無いのかも知れない。そもそも、小指を身に取り込んで生まれた男など実在しているのか。売られた挙げ句に理不尽に蹂躙された女も、彼女に対する異常な執着も、空想の産物なのかもしれない。

 だが私の目は無意識のうちに小指の跡を探し続ける。

 一片の真実がもし有るとするならば、奪った小指を否応なく切り落とされた男の空虚がどれほどのものなのか、その暗い目は今何を探しているのか、見てみたいような気がするのだ。

 

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百花怪談 高尾 結 @524234

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