第2話 くちなし宿
この奇怪な話を、どう語ればいいのでしょうか。
最近では至る所に電灯が灯り、夜であっても日中のような明るさで過ごすことができます。今のような時代となっては、闇の中に蠢いていた異形たちの姿も所詮絵空事に思え、私自身ですらあれが夢か現か分からなくなる時があるのです。
あの頃、私は山間の温泉場に下働きの女中として勤めておりました。
なぜそのような場所に流れ着いたのか、それ以前にはどのような暮らしを送っていたのかは、お尋ねくださいますな。人にはそれぞれ事情があり、語り難い道を辿ってきた者も、多くあるものなのです。
私は齢四十を越え、体が丈夫でまめなのが唯一の取り柄で、身を惜しまず仕事に励み、日々の糧を得ておりました。
温泉にはかつて白鷺が傷を癒しに来たという伝説があり、別名白鷺の湯と呼ばれる世に知られた古湯です。街の至る所に湯の湧き出し口があり、白い湯気が立ち込め真冬であっても空気が乾くことはなく、羽織る着物もいつも湿気を含んでいるような場所でした。
雪に囲まれる冬場には近隣の農村から多くの湯治客が訪れ、それ以外の季節も山縁の旅館には都会からの客があり、1年を通して人影が途絶えることのない賑わいの中で、私は間借りをして一人、細々と暮らしていました。
貧しい山間部においては温泉場は重要な稼ぎ場で、女中や人夫、芸者、按摩など多くの人間が働いています。中にはまだ年端もいかないような幼い少女もいて、しもやけで崩れた指を湯気で温めている様子は、愛らしくも物哀しいものでありました。
土地に根を持たない者が多く集う地では、男と女の間で泡のような情交が生まれ、儚く消えて行きます。
物慣れた年増女なら上手く男あしらいもできるのでしょうが、まだ髪も結い上げないような少女が浮ついた男の言葉に踊らされる様は、男女の常とはいえ何ともやりきれないものでした。
私は
あれは春の彼岸も過ぎ、菜の花が咲き始めた頃のことです。
いつものように野菜を洗うため共同水場を訪れていた時、後ろから女の声で名を呼ばれました。
振り向くとそこには少し崩れた
これほどの傾城ならば狭い温泉街のこと、目に付かないはずはないのですが、3年この地にいる私であっても初めて見る顔でした。
「お前さんに頼みたい事があるんだけど、少し時間をくれるかい?」
白い顔に浮かぶ真っ赤な唇が、喋るたび
「悪いけど、これでも忙しいんですよ。これから宿に帰って、晩の支度をしなきゃならないんでね」
「分かっているとも、お前さんはこの温泉街でも一二を争う働き者だもの。西通りのドン詰まりの呑み屋で待っているから、仕事から上がったら来てくれないかい?是非、頼みたい事があるのさ。お前さんにとっても決して悪い話じゃないはずだよ」
それだけ言うと、女は引き止める間もなくさっさと立ち去ってしまいました。
今から思えばその場で断るか、待ち合わせなどすっぽかしてしまえば良かったのです。
ところが愚鈍な私は一方的な口約束であってもそれを無視することができず、仕事が捌けた後、馬鹿正直にその呑み屋に足を運んだのでした。
店は人足が途絶えたような場所にあり、どこも明るい温泉街の夜にあっても辛気臭く、私が戸を開けた時も女以外は誰も客がいない有様でした。
女は私の姿を認めると、うれしそうな笑顔を見せました。
「ああ良かった、来てくれて。やっぱりあんたは律儀なお人だね。このまま待ちぼうけを食らわされるんじゃないかとひやひやしたよ」
促されて私は女の前に座り、女給にソーダ水を頼みました。
「もう仕事はないんだろ?一杯やったらどうだい?」
女は猪口を煽る仕草をしました。
「酒は飲まないんです」
「真面目だねえ。益々、気に入ってしまったよ」
女はくっくっと喉を鳴らして小さく笑いました。
「早速だが、仕事の話をしようじゃないか。何、あんたみたいな真面目な人に、怪しげな頼み事はしないよ。通いで私のやっている店の掃除や炊事をやってもらいたいんだ。きちんと仕事をしてくれれば、今の3倍の給金を約束するよ」
今でも下働きの女中としては悪くない給金をもらっているのです。その3倍となると、破格と言っていい報酬でした。
私は改めて正面に座る女の顔をまじまじと見ました。
白い
女の何が、不安を掻き立てるのか分かりませんでした。ですが目が慣れてくると直感的に抱いた嫌悪感も、次第に薄れていきました。
「詳しいお話を、聞かせてもらえますか?」
私の言葉を聞き、女の目は嬉しそうに細められました。
女の名は
建物はさほど大きくない平屋でしたが、どこかのお大尽の別荘だったらくし、襖絵も、欄間の彫刻も、
下働きの使用人は私だけ、一人で掃除・洗濯など全ての雑用をこなさなくてはいけません。ですが所詮一軒家のこと、何十人もの客を相手にする宿屋に比べれば、仕事の量自体はこなせない量ではありませんでした。
いえ、むしろ重要な仕事が一つ欠けていると思い、私は辰に聞きました。
「あの、お食事の支度は一体、どうなさるおつもりで」
「ああ、料理のことは必要ないよ。仕出しで済ませるつもりだから」
料理を仕出し屋に頼むこと自体は、それほど珍しい事ではありません。このような山間部では腕の良い料理人は数が少なく、まして少人数の客相手では、仕出しを頼んだ方が手間も費用もかかりません。
「分かりました。どこの店に頼むんですか?ここは町外れですけど、配達はしてもらえるんでしょうかね?」
辰は微かに眉根を寄せました。
「それはあんたが心配することじゃないよ。あんたは日が暮れるまでに頼んだ仕事を片付けておくれ」
それは辰が私に何度も念押ししたことでした。つまり、仕事は手際よく済ませ、日が傾く頃には必ず帰るように、と。
「うちに来るお客様は人目を憚られる方達ばかりなんだ。給仕も酌も私がするから、とにかくこの宿で見聞きしたことは他には話さない、それだけは肝に命じておくれ」
奇妙な仕事でした。
ですが反面気楽で、大変割の良い仕事でもありました。
先払いで一ヶ月分の給金を受け取り額面を確かめた時、私は幾つものおかしな点には目を瞑ることにしたのです。
女将である辰はごく稀にしか姿を現さないこと
部屋を使った跡はあるのに、一度も客がいる場面に出くわさないこと
山中であるにも関わらず、邸内では獣も鳥も見ないこと
仕出しを頼むと言っていたにも関わらず、業者が出入りしている様子は無いこと
どのように使っているのかは分かりませんが、部屋の汚れ方は尋常ではありませんでした。布団が乱れたまま敷かれ、それが生臭い匂いを放ってぐっしょりと濡れているというようなことが何回もありました。時には畳にまで水が染み込み、どれだけ乾拭きしても匂いは取れません。
私は一月の間に3回も畳と布団を取り替える手配をしなくてはいけませんでした。その度に辰は大変な手間賃を弾んでくれます。布団や畳は顔なじみの業者に運んでもらいましたが、口止料も含まれた代金は高額で、彼らにとっても良い顧客であったのは間違いありません。
慣れとは恐ろしいものです。月に何度も畳や布団を取り替えるという異様さも、繰り返されるうちに日常になっていきました。そして何よりも金の力の前では不安や疑問といった曖昧とした感情はあまりにも
私は部屋を掃き清め、廊下を磨き、庭の草を抜き、汚れ物の山を洗い、日々を重ねました。
やがて季節は梅雨になり、うつうつとした雨が続き日が射さないようになると、事態は悪化しました。
屋敷の湿気は益々篭るようになり、生臭い匂いが消えることは最早ありませんでした。
部屋の汚れ方はさらにひどくなり、最初のうちは白々と清らかだった障子紙にも黄色い汚れが飛び散り、柱の黒ずみは天井に向かって広がっていき、畳間に入ると、ぬかるみに足を踏み込んだかのように足がずぶりと沈み込んでいきます。
畳や布団の交換をどれだけしても無駄でした。いえ、もう交換することなど出来なくなっていたのです。最初のうちは高額の報酬に嬉々として出入りしていた業者たちも、次第に酷くなっていく様子に恐れをなし、すでにここまで荷を運んでくれる者などいなくなっていました。
「あんた、ここはおかしいよ。悪いことは言わないから、さっさと辞めたほうがいい」
親切に忠告してくれる者もいました。それなのに私は毎日、この宿に通い続けていました。そしてもう手の施しようがないほど荒れた邸内の床を、雑巾を持って拭い続けていたのです。
一度、辰にいくらなんでもこれはひどい、どれだけ掃除をしても畳が乾く間すら無い、と訴えてみたことがありました。
すると辰は、黒目がちの目の端をきっと上げ、叫びだしました。
「何を言ってるんだ、お前はただ言われたことさえやっていればいいんだよ。その為に高い給金を払っているんだ」
「でも」
「ぐだぐだ言って無いで、さっさと掃除をおし。床を拭くんだ、夕刻までに仕事を片付けるんだよ」
辰の剣幕は大変なものでした。私は恐ろしく、それ以上何も言うことができず、濡れそぼった雑巾を持って再び部屋に戻って行きました。
金の魅力に負け、一度多く考えないと決めてしまったのがいけなかったのでしょうか。それとも何かの術中に嵌っていたのでしょうか。
今となってはどうして私はいつまでもあそこに留まり続けていたのか、自らの心情を思い出すことができないのです。自分の脳みそまでずぶずぶに重く水に浸かったような気分でした。
何も考えず、何も考えず、私はただ畳の上に雑巾を押し当て続けました。
そんな風にして日々を過ごしていた頃の事です。
夕刻、私はへとへとに疲れ、家路に向かっていました。八百屋で今日の菜を買おうと辻を曲がった時、以前同じ宿屋に勤めていた顔なじみの少女にかち合いました。
「あれ、びっくりした。どうなすったんですか、汚れた顔をして」
「かお?」
「ええ、湯屋へ行って、よく洗わなきゃ。ねえ
「ああ…」
目の前の少女が必死な様子で話しかけてくるのがどこか不思議で、私はぼんやりとその小さな顔に見入っていました。
「そんなとこ行くの、止めな。皆、小母さんがおかしな事になってるから、関わり合いになっちゃいけないって言ってるよ。本当は私も、女将さんに話しかけちゃダメだって言われてるんだけど…」
私はその時になってようやく、自分が噂になり、町の人間から避けられているらしいということに気づきました。
少女に言われた通り、私は湯屋に向かいました。町には安価に使える共同浴場が何箇所かあり、どれだけ貧しい者でも身だけは清潔に保てるのがこの町のいい所でした。
ですが戸を開き、私が中に入ると何人かの人が驚いたようにこちらを見、そして浴槽から慌てて上がって行きました。
私はその様子を目の当たりにしても不思議と何の感情も湧いては来ず、着物をたたんで篭に入れ、裸になって浴槽に向かいました。
「ちょっと、入る前にまずよく体を洗っておくれよ。湯が汚れるじゃないか」
先に入っていた小太りの女が、強い口調で言いました。
「私、そんなに汚れていますか?」
意外でした。私はどちらかというと潔癖な質で、今まで身なりのことで何か他人に言われたことはなかったのです。
「汚れてるよ、匂いもすごいし。自分で分からないのかい?石鹸は?ほら私のやつをやるから、とにかくよく洗うんだよ」
女はそう言うと湯から上がり、自分の桶から使いかけの石鹸を投げて寄越すと、素早く身支度を整え浴室から出て行きました。
私は床に落ちた黄色い角の取れた石鹸をぼんやりと見つめていました。ふと気づくと、私以外に湯屋内に人影はありませんでした。
立ち上がり、脱衣所の横に掛けてある半分裏が錆びた鏡の前に向かいました。すると、そこに写っている顔の頬に滲んだ緑色の苔のようなものがへばりついているのです。私は手の平で顔を拭いました。ですがその汚れは落ちません。私は驚き、何度も
私は洗い場に戻り、先ほど貰った石鹸を使って全身を擦り洗いました。
何度も、何度も、湯で泡を洗い流してはまた肌に石鹸を泡立て、赤むけになるかと思うほど何度もその行為を繰り返した挙句、私はようやく自分の腹や二の腕に目が行きました。
ぽつぽつと肌から滲み出るように、小さな緑色の染みが身体中に浮いています。
いつの間にか私の体は、湿気を含んだ岩のように、緑色のなにかに侵されていたのです。
私は小雨が降る中、傘も差さずに夜道を急ぎました。
夜の山道は暗く、危険であることは十分承知していましたが、通い慣れた道です。月明かりすらない闇夜であっても、迷うようなことはありませんでした。
自分の体に異常が生じた事に気付き、私はようやくいくらか正気を取り戻したのです。あの屋敷の汚れを清めているうちに、体が侵されてしまったことは明らかだと思いました。
ずぶずぶに濡れた畳、重く湿った布団、生臭い液、ぬるりとした雑巾
それらに触れているうちに私の体に腐った瘴気が入り込み、そして病ませていったのでしょう。
私は報酬を得て下働きを請け負っただけです。こうなると分かっていれば、決して辰の話を受けることはありませんでした。
ですが今最も重要なのは、この体の不調は一体何なのか、治す手段はあるのかということです。どれほど辰が恐ろしくても、それだけは問いたださなくてはいけないと思い詰めておりました。
私はぬかるんだ坂道に何度も足を取られながら、ようやく宿に差し掛かりました。
ところが、様子がおかしいのです。
屋敷があるはずの場所に、建物の影は見えませんでした。代わりに暗く茂った林があり、ほつほつと白いものが闇に沢山浮かんでいます。
甘く、纏わり付くような重い芳香が鼻を突きました。
くちなしの花の香りです。
おかしな事でした。春先から数ヶ月にわたって通った場所でしたが、くちなしの木は庭には一本たりとも生えていなかったはずなのです。
私は小山のように繁る林に近付いて行きました。
甘い匂いは益々強くなっていきます。ですがその中に、嗅ぎ覚えのある生臭さも混じり始めました。額に汗が浮かんできます。耳元で心臓の音がドッドッと大きく響きました。
その時、ゴロンとした縄のような物を踏んだ感触がありました。私はそれが何かを確かめるために視線を地面に落としました。
私がそこに見たのは、ぬるりと雨に光る蛇の姿でした。
あっと思い、顔を上げ辺りを見回すと、夜目にもくちなしの根元に何かが蠢いているのが分かりました。私は目を凝らし、そして恐ろしい光景を目の当たりにしたのです。
くちなしの木の根元には、地面も見えないほどびっしりと蛇がとぐろを巻いていました。
何百、いえ何千か数も知れぬほどの蛇が、雨に濡れ夜の闇に光り蠢いています。
思わず悲鳴を上げそうになりましたが、喉が張り付き声にならず、息だけがひいひいと口から漏れ出ました。
私は腰砕けになりながらも何とか踏みとどまり、足を絡ませながらも必死でその場から駆け去りました。
細かい雨が目に入り視界を奪います。甘く生臭い匂いが鼻から離れず、蛇どもが後を追って来ているのではないかと思うと、恐ろしく全身に寒気が走り総毛立ちました。それでも決して後を振り返らず、ひたすらに走り続け、私は町を目指しました。
私がくちなしの名の由来が
あの後、
そこで私たちが目にしたのは、崩れかかった古い屋敷の姿でした。人影はなく、荒廃した様子からは人の手は長く入っていないように見えました。昨日まで私は一体、何の掃除をし続けていたのでしょうか。
小山のように繁っていたくちなしの木は一本も見辺らず、当然のことながら蛇の姿も見当たりません。
男たちは私が夢でも見たのだろうと言い、鼻で笑いながら山を下って行きました。私自身ですら何が何だか分からなくなっていました。ですがふと自分の腕に違和感を感じ、袖を捲ってみると
腕の裏には苔のような小さな緑色の染みがびっしりと浮かんでいたのでした。
私は有り金を全部かき集め、早々にその温泉町を離れました。辰が首根っこを捕まえにきたらどうしようと思ったのです。
でも結局、辰が姿を見せることはありませんでした。今ではあんなに急いで町を離れる必要があったのかと思うほどです。
ご覧の通り、緑色の体の腐れは治りませんでした。案外、ゆっくりとしか症状は進みませんでしたが、でも決して治ることもありませんでした。
次第に匂いも見た目もごまかせなくなって人里には住めなくなり、山で野垂れ死ぬんだと思っていたところを先生に拾っていただいて、私は幸せ者です。最期、布団の上で死ねるなんて思ってもいなかった。
この緑色が他人に移らなくてよかったです。もし移るようだったら、とっくに焼身自殺をするしかありませんでした。もし恩人の先生に移るようなことがあったら、死んでも死にきれないですよ。
ええ、どうぞ。私が死んだ後はどれだけ切り刻んでも構やしません、お好きなように。研究でも実験でもいくらでも使ってください。
でもね、先生、いろいろ調べたって、結局分からないような気がするんですよ。だってそうでしょう、先生の言うところの科学で、私に起こったことの何が説明できるんですか。
辰の正体も、あの宿で何が起きていたのかも、くちなしや蛇がどうなったのかも、結局何も分かんないんです。
なのに私の体に起きたことだけ科学で解明できるなんて、そんな都合のいい話、無いって思えるんですよ。
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