百花怪談

高尾 結

第1話 朝顔の家

 その家の垣根には隙間無く朝顔の蔓が絡みついていた。

 大振りの葉が茂り、濃い青紫の花が点々と水滴のように散っている。早朝の白い光の中、瑞々しい花があまた咲く様は、道行く人々の目を引いた。

 香奈もその一人だった。

 家自体は小さな古い平屋で、目立つものではない。大学に入学し、この町に引越してきた当初はその存在にすら気付かなかった。

 夏を迎え、朝顔の花が引きも切らずに咲き始めるようになって、ようやく同じ町内にあるこの家のことを気に掛けるようになったのである。

 煤けた板塀に囲まれ建物の全容は伺い知れないが、古く小さな家屋であることは容易に推測できた。北向きの玄関はいつでも薄暗く、人が住んでいるのかどうかさえ怪しかった。

 ただ青紫色の朝顔の花だけが、際だって鮮やかに咲き誇っている。

朝、大学に向かう時には瑞々しい花も、帰ってくる頃にはすでにしぼんでねじったこよりの様になっていた。大輪の花がいくつも連なって咲く様子を見るために、香奈は日が高くならないうちにアパートの部屋を出るようになった。


 やがて夏休みになり、7月最後の週末に香奈は実家に帰省した。そして9月に入り、またこの町に戻って来た。

 その頃には当然朝顔も枯れていると思っていたが、まだ花は咲き続けている。そして新学期が始まり、10月になっても、青い漏斗の様な花は絶え間なく咲き続け、花勢は衰えることがなかった。

 夏の頃は爽やかな風物詩と映っていた朝顔も、秋の声を聞くようになっても未だに力強く葉を茂らせ、多くの花々を咲かせる様は、どこか異様な光景へと変化していた。

 この禍々しいほどの力強さはいったいどこからくるのだろう。

 香奈はその家の前を通る度、かすかな不安を覚えるようになっていた。

 そもそも薄暗く、半分朽ちかけたような古い住居である。近所に住むようになってから半年近くの月日が経っていたが、香奈は一度もこの家の住人の姿を見た事が無かった。日が暮れてから通りかかっても、家に灯りが点っていたこともない。

 今時のことだから、放置された空き家なのだろう。

 そう思うものの、朝顔の葉はいつ見てもたっぷりと水気を孕んでおり、蔓も先枯れすることなく宙空に延びている。誰かが水を撒かなければ、この時期まで花を咲かせ続けることはできないはずだ。近所の老人が暇々に世話をしているのだろうと、香奈は勝手に思い込んでいた。


 ある日の早朝である。

 最近始めたアルバイトのため、香奈は日が昇るのと同時くらいにアパートを出るようになっていた。

 初秋の空気は冷たく、硬質な朝の光が地面に降り注いでいた。いつもの習慣で、香奈は朝顔の花が咲く垣根に顔を向けた。

 家の前に一人の老女が立っていた。

 年の頃は70才をわずかに出たくらいだろうか。灰色の髪を小さく丸くまとめ、洗いざらして色の褪せた浴衣を着ている。

 小柄で痩せた姿だった。袖口から覗く腕は割り箸のように細く、日の光を浴び白く浮き立って見えた。

 小作りの顔は年相応の老いが見られたが、目鼻立ちは上品にまとまっていて、昔日の美貌を残していた。老女はこちらを全く気にせず、腰をかがめてバケツから柄杓で朝顔の根に水を撒いている。

 そうか、この人が朝顔に水をやっていたのか

 小さな疑問に解答を得、香奈は気分が少し軽くなり、その場を後にした。


 それからというもの、香奈はしばしば老女の姿を目にするようになった。

 時刻は大抵まだ町が寝静まっている明け方で、往来にいるのは香奈とその老女だけである。老女は決して香奈の方を振り向くことはなく、香奈もわずかに視線を走らせるだけで、立ち止まったりはしなかった。

 朝顔の花は満々と咲き続ける。

季節は中秋を越え、間もなく並木も色づき始める頃である。いくら水やりを欠かさぬとはいえ、枯れることも開花が止むこともないのはどうしたことだろうか。朝顔の咲いている場所だけ、くり抜いたように季節がずれていた。

 でも香奈は以前のような不安感は覚えなくなっていた。朝顔はおそらく老女の労に応えようとしているのだ。こまめに水を撒き、花殻を取り、蔓を巻き直している様子は、幼児の世話を焼いているようだった。

 最初は近所に住んでいるのかと思ったが、何回か家の中から出てくる姿を目にし、老女がここの住人であることを知った。朝顔の世話ほどは家の手入れは行き届かないようだったが、年齢的に仕方の無いことだと思えた。

 時々、老女は誰も歩いていない道をぼんやりと見つめていることがある。何回かその姿を目にするうちに、香奈は老女が誰かを待っているのだということに気付いた。

 視線は遠く、道の果てからやって来る影を探し、わずかに目をこらしたり、背伸びをしたりしている。

 この打ち捨てられたように寂れた家で、老女は誰を待ち続けているのだろうか。子供なのか、孫なのか、いずれにしても待ち人が来る事はほとんど無いのであろう。それはどこか諦めたような老女の表情からも伺い知れた。

 老女は朝顔の世話をし続ける。香奈はその様子を横目に見ながら通り過ぎる。そんな日々が秋が深くなってからも続いた。


 薄手のコートが必要になるほど冷え込んだ夜のことである。香奈は帰りが遅くなり、深夜になってからアパートへの道を歩いていた。

 朝顔の家の前に差し掛かった時、香奈は街路灯の下に立つ老女を見つけた。珍しいことだった。早朝以外、老女が外に出ている姿を見るのは初めてである。

 すると闇の中から一人の老人が現れ、老女の側に歩み寄った。ツイード

のコートを纏った痩身の老人で、頭にはハンチング帽をかぶっている。

 その姿を認めると、老女は嬉しそうに駆け寄り、身を委ねた。老人は老女の肩を抱き寄せる。二人は言葉も無く互いを抱き締め合った。

 その時、香奈は初めて老女が誰を待ち続けていたのかを知った。

 老女は夫の帰宅を待っていたのだ。理由は分からないが、老いた夫は長く家を不在にし、今、ようやく老妻の待つ家に帰ってきたのであろう。

 二人がどれだけ再会を待ちわびていたかは、いつまでも互いを愛おしそうに抱き合う姿を見れば容易に知ることができた。

 香奈は幸福な気持ちに満たされ、静かにその場を立ち去った。年齢を重ねてもなお深く愛し合う男女の姿は、長い時間を掛けて作られた結晶のように純度を保ち、光を放っているように見えた。


 翌日、香奈は珍しく昼近くなってアパートの部屋を出た。扉を出た途端、冷たい風が顔に吹き付ける。寒さを避けるためにコートの襟を立て、顔を埋めながら歩を進めた。

 トラックがエンジンをふかしながら真横を走って行く。香奈は顔を上げ、そして眼前に信じがたい光景が繰り広げられているのを目にした。

 道の先で、シャベルカーが大きな音をたてながら建物を取り壊している。

 それはあの朝顔の咲く家だった。垣根はすでに倒され、地面には蔓と花が、千切れた紙屑のように泥に塗れて散らばっていた。

 香奈は慌てて駆け寄り、その場にいた人夫に声を掛けた。

「あの、何でこの家、取り壊してるんですか?」

「はあ?もちろん更地にするためだよ」

「ここに住んでいた人は」

「ここ、空き家だよ」

 香奈はその言葉を聞き、混乱した。

「そんなはずはありません。お婆さんが一人、住んでいたはずです。70才くらいの、色の白い」

「ああ、以前住んでいた人だね。もう亡くなってるよ」

「亡くなった?」

 人夫は訝しげに眉をひそめた。

「知らないの?ここに住んでたお婆さん、自殺したんだよ。8月だったかな。夏場だったけど、すぐに近所の人が気付いてくれたから、大変な事にならずに済んだんだよ」

 香奈は愕然とした。

 死んだ?8月に自殺?

 老女の姿を見るようになったのは10月に入った頃だった。その頃すでに老女はこの世にいなかったことになる。

 では自分が見ていたものはいったい何だったのか。

 

 近所の人々に聞きまわり、香奈が知り得た事実は、想像とはかけ離れたものだった。

 老女は長い間、妾宅しょうたくに囲われた身だった。主人はかつては羽振りの良い地主だったが、事業に失敗した後隠居し、細々とした援助と訪問だけが老女の支えとなっていた。

 その主人がしばらく病んだ後、梅雨時に世を去った。土地の名義は書き換えられてはおらず、相続人である本妻と息子は老女に土地家屋の引き渡しを迫った。老女は追い詰められ、ついに自ら命を絶つに至った。

 これが現実に起きた出来事のあらましだった。

 

 早朝、まだ街が起き始める前に香奈はアパートの部屋を出る。

 かつて目を楽しませてくれた朝顔の家は今は跡形もなく、無残な空き地が広がっていた。できるだけその光景を目にしないように俯きながら、足早に駅に急ぐのが日々の習慣になっていた。

 アルバイト先にたどり着き、裏口から店内に入る。ベーカリーの朝は早く、店主がすでに焼き上げていたパンが棚台に並べられていた。

「おはようございます」

 厨房に声を掛けると香奈は身支度を整え、店の清掃に取り掛かった。開店の8時半までに商品を全て並べ終えなくてはいけないため、この時間帯は寸暇を惜しむほど慌ただしいのだ。

「香奈ちゃん、予約が3件入ってるから、取分けよろしくね」

「はい、分かりました」

 店主は30代半ばの若さで、この店を開業した。有名ベーカリーでずっと修行していたという腕は確かで、タウン誌に何回か取り上げられたこともあり、順調に客足は伸び続けている。

 開業後間も無く、香奈はアルバイトとしてこの店に勤め始めた。当初は夫婦二人で営業する予定だったらしいが、妻が妊娠し、悪阻のためパンの匂いに満ちた店頭に立つことができなくなったのだ。

 安定期に入ってからも妻が店番に戻ることはなく、現在は香奈を始めとする数人のアルバイトと店主によって店は切り盛りされていた。

 香奈の就労時間は主に早朝で、途中、近所に住む主婦のパートと店番を交代する。商品は売り切りのため、繁盛している最近では昼過ぎには店じまいをしてしまうことがほとんどだった。

 だが店主はそのまま翌日の仕込みに入るため、香奈は手伝いで授業後に再び出勤することが多かった。

 一通り商品を店頭に並べ終え、レジの準備をしている最中、店主が香奈の後ろに立った。

「今日、授業何時に終わるの?」

 男の職人らしい厚い手の平が首筋に触れる。

「今日は…」

 香奈とこの男は不倫関係に陥っている。

「多分、午後3時には…」

 閉店後、店を訪れるようになったのは、男と逢瀬を重ねるためだった。

「じゃあ、夕方大丈夫だね。待ってるよ」

 男は首筋に軽くキスをし、再び厨房に戻っていった。唇が触れた箇所が火を当てられたように熱い。首に手を当てながら香奈は固く目を閉じ、深いため息をついた。

 こんな先行きのない関係を続けていてはいけない。

 分かっているのだ。男は香奈との関係に責任を取るつもりなど毛頭ない。妊娠中の妻との関係が上手くいかず、ほんの気晴らし程度にアルバイトの学生に手を出しただけなのだ。

 分かっているはずなのに、何故誘いに応じてしまったのか、ずるずると関係を続け深みに嵌っているのか、香奈自身にもその理由が分からなかった。

 男は決して美形でも金持ちでもない。人当たりが良く温厚ではあったが、平然と妊娠中の妻を裏切るような、不誠実で酷薄な一面もあるのだ。

 香奈の脳裏に、鮮やかな朝顔の花が浮かんだ。


 香奈はあの後、何度も老女と老人の姿を思い出した。

 世に許されぬ仲でも、二人は深く愛し合っていたのだろう。

 長い長い年月、共に老いを迎えてもなお、いつまでも離れず互いを抱き合っていた二人。

 死んだ後もあの家に留まり続けた老女を、老人は迎えに来たのだ。家が壊され、寄る辺が本当に無くなる前に。

 美しい物語だが、本当にそれだけなのだろうか。

 香奈の目には、季節を過ぎてもなお、咲き誇り続けた朝顔の花の鮮やかさが焼き付いて離れなかった。儚く、美しく見えても、止むこと無く花を咲かせ続ける執念と生命力が、命の果てた後でも離れることができなかった二人の妄執と重なった。

 あの薄暗く、半ば朽ち果てたような古い家で、延々と続けられた愛の営み。

 老いても、貧しくても、女は恋人を待ち続ける。彼女にはそれ以外生きる術がなかった。

 恐ろしく、だが確かに美しい愛の果ての姿がそこにはあった。


 全ての経緯を知った時、何故あの老女の姿が目に映ったのか、香奈には分かる気がした。

 おそらく香奈と老女は、時を超え同じ場所に立っている。

 人目を偲んで逢瀬を重ね、騙されていると知りながら男の甘言を信じ、先の見えない暗い道を進んでいる。

 だが進む先にあるのは、きっと底の無い沼地なのだ。いつか足を取られ、更なる深みに溺れ、帰れなくなってしまうだろう。

 今ならまだきっと間に合う。

 老女のようにただ不実な男を待ち続けるだけの虚ろな人生を望んでいる訳ではない。香奈はまだ若く、いくらでも新しい恋を見つけることができるはずだ。

 あんなずるい男とは、早く別れなくてはいけない。

 そして誠実な恋人を見つけ、誰にも咎められることのない、明るい場所に立たなくてはいけない。

 分かっている。分かっているはずなのに。


 香奈は視界の端に白く痩せた老女の姿が映ったような気がして息を呑んだ。

 耳元に、かつて一度も聞かなかった老女の声が響く。


 でも、誰かに否応なく惚れてしまうことに、理由や道理は必要なのかい?


 それは聞いてはいけない、心の底から浮かび上がってくる声だった。


 

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