第6話 404

 グラン・スーヴニールは、名前の通りというべきか、古びたマンションだった。

 私が借りていた部屋は空き家となっているとしても、他の部屋には今も人が住んでいるだろうというのに、まるで無人の廃墟のような静けさだった。

 私はエントランスを抜け、404号室を目指す。

 あるいは鍵がかかっているかもしれないが、それなら管理会社を呼び寄せて開けさせるまでだ。

 部屋に近づくにつれて、ここに核心的な手がかりがあるだろうという予感がいや増していく。

「グラン・スーヴニール404号……」

 私はドアの前に立つ。

 ノブを回すと、案の定、鍵がかかっている。

 管理会社に電話を掛けようとして、ふと気がかりなことを思い出す。

 雑貨屋の女に渡された、あの鍵。

 私は馬鹿なことをしていると思いながら、あの鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。

 鍵はするりと穴の中に吸い込まれ、軽く力を加えると、滑らかに回転した。

 鍵の開く音がする。

 私は鼓動が高鳴るのを感じながら、部屋に踏み込み、電灯のスイッチを押す。電力は供給されているようで、すぐに灯りが点いた

 部屋の中は意外にも整っていた。

 いや、奇妙だ。

 家具調度の一切が、そのまま置かれている。

 さらには、テーブルの上には食べかけのパスタ。

「……電子レンジで温めたのか? まだ温かいじゃないか」

 まるで、つい先ほどまで誰かがここにいたかのような状態。

 松田が住所を伝え間違えたのだろうか?

 そう疑い始めたとき、私は部屋の中で思わぬものを見つけた。

 見覚えのあるアルバム。

 開いてみると、中には私と家族の写真が綴じられていた。

「これは……間違いなく私の部屋だ」

 ぼやけていた記憶が、ゆっくりと色彩を取り戻していく。

 そうだ、この部屋は間違いなく、私の部屋だ。

 親族の煩わしさから一時でも離れるために、私が私のためだけに借りた部屋だ。

 しかしその目的とは矛盾して、この部屋には、家族との思い出の品ばかりが集められている。

 なぜ私はこの部屋を借り続けていたのだろう?

 そして、今も誰かがここに住んでいるのだろうか?

 私は解けぬ疑問に苛まれながら、かつて私の寝室だった部屋の扉を開けた。

「なんだ、これは」

 部屋の中を見て、私は息を飲んだ。

 部屋中に置かれた、ビタミンCのボトル。

 手に取ってみると、どれも空になっている。

 激しい頭痛が襲ってくる。

 立っていられない。

 うずくまり、頭を抱えると、記憶が急激に蘇ってきた。

 ああ、これは、これは私の部屋だ。

 あの時のまま。

 このビタミンCは、私が飲んでいたものじゃあない。

 私が父親に飲ませていたものだ。

 心臓の薬といつわって、病院の薬の代わりに、私が飲ませていたものだ。

 ビタミンCは呪いだ。

 子が親の死を願う呪いだ。

「やっと思い出しましたか? 巽さん」

 背後から、女の声がする。

「あなたの父、巽健吾は、親族を信じていなかった。誰もが彼の遺産を狙っていた。その中で、彼が唯一信頼したのが、実の息子であるあなただった」

 女が、語りながら私に近づき、私を後ろから抱きしめる。

「あなたは、父の看病をしながら、父の代役をも務めた。けれど、あなたはそんな生活が嫌で仕方なかった。一刻も早く逃げ出したかった。そうして、ビタミンCを使うことにした」

 そうだ、どんどん思い出が浮かんでくる。

 私は、父に死んでほしかった。

 私の、私自身の未来を開くために。

「でも、お父様が死んだとき、あなたは良心の呵責かしゃくに耐えられなかった。思い出の呪縛から抜け出し、未来を掴むためには、自分のしたことを、この部屋とともに忘れてしまわなければならなかった」

 女が、私の耳元でささやく。

「そのために私があなたに差し上げたのが、この“ビタミンC”です」

 私の目の前に、一粒の錠剤が差し出される。

「これは、飲んだ者が消し去りたいと願う記憶を消してくれる薬。でもその効果は、1年しかもたない。1年ごとに、新たな薬が必要になる。そうしてあなたは、これを繰り返しているのです」

 私は頭を抱えながらうめく。

「その“ビタミンC”をくれ……!」

「いいですよ、巽さん。私はそのために来たんですから。今回のお値段は、一粒で、そうですね、一億円としましょうか」

 女が笑う。

「馬鹿な、薬一粒に一億なんて!」

「あなたは払えるはずです。あなたの会社には、それくらいのキャッシュがある。来年の今頃には、ナガセを売却して、一億円があなたの手元に入る。それで補填すればいい」

 激しい痛みが私の脳を焼く。

「苦しいでしょう? これを飲めば、すぐに治ります。嫌なことも、すべて忘れられます。さあ、松田さんに電話をして。今から私の言う口座にお金を振り込むよう手配させてください。去年もそうしたように」

 女が私の服をまさぐり、携帯を取り出す。

 すべてを思い出した。

 これは三度目だ。

 私は同じことを、三度繰り返している。

「さあ、どうぞ」

 私は携帯を受け取り、松田に電話をかける。

「松田。私だ」

「はい、社長。大丈夫ですか?」

「ああ、すべて思い出した。頼む」

「了解いたしました」

 次の瞬間、背後の扉が開き、銃声が響いた。

 女の頭が弾丸に撃ち抜かれ、脳漿が飛び散っている。

「社長、ご無事ですか?」

 松田が、私の体を優しく抱き起してくれた。

「ああ、ありがとう。ひどく頭が痛むが、大丈夫だ」

 私は死んだ女の指から、“ビタミンC”を取る。

「この痛みは、良心の呵責なんかじゃあない。単に“ビタミンC”が抜けるときに起こる禁断症状だ。ひどく苦しいが、しばらく経てば抜けるだろう」

「すばらしい精神力です。正直、私は社長が薬を飲むことを選ばれるのではないかと」

 松田は申し訳なさそうに言う。

「いや、お前のおかげだ。私一人なら、諦めていたかもしれない」

 私が松田に今日の計画を話したのは、ちょうど一年前のことだ。

 女に渡された薬を飲み、次第に薄れていく記憶の中で、私は最低限の計画を練り、それを松田に託した。1年後、すべての記憶を取り戻したときのために。

 松田が女の遺体を納体袋に詰め込みながら言う。

「遺体の処理はお任せください。社長はどうぞお休みを」

「いや、まだ仕事が残っている」

 私は松田から小さな袋を受け取り、“ビタミンC”を入れる。

「次はあのジジイだ」

 一度目は誰でも混乱し、苦しむ。

 けれど二度目からはそれほどでもなくなる。

 三度目には、感情を完全にコントロールできるようになっている

 私は松田を抱き寄せ、唇を重ねた。

 午前十時十分。

 過去を粉砕し、未来への扉を開くときだ。

 もう私にビタミンCは必要ない。

 感情は完全にコントロールされている。



ビタミンC 終わり


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ビタミンC 既読 @kidoku1984

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