第4話
婚礼が略式とはいえその日のうちに用意されたことに性急さを読み取るものは多かっただろう。ソフォニスバは涙の乾かぬうちに新たな王に忠誠を誓い、シュファクスの王女たちや王宮の女たちの多くについて寛恕を得ることができた。マシニッサは彼の妻を隠すようにそばから離さず、それが、そのときだけはどうしてか、ソフォニスバには訳が分かってしまったのだった。
マシニッサの命で婚礼が呆気無いほどに早く終えられてすぐ、ローマの将校がひとり、マシニッサの前に現れて傍らのソフォニスバを見つけて眉を顰めた。
「それはシュファクスの妻だろう」
多くの言語を学んだソフォニスバには彼のラテン語が少しは解せたから、そっとマシニッサを窺った。若い将校の憂慮には心優しげな色が濃く、ソフォニスバへ向けられる眼差しには憐れみがあった。それでもなお分からないのならばそれは分かりたくないだけのことで、ソフォニスバは分かろうとしていた。
「まさか、先駆けを求めたのは彼女のためか?」
「そなたへの言葉に嘘はない」
「マシニッサ、彼女は……」そこでソフォニスバが彼らの会話を理解しているのを悟って、将校はソフォニスバに対して言った。「あなたはシュファクスの妻であっただけでなく、カルタゴ人なんだ」
彼らは冷ややかな関係ではないのだと、ソフォニスバは自身に向けられる誠実さを受け入れる。
そう深く考えずともマシニッサが舐めたであろう辛酸も、それをローマがどのように拾い上げたのかも、想像がつく。マシニッサが身を寄せたのがこういう人間のいる場所であることがソフォニスバはほんとうに嬉しく、ほんとうに、悲しかった。
「私の妻でもある者だ」
妻の手をマシニッサは握り、それ以上は何も言わなかった。将校が納得していないことは明らかだし、マシニッサが彼を納得させようとしていないことも同様だった。口を開かずにソフォニスバがベール越しに目を遣ると、将校はマシニッサが半ばほど背に庇う彼の妻が微かに首を振ったのを見て、「俺はスキピオに隠せない」と言った。
隠してやりたいと言っているのも同然の言葉だった。将校は、シュファクスや彼の側近たちをローマの将軍のもとに送らねばならないことを伝えにマシニッサのもとへやってきたのだ。マシニッサは長らくの敵である王の身柄について、ただローマの随意にとしか意を見せず、ソフォニスバを連れて城門までそれらを見送りに出た。どうやらつい少し前まで夫であったひとはすぐそばにいたようだった。
ソフォニスバの立った場所からは、虜囚たちの姿を見つけることはできなかった。だがシュファクスは、ソフォニスバがいまやマシニッサの妻となっているのを知らぬはずがない。其処此処から注がれるのはそうした視線だったのだとソフォニスバは遅すぎるほどに遅く、恥じることもできぬおのれを知った。
「ローマの将軍とはどのような方でございますか」
様々な指示や処理に追われたマシニッサがソフォニスバの居室に入ったのはもう夜更けのことで、彼はそこで初めて、疲れきった顔をした。
「名を知っているか?」
「……スキピオさま」
「そう。ローマの将軍であるにしては若い、私よりも若い男だ。私は一度彼奴に敗れた……それも知らないのか。ずっとここにいたのだな」
寝台に投げ出した彼の手足が思っていたよりも細く伸びるのを、衣服を寛げてやりながら意外に思った。マシニッサは天蓋に施された星図の刺繍をゆったりと目で追い、時折ソフォニスバを見て、それを向けられるものにだけ分かるように微笑う。
「彼奴の父は私が殺した」
彼の長い髪を解き、櫛を通そうとしていたソフォニスバは手を止める。父、と呟いた彼女はそのときになって、マシニッサが自分のすぐそばにいることの意味するところに行き着いた。そして彼はヒスパニアにいたのだと、耳にしていて当然のことを初めて聞いたかのように反芻する。
「バルカのもとにいた頃に討ち取った将軍がスキピオの父だとは、長いこと気付かないでいた」
「お怒りを、買いはいたしませんでしたか」
「さあな、彼奴は何も言わぬ。……そなたの父は祖国の怒りを買ったようだが。バルカ家の縁者が将軍位についたそうだ」
「ハスドゥルバルは死にましたか」
「……いいや」
眠りが追い縋って、ソフォニスバからマシニッサを遠ざけていた。伸ばされた髪、彼らのうちでは珍しくただ一房に編まれるそれはソフォニスバのものと同じくらいに長い。大した引っ掛かりもなくやわく波打つ髪に櫛は容易く通った。寝台の上に散らばるのを見ていると、そこに眠るのが夫であり王であることが、信じられなくなりそうだった。
父も、シュファクスも、どこか硬さを思わせる男で、ソフォニスバはそれに慣れていたのだろう。そしてかつてのマシニッサの姿は彼らのようになっているものとばかり考えた。けれどそうではなくて、マシニッサは鋭くはあるのにどこか、自分に近いものがあるようだった。
何度も何度も髪を梳かし、彼の身体から装飾の類を取り除いて、別な部屋から彼に合う衣装を探してきても、ソフォニスバのほうには眠りが近づこうともしない。途方に暮れて身動ぎもしないで眠るマシニッサの枕元に戻った彼女はふと、その腰に差されたものに目を留めた。それは無骨な、目立った装飾のひとつもない拵えの短剣で、護身用か何かだと見えた。してはならぬと分かっていても、手を伸ばすのに躊躇いがなかった。
女の手にも扱える程度の重さがあり、ほんの少しを鞘から抜くと、鏡のようにきらりとした刃が覗く。夜闇の満ちる部屋のなかで、不可思議にそれは光を弾いていた。何度も用いられ、これが幾度も、マシニッサを守ってきたのに違いない。
「気安く抜くものではない」
喉を空気が抜けるような音がして、ソフォニスバは取り落としかけた剣を咄嗟に鞘に戻した。がちんと鳴ったのにまた驚き強張るのを、薄く目を開けたマシニッサは怒るのでもなく、剣を取り上げる。
「これには毒が塗られている。指先の傷ひとつでも無事では済まぬ毒だ」
「……ごめんなさい……」
「そなたは剣の扱いも知らぬのだろう。ならば、無理をせぬことだ……」
剣を取り上げられたまま宙に浮いた手を、ソフォニスバは下ろせなかった。微睡みのなかで女を見守る目は、ソフォニスバにはどこか怖いほどに怜悧で、けれども彼女の口元に触れた指先が優しい。
じわりとまた浮かんだ涙が顔を伏せかけたせいでその手に落ちる。悲しくなくともこのひとを見ているだけで水が溢れ出すのだった。はくつく口を押さえようとすれば急き立てられるようにして嗚咽さえこぼれ、ますます背を丸めるソフォニスバの手をマシニッサが引いた。彼に寄り添い身体を横たえると温もりを分け合うようにして頭を抱かれて、彼の衣を濡らすことになってしまった。彼はただ女の小さな身体を抱き寄せるばかりで、それだけだった。
マシニッサの少しだけ速い呼気に合わせて息をするうち、その夜は眠った。夢は見なかった。それに目覚めたときソフォニスバはひとりきりで、侍女も奴隷も、昨日までは呼びつける前に傅いていたものが遠慮がちに小部屋で小さくなっている。
衣装を改め、毎日そうしてきたように身を飾るものたちを選ぼうとして、ソフォニスバは侍女の差し出すそれらを退けた。冠もベールも、あらゆる輝くものたちを置いたまま、それらと並んでまた座り込んだ。
露台から吹き込む風の孕む熱も、彼女のために敷かれた毛皮の柔らかさも変わらない。何も変わりがないと言ってもよいが、この部屋をひとたび出ればそうではなかった。新たな王には求めることも求められることも多く、それにマシニッサは独力でここまで辿り着いていなかったから、ソフォニスバの夫はその日まるきり姿を見せず、また夜が更けた頃にやってきた。もうソフォニスバを肌身離さずというつもりはないらしかった。
何をしていたのか尋ねられ、ただ俯く。マシニッサは追及もしないでいくらか酒を口にしたが、度が過ぎるには程遠い杯の数でそれをやめた。
「お休みになられますか」
酒器を下げさせ、奴隷をみな部屋から出して、ソフォニスバは椅子に浅く座る夫の足元に跪いた。少し考えてから頷くと、決めてしまえば動くのが早くなくては気の済まぬ気性らしい彼はすぐに寝台へ向かう。
それを追い、天蓋の布を柱に束ねる紐を引き抜いた。四方がそうして布に囲まれると、彼らだけを閉じ込めた小さな箱が出来上がる。誰にも見られることのない小箱だった。マシニッサはソフォニスバがそうしてから自分に近寄るのを、やはり強く求めるでも拒むでもない。
「わたくしをお求めにはならないのですね」
「求めずともそなたはそこにいよう」
「……マシニッサさま、わたくしは愚かなのです。この期に及んで」
彼の腰にはやはり毒ある剣が差され、ただ見ているぶんには、マシニッサにはソフォニスバをその毒から遠ざけようという緊張がない。ソフォニスバが何に焦っているのか、獣のそれよりもずっと遠くを見通す彼の瞳には映るはずだった。
だがマシニッサはまたソフォニスバの腕を引き、仰向けの胸に彼女の頭をのせる。
「そなたは憶えているだろうか」
「何を、でございますか……」
「ギスコの屋敷でそなたに会ったのは、一度きりのことではなかった」
「一度きりのことしか、憶えておりませぬ」
「そうだろう、本当に小さかったのだから。私が人質としてカルタゴにあった頃にそなたは生まれたのだ、そなたの父は生き延びるかもわからぬ脆い赤子を私にくださると言い、その話を土産に帰郷することを許した」
ソフォニスバはその様を想像する。顔ではなく胸の柔らかさ、腕の温もりだけを憶えている母が、このひとに自分を示して微笑うのを。
「またそれからいくらかして、またそなたに会った。よく笑う娘だと思ったものだ」
口元で握りしめた手をじっと見つめ、マシニッサの手が髪を撫で付けて流れるのをまるで幼子のように享受した。彼の裡には彼女自らでさえ知らぬソフォニスバが住んでいるのだ。彼の言葉を介して、忘れきっていたそうした日々は彼女に歩み寄る。
「そなたを愛おしく思うのは、懐かしむのと似ている」
「あなたさまは、それだけのことで」露台から吹き込む夜風が布を叩き、乗ったこともないのに船のようだと思う。「……それだけのことで、わたくしをおそばに?」
死を選べなかった妻妾が連れ去られていったのを、王子たちがひとつの部屋に閉じ込められているのを、ソフォニスバは侍女から聞かされて知っている。誰の目にも、ソフォニスバだけが新しい王の庇護によってあらゆる姿の鎖から免れているように見えている。
――そうだ、と彼が言う。息つくような微かな声だった。すると彼の思うところが不意に、けれども神の意を受けるように疑いようもなく、ソフォニスバには感じ取ることができた。身を起こして額を触れ合わせる。落ちる髪がいっそう彼らを狭く閉じ込める距離で、彼女は目を細めた。
「そなたには、すまぬことをした……」
「いいえ。ソフォニスバは嬉しゅうございます」
今朝は彼の髪を編み直してやれなかったことが気にかかり、この夜が明けたなら櫛を取ろうとソフォニスバは決めた。彼女の若草色の瞳ばかりを映し出す瞳が白む空よりもずっと柔らかく、涙のないその目元にくちづけると、彼がほんとうに――それまで彼は張り詰めていたのだと知れる、いとけないほどの力なさで笑んだ。
彼が瞼を下ろすよりも先にソフォニスバはまた彼に寄り添い、きつく、開かぬよう祈りながら目を閉じる。夜は無慈悲にも短く、夜明けは遠ざけるのに際限がない。それでも拍動だけに耳を澄ませた。彼女が眠りに沈むまで、マシニッサはずっと目を閉じずにいたようだった。
瓶は海よりも濃い青をして、そのうちに満ちる水までも青いのかとソフォニスバに思わせる。それを差し出した少年の手のひどい震え、いまにもこれを取り上げて逃げ出してしまいそうな悲愴を前にして、ソフォニスバは両手にそれを仕舞いこむ。
「伯父上が――王が、御自身でお選びになるようにと」
少年の名はマッシワといった。マシニッサの実の甥である秀麗な少年はその心根もまた高貴なのだろう。人払いをして王妃の部屋に入ったとき、はじめて目にしたはずのソフォニスバがただ端然と椅子に佇むのを見て、彼はもう泣き始めていた。
マシニッサがキルタからローマの将軍のいる堡塁へと向かったのはつい先程のことだったが、マッシワはその堡塁からここにやってきたらしい。彼らの駆る馬の速さが、いまは彼らにとっては恨めしいのだろう。ソフォニスバが椅子を勧めるのも聞かず、また彼女が立ち上がるのも拒んで、マッシワは罰を受ける顔で立ち尽くしていた。
「シュファクス王はあなたのことを罵っておられた」
敗将としてスキピオの眼前に引き出された王の言葉を、彼は幼く掠れる声で繰り返そうとして、我慢ならずかぶりを振る。
「あなたに誑かされた、そのおのれを責めるとまで、言ったのです。だからどうかソフォニスバ殿、どうか……」
「よろしいのです」
カルタゴの姦婦、おのが妻を、虜囚の身に落とせとシュファクスはスキピオに訴えたのだ。彼がソフォニスバを手放そうとはしなかった。その報せが、ソフォニスバに静けさを与えた。彼は諦めなかったのだと知れた。そしてここにはあの短剣が纏うのと同じであろう毒がある。ソフォニスバは、誰にも手放されてなどいない。
この日は風が吹かない。慌ただしくとも構わない王宮は静かで、誰も叫んでいなかった。
「どうか、泣かないでくださいまし。これでよろしいのです」
少年がいやいやをして彼の外套を握りしめる。王族とはいえそれは、見事な品でありすぎるように思われた。長い睫毛に涙をため、時折ソフォニスバを見てはすぐにその円い目を逸らす、これではあまりにかわいそうだとソフォニスバは彼を哀れんだ。
「ぼくは、一度捕虜となったところをスキピオ殿に救われた身です。王にローマとの絆をと訴えたのはぼくなのです。おふたりとも本当にお優しく、強いお方だと思ってきた……」
「それは間違いではございません、マッシワさま、思い違いなどあなたはなさっておりませぬ」
「理由は、ぼくにだって分かります、でも!」
「なぜいまなのでございましょうね」
マッシワには、スキピオがマシニッサに返すだけの価値があった。かつてソフォニスバがそうであったのと同じだ、彼はその外套や、きっと様々な光輝とともに、マシニッサに贈られたのだろう。
ひく、とマッシワが喉を鳴らした。高貴なる少年のもたらしたのがこの瓶でなく、あの短剣であったなら、ソフォニスバはこうも落ち着いていられなかったかもしれない。彼女は刃を自分の身を守るために振るうすべさえ持たず、刃が身を刺す痛みなど、耐えようのないほど恐ろしかった。もしかするとどこを突くべきかも分からずマッシワに命を絶つ情けを醜くも乞うた――それをせずに済んだ。マシニッサは、そこまでの苦をソフォニスバにも、彼の甥にも課さなかった。
少し揺らしてみれば、小さな瓶のなかで、あまりに少ない毒が踊る。この部屋にはソフォニスバに贈られたあらゆる宝が輝いている。みな毎日磨かれて、あるじの身を飾るそのときを待っていた。
「どうか、お伝え下さい」
いまさっき知ったばかりの少年が誰よりも身近に思われて、ソフォニスバはなるたけ優しく言った。
「結婚の贈り物はお受けいたします。夫から妻へ、これより素晴らしい贈り物はございません。ただ……もしも、葬儀のときに結ばれるのではなかったら、わたくしはもっとたやすく死ねましたものを」
なぜ、などと問わずとも知っている。ソフォニスバはもう彼女の受け取るべきすべての贈り物を手にしてきたのだから。マッシワが顔を背けようとして、それを自らに許せずにソフォニスバに相対する。この勇気が愛されるべきだとソフォニスバは、瓶の封を切りながら誰のためでなく祈った。
「よろしいのです」と彼女は繰り返し、まだ涙を落としている少年にだけ、秘密を打ち明けようという気になった。瓶の口は小さく、流れこむ毒は、とろりとして甘い。
「だってわたくしは、どなたにもまごころを尽くしてはこなかった……」
眠りはすでにソフォニスバに送り届けられていた。だから彼女はこれが眠りとは違うことを、間違いようもない。瓶がその手を滑り落ち、傾いだ彼女を支えた腕があった。それが誰によって伸ばされたのか、とうとう彼女は知ることがなかった。
囀る鎖 鶯豆 @ugumm
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